きっかけ

ツチフル

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きっかけ

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「あなたは、お酒をやめるべきよ」
 アルコール臭の充満する部屋で、女は疲れた声で言う。同じ台詞を、これまでにもう千回は繰り返している気がする。
 言うだけ無駄だとわかっていながら口にしてしまう、この心理はいったい何なのだろう。
 不可解に思いながらも、女はやめることができない。
「ねえ。あなたは、お酒をやめなきゃだわ」
「お前が粉吸いをやめたら、やめてやるさ」
 男は鼻で笑う。それから、手にしているオールドファッショングラスに質の悪いウイスキーを注ぐと、わざとらしく一息にあおってみせた。
 見上げた天井は、燻った粉の煙で白く濁っている。
 壁掛け時計は十一時五分前を指したまま動いていない。テーブルのデジタル時計も、日の光を反射しているだけで何も表示していない。日めくりカレンダーは、いつかの八月十三日を示したままだ。
 ―― いや。
 ひょっとしたら、今日が八月十三日なのかもしれないぞ。
 いやはや、今年はずいぶんと寒い夏じゃないか。
 男はクスクス笑う。
「何がおかしいの」
 不愉快げに睨む女に、男は笑ったままカレンダーを指さす。
「今日が八月十三日だからさ」
 女は男からカレンダーに視線を移し、もう一度男を見てため息をつく。
「かわいそうな人」
 男はそれで、また笑う。かわいそうなのは―― より惨めなのは―― どっちだ?
 愚者の天秤に俺とお前を乗せたら、どっちに傾くと思う?
 ……案外、うまく釣り合うか。
 女はストローを鼻にさし、身をかがめて燻った粉を吸い込んでいく。右の鼻、つぎに左の鼻。順番に。
「今度はどこへおでかけトリップするんだい。ハニー」
「どこへだって行けるわ。ダーリン。粉を燻れば、どこへだってね。天国でも地獄でも。望むところへ」
 女は喘鳴ぜいめいまじりの深呼吸を幾度か繰り返したのち、身体を痙攣させ、あえぎ声をもらし始める。
 男はその姿を眺めながら、今すぐにでもここから出て行くべきだと考える。
 車のキーは玄関にぶらさがっている。ガソリンもまだ六割ぐらい入っていたはずだ。
 持ち物は少なくていい。数日分の着替えと、ありったけの金を財布にぶち込む。女が新聞紙に包んで冷凍庫に隠している金もだ。
 それで、北へ行こう。いや、南だ。暖かい、南がいい。
 安モーテルに止まりながら、南を目指そう。車中泊も、数日なら我慢できる。
 着いたら、まずは部屋探しだ。バス・トイレつきで、冷暖房完備のアパートを探す。ユニットバスは絶対にNG。便所と風呂は別れていないといけない。
 次に、生活に必要な物を揃える。
 ベッド、テーブル、イス。冷蔵庫、洗濯機。ノートパソコン。食料も、ある程度買い込んでおく。
 近くにコンビニエンス・ストアと、食品スーパーがあるといい。
 生活に慣れてきたら、働き口を探す。選り好みをしなければ、何かしらの仕事はあるはずだ。
 一生懸命働いて、お金を稼いで、一日一日を丁寧に、つつましく、正しく過ごす。
 そう。正しく。前科者を疑うことしかできない奴らが舌打ちするくらい、正しく。
 ああ。なんて素敵な日々だろう。
 これは、決して夢物語なんかじゃない。
 ここから出て行けば、そんな日々が手を広げて待っている。
 必要なのは、きっかけだ。
 そう。
 ここから出て行く、きっかけだ。
 立ち上がって、玄関にぶら下がっている車のキーを手に取るきっかけだ。
 着替えをボストンバッグにつめ込んで、冷凍庫から金を取るきっかけだ。
 きっかけ。
 きっかけが欲しい。
 また、女を見る。
 仰向けに倒れて、煙で濁った天井を見つめている。瞬きひとつせずに。身体の痙攣はおさまっていて、ピクリとも動かない。
 ……死んだかな?
 そう思った矢先に、深い息がもれる。
 同じ程度に深いため息を、男はもらす。
 死んでくれないかな。
 それは、ここから出て行くための、確かなきっかけになる。
 きっかけがほしい。
 すべては、きっかけだ。
 グラスを口へ運ぶ途中で、中身がないことに気づく。
 2リットルのペットボトルから質の悪いウイスキーをつぎ足そうとして、男はふと考える。
 このままグラスをテーブルに戻して手をはなせば、酒をやめるきっかけになるかもしれない。
 ペットボトルに残っているウイスキーも ――まだ三分の一はある―― シンクにぶちまけてしまおう。冷蔵庫を埋め尽くす缶ビールもだ。一本残らず。
 それから、熱いシャワーで身体をシャッキリとさせて、玄関にぶらさがっている車のキーを手にとって、この部屋を出て行く。
 これは、きっかけじゃないか?
 ああ、そうだ。これは、きっかけだ。
 グラスから手をはなした先の未来は、こんなにも明るく、開けている。
 きっかけだ。
 すべては、きっかけだ。 
 酒にのめり込むことになったのも、むりやり飲まされた一杯がきっかけだった。
 女が粉を燻るようになったのも、気乗りしないクラブに出かけたことがきっかけだった。
 そう。女と知り合ったことも、同居するようになったことにも、きっかけがあった。
 女は、地鳴りのようないびきをたてて眠っている。
「なあ。俺はここを出て行くぞ」
 男の声はしゃがれていて、たとえば女が起きていたとしても、彼女の鼓膜を振るわせることはなかっただろう。
「グラスをテーブルに置くだろ。それから、酒をシンクにぶちまけるだろ。それで。それで、この部屋を出て行くんだ」
 つぶやきながら、グラスをテーブルに置く。
「ほら、置いたぞ。さあ、次は酒をシンクにぶちまけてこよう」
 言いつつも、男の手はグラスをはなそうとしない。立ち上がろうともしない。
 女のいびきが、ふいにやむ。
 彼女は糸でたぐられるかのように身体を起こすと、口元からたれる涎をそのままに男を見る。
「……やってみせてよ」
 その目には ――たとえ一時的にしろ―― 理性があった。
「ねえ。やってみせてよ」
「やってみせるさ」
 男はすぐに答える。
 女は、ミシン目で五列につなぎ合わされた薬包紙をつまみあげる。
「あなたがやってみせたら、私もやるわ。こいつを全部やぶいて、トイレに流してやる」
「……きっかけ」
 男は握ったままのグラスをテーブルに強く打ちつけた。
「そいつは、きっかけだ!」
 女の肩がビクリと上がる。男はかまわず続ける。
「つまり、きっかけってわけだな。俺が酒をシンクにぶちまけるのが、お前が便所に粉をぶちまけるきっかけになるってわけだ」
 アルコールとは異なる火照りで、頬が紅潮する。
「それだけじゃない!  そいつがまさに、俺のきっかけにもなり得るんだ。わかるだろ?」
「ちっとも」
「バカが! そんなこともわからないなんてな! いいか、俺がこいつを、酒を、シンクにぶちまければ、お前もそいつを便所にぶちまける。だろう? だったら、きっかけじゃないか! お前は、俺をきっかけにして粉を捨てる。俺は、お前が俺をきっかけにしていることをきっかけにして、酒を捨てる。な? わかるだろ」
「素敵!」
 女は手を叩いて、ひび割れた声をあげた。
「私たち、やり直せるのね!」
 開いた口からのぞく歯は黄色く濁り、溶けて、いびつな形をしている。
「そうとも。俺たちはやり直せる!」
 男は女から目をそらし、中身のないグラスをうっとりと見つめ、そこに映し出される未来を読み上げていく。
「まず、俺たちは仕事を探す。後ろめたさのない、ちゃんとした仕事だ。俺は大型トラックの免許を持っているから、運送の仕事なんかをする。実入りも悪くないはずだ」
「私はお花屋さんで働くわ。花の知識には自信あるし ――合法非合法問わずにね―― フラワー・アレンジメントの資格だって持っているの」
「給料が入ったら引っ越しをしよう。この、アルコールと燻った粉の煙でいっぱいの部屋から出ていこう」
「待って。滞納している家賃はどうするの?」
「そんなもん、踏み倒しちまえ!」
「駄目よ。私たちは、ちゃんとするんでしょう?」
 女は誠実そのものの顔で言う。粉を燻るようになる前は、その顔でだらしない男を諭したものだった。
 男は懐かしみながらも、苛だった気持ちを抑えきれずに空のグラスでテーブルを叩く。
「そんなことを言っていたら、いつまで経ってもここから出られねえ。どんだけ滞納してると思ってんだ」
「もちろん、出て行くのが先よ」
「ああ?」
「ここを出て行って、住む場所が決まって、仕事が安定したら、滞納していた家賃を返すの。わかる?」
「……ああ。ああ」
 男は綻びそうな唇を引き締めて、生真面目に頷く。
「ああ、わかるとも。じゃあ、黙って出て行くわびに、滞納した家賃の倍は払わないとな」
「当然よ。少しずつ、コツコツと返していくの。滞納した家賃の倍、三倍だっていいくらい!」
「もっと語ろう。未来を語ることが、俺たちが生まれ変わるきっかけになる」
「仕事が休みの日は、ドライブをしましょう」
「山へ!」
「海へも!」
「海はやめろ」
「どうして?」
「お前、そいつを人前にさらすつもりか」
 男は空のグラスで女の身体を指す。肉がそげ落ち、骨に直接皮膚が張りついているかのような身体を。
 女は自分の身体を見つめ、ずり落ちたキャミソールの肩紐をすくい上げる。
「そうね。まずは体型を戻さないと。フィットネス・ジムへ通おうかしら」
「良質な運動に、良質な食事だ。たっぷりの栄養。たっぷりの肉に、たっぷりの野菜だ」
「何だか、お腹が空いてきたわ」
「いいぞ。腹が減るのはまともな証拠だ」
「戻ってきているのね。私たち」
「そうとも。俺たちは戻ってきている」
 女は立ち上がろうとするが、うまくいかない。
 男は膝を震わせる女を眺めて 「まるで生まれたてのガゼルだな」と笑うが、男自身も足の痺れで立つことができないでいる。いつから痺れているのかさえも、わからない。
 何度か挑戦したのち、女は立つことをあきらめ、這うようにして男のもとへ向かう。
 男は左手で右足をマッサージしている。
 右手はグラスからはなれない。そのグラスがテーブルとセッションをして、エイト・ビートのスタッカートを奏でている。
 女は男の腰に手を回し、たるんだ腹に顔をうずめる。
「ねえ。何もかも元に戻ったら、子供を作りましょう」
「子供か」
「私たちの子よ。とびきり愛してあげるの」
「…いいな。ああ、そいつはいい」
「男の子がいい? 女の子がいい?」
 男はしばらく考えて、ポツリと言う。
「娘だな。男親は娘を溺愛するっていうだろう。俺もそうなる気がするよ。いや、もちろん男だっていい。公園で息子とキャッチボールってのも、悪くない」
「あなたは素敵なパパになれるわ。ねえ、知ってた? お酒さえ飲まなければ、あなたはとても優しい人だってこと」
 女はうずめていた男の腹から顔を上げ、その身体を手がかりに上半身を起こす。
「ここ、寒いわね」
「お前だって、いい母親になる」
 男は空のグラスに映る未来に微笑みかける。
「公平で、誠実で、愛情深い母親にな」
「なれるかしら」
「なれるさ。粉を燻る前のお前は、まさにそんな感じだったじゃないか。公平で、誠実で、愛情深い ――ああ、ちくしょう。酒が飲みてえな」
「ねえ。すごく寒いわ。それに気分が悪いの」
「粉が切れてきたんだ。お前は元に戻ってきているんだよ」
「私、粉を止めたの?」
「お前はやめたんだ。やってのけたんだよ。ついさっきな」
「寒い」
 女は男にしがみつく。汗と、アンモニアと、燻った粉の残り香。
「ああ、くそ。手が震えやがる。アルコールが切れてきたんだ」
男の手に握られたグラスが、小刻みにテーブルを叩く。もう片方の手でグラスを抑えても、震えは収まるどころか酷くなる。
「ちくしょう。こんなもの、酒を飲めば一発で治るんだけどな!」
「私だって、燻った粉を吸えばたちまち気分が良くなるわ!」
「まあ、やめたんだけどな」
「そう。やめたんだけどね」
 男はとうとうグラスから手を離し、女を抱きしめた。
 女は、男の肌に爪が食い込むほど強くしがみつく。
 それで、渇望が収まるわけではない。
 二人には今、ぎりぎりでつなぎ止めている理性を、より強固にする何かが ――きっかけが―― 必要だった。
 天啓は、しばしば極限状態でもたらされる。
 ほどなくして、女は一つの可能性を見いだす。男は手を打って、女の提案を賞賛する。
「そいつは、最高だ!」
「でも、本当にうまくいくかしら?」
「いくさ!」
 不安げな女に、男は力強く頷く。
「これは、きっかけだ!」
「きっかけ?」
「きっかけさ!」
「…そうね」
 二人は見つめ合い、二年ぶりに唇を合わせた。お互いの存在にすがるように。
「これは、きっかけね」


 ほどなくして、男は酒の呪縛から解放され、女は燻った粉の誘惑を断ち切ることに成功した。
 二人はきっかけによって、確かに変わることができたのだ。


 部屋は、今日もアルコールの臭いと、燻った粉の煙で満たされている。 (了) 
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