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キャンデー
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一粒で三十二種類の味が楽しめるキャンデーを買う。
口に放り込み、舌の上で転がしてみる。
始めはオレンジ。味の始まりはオレンジからと言う格言通りの、無難な出だしだ。
わざとらしい酸味と甘みに、果皮に付着したワックスの風味も相まって、安物のオレンジ具合を見事に表現している。
しばらく舐めているうちに味に変化が生じてきた。グラデーションのようにオレンジが薄らぎ、覆い被さるように粘着質な甘味が広がっていく。
マンゴー。
熟れた果実の卑猥でねっとりとした甘さが喉にまとわりつき、息苦しさにも似た快楽を覚える。
しかし南国特有のくどい味はあまり好きではないので、急いで舐めまわして次の味に変化させてしまう。
すると、唐突に舌を突き刺す刺激だ。
痺れるような清涼感がマンゴーの甘味を強引に打ち消し、世界を一変させる。
この鋭利な味は、ペパーミント。
メントールの排他的な刺激によって吐息が浄化され、緑の風へと変わっていく。
舌先の痛みさえ、もはや心地よい。
さあ、次に来る味は?
緑の風が過ぎ去り、コーティングの奥から三つ指をついて現れたのは―― あずきだ。
控えめで上品な自己主張は、それがゆえに和の味の奥深さを感じさせる。
静かな舞踊を思わせる甘さは、その舞のごとく嫋《たお》やかに優美に広がり、やがて静謐《せいひつ》を崩さぬまま遠ざかる。この物足りなさこそが味の本質と言うように。
余韻を名残惜しみつつ、次の味を待つ。
さて。意外性には、二つの種類がある。
ひとつは、驚きの後に感動や歓喜を呼び起こす意外性。もう一つは、失望と落胆を揺り起こす意外性だ。
クミンのあの独特な香りとスパイシーなガラムマサラによって生み出された味は、嫋《たお》やかなあずきの情景をたちまちエキゾチックな世界に作り替えた。
カレー味だ。
しかしこの意外性は、残念ながら後者の意外性だ。奇をてらいすぎて押しつけがましくなってしまい、予想外でありながら、何ら驚きをもたらなさい。
意外性を求めたときに真っ先に思いつくであろう変化。いわば、意外性のない意外性。
控えめなあずき味の後だからこその演出だったのかもしれないが、むしろこの場合は静謐を保ったまま次の味に移行べきだったのではないか。
加えて言うならば、カレーの次を彩る味も難しくしてしまっている。
良くも悪くも突出したカレーの個性は、味の連鎖を断ってしまいかねないのだ。
期待と不安がないまぜのまま、キャンデーを舐め続ける。
やがてカレー味の層が破れて浮かび上がってきたのは、ザラついた苦味。
少し遅れて、夕立の降り始めの、あの埃っぽい風味が口内に広がっていく。
舌を削る粗いパウダーは砂利を表現しているのだろう。ほんのり香るアスファルトのフレイバーも比率通りで申し分ない。
舗装道路の味。
甘味のない重厚なビターテイストは好みの分かれるところだが、個性際立つカレー味からの展開としては悪くない。アクロバティックで、ちょっとお洒落でさえある。
しばらく舐め続けていると、道路の苦味がぼんやりとした酸味に変わった。
やや薄味ながらも、錆びた鉄のようなあと味が特徴的な、血液の味。バランスの良さからしてA型だろう。無難なチョイスとも言えるし、冒険心が足りないとも言える。AB型は行き過ぎだけど、RHの調整はしても良かったかもしれない。
味は変わり続ける。
腐葉土。しょう油。軽油。野いちご。ニッケル。オニオン。アーモンド。のり。ノリ。六種類のペンキは色のイメージとのギャップが楽しめた。オリーブ。ミルク。クルミ。アルミ。輪ゴム。ケシゴム。ケシの花……
一時間を越えて舐め続けているものだから、さすがに舌が疲れてくる。
それでも、どうにか二十九種類の味までたどりついた。
あと三種類。
かみ砕きたい衝動をこらえて、舐め続ける。
最後から三番目の味は、水道水だった。
慣れ親しんだミネラルとカルキの風味が、疲れた舌に心地よい。ラスト手前のインターバルといったところだろう。
あと二種類。
まもなく、最後から二番目の味が始まる。
最後の味にたどりついた者は、これまで一人もいない。誰もが、この最後から二番目の味でキャンデーをかみ砕いてしまうからだ。
あまりにも酷い味のせい。ではない。
その逆だ。
最後から二番目の味を、最後の味で消したくなくて、味が変わる前にかみ砕いてしまうのだという。
最後の味を放棄してまで、留めておきたい味。
乗り越えることができない味。
水道水の味でリセットされた舌が、最後から二番目の味をとらえる。
かすかな――
錯覚に思うほどかすかな―― 甘味。
そのかすかな甘味らしきものが、赤錆びた記憶の扉を優しく押し開く。
扉から溢れ出したのは、始まりの水。
思考も感情も生まれる前の、記憶の、最初の。
混じりけのない、慈愛の。
最後から二番目の味は、母の胎内に満ちていた、羊水の味だった。
欠損のない、完璧な安らぎに浸りながら、胎児のように身体を丸めてキャンデーを舐め続ける。
このまま、ここにいたい。
絶対的な安心感に包まれた、この聖域に。
ずっと、留まっていたい。
ずっと、留まっていたかったのに。
どうしてだろう。
どうして、生まれてなんてきてしまったのだろう。
この安らぎに浸ったまま、溶けてしまえば良かったのに。
羊水の味が少しずつ薄らいで、思考と感情が身じろぎをする。
もうすぐ最後の味が、この慈愛に満ちた味を塗りつぶしてしまう。
この世界にまた、生まれてきてしまう。
その恐怖に耐えきれなくて.。
この世界に留まりたくて。
キャンデーをかみ砕く。
最後の味は、だから、まだ誰も知らない。
了
口に放り込み、舌の上で転がしてみる。
始めはオレンジ。味の始まりはオレンジからと言う格言通りの、無難な出だしだ。
わざとらしい酸味と甘みに、果皮に付着したワックスの風味も相まって、安物のオレンジ具合を見事に表現している。
しばらく舐めているうちに味に変化が生じてきた。グラデーションのようにオレンジが薄らぎ、覆い被さるように粘着質な甘味が広がっていく。
マンゴー。
熟れた果実の卑猥でねっとりとした甘さが喉にまとわりつき、息苦しさにも似た快楽を覚える。
しかし南国特有のくどい味はあまり好きではないので、急いで舐めまわして次の味に変化させてしまう。
すると、唐突に舌を突き刺す刺激だ。
痺れるような清涼感がマンゴーの甘味を強引に打ち消し、世界を一変させる。
この鋭利な味は、ペパーミント。
メントールの排他的な刺激によって吐息が浄化され、緑の風へと変わっていく。
舌先の痛みさえ、もはや心地よい。
さあ、次に来る味は?
緑の風が過ぎ去り、コーティングの奥から三つ指をついて現れたのは―― あずきだ。
控えめで上品な自己主張は、それがゆえに和の味の奥深さを感じさせる。
静かな舞踊を思わせる甘さは、その舞のごとく嫋《たお》やかに優美に広がり、やがて静謐《せいひつ》を崩さぬまま遠ざかる。この物足りなさこそが味の本質と言うように。
余韻を名残惜しみつつ、次の味を待つ。
さて。意外性には、二つの種類がある。
ひとつは、驚きの後に感動や歓喜を呼び起こす意外性。もう一つは、失望と落胆を揺り起こす意外性だ。
クミンのあの独特な香りとスパイシーなガラムマサラによって生み出された味は、嫋《たお》やかなあずきの情景をたちまちエキゾチックな世界に作り替えた。
カレー味だ。
しかしこの意外性は、残念ながら後者の意外性だ。奇をてらいすぎて押しつけがましくなってしまい、予想外でありながら、何ら驚きをもたらなさい。
意外性を求めたときに真っ先に思いつくであろう変化。いわば、意外性のない意外性。
控えめなあずき味の後だからこその演出だったのかもしれないが、むしろこの場合は静謐を保ったまま次の味に移行べきだったのではないか。
加えて言うならば、カレーの次を彩る味も難しくしてしまっている。
良くも悪くも突出したカレーの個性は、味の連鎖を断ってしまいかねないのだ。
期待と不安がないまぜのまま、キャンデーを舐め続ける。
やがてカレー味の層が破れて浮かび上がってきたのは、ザラついた苦味。
少し遅れて、夕立の降り始めの、あの埃っぽい風味が口内に広がっていく。
舌を削る粗いパウダーは砂利を表現しているのだろう。ほんのり香るアスファルトのフレイバーも比率通りで申し分ない。
舗装道路の味。
甘味のない重厚なビターテイストは好みの分かれるところだが、個性際立つカレー味からの展開としては悪くない。アクロバティックで、ちょっとお洒落でさえある。
しばらく舐め続けていると、道路の苦味がぼんやりとした酸味に変わった。
やや薄味ながらも、錆びた鉄のようなあと味が特徴的な、血液の味。バランスの良さからしてA型だろう。無難なチョイスとも言えるし、冒険心が足りないとも言える。AB型は行き過ぎだけど、RHの調整はしても良かったかもしれない。
味は変わり続ける。
腐葉土。しょう油。軽油。野いちご。ニッケル。オニオン。アーモンド。のり。ノリ。六種類のペンキは色のイメージとのギャップが楽しめた。オリーブ。ミルク。クルミ。アルミ。輪ゴム。ケシゴム。ケシの花……
一時間を越えて舐め続けているものだから、さすがに舌が疲れてくる。
それでも、どうにか二十九種類の味までたどりついた。
あと三種類。
かみ砕きたい衝動をこらえて、舐め続ける。
最後から三番目の味は、水道水だった。
慣れ親しんだミネラルとカルキの風味が、疲れた舌に心地よい。ラスト手前のインターバルといったところだろう。
あと二種類。
まもなく、最後から二番目の味が始まる。
最後の味にたどりついた者は、これまで一人もいない。誰もが、この最後から二番目の味でキャンデーをかみ砕いてしまうからだ。
あまりにも酷い味のせい。ではない。
その逆だ。
最後から二番目の味を、最後の味で消したくなくて、味が変わる前にかみ砕いてしまうのだという。
最後の味を放棄してまで、留めておきたい味。
乗り越えることができない味。
水道水の味でリセットされた舌が、最後から二番目の味をとらえる。
かすかな――
錯覚に思うほどかすかな―― 甘味。
そのかすかな甘味らしきものが、赤錆びた記憶の扉を優しく押し開く。
扉から溢れ出したのは、始まりの水。
思考も感情も生まれる前の、記憶の、最初の。
混じりけのない、慈愛の。
最後から二番目の味は、母の胎内に満ちていた、羊水の味だった。
欠損のない、完璧な安らぎに浸りながら、胎児のように身体を丸めてキャンデーを舐め続ける。
このまま、ここにいたい。
絶対的な安心感に包まれた、この聖域に。
ずっと、留まっていたい。
ずっと、留まっていたかったのに。
どうしてだろう。
どうして、生まれてなんてきてしまったのだろう。
この安らぎに浸ったまま、溶けてしまえば良かったのに。
羊水の味が少しずつ薄らいで、思考と感情が身じろぎをする。
もうすぐ最後の味が、この慈愛に満ちた味を塗りつぶしてしまう。
この世界にまた、生まれてきてしまう。
その恐怖に耐えきれなくて.。
この世界に留まりたくて。
キャンデーをかみ砕く。
最後の味は、だから、まだ誰も知らない。
了
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