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最低な私と

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「離婚しよう。彼と籍を入れることにした」
 目の前に差し出された緑の紙ーー離婚届けに、私はただただ絶句した。差し出されたペンを持つ事など出来ない。隣の部屋でまだ赤ちゃんの息子ーー光希が泣いているのに、彼は見向きもしない。
「…どうして」
「どうして?元の状態に戻るだけだろ。俺は今も昔もこれからも、ずっとあの人のものだ」
 あぁ、どうして。私は正しい選択をしたはずなのに。
「まだ夢から覚めていないの?早く正気に戻ってよ…!」
 もう散々なの。私の知らないところで、私の彼があのクズ教師に奪われる。
「俺は元から正気だ」
「ふざけないで!!」
 どうして?
 どうして私は、こんな風にみっともなく叫ぶの。望むものを手に入れたかっただけなのに。どうして私は、あの人に勝てないの?




 昔から手に入らないものは無かった。微笑んだら男子は顔を赤くするし、キョトンと首を傾げてみれば可愛いと絶賛された。
 達也先輩を好きになったのは、人を思いやれるその優しさに惹かれたから。私の周りにいた顔の良い男子は性格がとても悪かったから、私にとって達也先輩は『完璧な人』であり、今まで誰かを好きになったことのない私の『初恋の人』でもあった。
 いじめから助けてもらって、けれどあの人はそんなこと、たった数日で忘れてしまった。あの人は困っている人を助けるのは当たり前のことだと言った。
 告白して、断られて。けれど諦めきれなくて、中学や高校まで追いかけてまた告白して、また振られて、また告白して。何度振られても、好きで好きでたまらなくて。
 ほんの少しの会話に成功して、隣にいることを許してもらえたの。
 きっとうまくいくと思ったのに。
(私は悪くない)
 本当に?
(だってあの人が悪いの、生徒に手を出すから)
 幼馴染なのに?
(男同士なんて気持ち悪い)
 お互い想いあっていたの、知ってたのに?
(先輩を元の道に戻してあげただけ。だから私は身体を張ってまで、結婚にこぎつけたの)
 ーー全部先輩と先生のせいにして、本当は自分の私欲のためのくせして。

 そうよ、知ってたわ。達也先輩がこれ以上ないほどあの人のことを好きだったのを、見ていて知ってたわ。
 私と付き合っても結婚しても、その瞳にもその記憶にも、あの人でいっぱいなことに気付いていた。
 最低なことをしていたの。だって、好きだったの。どうしようもないほど、あなたのことが好きだったの。どうしようもないほど、愛してしまったの。
 どれほど先生に恨まれても良かった。刺されても、殺されても良かった。その時にあなたが側にいるのなら、私はなんでも良かったの。

 あの日、あの人を脅した日、私が罪悪感を棄てた日。
 もう元には戻れないと決まっていたの。後戻りは出来ないと知っていたの。

「…あの人のことがそんなにも好きなのね」
「あぁ」
「それは、私も同じなの。あなたのこと、愛してるの」
「俺は愛していない」

 知ってるわ、そんなこと。ずっと前から知ってた。

「光希はどうするつもり?」
「慰謝料と養育費がわりに、今までの生活費と同額を毎月振り込む。他に必要な金があれば言ってくれたら出す」
「…無責任なのね、仮にも自分の息子なのに」
「望んでも無かった」

 あぁ、可哀想な光希。馬鹿な私の愚かな過ちのせいで、あなたは父親に愛されないの。
 沢山の罪を犯したの。それでもあなたがいてくれたら、地獄なんて落ちても良かったの。
 けれど、どうかお願いだから。
 あなたの子供を、ほんの少し、あの人の千分の一でもいいから愛してあげて。
 私のことは嫌いなままでいいから。それで、私は一生、貴方達が離れた時間と壊れた心を償うから。
 私は臆病だから直接は言えないの。それでも、本当に、本当にごめんなさい。どうか、お願い。

「光希はあなたが育てて」
「………は?」
「慰謝料も要らないわ。子持ちだと働くのも大変なのよ。離婚はしてあげる、それでもせめてこの子が成人するまでは育ててもらう」
「無理に決まってるだろ!?あの人になんて言うんだよ!」
「それが無理なら離婚はしません。よく考えて結論を出してね。じゃあ、私は少し出かけるから」

 有無を言わせず、財布や携帯をカバンに入れて家を出る。私は臆病だから、そしてプライドがあるから、あなたに謝れない。これまであなたに投げた言葉の数々を、今更謝ることが出来ない。
 それでも、あの人にはどうしても謝らなければならないの。許されるとも思わないけれど、それでも。
 最低なことをしたと、理解できたのだと。自己都合だとしても、それは伝えなければならないから。
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2018.05.06 ユーザー名の登録がありません

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