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レイズの未来を変える。
メルェイェイラの最期
しおりを挟む彼女は――先の〈人と魔族の戦〉で、父と母を失った。
それからというもの、魔族領の崖上にひとりで座り、灰色に沈む地平線を、毎日のように眺め続けていた。
「あそこ……パパも、ママも、いるんだね……」
瓦礫と煤に埋もれたあの場所に、ふたりが“眠っている”。
幼い胸に、それを刻みつけるように、何度も何度も言葉にして確かめた。
ある日。
いつものように崖から森へと降り、当てもなく歩いていたメルェは、森の外れで人間の男に腕をつかまれた。
だが――男は刃を抜かなかった。
かわりに、細い笑みを浮かべ、優しく諭すような声音で口を開く。
「君の母と父がいる場所へ、案内してあげよう」
意味はわからない。
けれど、喉の奥で固まっていた氷の塊が、少しだけ溶けた気がした。
そしてメルェは――ついて行ってしまった。
男は、魔族領の境界を超え、人間の町の外れまでメルェを連れていくと、人気の少ない建物の影に彼女を立たせ、低く囁いた。
「ここで待っていなさい。きっと父と母に会える」
そう言い残し、軽い足取りで去っていく。
残されたのは、見知らぬ匂いと、遠くから聞こえる人々のざわめきだけ。
メルェは、その場から動けなくなった。
帰れない。もし歩き出して人に見つかったら、“魔族”だと知られて殺される――。
恐怖と、親に会いたいという渇望が、足首に鎖のように絡みつき、彼女をその陰に縛りつけた。
日が落ち、また昇る。
幾度か夜が過ぎても、食事は喉を通らなかった。
指は冷え、目は乾き、声はかすれ、世界から音が消えていく。
「……パパ……ママ……もう、すぐ……会えるんだよね……」
死ぬことが、“帰る”ことだと。
本気で、そう思い始めた、そのとき――。
「どうしたの……?」
影から現れたのは、一人の少女だった。
リアノ。
彼女は躊躇いもなく、抱えていた紙袋を破り、中から硬いが香ばしい匂いのするパンを取り出すと、差し出してきた。
メルェは目を見張った。
人間が、自分に食べ物を与えてくる――そんなこと、考えたこともなかった。
けれど、リアノの瞳は澄んでいた。
恐怖も、嫌悪も、憎しみもない。ただ心配そうに揺れているだけ。
やがて、魔族だと知られてしまう。
折れかけた角、肌の色、耳の形――どこかで“違い”に気づいたのだろう。
それでもリアノは、そっと彼女の手を取った。
「こっちへ。森の奥なら、ひとまず見つからないから」
フードを深くかぶせ、そのまま走り出す。
荒い息。絡み合う手の温度。
引かれるままに、メルェは初めて“救われる”という感覚を知った。
森の奥の、小さな藪地。
リアノは、屋敷からこっそり持ち出せるものを少しずつ運んできてくれた。
乾いたパンや干し肉、薄い毛布、ぼろぼろだが座布団代わりになる古布。
ときには水魔法で彼女の身体を洗い、髪を梳き、震える心を慰めてくれた。
幾度か日が落ちた頃、もうひとりの人間の少年が現れる。
金の髪。真っ直ぐな瞳。
少年は、躊躇いもなくメルェの手を握りしめた。
「僕が守るから!」
その声は、胸の奥の闇を打ち破る光のようだった。
――レイズ。
彼が笑うだけで、世界は少しだけ明るく見えた。
アルバードの屋敷は、メルェの想像よりも、ずっと静かで、ずっと広かった。
使用人たちは皆優しく、メイド長リリアナは、震えるメルェと、耳まで赤くしてそっぽを向くレイズを、まとめて抱きしめた。
「もう大丈夫ですよ。ここは安全です」
リリアナは、汚れを清潔な布で丁寧に拭い、ぬるめのお湯にゆっくりと浸からせ、柔らかな下着と、彼女のために選んだ落ち着いた色のワンピースを着せてくれた。
胸元には小さな刺繍――アルバードの紋。
袖口はほつれひとつなく、縫い目はまっすぐで、布は軽く、肌触りは夢のようだった。
「似合いますよ、メルェ」
そう微笑んだとき、メルェは初めて、胸を張って呼吸ができる気がした。
それからは、レイズと、リアノと、三人で笑い合う日々が続く……はずだった。
ある日。
敷地の外の小道に、ほんの一歩だけ足を踏み出してしまったメルェの前に――
あの男が、再び現れた。
「……あなた……」
「久しぶりだね」
男は笑っていた。
声は相変わらず柔らかい。けれど、その瞳は冷えていた。
気づいたときには、腕を掴まれ、荷馬車の幌の中へ押し込まれていた。
「これに着替えろ」
差し出されたのは、ボロ布のような粗末な服。
染みついた汗と埃の臭い。どこか“汚れた役目”を押し付けられるような、重たい感触。
「いや……これは、リリアナさんに貰った服で……」
胸元の刺繍をかばうように、メルェは服の裾を握りしめる。
だが男は、優しげな声色のまま圧をかけた。
「着替えろ」
逃げ場はなかった。
メルェは震える指で、アルバードのワンピースのボタンを外していく。
胸元の刺繍にそっと触れ――ぎゅっと目をつぶり、脱いだ。
冷たい空気が肌を撫で、男の視線が皮膚の上を這うように感じられる。
吐き気が込み上げた。
粗末なぼろ服はざらついていて、袖口は裂け、身体には合わない。
着終えた瞬間、男は彼女の頭上にふっと影を落とし――剣の柄で、小さな角を叩き折った。
バキッ――。
「きゃあああああっ!!」
視界が白く弾け、こめかみから熱と痛みが噴き出す。
血と涙が頬を伝い、口の中に鉄の味が広がった。
「どうして……あなたは……!」
震える声で問いかけるメルェに、男はあくまで穏やかな口調のまま囁いた。
「ここにいれば、そのうちアルバードの連中が必ず助けに来る。
でも、ここを出れば――君は死ぬ」
それだけ言い残し、男は笑って扉を閉めた。
ギィィ、と軋む音が、彼女の耳にいつまでも残る。
残されたのは、どこかの村の倉庫。
埃と干草の匂い。
薄暗い床には、誰かが脱ぎ捨てた布切れ。
さっきまで着ていたワンピースは、幌の隅に丸められ、暗がりの中へ消えていった。
メルェは泣きながら、また信じてしまった。
――レイズくんが、助けてくれる。
必ず。絶対に。
けれど――。
開いた扉の向こうに現れたのは、アルバードの者ではなく、村の男たちだった。
「てめえか、盗みを働いてたのは!」
「おい、その格好……なんだ、このガキ」
目が合った瞬間、男たちの顔から血の気が引く。
フードの隙間から覗く肌の色、折れた角の根元。
「て、てめぇ……魔族じゃねぇか!!」
怒鳴り声が外へ飛ぶ。
足音が増え、狭い倉庫の中が一気に騒がしくなる。
「魔族のガキが盗みしてやがったぞ!!」
「俺達の仲間がどれだけ殺されたと思ってる!!」
メルェは、必死に首を振った。
「ち、違うの……私は、ここに、連れてこられて――」
その声は、踏みにじられる。
石が、棒が、彼女の細い肩と背に降り注ぐ。
肋がきしみ、息が詰まり、視界が赤く染まる。
誰かの手が髪を掴み、地面に叩きつけられ、膝が腹にめり込む。
冷たい鉄が――。
体内に入ってくる。
「――レ……イズ……リア……ノ……」
最後に呼んだ名が、血泡に溶けて消えた。
静寂。
その夜。
アルバードの屋敷で、ヴィルは魔力の歪みを感じ取る。
風向きが変わり、空気がざわめく。
嫌な予感が、畳を蹴って立ち上がらせた。
彼は迷うことなく夜を裂いて走る。
ルーヴェ村。
月明かりの下、倉庫の床板を赤黒く染める、小さな亡骸。
折れた角。合わないぼろ服。
――アルバードの刺繍は、どこにもない。
ヴィルは膝をつき、言葉を失った。
腕の中の身体は冷たいのに、指先だけが焼けるように熱かった。
「……なぜだ」
押し殺した声が、地鳴りのように低く広がり、やがて爆ぜる。
「なぜだあああああ!!」
魔力が咆哮となって迸った。
村人たちは立っていられず、その場に崩れ落ちる。
地に額をこすりつけ、誰も顔を上げられない。
アルバード当主――ヴィル・アルバード。
最強と呼ばれた男の怒り。
誰ひとり、口を開けなかった。
ヴィルは気づく。
衣の不自然さ、角の断面、血の乾き方。
――これは“偶然”ではない。
王国から来ていた数名の騎士。
レイバードから滞在していたガルシア。
だが、どれほど疑念を積み上げても、“証拠”はない。
彼は血の匂いの中で、メルェをそっと抱き上げた。
アルバードへ戻ると、駆け寄る影がある。
レイズだ。
肩で息をしながら、焦燥に満ちた目で叫ぶ。
「おじいさま! やっぱり、ルーヴェに――え……」
その視線の先で、リアノが悲鳴のような声をあげた。
「メルェえええええ!!」
レイズは膝をつき、震える唇で問いかける。
「……誰が、やったの……? ルーヴェの人たち……?
なんで……なんで助けてくれなかったんだよ……!」
ヴィルは首を振ることしかできない。
声が出ない。
「メルェが魔族だからか!? なんでだよ!! なんでだよ……許さない、絶対に許さない!!!」
ヴィルの目にも、静かに涙が滲む。
「私は……間に合わなかった。
それに――彼女が魔族であることは、関係ない。
……レイズ。お前は“守る”と言った。
その重さを、お前はまだ知らない」
「うるさい!!」
レイズの怒りは燃え上がり、やがて冷えて沈殿した。
瞳の奥だけが、凍えるように冷たく、深く、暗くなる。
その夜。
彼は部屋に閉じ込められた。
セバスが取り押さえ、薬で眠らせた。
……はずだった。
夜がまだ半ばだというのに、レイズは意識を取り戻す。
感情を殺し、足音を消し、見張りの巡回の隙を読み、扉を抜けた。
「もう大丈夫。落ち着いた。……メルェの、お墓に行く」
そう言って案内を受け――墓前で、静かな誓いに変わる。
今夜だ。
日が落ちる。
レイズは剣を手に取り、屋敷を出た。
全力で走る。闇の中を、ただ前へ前へ。
ルーヴェ村へ。
――そして翌明け方。
屋敷に、悲鳴のような報せが走る。
「レイズ様がいません!!」
ヴィルはすべてを悟った。
「まさか……レイズ!!」
彼もまた夜気を裂き、村へと駆ける。
そこで目にしたのは――。
腕を切り落とされた男たち。血に濡れた石畳。
泣き叫ぶ声。
そして、血の月の下で空を見上げ、かすかに笑う少年。
「メルェ……まだだ。まだ、俺はやるから。だから……待ってろ」
その笑みは、泣いていた。
殺意と絶望が、同じ器からこぼれている。
「レイズ!!」
ヴィルの怒号が飛ぶ。拳が頬を打つ。
それでもレイズは立ち上がる。
村人たちに向き直り、もう一歩、踏み出そうとした。
――骨の折れる音。
ヴィルは、孫の足を、腕を、折った。
抱きとめるように。
しかし確実に、その動きを止めるために。
「……すまない」
血溜まりに映る月が、波紋のように揺れた。
アルバードに連れ帰られる途中、レイズはずっと空を見ていた。
村人たちは憎しみを吐き続ける。
「なんでだ……魔族を殺しただけで、なんで俺たちが……!」
「俺たちが、何をしたってんだ……!」
彼らは知らない。
メルェは“魔族”である前に――レイズにとっては、ただの“大切な少女”だったという事実を。
こうして少年レイズは、世界の理不尽に牙を立て、
怒りと悲しみを胸の底に沈めながら、
“悪役”としての道を、ゆっくりと、しかし確実に踏み出していくのだった。
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