2 / 3
2、
しおりを挟む
※
女は東病棟の302号室をノックする。
いつものように返事はない。
だから、いつものように勝手に足を踏み入れる。
部屋の中は、昼間なのに夜のように暗かった。
窓はカーテンですっかり閉ざされており、明かりもつけられていない。
静寂の中、冷蔵庫のモーター音だけが低いうなりをあげている。
女は白い床の上を音を立てずに歩き、白い洗面所を横切って、白いベッドへと近づく。
「……あら、起きてるじゃない」
男はベッドの上で上半身を起こし、日の光を遮るカーテンを見つめていた。
看護師から皮膚の移植は終えたと聞いていたが、顔は包帯で覆われたままだった。
皮膚の保護のためか。あるいは、変わり果てた顔を見られたくないからか。
女は手土産の白い箱をテーブルに置くと、いつものように花瓶にいけられた古い花を抜き取り、持ってきた新しい花と交換した。
「カーテン、開けよっか。今日は良い天気だよ」
男は窓際へ向かう女の背中を無言で追っていたが、カーテンが開かれると、その差し込む光のまぶしさに目を細めた。
「ついでに窓も開けちゃうね」
初秋の風が部屋へ舞い込み、こもっていた空気が外の世界を求めて逃げ出していく。
「ほら。涼しくて気持ちいいでしょう」
男は答えない。包帯に穿たれたような二つの目は、もう彼女ではなく、テーブルの上の白い箱に向けられていた。
「ああ、それ? あなたの好きなテレーゼのプリン。一緒に食べようと思って」
言いながらテーブルに近づき、白い箱を手に取る。
「あの店、テレビで紹介されたせいで行列ができるようになっちゃったのよ。おかげで手に入れるの苦労したわ」
女は箱から手のひらほどの器に入ったプリンを取り出すと、ベッドの隣りに置かれたイスに腰をおろした。
男が着ている服は病院から貸し与えられた無個性な水色の上下で、それ自体が患者の生気を吸い取っている気がする。
その水色の袖からのぞく手もまた、顔と同様に包帯が巻きつけられていた。
「まだ、手で持つのは無理みたいね」
女はプリンにスプーンを差し入れ、カラメルソースをうまく絡ませながら一口分をすくい取る。
「はい、どうぞ」
言いながら、包帯の下に見え隠れする口元にスプーンを近づける。
男はその半個体の物体を見つめて、短く息を吐いた。あるいは、それは笑ったのかもしれない。
「まだ、じゃない」
声は。
低く心地よく響く声だけは、以前と変わらなかった。
女は差し出したスプーンをそのままに、男を見る。
「『まだ』 じゃなくて 『もう』 だよ」
「え?」
男は包帯が巻かれた左腕をぎこちなく動かし、女の前に突き出す。その手は、中途半端なグーの形をしていた。
「間接が固まって、これ以上開くことも閉じることもできない。こいつは手の形をした、ただの棒きれだ」
「………」
「右手のほうは動くけど、もっと笑える」
言いながら、ベッドから右腕を抜き出す。こちらにも包帯が巻かれていた。
「ほら」
左手と並べるように置いた右手を、開いたり閉じたりしてみせる。確かに動いてはいるけれど、何かがおかしい。
違和感の正体はすぐにわかった。親指をのぞいた、四本の指の長さだ。
一番短いはずの小指が一番長く、一番長いはずの中指が一番短い。人差し指と薬指は、第一関節から先が失われている。
「完全に焼けた部位を切断したそうだ。壊疽が広がらないための、やむを得ない処置だと言われたよ」
「………」
「気持ち悪いだろ?」
「そんなこと」
「じゃあ、見とれるほど魅力的?」
女は答えることができずにうつむき、男は自虐的な言葉を悔いるように唇を噛む。
スプーンにのせられたプリンは誰の口にも入ることなく、そのまま容器へと戻っていった。
二人の間に重苦しい空気が張り詰める。
それでも女は、今の状況に小さな満足感を覚えていた。
これまでは、見舞いに訪れても寝ているか寝ているふりをしているかで、男と言葉を交わすこともできなかったのだ。
自虐でも八つ当たりでも、話をする気になってくれたのは大きな前進といえる。
完治することはあり得ない。それどころか、男はいくつもの後遺症を抱えることになるだろう。
深度Ⅲ・全身熱傷。
職場で起きたガス爆発に巻き込まれて、男は身体の四十七パーセントが焼ける重体に陥った。
五十パーセント以上の熱傷で死に至るとされていることから考えても、男はぎりぎりで命を取り留めたと言える。
ただ、それを幸運と呼ぶにはあまりにも悲惨な状態だった。
男は熱けて壊死した皮膚をすべてはぎ取られ、熱傷を免れた背中や臀部の皮膚をその部位へ移植するという、大手術を受けることになる。
たりない場所にはひとまず人工皮膚があてがい、健全な皮膚が再生したところで、あらためて移植をするという話だった。
もちろん、移植がうまくいったところで見た目が完璧に戻るわけではない。
包帯の下の姿を見れば、女は大きなショックを受けることになるだろう。
耐えきれず、目を背けてしまうかもしれない。
それでも、彼女はそうしたことも含めてすべてを受け入れるつもりでいた。
面会謝絶が解かれ、はじめて病室に訪れたとき。
ベッドに横たわる、全身を包帯で覆われた男の姿を見たとき。
女は、その瞬間まで思い巡らせていた選択――薄情とも、当然とも言える選択を――捨て、男に寄り添うことを決めたのである。
かつての女であれば、こうした感情を『憐憫』や『同情』と定義して『愛』とはほど遠い感情だと言い捨てていただろう。
「身体を重ねられない愛は、深められない。対等な関係でない愛は、持続できない」
それが、彼女の愛に対する価値観だった。
しかし、今。
女はこの感情を『愛』と定義していた。
憐憫や同情がないわけではない。
ただ、それだけではこの心の動きを説明することができないのだ。
これから先の人生を男に捧げようとする、この揺るぎない思いを。
いつしか彼女の愛に対する価値観は、かつての男の価値観と同調するようになっていた。
『身体を重ねられなくても、愛は深められる。対等な関係でなくても、愛は持続できる』と。
「ゆっくりと良くなっていけばいいのよ」
女は男に微笑みかける。
「私はずっと、あなたのそばにいるから」
男はその微笑みから逃れるように目を閉じ、口元をゆがめた。それは笑っているようにも、傷ついているように見えた。
「身体を重ねられない愛は、深められない。対等でない愛は、持続しない。そう言ったのは、君だ」
「…ええ。そうね」
「僕の火傷は、全身の四十七パーセントに及ぶらしい。その中でも酷いのが、顔と腕。……それに、下腹部だ」
「お医者さんから聞いてる」
「下腹部ってのは、要するにここだよ」
男は固まった左手で布団をはぎ、股間を示した。
性器の辺りからは細長い管が伸びており、そのままベッドの下へと続いている。
「こいつの三分の二が焼け落ちたらしい。だからもう、まともに小便もできないし――」
男は布団をかけ直す女の手を見つめながら、淡々と告げた。
「二度と、君を抱くこともできない」
それは、二人の関係の終わりを意味する言葉だった。
彼女を抱くことができない。対等な関係に戻ることもできない。
女の愛に対する価値観から、男は脱落したのである。
今の男に出来ることは、女を自分から解放して新しい愛へと送り出すことだけだった。
「君は、もう僕に――」
「ずいぶん前、二人で愛について言い合ったことあったでしょう」
男の言葉を強引に遮って、女が言う。
「覚えてる?」
「……ああ」
覚えている。
だからこそ、男は別れを告げようとしているのだ。
「君は、キスや身体を重ねることが愛を深めるために絶対に必要なことだと言った」
「あなたは、そうした行為は本能に根ざした欲求にすぎない、人としての愛はもっと高尚で美しいと言い張った」
「君は、対等な関係でない愛は続けられないと言った」
「あなたは、そうした愛は対等な関係でなくても続いていくと言った。…それから」
女は男を見つめて、かみしめるように言った。
「いつか、それを証明してみせるとも言ったわ」
「言ったかな」
「言ったわ」
「――じゃあ」
男は自虐的な笑みを浮かべて言う。
「僕の証明は、失敗したわけだ」
「あら、あなたの証明は成功したのよ」
その言葉を予期していたかのように、女はすぐに答えた。
「成功した?」
「そうよ。だって、私はあなたを愛しているもの。――今も、変わらずに」
風に運ばれてきた一枚の葉が、ベッドの上に舞い落ちる。紅葉の半ばで枝を離れたのだろう。葉の表面は紅く、裏側は青いままだ。
「もう、あなたに抱いてもらえない。キスもまともにできない。対等な関係に戻ることも、ない」
女は葉をつまみ上げ、親指と人差し指をこするようにして葉を回転させる。
「あなたに大きな後遺症が残ると知らされたとき。もう元の生活に戻れないと理解したとき。私は、あなたから離れることだけを考えていたわ」
「………」
「周りから薄情だとか残酷だと言われないように、綺麗に別れることばかり考えていた」
葉を、男の左手にのせる。中途半端なグーの形をした左手は、つかむことも弾くこともできず、中途半端に染まる葉を受け入れた。
「でもね。顔から足まで包帯で巻かれたあなたの姿を見たとき、何かが変わったの」
女は抑揚のない声で、淡々と言葉を紡いでいく。
大げさな身振りも、感情的な声の起伏もない。それらは伝えようとする思いを誇張してしまい、誠実さをゆがめてしまうから。
「あなたを支えたいと思った」
「………」
「ずっと、そばにいたいと思った」
女は伝えたい思いを、丁寧に言葉へ置換していく。
「私は、今も、あなたを愛している」
言葉は心地よい風に置換され、半ば溶け落ちた男の耳へと滑りこむ。
「…おかしいわね。あなたの信じた愛を否定していた私が、それを証明するだなんて」
女は口元をほころばせて男を見る。
「身体を重ねられなくても、愛は深めることができる。関係が対等でなくなっても、愛は続いていく。…あなたは、正しかったのよ」
「だから言っただろう。利害を超えて――肉体的な欲求も、立場による優劣も超えて―― 人は、人を愛することができるんだ」
男は勝ち誇って、女を見返していたにちがいない。
もし、これが自分たちではなく、べつの恋人たちの身に起きたことであったなら。
「――そうか。君は、僕の信じていた愛を証明してみせたんだね」
「そうよ」
「…そうか」
微笑む女を見て、男もまた包帯からのぞく唇をゆがめた。
深く長く息を吐き出し、目を閉じる。
「じゃあ、今度は僕が証明する番だ」
「え?」
「身体の触れあえない愛は、深められない。対等な関係でなければ、愛は続けられない」
「………」
男は穏やかな声で告げる。
「君が正しかったことを、僕が証明するよ」
※
女は東病棟の302号室をノックする。
いつものように返事はない。
だから、いつものように勝手に足を踏み入れる。
部屋の中は、昼間なのに夜のように暗かった。
窓はカーテンですっかり閉ざされており、明かりもつけられていない。
静寂の中、冷蔵庫のモーター音だけが低いうなりをあげている。
女は白い床の上を音を立てずに歩き、白い洗面所を横切って、白いベッドへと近づく。
「……あら、起きてるじゃない」
男はベッドの上で上半身を起こし、日の光を遮るカーテンを見つめていた。
看護師から皮膚の移植は終えたと聞いていたが、顔は包帯で覆われたままだった。
皮膚の保護のためか。あるいは、変わり果てた顔を見られたくないからか。
女は手土産の白い箱をテーブルに置くと、いつものように花瓶にいけられた古い花を抜き取り、持ってきた新しい花と交換した。
「カーテン、開けよっか。今日は良い天気だよ」
男は窓際へ向かう女の背中を無言で追っていたが、カーテンが開かれると、その差し込む光のまぶしさに目を細めた。
「ついでに窓も開けちゃうね」
初秋の風が部屋へ舞い込み、こもっていた空気が外の世界を求めて逃げ出していく。
「ほら。涼しくて気持ちいいでしょう」
男は答えない。包帯に穿たれたような二つの目は、もう彼女ではなく、テーブルの上の白い箱に向けられていた。
「ああ、それ? あなたの好きなテレーゼのプリン。一緒に食べようと思って」
言いながらテーブルに近づき、白い箱を手に取る。
「あの店、テレビで紹介されたせいで行列ができるようになっちゃったのよ。おかげで手に入れるの苦労したわ」
女は箱から手のひらほどの器に入ったプリンを取り出すと、ベッドの隣りに置かれたイスに腰をおろした。
男が着ている服は病院から貸し与えられた無個性な水色の上下で、それ自体が患者の生気を吸い取っている気がする。
その水色の袖からのぞく手もまた、顔と同様に包帯が巻きつけられていた。
「まだ、手で持つのは無理みたいね」
女はプリンにスプーンを差し入れ、カラメルソースをうまく絡ませながら一口分をすくい取る。
「はい、どうぞ」
言いながら、包帯の下に見え隠れする口元にスプーンを近づける。
男はその半個体の物体を見つめて、短く息を吐いた。あるいは、それは笑ったのかもしれない。
「まだ、じゃない」
声は。
低く心地よく響く声だけは、以前と変わらなかった。
女は差し出したスプーンをそのままに、男を見る。
「『まだ』 じゃなくて 『もう』 だよ」
「え?」
男は包帯が巻かれた左腕をぎこちなく動かし、女の前に突き出す。その手は、中途半端なグーの形をしていた。
「間接が固まって、これ以上開くことも閉じることもできない。こいつは手の形をした、ただの棒きれだ」
「………」
「右手のほうは動くけど、もっと笑える」
言いながら、ベッドから右腕を抜き出す。こちらにも包帯が巻かれていた。
「ほら」
左手と並べるように置いた右手を、開いたり閉じたりしてみせる。確かに動いてはいるけれど、何かがおかしい。
違和感の正体はすぐにわかった。親指をのぞいた、四本の指の長さだ。
一番短いはずの小指が一番長く、一番長いはずの中指が一番短い。人差し指と薬指は、第一関節から先が失われている。
「完全に焼けた部位を切断したそうだ。壊疽が広がらないための、やむを得ない処置だと言われたよ」
「………」
「気持ち悪いだろ?」
「そんなこと」
「じゃあ、見とれるほど魅力的?」
女は答えることができずにうつむき、男は自虐的な言葉を悔いるように唇を噛む。
スプーンにのせられたプリンは誰の口にも入ることなく、そのまま容器へと戻っていった。
二人の間に重苦しい空気が張り詰める。
それでも女は、今の状況に小さな満足感を覚えていた。
これまでは、見舞いに訪れても寝ているか寝ているふりをしているかで、男と言葉を交わすこともできなかったのだ。
自虐でも八つ当たりでも、話をする気になってくれたのは大きな前進といえる。
完治することはあり得ない。それどころか、男はいくつもの後遺症を抱えることになるだろう。
深度Ⅲ・全身熱傷。
職場で起きたガス爆発に巻き込まれて、男は身体の四十七パーセントが焼ける重体に陥った。
五十パーセント以上の熱傷で死に至るとされていることから考えても、男はぎりぎりで命を取り留めたと言える。
ただ、それを幸運と呼ぶにはあまりにも悲惨な状態だった。
男は熱けて壊死した皮膚をすべてはぎ取られ、熱傷を免れた背中や臀部の皮膚をその部位へ移植するという、大手術を受けることになる。
たりない場所にはひとまず人工皮膚があてがい、健全な皮膚が再生したところで、あらためて移植をするという話だった。
もちろん、移植がうまくいったところで見た目が完璧に戻るわけではない。
包帯の下の姿を見れば、女は大きなショックを受けることになるだろう。
耐えきれず、目を背けてしまうかもしれない。
それでも、彼女はそうしたことも含めてすべてを受け入れるつもりでいた。
面会謝絶が解かれ、はじめて病室に訪れたとき。
ベッドに横たわる、全身を包帯で覆われた男の姿を見たとき。
女は、その瞬間まで思い巡らせていた選択――薄情とも、当然とも言える選択を――捨て、男に寄り添うことを決めたのである。
かつての女であれば、こうした感情を『憐憫』や『同情』と定義して『愛』とはほど遠い感情だと言い捨てていただろう。
「身体を重ねられない愛は、深められない。対等な関係でない愛は、持続できない」
それが、彼女の愛に対する価値観だった。
しかし、今。
女はこの感情を『愛』と定義していた。
憐憫や同情がないわけではない。
ただ、それだけではこの心の動きを説明することができないのだ。
これから先の人生を男に捧げようとする、この揺るぎない思いを。
いつしか彼女の愛に対する価値観は、かつての男の価値観と同調するようになっていた。
『身体を重ねられなくても、愛は深められる。対等な関係でなくても、愛は持続できる』と。
「ゆっくりと良くなっていけばいいのよ」
女は男に微笑みかける。
「私はずっと、あなたのそばにいるから」
男はその微笑みから逃れるように目を閉じ、口元をゆがめた。それは笑っているようにも、傷ついているように見えた。
「身体を重ねられない愛は、深められない。対等でない愛は、持続しない。そう言ったのは、君だ」
「…ええ。そうね」
「僕の火傷は、全身の四十七パーセントに及ぶらしい。その中でも酷いのが、顔と腕。……それに、下腹部だ」
「お医者さんから聞いてる」
「下腹部ってのは、要するにここだよ」
男は固まった左手で布団をはぎ、股間を示した。
性器の辺りからは細長い管が伸びており、そのままベッドの下へと続いている。
「こいつの三分の二が焼け落ちたらしい。だからもう、まともに小便もできないし――」
男は布団をかけ直す女の手を見つめながら、淡々と告げた。
「二度と、君を抱くこともできない」
それは、二人の関係の終わりを意味する言葉だった。
彼女を抱くことができない。対等な関係に戻ることもできない。
女の愛に対する価値観から、男は脱落したのである。
今の男に出来ることは、女を自分から解放して新しい愛へと送り出すことだけだった。
「君は、もう僕に――」
「ずいぶん前、二人で愛について言い合ったことあったでしょう」
男の言葉を強引に遮って、女が言う。
「覚えてる?」
「……ああ」
覚えている。
だからこそ、男は別れを告げようとしているのだ。
「君は、キスや身体を重ねることが愛を深めるために絶対に必要なことだと言った」
「あなたは、そうした行為は本能に根ざした欲求にすぎない、人としての愛はもっと高尚で美しいと言い張った」
「君は、対等な関係でない愛は続けられないと言った」
「あなたは、そうした愛は対等な関係でなくても続いていくと言った。…それから」
女は男を見つめて、かみしめるように言った。
「いつか、それを証明してみせるとも言ったわ」
「言ったかな」
「言ったわ」
「――じゃあ」
男は自虐的な笑みを浮かべて言う。
「僕の証明は、失敗したわけだ」
「あら、あなたの証明は成功したのよ」
その言葉を予期していたかのように、女はすぐに答えた。
「成功した?」
「そうよ。だって、私はあなたを愛しているもの。――今も、変わらずに」
風に運ばれてきた一枚の葉が、ベッドの上に舞い落ちる。紅葉の半ばで枝を離れたのだろう。葉の表面は紅く、裏側は青いままだ。
「もう、あなたに抱いてもらえない。キスもまともにできない。対等な関係に戻ることも、ない」
女は葉をつまみ上げ、親指と人差し指をこするようにして葉を回転させる。
「あなたに大きな後遺症が残ると知らされたとき。もう元の生活に戻れないと理解したとき。私は、あなたから離れることだけを考えていたわ」
「………」
「周りから薄情だとか残酷だと言われないように、綺麗に別れることばかり考えていた」
葉を、男の左手にのせる。中途半端なグーの形をした左手は、つかむことも弾くこともできず、中途半端に染まる葉を受け入れた。
「でもね。顔から足まで包帯で巻かれたあなたの姿を見たとき、何かが変わったの」
女は抑揚のない声で、淡々と言葉を紡いでいく。
大げさな身振りも、感情的な声の起伏もない。それらは伝えようとする思いを誇張してしまい、誠実さをゆがめてしまうから。
「あなたを支えたいと思った」
「………」
「ずっと、そばにいたいと思った」
女は伝えたい思いを、丁寧に言葉へ置換していく。
「私は、今も、あなたを愛している」
言葉は心地よい風に置換され、半ば溶け落ちた男の耳へと滑りこむ。
「…おかしいわね。あなたの信じた愛を否定していた私が、それを証明するだなんて」
女は口元をほころばせて男を見る。
「身体を重ねられなくても、愛は深めることができる。関係が対等でなくなっても、愛は続いていく。…あなたは、正しかったのよ」
「だから言っただろう。利害を超えて――肉体的な欲求も、立場による優劣も超えて―― 人は、人を愛することができるんだ」
男は勝ち誇って、女を見返していたにちがいない。
もし、これが自分たちではなく、べつの恋人たちの身に起きたことであったなら。
「――そうか。君は、僕の信じていた愛を証明してみせたんだね」
「そうよ」
「…そうか」
微笑む女を見て、男もまた包帯からのぞく唇をゆがめた。
深く長く息を吐き出し、目を閉じる。
「じゃあ、今度は僕が証明する番だ」
「え?」
「身体の触れあえない愛は、深められない。対等な関係でなければ、愛は続けられない」
「………」
男は穏やかな声で告げる。
「君が正しかったことを、僕が証明するよ」
※
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる