ナーサリー・ライム

ツチフル

文字の大きさ
1 / 1

ナーサリー・ライム

しおりを挟む
「よし。それじゃあ、一家心中するぞ」
 夕ご飯を食べ終わったあと、お父さんがウキウキした声で宣言した。
 お母さんは待っていましたとばかりに手を叩き、私も多少の高揚感をおぼえながらコクコクとうなずく。
 本日の十七時をもって、お父さんのお勤めは満了。晴れて定年退職となった。
 会社の都合で延びに延びて、六十五歳。
 待たされたぶん喜びもひとしおといった様子で、ご馳走をたいらげ、お酒を飲み、しゃべって、笑って、一息ついて―― 先ほどの一家心中宣言へとつながるわけだ。
 お父さんが定年を迎えたら家族で心中をするというのは、私が物心つく前から決まっていたことだから、それほど抵抗はなかった。
『門限が八時と決められている子』 と同じような気持ちといえば、近いかもしれない。
 もう少し遊びたかったけれど、時間だから仕方ないよね。みたいな。
 お父さんが、ずっとこの日を待ち焦がれていたことを知っている。
 定年が延びるたびにお預けをされたチワワみたいな顔をして、そのたびにお母さんが励ますという光景を何度も見てきたから。
 その日が、ようやく来たのだ。
 私はといえば、大学にも行かせてもらえたし、その間に友達とはしゃいだり恋人といちゃついたりもできたし、勉学もまあそこそこ励んだし、希望先に就職できて仕事も及第点の結果は残せたと思う。
 十分だ。
 両親には感謝しきり。二人の夢を叶えられるのはとても嬉しい。それはいつからか、私の夢にもなっていた。
 少し残念なのは、ここに弟がいないこと。
「俺、医者になるのが夢なんだよ。だから、心中はしたくない」
 申し訳なさそうに言う弟に、お父さんは―― 内心ではずいぶんガッカリしていたはずだけど―― 頑張りなさいといって送り出した。
 今は夢を叶えて大学病院に勤務しており、さらには結婚をして、この間赤ちゃんが生まれたばかりだ。
 幸せそうじゃんと私が言うと、弟は少し困ったように笑った。
          
 私たちの後始末は、遺産をすべて相続させる伯父に―― 借金まみれで首が回らない彼の救済もかねて――任せるつもりだったけれど、弟が残るのだし、本人の希望もあったので任せることにした。
 遺産の分け前が減ることをひどく心配していた伯父も、弟が全て譲渡すると宣言したので、今は心穏やかに私たちの終幕を待っていることだろう。
 
 私とお母さんは乾燥機から食器を取り出し、帰るべき棚へと戻していく。
 お父さんは、この日のために購入したグラスをテーブルに並べている。
「これはオーダーメイドのグラスでな、取引先だったドイツの職人に作ってもらったんだ。見ろ、この透明度、この薄さときたら! 触れている感触はあるのに、光をすべて通してしまって、まるで輪郭がわからないときてる」
「使うのが一度きりで良かったわ。こんな繊細なグラス、スポンジでちょっとこするだけで割れちゃいそうだもの」
「ほら。ここにこう、液体を注ぐことで初めてグラスの輪郭がわかるというわけだ。なかなかにロマンティックじゃないか」
「お父さん、ウキウキだね」
 私がこっそりお母さんに言うと、お母さんは小さく笑ってうなずいた。
「そりゃ、そうよ。本当なら五年前にこうしているはずだったんだもの。私だってウキウキしてるんだから、お父さんのウキウキはそれ以上でしょうね」
「よし。じゃあ、注ぐぞ」
 お父さんは三本の瓶を取り出して、テーブルに並べた。知らずに見たら胃腸薬と勘違いしそうな、茶色の小瓶。
 弟が手に入れてくれたスペシャルな薬で、そちら方面では 『ナーサリー・ライム子守歌』 と呼ばれているそう。
 このナーサリー・ライムをグラスに20CC(一本分)注ぎ、ソーダ水で割るのが一般的で、酸味と甘味が炭酸によって上手く調和され、飲み干した次の瞬間には酩酊状態となり、この上ない幸福感の中で命と身体を分けてくれる――らしい。
 お父さんはおすすめのレシピ通り、ナーサリー・ライムを20CC注いでから冷えたソーダ水でグラスを満たした。液体は柔らかなピンク色の発泡水となり、極度に薄いグラスの輪郭を浮かび上がらせる。
「まずは母さん」
 言って、置く。
「それから、お前」
 私の前に。
「で、俺」
 最後に、自分の前に置く。
 本当はもう一本あったのだけど、オーダーメイドのグラスと一緒に弟が持っていった。自分の部屋のマホガニー製の机の引き出しに、今も眠っているはずだ。
 テーブルの上に並ぶ三つの子守歌。気泡のはじける微かな音は、まるで眠りを誘っているかのよう。
「何か、最後を彩る音楽でもかけるか」
「静かなほうがいいわ。これから子守歌を聴くんでしょう?」
「…それもそうだな」
 お母さんの素敵な答えに、私とお父さんは顔を見合せて微笑む。
「乾杯をしたいところだけど、グラスを合わせると割れてしまいそうだからな。せーの、で飲むことにしよう」
「そうね」
「いいよ」
 お父さんが、グラスをそっと持ち上げる。あとを追って、お母さん。私。
「口にグラスをあてて」
 オーダーメイドのグラスの繊細な感触。子守歌の甘い香り。
 お母さんが微笑む。
 私は眼を閉じる。
 ポケットの中でスマートフォンが振動する。
 きっと、置き手紙を読み終えた恋人から。
 誘えば一緒に飲んでくれたかな。なんて。
 そんなことを思いながら、私はお父さんの恍惚とした声を聞く。

「せーの」              

                  (了)
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

いまさら謝罪など

あかね
ファンタジー
殿下。謝罪したところでもう遅いのです。

あなたの愛はいりません

oro
恋愛
「私がそなたを愛することは無いだろう。」 初夜当日。 陛下にそう告げられた王妃、セリーヌには他に想い人がいた。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

英雄一家は国を去る【一話完結】

青緑 ネトロア
ファンタジー
婚約者との舞踏会中、火急の知らせにより領地へ帰り、3年かけて魔物大発生を収めたテレジア。3年振りに王都へ戻ったが、国の一大事から護った一家へ言い渡されたのは、テレジアの婚約破棄だった。 - - - - - - - - - - - - - ただいま後日談の加筆を計画中です。 2025/06/22

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

離婚すると夫に告げる

tartan321
恋愛
タイトル通りです

処理中です...