双甲伝3-SOUKOUDEN3-

野口てんぐ

文字の大きさ
1 / 15

第1章 穏やかな日々の影

しおりを挟む
 甲羅谷に、再び静けさが戻っていた。
幾度もの戦いと傷を経てなお、谷を流れる清らかな川は変わらず澄み、木々は季節ごとに葉を茂らせては揺れ、光と影を織りなす。かつては戦の気配に押し潰されそうになったこの地にも、ようやく平穏と呼べる日常が息づいていた。

 ポンとミクの兄弟は、朝日が谷を染めるころにはすでに甲羅磨きの作業場に立ち、手慣れた手つきで道具を操っていた。甲羅に宿る力を整え、仲間たちの生活を支えるその仕事は、父ゲンザブロウから受け継いだものだ。戦いの中で多くを失った二人にとって、この作業はただの生業ではなく、失われた家族との絆を保ち続ける大切な営みでもあった。

 その作業場に、明るい声が響く。
「兄さん、ミク! お水、持ってきたよ!」
 軽やかな足取りで駆けてくるのは妹のクララだ。まだ幼さを残す顔立ちには笑みが咲き、手には木の桶を抱えている。兄たちを手伝いたい一心で、毎日のようにこうして水を運んでくれるのだ。

 ミクが手を止め、甲羅に光を映しながら顔を上げる。
「ありがとう、クララ。冷たそうだな。」
「うん、川の水、気持ちよかったよ!」
 クララは桶を置くと、無邪気に笑った。だがその笑みの奥に、ほんの少しの寂しさが影のように潜んでいることを、兄たちは知っていた。彼女もまた、家族を失った痛みを抱えている。それでも兄たちを支えたいと、小さな身体で懸命に日々を過ごしているのだ。

 ポンはクララの頭を撫でながら、優しく言葉をかけた。
「助かるよ。クララがいてくれると、谷も明るくなるな。」
「ほんと? じゃあ、もっとお手伝いする!」
 そう言って笑うクララの姿に、ポンは胸の奥でそっと願った。――どうか、この子だけは再び戦火に巻き込みたくない。

 昼下がり、兄弟とクララは谷を歩き、村の仲間たちと挨拶を交わした。誰もが笑顔を見せ、かつての戦いの記憶が少しずつ癒えてきていることが伝わってくる。しかし、その穏やかさの裏に、微かな違和感があった。

 川辺に耳を澄ませば、いつもなら鳴き交わす鳥たちの声が途絶えている。木々のざわめきも、どこか落ち着きを欠いている。風が吹き抜けるたび、木の葉の影が波のように揺れ、地面に黒い模様を描いた。

 その影を見つめながら、ミクが小さく眉を寄せる。
「兄ちゃん……なんだか、谷が少し変じゃない?」
「嫌な感じだな……。」
 ポンは静かに答えた。だが、自身もまた同じ違和感を覚えていた。戦いの経験が、心に敏感な勘を刻みつけているのだ。

 その夜、谷を見下ろす丘に立つと、月明かりが一面を銀に染めていた。クララは早くに眠りにつき、兄弟だけが夜風の中に佇む。ふと、山の尾根を黒い影が走るのが見えた。狐のような尾が揺らめき、すぐに闇に溶けて消える。

「……見たか?」
「うん。」
 短く答え合う兄弟の心に、言い知れぬ不安が広がる。

 翌日、村の古老が二人を呼び寄せ、低い声で語った。
「谷に黒き気配を感じる……思い出すのは、かつてお前たちの父ゲンザブロウが討った“黒尾(こくび)”の一族よ。」
 その名を聞いた瞬間、空気が冷たくなった気がした。

 黒尾――九つの尾を持ち、闇を呼び込むと言われる異形の狐。かつて父ゲンザブロウが封じた存在。だが古老は静かに続けた。
「黒尾は討たれたのではない。封じられただけ……。闇は形を変え、再び現れることもある。」

 その言葉が兄弟の胸に重く響いた。
 静かな日常の裏に忍び寄る影。その正体を知ることは、まだ誰にもできない。ただ、穏やかな谷の空気を切り裂くように、見えない不安だけが確かに広がっていた。
    
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...