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第1章 穏やかな日々の影
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甲羅谷に、再び静けさが戻っていた。
幾度もの戦いと傷を経てなお、谷を流れる清らかな川は変わらず澄み、木々は季節ごとに葉を茂らせては揺れ、光と影を織りなす。かつては戦の気配に押し潰されそうになったこの地にも、ようやく平穏と呼べる日常が息づいていた。
ポンとミクの兄弟は、朝日が谷を染めるころにはすでに甲羅磨きの作業場に立ち、手慣れた手つきで道具を操っていた。甲羅に宿る力を整え、仲間たちの生活を支えるその仕事は、父ゲンザブロウから受け継いだものだ。戦いの中で多くを失った二人にとって、この作業はただの生業ではなく、失われた家族との絆を保ち続ける大切な営みでもあった。
その作業場に、明るい声が響く。
「兄さん、ミク! お水、持ってきたよ!」
軽やかな足取りで駆けてくるのは妹のクララだ。まだ幼さを残す顔立ちには笑みが咲き、手には木の桶を抱えている。兄たちを手伝いたい一心で、毎日のようにこうして水を運んでくれるのだ。
ミクが手を止め、甲羅に光を映しながら顔を上げる。
「ありがとう、クララ。冷たそうだな。」
「うん、川の水、気持ちよかったよ!」
クララは桶を置くと、無邪気に笑った。だがその笑みの奥に、ほんの少しの寂しさが影のように潜んでいることを、兄たちは知っていた。彼女もまた、家族を失った痛みを抱えている。それでも兄たちを支えたいと、小さな身体で懸命に日々を過ごしているのだ。
ポンはクララの頭を撫でながら、優しく言葉をかけた。
「助かるよ。クララがいてくれると、谷も明るくなるな。」
「ほんと? じゃあ、もっとお手伝いする!」
そう言って笑うクララの姿に、ポンは胸の奥でそっと願った。――どうか、この子だけは再び戦火に巻き込みたくない。
昼下がり、兄弟とクララは谷を歩き、村の仲間たちと挨拶を交わした。誰もが笑顔を見せ、かつての戦いの記憶が少しずつ癒えてきていることが伝わってくる。しかし、その穏やかさの裏に、微かな違和感があった。
川辺に耳を澄ませば、いつもなら鳴き交わす鳥たちの声が途絶えている。木々のざわめきも、どこか落ち着きを欠いている。風が吹き抜けるたび、木の葉の影が波のように揺れ、地面に黒い模様を描いた。
その影を見つめながら、ミクが小さく眉を寄せる。
「兄ちゃん……なんだか、谷が少し変じゃない?」
「嫌な感じだな……。」
ポンは静かに答えた。だが、自身もまた同じ違和感を覚えていた。戦いの経験が、心に敏感な勘を刻みつけているのだ。
その夜、谷を見下ろす丘に立つと、月明かりが一面を銀に染めていた。クララは早くに眠りにつき、兄弟だけが夜風の中に佇む。ふと、山の尾根を黒い影が走るのが見えた。狐のような尾が揺らめき、すぐに闇に溶けて消える。
「……見たか?」
「うん。」
短く答え合う兄弟の心に、言い知れぬ不安が広がる。
翌日、村の古老が二人を呼び寄せ、低い声で語った。
「谷に黒き気配を感じる……思い出すのは、かつてお前たちの父ゲンザブロウが討った“黒尾(こくび)”の一族よ。」
その名を聞いた瞬間、空気が冷たくなった気がした。
黒尾――九つの尾を持ち、闇を呼び込むと言われる異形の狐。かつて父ゲンザブロウが封じた存在。だが古老は静かに続けた。
「黒尾は討たれたのではない。封じられただけ……。闇は形を変え、再び現れることもある。」
その言葉が兄弟の胸に重く響いた。
静かな日常の裏に忍び寄る影。その正体を知ることは、まだ誰にもできない。ただ、穏やかな谷の空気を切り裂くように、見えない不安だけが確かに広がっていた。
幾度もの戦いと傷を経てなお、谷を流れる清らかな川は変わらず澄み、木々は季節ごとに葉を茂らせては揺れ、光と影を織りなす。かつては戦の気配に押し潰されそうになったこの地にも、ようやく平穏と呼べる日常が息づいていた。
ポンとミクの兄弟は、朝日が谷を染めるころにはすでに甲羅磨きの作業場に立ち、手慣れた手つきで道具を操っていた。甲羅に宿る力を整え、仲間たちの生活を支えるその仕事は、父ゲンザブロウから受け継いだものだ。戦いの中で多くを失った二人にとって、この作業はただの生業ではなく、失われた家族との絆を保ち続ける大切な営みでもあった。
その作業場に、明るい声が響く。
「兄さん、ミク! お水、持ってきたよ!」
軽やかな足取りで駆けてくるのは妹のクララだ。まだ幼さを残す顔立ちには笑みが咲き、手には木の桶を抱えている。兄たちを手伝いたい一心で、毎日のようにこうして水を運んでくれるのだ。
ミクが手を止め、甲羅に光を映しながら顔を上げる。
「ありがとう、クララ。冷たそうだな。」
「うん、川の水、気持ちよかったよ!」
クララは桶を置くと、無邪気に笑った。だがその笑みの奥に、ほんの少しの寂しさが影のように潜んでいることを、兄たちは知っていた。彼女もまた、家族を失った痛みを抱えている。それでも兄たちを支えたいと、小さな身体で懸命に日々を過ごしているのだ。
ポンはクララの頭を撫でながら、優しく言葉をかけた。
「助かるよ。クララがいてくれると、谷も明るくなるな。」
「ほんと? じゃあ、もっとお手伝いする!」
そう言って笑うクララの姿に、ポンは胸の奥でそっと願った。――どうか、この子だけは再び戦火に巻き込みたくない。
昼下がり、兄弟とクララは谷を歩き、村の仲間たちと挨拶を交わした。誰もが笑顔を見せ、かつての戦いの記憶が少しずつ癒えてきていることが伝わってくる。しかし、その穏やかさの裏に、微かな違和感があった。
川辺に耳を澄ませば、いつもなら鳴き交わす鳥たちの声が途絶えている。木々のざわめきも、どこか落ち着きを欠いている。風が吹き抜けるたび、木の葉の影が波のように揺れ、地面に黒い模様を描いた。
その影を見つめながら、ミクが小さく眉を寄せる。
「兄ちゃん……なんだか、谷が少し変じゃない?」
「嫌な感じだな……。」
ポンは静かに答えた。だが、自身もまた同じ違和感を覚えていた。戦いの経験が、心に敏感な勘を刻みつけているのだ。
その夜、谷を見下ろす丘に立つと、月明かりが一面を銀に染めていた。クララは早くに眠りにつき、兄弟だけが夜風の中に佇む。ふと、山の尾根を黒い影が走るのが見えた。狐のような尾が揺らめき、すぐに闇に溶けて消える。
「……見たか?」
「うん。」
短く答え合う兄弟の心に、言い知れぬ不安が広がる。
翌日、村の古老が二人を呼び寄せ、低い声で語った。
「谷に黒き気配を感じる……思い出すのは、かつてお前たちの父ゲンザブロウが討った“黒尾(こくび)”の一族よ。」
その名を聞いた瞬間、空気が冷たくなった気がした。
黒尾――九つの尾を持ち、闇を呼び込むと言われる異形の狐。かつて父ゲンザブロウが封じた存在。だが古老は静かに続けた。
「黒尾は討たれたのではない。封じられただけ……。闇は形を変え、再び現れることもある。」
その言葉が兄弟の胸に重く響いた。
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