上 下
2 / 3
第1章 烏賊墨色の記憶 セピアカラー ノ キヲク

其ノ七~九 「風雲、○○の陣!」

しおりを挟む
○其ノ七 「風雲、○○の陣!」
 
 光と影に象徴されるように、この世の中の物には必ずそれと対極に位置する物が存在する。例えば、黒と白、+と-、男と女、大人と子供といった具合である。

 小生の少年時代は、1学年に2クラスしかなく、同じ小学校のかけがえのないであるはずの相手クラスに対して、ことあるごとに対抗し、ライバル心を燃やしていた。
 担任の先生の評判やら体育の時間のドッジボールの勝敗など、とにかく比べる基準が自分のクラスと相手のクラスしかないものだから仕方がない。 
 今から見ると滑稽に映るかもしれないが、狭く限られた社会しか知らなかった小学生にとっては、それが自分たちの世界であった。

 ある日、理科の実験用にプラスチックの注射器と透明なシリンダー状の水鉄砲の様な物が配られた。何でも気体と液体の圧力による変化の違いを体験しようというためのものであった。
 難しい原理や法則なんかは上の空、お医者さんが使っていた注射器と同じ様なものが手元にあるだけで、もう胸がワクワクするのがほとんどの小学生の心情である。
 やはり、白衣と聴診器が、医者のシンボルマーク兼ステイタスであり、注射器が伝家の宝刀であるのは今も昔も変わらない。

 学年の担任教師全員が校外研修で留守の日の放課後、自習続きで退屈な一日を持て余していた腕白小僧の誰かが、の注射器に水を入れて隣のクラスの一人に冗談半分にかけた。   
 途端に双方入り乱れての水合戦が始まった。まるで、待っていましたかのように…。最初は注射器だけだったのが、だんだんエスカレートして行き、ついには水鉄砲を持ち出す始末、女子などは、とばっちりを避けてか一目散に教室を後にした。
  一方男子は、いつも授業が終わると早々と退散する教室をまるで根城のようにし、普段の不仲をよそにクラスとなって3年1組の名誉(?)のために奮戦しているのである。
 
 戦いの序盤は、チームワークに勝る2組に押されていた。しかし、徐々に1組が盛り返してきた。どうやら相手は不足に悩まされているらしく、攻撃回数がみるみる減ってきたのである。木造校舎の2階には手洗いや水くみ場は無く、こちら(1組)の教室の前の関所を通って下まで行かなければ水を得ることはできなかった。
 それでも、2組は水筒のお茶を使うという機転を利かして最後の反撃に出た。だが、それにも限りがあった。誰もが自分たち1組の勝利を確信した瞬間だ。

 ここで不思議なのは、どうして自分たちだけが水をふんだんに使えたのだろうか?決して水くみ場が近かった訳ではない。当時、小生のクラスでは水槽で金魚を飼っていた。緑色のいい具合に染まった臭い付きの液体は、さぞかし相手の戦意を喪失させるのに効果があったことだろう。

 翌日、勝利の余韻に浸った自分たちを待っていたのは、担任の先生からの厳しいおと、戦いの激しさを物語る水びたしの廊下への雑巾がけだった。
 その1組のみじめな姿を、笑いながら通り過ぎて行く2組の面々を見てため息をついた。

「勝者、必ずしも勝者にず」と…
 
 
時代背景
* 学研の「科学」と「学習」
 小学校時代の教科書以外の教育雑誌で、校内において販売されていた。付録で子供心を巧みにくすぐる「科学」と愚直なまでにポリシーを貫いていた「学習」が双璧であった。
 ひいき目に見ても「科学」の方に分があったと記憶している。現在の理系志望の学生と文系志望の学生をこの頃から区分していた。
 
* 注射・聴診器・頭につける反射鏡(三種の神器)
 白衣を着て聴診器を頸から下げた医者の出で立ちは、子供にとって恐怖の対象でしかあり得なかった。極め付きは、注射!最近では、あまり注射をする医者を見かけなくなったが、当時は全盛!
 肩に打つ注射より、お尻に打つ方が痛く精神的にもダメージが大きかった。診察台にうつ伏せにさせられ、有無を言わせずに看護婦さんがズボンとパンツを下げる。
近所の同級生の目の前で、繰り広げられる悲劇は屈辱的であった。必死に痛みをこらえながらも、泣かないようにしていた記憶がある。
 
* ○○
 読者の通った小学校名を入れて下さい!


○其の八 「コスト・パフォーマンス」

 汗を流した後、いっきに飲み干してしまう黄金色に輝く発泡性飲料は、大人の皆さんにとって「こたえられない一杯」でしょう。
 大人同様、子供にとっての「こたえられない一杯」は、やっぱり清涼飲料水ではないでしょうか。
 当時は、現在(いま)より飲み物の種類がずっと少なく、東の横綱にコカ・コーラ(子供は、ファンタ)、西の横綱にペプシ・コーラ(同様にミリンダ)がシェアの双璧を成し、お互いしのぎを削っていた。
一方、国産勢は、カラフルな外国勢に対してモノトーン(無着色)で勝負していた三ツ矢サイダーとキリンレモンが健闘していたのだが、ともに炭酸が強過ぎて低学年の児童や女の子には手を出せない上級者(通)の飲み物であった。値段の割には量が多くてお値打ちではあったのだが…。
 そんな中でラムネは、安価で最も庶民的かつ、愛着のある飲み物であった。何しろビンの形が独創的で、ステレオタイプになり勝ちな他社製品を尻目に、我が道を王道の如く進んでいた。
 しかし、ラムネは他の飲料水に比べると値段が安かったにも係わらず、決してコスト・パフォーマンスが高いといえるシロモノでは無かった。
 
 なぜなら、その飲み方に非常にテクニックを要したからなのである。駄菓子屋さんの赤茶けた柱に栓抜きと一緒にかけてある開栓具か割りばしで飲み口のビー玉を突いてもらうのだが、なかなか栓が開かなく。やっと開いたころにはビンを振り過ぎたせいか、中身があふれ半分くらいバブルの泡と消えてしまうのがほとんどであった。
 鼻歌まじりでラムネの栓を開け、開栓と同時に唇をあてがい、一滴の無駄も無く飲めるようになることが、上級生への通過儀礼であったような気がする。
 あの特異なビンの形を街で見かけると、コストパフォーマンス(最近はプレミアがついて、普通の清涼飲料水より割高)も省みず、つい買ってしまうのは、レトロな時代に幼少期を過ごした者に共通する悲しい性(さが)かもしれない…

時代背景

 当時、ほとんどの家庭にはエアコンが無く、扇風機とうちわが涼をとるものの主流であった。
しかし、子供は、暑がりである。外気からではなく、身体の中から冷やすという単純な原理で、発汗による喉の渇きを癒すのに最良の方法が、清涼飲料水の摂取であった。
 ちょうど、大人が外気の寒さを身体の中から温めるという口実の下に酒を飲むのと同じである。
暑い夏の日に外へ出る男の子の出で立ちは、決まって白のランニングシャツに半ズボンと野球帽がであった。 
 そして、裸足に安っぽいビーチサンダル(当時は、万年ゾウリと云った)を履き、緑色の虫かごをたすきがけにして、虫取り網を持っていた。どこにでも見かける光景であった。

ビン入りジュース

 当時、ジュースは、ビン入りが主流であった。缶ジュースなるものが途中で登場したが、やはりビンの重量感と、その場で見える内容物の色艶が子供の購買意欲を十分に刺激し、それを勝っていた。コストパフォーマンスもビン入りの方が高いのである。
 ある日、ビン入りジュースの自動販売機で、1本分のお金で2本引っ張れば儲かるとの甘い考えで、引っ張ってみると1本も取れずにお店のおばさんに泣きついた。
 おばさんは、

「あんた、2本引っ張ったんじゃないだろうね!」

と詰問され、うつむいてしまったのを覚えている。
 おこづかいが無くなると、そこら中に落ちていた空きびんを集め、換金していた。汚れている物は、公園の水飲み場でわざわざ洗って…


○其ノ九 「ソースが命」

 高級料理の代名詞とも云(い)われるフランス料理は、「ソースが命」である。かの国の料理人は、その出来に全精力を傾け、例え一つ星のレストランでさえ、お皿にソースが残っていると、シェフ(料理長)がテーブルまですっ飛んで来るほどらしい。
 明治生まれの祖父は、日本男児を地で行くような昔気質(むかしかたぎ)な人であったが、なぜか仏国人の遺伝子をその細胞の中に色濃く受け継いでいた。
 彼は決して味オンチではなかったが、どんな料理にでもウスターソースをかけて食べるのを常としており、フライ物は勿論、天ぷらやポテトサラダ、スパゲティにチャーハンまでもが、その対象であった。
カレーライスに至っては、スプーンで描いた黄と黒のマーブル模様のルゥが載ったライスをうっとりとした面持ちで口に運んでいた。

 昔のカレーは、現在のようなきつね色ではなく鮮やかな黄色であったため、黒いソースとのコントラストをさらに際立たせていたのを覚えている。
 ふと、あることに気が付いた。トラやヒョウ、チーターを始めとしてハチ、アゲハチョウ、ゴンズイなど自然界には驚くほど、黄と黒の配色が多いことを…。祖父は、自然の摂理を本能のごとく見抜いていたかもしれない!
 このような家庭環境の中で育った小生は、その行為が至極(しごく)当然だと信じ、様々な場面で実行していた。
 忘れもしない野外学習のワンシーン、いつものとおりポテトサラダにソースをかけて食べ始めた時、同級生が一言

「お前、何でもソースかけて食べるな、個性的な奴だなあ!」

とつぶやいた。どうやら合宿の間、小生の嗜好をつぶさに観察していたらしい。
 その言葉を聞いて、周りの皆にソース使用のT.P.O.について議論を戦わせたところ、たまに賛同者はいるものの料理の常識に反するという意見がほとんどであった。
 グローバルスタンダードな嗜好を知った時、隔世遺伝した仏国人の遺伝子が小生の体から消え去った瞬間であった。

 だれが言ったか知らないが、

「ソースが命」 

とは、よくいったものだ。

時代背景

 名古屋は、日本の中心地点に存在する一種の独立国家である。周りに同一規模の競争相手になる都市が存在せず、尾張徳川家の城下町として栄えた経歴を持つことから、東京や大阪依存しなくても、それなりの繁栄を遂げることができた。
 軍事学的に見ても京都に近く、東海道の中継地点として物流の一端を担ってきた。日本を統一した偉人を同県から三人も輩出したことからも、それを窺うことができる。

 ゆえに名古屋人は、独自の風習及び感性を持っている。料理に濃い味を好む者が多く、全国的には珍しい赤味噌をベースにした味噌カツ丼や味噌煮込みうどんが生まれた。
 小生の身の回りには、当たり前であったので、これが全国区の味だと信じていた。
しおりを挟む

処理中です...