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目覚まし時計が鳴る。
勇一がベッドから身を起こすと、すでに由紀子はいなかった。
寝ぼけ眼をこすりながら、いつもの作業に着替えようとして思い出す。
そうだ。今日は仕事を休んで病院へ行く日だった。
ふと見ると、ベッド脇に普段着が用意されている。
「えらく派手な服だな」
勇一は着慣れない服に替えて、食堂へと向かった。
玲奈と顔を合わせるのは気まずいなと思ったが、幸い彼女は早朝練習ですでにいなかった。
安堵と、自己嫌悪。
食堂へ入ると、由紀子がキッチンで朝食の準備をしているところだった。
「おはよう」
勇一は妻に声をかけて、いつものイスに腰掛ける。
「あら、おはよう。ちょっと待っててね。今、目玉焼きができるから」
「ああ。まあ、ゆっくりやってくれ」
「ゆっくりやってたら焦げちゃうわ」
「じゃあ、急いでやってくれ」
「あなた、半熟嫌いでしょ」
他愛のないやりとりが心地よい。
昨日すべてをぶちまけたせいか、勇一の気持ちはずいぶんと晴れやかだった。
今日の診察で自分に異常があるという結果になっても、前向きに受け止められる。
そんな気がした。
「病院には何時に行くんだ?」
「電話をして九時に予約を取ってあるから…… そうね。ご飯を食べてから家を出ればちょうどいいんじゃない?」
「そうか」
「あっ、目玉焼きのお皿を用意してなかったわ。悪いけど取ってくれない?」
「ああ」
勇一はのそりと立ち上がり、食器棚から平べったい皿を取りだす。
「こっちに持ってきてくれる?」
いわれるままキッチンへと運ぶ。
「ほら」
「ありがとう。ちょっとまってて」
由紀子はコンロの火を止めて、フライパンをその上に置く。
それから、勇一から皿を受け取るために振り向いた。
「はい、ちょうだい」
その瞬間。
勇一の手から皿がこぼれ落ちた。
由紀子が慌てて手をのばしたが、間に合わない。
床に直撃した皿が、音をたてて割れる。
……だれだ。
「あーあ。もう、何やってんの」
非難の声も、今の勇一には届かない。
「…だれだ」
「え?」
「おまえは だれだ」
顔をあげた由紀子が見たものは、血の気の失せた顔。むきだしになった目。
壊れたように震えている唇。
「あなた。私が――」
「おまえは だれだ!」
「待って。落ち着いて」
「くるな! こっちにくるな!」
勇一は床に散らばる割れた皿の中から、細長くとがった欠片を拾い上げた。
それを由紀子に向けたまま、一歩、二歩と後ずさる。
「…ねえ、あなた? 大丈夫よ。これからお医者さんに診てもらうの。それで元に戻るからね」
「由紀子は、どこだ」
「由紀子は私よ」
「ふざけるな! あいつは、あいつはそんな顔じゃない」
「大丈夫。大丈夫だから。ね?」
由紀子が一歩近づいた途端、勇一は悲鳴をあげて食卓から逃げ出した。
「勇一さん!」
闇雲に廊下を駆けていく。
一人になりたかった。
誰もいないところへ。
自分でもわからぬまま、階段を駆け上がる。
二階には玲子の部屋と玲奈の部屋があるだけだ。
玲奈の部屋にはカギがかけられていた。
舌打ちをして、今は使っていない玲子の部屋のドアを開ける。
開いた。
勇一は玲子の部屋へ飛び込むと、震える手でカギをかけた。
同時に、追いついた由紀子がドアを激しく叩く。
「勇一さん、開けてちょうだい。ちゃんと病院で診てもらいましょう」
見知らぬ由紀子の叫び声。ドアを叩く音。
勇一は剥きだしになっている玲子のベッドに腰を下ろし、耳をふさいだ。
……誰もいない。
俺が知っている人間はもう、誰もいない。
この先、ずっと。
もう、二度と。
「ねえ。ずっとそこにいるつもりなの? そんなこと出来ないわ」
見知らぬ由紀子の声が響く。
「出てこないなら、むりにでもドアをあけるからね!」
いいさ。
そのときは、この皿の破片で……。
勇一は自虐的な笑みを浮かべ、玲子の部屋を見回した。
彼女の荷物はほとんど持ち出されており、残っているのは勇一のうずくまっているベッドと、本の入っていない本棚、それにタンスぐらいだ。
もうひとつあった。
ベッドの横に置かれている――
その瞬間。
勇一は絶叫した。
勇一がベッドから身を起こすと、すでに由紀子はいなかった。
寝ぼけ眼をこすりながら、いつもの作業に着替えようとして思い出す。
そうだ。今日は仕事を休んで病院へ行く日だった。
ふと見ると、ベッド脇に普段着が用意されている。
「えらく派手な服だな」
勇一は着慣れない服に替えて、食堂へと向かった。
玲奈と顔を合わせるのは気まずいなと思ったが、幸い彼女は早朝練習ですでにいなかった。
安堵と、自己嫌悪。
食堂へ入ると、由紀子がキッチンで朝食の準備をしているところだった。
「おはよう」
勇一は妻に声をかけて、いつものイスに腰掛ける。
「あら、おはよう。ちょっと待っててね。今、目玉焼きができるから」
「ああ。まあ、ゆっくりやってくれ」
「ゆっくりやってたら焦げちゃうわ」
「じゃあ、急いでやってくれ」
「あなた、半熟嫌いでしょ」
他愛のないやりとりが心地よい。
昨日すべてをぶちまけたせいか、勇一の気持ちはずいぶんと晴れやかだった。
今日の診察で自分に異常があるという結果になっても、前向きに受け止められる。
そんな気がした。
「病院には何時に行くんだ?」
「電話をして九時に予約を取ってあるから…… そうね。ご飯を食べてから家を出ればちょうどいいんじゃない?」
「そうか」
「あっ、目玉焼きのお皿を用意してなかったわ。悪いけど取ってくれない?」
「ああ」
勇一はのそりと立ち上がり、食器棚から平べったい皿を取りだす。
「こっちに持ってきてくれる?」
いわれるままキッチンへと運ぶ。
「ほら」
「ありがとう。ちょっとまってて」
由紀子はコンロの火を止めて、フライパンをその上に置く。
それから、勇一から皿を受け取るために振り向いた。
「はい、ちょうだい」
その瞬間。
勇一の手から皿がこぼれ落ちた。
由紀子が慌てて手をのばしたが、間に合わない。
床に直撃した皿が、音をたてて割れる。
……だれだ。
「あーあ。もう、何やってんの」
非難の声も、今の勇一には届かない。
「…だれだ」
「え?」
「おまえは だれだ」
顔をあげた由紀子が見たものは、血の気の失せた顔。むきだしになった目。
壊れたように震えている唇。
「あなた。私が――」
「おまえは だれだ!」
「待って。落ち着いて」
「くるな! こっちにくるな!」
勇一は床に散らばる割れた皿の中から、細長くとがった欠片を拾い上げた。
それを由紀子に向けたまま、一歩、二歩と後ずさる。
「…ねえ、あなた? 大丈夫よ。これからお医者さんに診てもらうの。それで元に戻るからね」
「由紀子は、どこだ」
「由紀子は私よ」
「ふざけるな! あいつは、あいつはそんな顔じゃない」
「大丈夫。大丈夫だから。ね?」
由紀子が一歩近づいた途端、勇一は悲鳴をあげて食卓から逃げ出した。
「勇一さん!」
闇雲に廊下を駆けていく。
一人になりたかった。
誰もいないところへ。
自分でもわからぬまま、階段を駆け上がる。
二階には玲子の部屋と玲奈の部屋があるだけだ。
玲奈の部屋にはカギがかけられていた。
舌打ちをして、今は使っていない玲子の部屋のドアを開ける。
開いた。
勇一は玲子の部屋へ飛び込むと、震える手でカギをかけた。
同時に、追いついた由紀子がドアを激しく叩く。
「勇一さん、開けてちょうだい。ちゃんと病院で診てもらいましょう」
見知らぬ由紀子の叫び声。ドアを叩く音。
勇一は剥きだしになっている玲子のベッドに腰を下ろし、耳をふさいだ。
……誰もいない。
俺が知っている人間はもう、誰もいない。
この先、ずっと。
もう、二度と。
「ねえ。ずっとそこにいるつもりなの? そんなこと出来ないわ」
見知らぬ由紀子の声が響く。
「出てこないなら、むりにでもドアをあけるからね!」
いいさ。
そのときは、この皿の破片で……。
勇一は自虐的な笑みを浮かべ、玲子の部屋を見回した。
彼女の荷物はほとんど持ち出されており、残っているのは勇一のうずくまっているベッドと、本の入っていない本棚、それにタンスぐらいだ。
もうひとつあった。
ベッドの横に置かれている――
その瞬間。
勇一は絶叫した。
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