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(一)
勝負如此ニ御座候
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八.
「貴方は叔父御より十歳年上であるなら、今は八十三歳……しかし、姿勢も運足も只者ではない、兵法者のそれだ。若き日に兵法の奥義に達していたとしても、五十年もほとんど何もしていなければ、錆びて当然、その技を保てるはずもなし」
「…………」
「手遊程度に続けていた……というわけでもないでしょう」
「…………」
「それに、殿に呼ばれてただ話をしただけに終わらないはず。すれ違った時に発していた体躯の熱――外他流の太刀筋、披露されていたと見ましたが」
一気に畳み掛けるように厳延にそう言われた清秀老は、眉根を寄せて額に深く皺を刻んだ。
そして。
「…………まったく、見た目によらんな」
と、右手で鼻の頭を掻きながら言った。
「見た目?」
「お主の、な」
厳延はその言葉に目を細めるが、清秀老もまたそうした。覚えがある目だった。最初にすれ違った時に、彼を検分するように見た、あの眼差しだ。
あるいはそれは、ようなではなく、真実、検分であったのか。
言った。
「一瞥をくれただけで、解ったぞ。新六め、可愛い甥とはいえどあれほどに執心しておった兵法の道にて義理許しの免状を与えたかと」
「――――――ッ!」
兵法の免許に三つあり、と云う。
世にこれを術許し、義理許し、金許しとする。
真実に技術を持つ者に免許を発行するのを術許し、術及ばずとも親族友人の関係から発行するものを義理許し、金を支払うことによって得ることができるのを金許し――清秀老は、厳延が連也斎より得たものを術によるものではなく、甥だからこそ得られたものだと言ったのだ。
「貴方は……何を言っているのか解っておいでか!?」
さすがに、親族とはいえど看過はできない言葉だった。それでも柄に手を当てたいという衝動を必死に押し潰し、声を荒げて問い糾す。
清秀老は。
どうしてか、目を地面に一度落として。
「は、悔しいか―――――」
「儂も、そう言われたさ」
「…………ッ」
「それもな、武蔵殿にだ」
――一刀斎殿が免状を与えるには、ちと足りぬな。
『座興』の後、改めて盛り上がりつつある宴席の裏で、清秀はそこに加わるのもはばかられて一人呆然と庭の端で座っていた。
そこに武蔵が現れたのはなにゆえであったか。
後で聞くところによると、厠に行くと席を外したのだそうだが、その時に偶々に目に入ったからだろうか。
それとも、追い打ちを掛けるためであったのか。
後者は考えすぎかもしれない。
武蔵は清秀に声をかけてから、無造作に側の庭石に腰掛けた。
『無作法だが、仕方ない。足が痛む』
そう言ってから、顔をしかめる。
『まったく、足の萎えた年寄りに無理をさせてくれたな』
『申し訳ございませぬ……』
どう言っていいものか容易には判断がつかず、それでもどうにか答える。
自然、その場に肩膝を落として頭を下げていた。
その後、どういう話の流れがあったものか、清秀は武蔵に自身の素性と経歴、ここに至るまでの経緯を語っていた。
如雲斎にしか語っていないようなことまで、どうしてか話してしまっていたが、思い返すにこの武蔵という人物は異常に話しやすい。
時折に相槌を打つ程度のことしかほとんどしていないのに、とにかく何もかもを白状してしまいたくなっていた。
圧力をかけられているというのではなく、何かの流れ……拍子のようなものを支配されているようだった。
そして、ぽつりと言ったのだ。
ちと足りぬと。
『拙者に与えられた免状が、義理許しであったと!?』
『まあ有り体に言えばな』
さすがに、師との思い出と、僅かに残されていた矜持すらも否定されてしまったのには、残された感情の一欠片が反応していた。
だが、そのまま言葉を継ぐことはできなかった。
自分はこの人に完膚なきまでの敗北を喫しているという――その現実を前にしては、どれほどの言葉を積み重ねようとも意味はない。
『何も、お主が弱いわけではない』
『…………』
『甲乙丙丁で言えば、乙くらいつけてやろう』
『……何が足りなかったのです?』
『ん……?』
『何が足りず、甲に至らないのかと』
静かに問われた武蔵は、しばらく夜空を見上げていた。
やがて。
『意地、か』
『意地!?』
『さて、他にどう言っていいものか。
いやしくも流儀の道統を得るということならば、甲乙丙丁の甲であらねばだが――
前に出られなかったら丁もくれてやれなかったが、前に出られた。
自ら負けを認めていては丙にとどまっていたが、参ったはしなかった。
だから、乙だ』
『それは、どういう――』
武蔵はそこで『さて』とだけ言った。それだけで、清秀はそれ以上の言葉を出すことができなかった。
やがて言い表しようのない沈黙の刻が過ぎ去り――
『顔を上げよ』
と武蔵は言った。
次の刹那、武蔵が右手に携えてた杖の先端が、清秀の額に触れていた。
『―――――ッ』
痛みも感じない。ただ、載せられたという程度の感触しかなかった。絶妙な間合いであった。
そして武蔵は立っている。
いつの間にか、腰掛けていた庭石から立っている。
『面を打て』
『ただ殺すだけならば、兵法は要らぬ。ただ当てるだけならば、兵法とは言わぬ』
『…………それは、』
『流派の免状を得るということは、流派の意地を体現し、その真面目を世に示す身となるということよ』
『そのようなことは、』
知っている――と答えようとして、清秀の唇は動かなかった。
彼は、その時にようやく悟ったのだ。
武蔵は口元を微かに綻ばせた。
『他流は知らぬ。ただ我にあっては、勝ちは眉宇の間を打ってこその勝ちと言う』
『…………』
『一意専心、巌の身となりて、そこに至るための工夫を以て流儀とする。太刀を振り回して当ててよいだけなら、それは兵法に非ず。打つと当たるは違うのだ。それで殺せたとして、太刀の徳があるとは言えぬ』
『…………』
『さて、一刀斎殿は何と言ったものか。最後の弟子だけに甘やかしたか、あるいはその紙一重、言わずともいずれ伝わっていると思ったか――』
武蔵はそこで背中を向けた。
『武蔵殿……』
『兵法は死の道に非ず、勝ちを得る道である。勝てずとも、手にあるもの、腰にあるもの、使い切らねば悔いが残ろう』
『――――』
『悔いのあるまま死んでは、つまらんぞ』
「――――さて、連也斎の後を継いだというのなら、その真面目を見せよ」
そこまで話してから、清秀老は突然にするりと刀を抜いていた。
そして流れるように間合いを空け、正眼に構えていた。
「…………ッ!」
厳延も自然、それに応じて刀を抜いている。戸惑いながらも一刀流の陰の構えに似た右脇に刀を掲げた、やや刀身を寝かせるように構えていた。新陰流に云う發草だ。
さすがに柳生一門の当主である身であった。
その動きに淀みはない。
だが。
「…………何をなされるか!?」
とは聞いた。
剣士であるのならば、いついかなる時に戦いを挑まれてもいいように備えよ――とは、常に心がけていた。
しかしそれにしても、今のこの状態はあまりにも唐突にすぎる。
この清秀老とはつい先刻に会ったばかりで、ついさっきまで身の上話を聞いていたのだ。
「何をなどと、言うな。いやしくも兵法者であるのならば、侮辱されて捨て置くなどできるはずもないだろう」
「…………ですが」
「教えてやるというのだ。兵法とはいかなることであるというか――」
そのまま、二人は沈黙した。
正月の寒い空気の中で、二人の剣士は白い息を吐き続けて対峙して。
清秀老の刀の切っ先が、上段に持ち上がっていた。
とみるや、二人の間合いは無となっていた。
「…………ッ」
厳延は目を見開いていた。
自分の額の上、一寸のところにて刃が停止している。
(応じきれなかった……!)
いかなる絶妙の足捌きか、間合いの練り、拍子の工夫があったものなのか、清秀老は微かな呼吸の緩みをつくかのように厳延を真正面から打っていた。
もしも刃がとまらず打ち込まれていたのなら、その一撃で彼は絶命していたに違いない。
(これが八十を過ぎた老人の技か……!)
果たして彼の叔父である連也斎であっても、八十まで生きてたとしてこれほどの技ができたものか。
清秀老は口元を歪め、数歩と下がりながら鞘に収める。
「勝負如此ニ御座候」
「それは……」
その言葉は、かつてこの老人が言われた言葉ではなかったか。
さらに続ける。
「甲乙丙丁でいうのなら、丁だ。話にならんな」
「何、何を……!」
怒りとも狼狽ともつかぬ声を荒げた厳延を、清秀老は静かに眺めやり。
「儂は、切り落とすべきであったのだ」
そう言った。
(切り落とし……の、ことか……?)
厳延とても知っている。
対手の剣技がいかなる千変万化しようと、その起こりを抑えて切り落とす、一刀流の根本原理。
「我が流の本義、一刀即万刀の哲理を知りながら、できなんだ。相手が二刀であろうと、武蔵であろうとも、儂は、外他一刀斎の弟子であり、免状をもらう者であるのならば、それをするべきであった。通じる通じないではなくて、そうしなくてはいけなかった」
意地を見せなくてはならなかったのだ――と、言った。
「本来、誰が相手だろうとそれができるという確信ができてこそ、免許であったろうにな」
「…………そんなことは、」
「聞いておらぬか? ふん。一刀斎様も、新六……連也斎殿も、情に負けたか、それが伝えきれなんだ。だから――」
そこで不自然に言葉を切って、頭を振った。
「いや、いい。それはもういいのだ……儂は、意地が足りなんだ。真面目を、立てられなんだ……」
それができずに、死んだ。兵法の負けとは、そういうことだ。
そしてそれができなかったが故に、悔いは残り続けた。
清秀老は、そこで背中を向けた。
「儂は武蔵殿に負けて、兵法者として死んだ。死んだが、死にきれなんだ。その悔いを晴らさねば、到底往生などできぬ」
「…………つまり、」
悔いを晴らすために、五十年をかけた。
「――――去年にな。ようやく、できたぞ。武蔵殿に、ようやく……」
宮本武蔵は、もう四十年も前に死んでいる。
ならばこの老人のいう武蔵とはなんのことなのか。
あるいは己の記憶の中にある大剣豪の姿に対してか。
そしてゆるゆると歩き出す。
「待たれよ!」
思わず声をかけた厳延であったが、清秀老は止まらない。
ただ、言った。
「やれたはずのことを遺して、やらないままに死ぬのはつまらんと、悔いが残るとは、武蔵殿に言われた。だがな、儂は思うのだ。悔いを晴らすために生きるのも、また剣の道ではないか――」
それは。
どういう意味か。
「意地のたりなさが悔いを残すのならば、悔いを晴らす意地を見せよ――ということだ」
それができた時こそ、汝は真に新六の後継者になるだろう。
そう告げて、嶋清秀は立ち去ったのだった。
「貴方は叔父御より十歳年上であるなら、今は八十三歳……しかし、姿勢も運足も只者ではない、兵法者のそれだ。若き日に兵法の奥義に達していたとしても、五十年もほとんど何もしていなければ、錆びて当然、その技を保てるはずもなし」
「…………」
「手遊程度に続けていた……というわけでもないでしょう」
「…………」
「それに、殿に呼ばれてただ話をしただけに終わらないはず。すれ違った時に発していた体躯の熱――外他流の太刀筋、披露されていたと見ましたが」
一気に畳み掛けるように厳延にそう言われた清秀老は、眉根を寄せて額に深く皺を刻んだ。
そして。
「…………まったく、見た目によらんな」
と、右手で鼻の頭を掻きながら言った。
「見た目?」
「お主の、な」
厳延はその言葉に目を細めるが、清秀老もまたそうした。覚えがある目だった。最初にすれ違った時に、彼を検分するように見た、あの眼差しだ。
あるいはそれは、ようなではなく、真実、検分であったのか。
言った。
「一瞥をくれただけで、解ったぞ。新六め、可愛い甥とはいえどあれほどに執心しておった兵法の道にて義理許しの免状を与えたかと」
「――――――ッ!」
兵法の免許に三つあり、と云う。
世にこれを術許し、義理許し、金許しとする。
真実に技術を持つ者に免許を発行するのを術許し、術及ばずとも親族友人の関係から発行するものを義理許し、金を支払うことによって得ることができるのを金許し――清秀老は、厳延が連也斎より得たものを術によるものではなく、甥だからこそ得られたものだと言ったのだ。
「貴方は……何を言っているのか解っておいでか!?」
さすがに、親族とはいえど看過はできない言葉だった。それでも柄に手を当てたいという衝動を必死に押し潰し、声を荒げて問い糾す。
清秀老は。
どうしてか、目を地面に一度落として。
「は、悔しいか―――――」
「儂も、そう言われたさ」
「…………ッ」
「それもな、武蔵殿にだ」
――一刀斎殿が免状を与えるには、ちと足りぬな。
『座興』の後、改めて盛り上がりつつある宴席の裏で、清秀はそこに加わるのもはばかられて一人呆然と庭の端で座っていた。
そこに武蔵が現れたのはなにゆえであったか。
後で聞くところによると、厠に行くと席を外したのだそうだが、その時に偶々に目に入ったからだろうか。
それとも、追い打ちを掛けるためであったのか。
後者は考えすぎかもしれない。
武蔵は清秀に声をかけてから、無造作に側の庭石に腰掛けた。
『無作法だが、仕方ない。足が痛む』
そう言ってから、顔をしかめる。
『まったく、足の萎えた年寄りに無理をさせてくれたな』
『申し訳ございませぬ……』
どう言っていいものか容易には判断がつかず、それでもどうにか答える。
自然、その場に肩膝を落として頭を下げていた。
その後、どういう話の流れがあったものか、清秀は武蔵に自身の素性と経歴、ここに至るまでの経緯を語っていた。
如雲斎にしか語っていないようなことまで、どうしてか話してしまっていたが、思い返すにこの武蔵という人物は異常に話しやすい。
時折に相槌を打つ程度のことしかほとんどしていないのに、とにかく何もかもを白状してしまいたくなっていた。
圧力をかけられているというのではなく、何かの流れ……拍子のようなものを支配されているようだった。
そして、ぽつりと言ったのだ。
ちと足りぬと。
『拙者に与えられた免状が、義理許しであったと!?』
『まあ有り体に言えばな』
さすがに、師との思い出と、僅かに残されていた矜持すらも否定されてしまったのには、残された感情の一欠片が反応していた。
だが、そのまま言葉を継ぐことはできなかった。
自分はこの人に完膚なきまでの敗北を喫しているという――その現実を前にしては、どれほどの言葉を積み重ねようとも意味はない。
『何も、お主が弱いわけではない』
『…………』
『甲乙丙丁で言えば、乙くらいつけてやろう』
『……何が足りなかったのです?』
『ん……?』
『何が足りず、甲に至らないのかと』
静かに問われた武蔵は、しばらく夜空を見上げていた。
やがて。
『意地、か』
『意地!?』
『さて、他にどう言っていいものか。
いやしくも流儀の道統を得るということならば、甲乙丙丁の甲であらねばだが――
前に出られなかったら丁もくれてやれなかったが、前に出られた。
自ら負けを認めていては丙にとどまっていたが、参ったはしなかった。
だから、乙だ』
『それは、どういう――』
武蔵はそこで『さて』とだけ言った。それだけで、清秀はそれ以上の言葉を出すことができなかった。
やがて言い表しようのない沈黙の刻が過ぎ去り――
『顔を上げよ』
と武蔵は言った。
次の刹那、武蔵が右手に携えてた杖の先端が、清秀の額に触れていた。
『―――――ッ』
痛みも感じない。ただ、載せられたという程度の感触しかなかった。絶妙な間合いであった。
そして武蔵は立っている。
いつの間にか、腰掛けていた庭石から立っている。
『面を打て』
『ただ殺すだけならば、兵法は要らぬ。ただ当てるだけならば、兵法とは言わぬ』
『…………それは、』
『流派の免状を得るということは、流派の意地を体現し、その真面目を世に示す身となるということよ』
『そのようなことは、』
知っている――と答えようとして、清秀の唇は動かなかった。
彼は、その時にようやく悟ったのだ。
武蔵は口元を微かに綻ばせた。
『他流は知らぬ。ただ我にあっては、勝ちは眉宇の間を打ってこその勝ちと言う』
『…………』
『一意専心、巌の身となりて、そこに至るための工夫を以て流儀とする。太刀を振り回して当ててよいだけなら、それは兵法に非ず。打つと当たるは違うのだ。それで殺せたとして、太刀の徳があるとは言えぬ』
『…………』
『さて、一刀斎殿は何と言ったものか。最後の弟子だけに甘やかしたか、あるいはその紙一重、言わずともいずれ伝わっていると思ったか――』
武蔵はそこで背中を向けた。
『武蔵殿……』
『兵法は死の道に非ず、勝ちを得る道である。勝てずとも、手にあるもの、腰にあるもの、使い切らねば悔いが残ろう』
『――――』
『悔いのあるまま死んでは、つまらんぞ』
「――――さて、連也斎の後を継いだというのなら、その真面目を見せよ」
そこまで話してから、清秀老は突然にするりと刀を抜いていた。
そして流れるように間合いを空け、正眼に構えていた。
「…………ッ!」
厳延も自然、それに応じて刀を抜いている。戸惑いながらも一刀流の陰の構えに似た右脇に刀を掲げた、やや刀身を寝かせるように構えていた。新陰流に云う發草だ。
さすがに柳生一門の当主である身であった。
その動きに淀みはない。
だが。
「…………何をなされるか!?」
とは聞いた。
剣士であるのならば、いついかなる時に戦いを挑まれてもいいように備えよ――とは、常に心がけていた。
しかしそれにしても、今のこの状態はあまりにも唐突にすぎる。
この清秀老とはつい先刻に会ったばかりで、ついさっきまで身の上話を聞いていたのだ。
「何をなどと、言うな。いやしくも兵法者であるのならば、侮辱されて捨て置くなどできるはずもないだろう」
「…………ですが」
「教えてやるというのだ。兵法とはいかなることであるというか――」
そのまま、二人は沈黙した。
正月の寒い空気の中で、二人の剣士は白い息を吐き続けて対峙して。
清秀老の刀の切っ先が、上段に持ち上がっていた。
とみるや、二人の間合いは無となっていた。
「…………ッ」
厳延は目を見開いていた。
自分の額の上、一寸のところにて刃が停止している。
(応じきれなかった……!)
いかなる絶妙の足捌きか、間合いの練り、拍子の工夫があったものなのか、清秀老は微かな呼吸の緩みをつくかのように厳延を真正面から打っていた。
もしも刃がとまらず打ち込まれていたのなら、その一撃で彼は絶命していたに違いない。
(これが八十を過ぎた老人の技か……!)
果たして彼の叔父である連也斎であっても、八十まで生きてたとしてこれほどの技ができたものか。
清秀老は口元を歪め、数歩と下がりながら鞘に収める。
「勝負如此ニ御座候」
「それは……」
その言葉は、かつてこの老人が言われた言葉ではなかったか。
さらに続ける。
「甲乙丙丁でいうのなら、丁だ。話にならんな」
「何、何を……!」
怒りとも狼狽ともつかぬ声を荒げた厳延を、清秀老は静かに眺めやり。
「儂は、切り落とすべきであったのだ」
そう言った。
(切り落とし……の、ことか……?)
厳延とても知っている。
対手の剣技がいかなる千変万化しようと、その起こりを抑えて切り落とす、一刀流の根本原理。
「我が流の本義、一刀即万刀の哲理を知りながら、できなんだ。相手が二刀であろうと、武蔵であろうとも、儂は、外他一刀斎の弟子であり、免状をもらう者であるのならば、それをするべきであった。通じる通じないではなくて、そうしなくてはいけなかった」
意地を見せなくてはならなかったのだ――と、言った。
「本来、誰が相手だろうとそれができるという確信ができてこそ、免許であったろうにな」
「…………そんなことは、」
「聞いておらぬか? ふん。一刀斎様も、新六……連也斎殿も、情に負けたか、それが伝えきれなんだ。だから――」
そこで不自然に言葉を切って、頭を振った。
「いや、いい。それはもういいのだ……儂は、意地が足りなんだ。真面目を、立てられなんだ……」
それができずに、死んだ。兵法の負けとは、そういうことだ。
そしてそれができなかったが故に、悔いは残り続けた。
清秀老は、そこで背中を向けた。
「儂は武蔵殿に負けて、兵法者として死んだ。死んだが、死にきれなんだ。その悔いを晴らさねば、到底往生などできぬ」
「…………つまり、」
悔いを晴らすために、五十年をかけた。
「――――去年にな。ようやく、できたぞ。武蔵殿に、ようやく……」
宮本武蔵は、もう四十年も前に死んでいる。
ならばこの老人のいう武蔵とはなんのことなのか。
あるいは己の記憶の中にある大剣豪の姿に対してか。
そしてゆるゆると歩き出す。
「待たれよ!」
思わず声をかけた厳延であったが、清秀老は止まらない。
ただ、言った。
「やれたはずのことを遺して、やらないままに死ぬのはつまらんと、悔いが残るとは、武蔵殿に言われた。だがな、儂は思うのだ。悔いを晴らすために生きるのも、また剣の道ではないか――」
それは。
どういう意味か。
「意地のたりなさが悔いを残すのならば、悔いを晴らす意地を見せよ――ということだ」
それができた時こそ、汝は真に新六の後継者になるだろう。
そう告げて、嶋清秀は立ち去ったのだった。
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