毒姫達の死行情動

私は過去を超える

うっかりさん

　脇差を握り直した夜羅は大きな影が落ちたことに気付く。咄嗟に見上げた空には男が放り投げた車が浮いており、数秒後には自身が下敷きになるであろうことが容易く想像できた。

「そこに居るんだろ？　隠れてないでさっさと出て来いよ稀崎!!」

「流石の怪力ですね」

　夜羅の身体を中心として螺旋を描えがく魔力。舞い上がった霊魂がいとも容易く車を溶解させ、溶けた際の液体が薄汚れた屋上に雨のように降り注いだ。

「こんな形で殺り合うとは何の因果でしょうね」
  
　まるで無邪気な子供のように、塀から身を乗り出し手を振る。吹き抜けた風が大人びたサイドテールをふわりと靡かせた。夜羅を見つけた男は汚い笑みを浮かべると、心底愉たのしげに左右の拳を打ち鳴らした。

「お前を殺して救いの街への永住権を手に入れる」

「残念ですが、やるべきことが出来ましたので死ぬ訳にはいきません」

「柊を助けにでも行くつもりか？　俺をコケにした夜葉諸共殺すことで、俺は世の英雄と謳われる」

「愚かですね、都合の良い解釈で夢を見続けた者の末路ですか。思考まで腐り始めるとは」

　失笑と共に霊魂を操り男へと衝突させる夜羅。右腕で軽く振り払った男は何食わぬ顔で次から次へと迎撃する。溶解しない、という事実に夜羅は僅かに目を細めた。

「なるほど、口だけではないみたいですね」

「お前の能力なんざ腐るほど見てんだよ」

　男の両腕は紅蓮に煌めく金属に覆われており、それが霊魂による溶解を防いだことは一目瞭然だった。

「来いよ稀崎、俺と正面から殺り合うのが怖いのか？」

　低俗な挑発に嘲笑した夜羅は軽やかな身のこなしで塀を乗り越えて飛び降りる。靴底に収束する魔力が衝撃を和らげ、ふわりとした華麗な着地を実現させた。

「怖い？　私が一体、どれだけの能力者を屠って来たと思っているのです？」

　風圧により靡く外套や髪。交差に構えられた脇差の隙間より覗く漆黒の瞳は形容し難い冷たさを晒していた。

「貴方みたいな、穢れた性欲に身を委ねる馬鹿と一緒にしないでいただきたい」

　挑発を返され、額に青筋を浮かべた男は感情のままに魔力を解き放つ。紅蓮に煌めく金属は領域を拡大させ、頭頂部から足先まで全てを包み込む。それは鎧さながら完全防御と言わんばかりの身形みなりを魅せた。

「俺は選ばれし者だ。異能に選ばれ、強さに恵まれ、恐れるものなど何一つ無い」

「その割には救いの街への永住権を望むのですね。もしかして、戦うことが怖い腰抜けですか？」

「還し屋の分際で粋がるなよ稀崎」

「元・還し屋ですが」

「雑魚に変わりはねえだろ」

　男は車を軽々と片手で持ち上げると、大きく振りかぶり投擲する。その際、惰性で開いたドアから、生活感を感じさせるバスケットやぬいぐるみなどが零れ落ちた。

「俺はこの力で……救いの街諸共全てを手に入れる」

「瞞まやかしとも知らずに愚かな」

　凄まじい質量が夜羅を押し潰さんと飛来するも、地より螺旋を描きながら舞い上がる霊魂が車を容易く溶かして男へと降り注ぐ。身動き一つ取らない男は、鎧に身を包んだまま霊魂を全て受け入れた。

「お前を殺して夜葉も潰してやるよ」

　何かが溶ける音と共に立ち込めた煙。煙越しに浮かんだシルエットは紛れもなく男のものであり、露になった鎧には傷一つ付いていない。溶けたのは地面であり、斑まだらに陥没したアスファルトが歪な音を発していた。

「貴方如きでは、私も夜葉も止められませんよ」

　僅かでも茉白の肩を持ってしまったことに辟易する。面倒臭そうにため息をついた夜羅は脇差を眼前に構えて地を強く蹴る。美しき太刀筋を描く得物は分厚い腕で止められ、代わりに振り抜かれたもう一方の腕が夜羅の腹部を的確に捕らえた。まるで磁石の反発。急激に迸った力の奔流は華奢な身体を軽々しく吹き飛ばす。車に叩き付けられた夜羅は吐血し、衝突の衝撃で窓ガラス全てが飛散した。

「もう終わりか？　稀崎」

　確かな手応えを感じた男は哄笑こうしょうする。だが、何事も無く起き上がった夜羅は服の裾で口角を拭った。彼女はそのまま自身の身体を見渡すと、この場に相応しくない小さな笑みを浮かべた。

「やっぱり私は生きていますね。知っていますか？　生を実感する最も単純な方法は痛みです」

　淡々と紡ぎながら脇差に視線を落とし、刀身を優しく撫でた夜羅は恍惚の表情を見せた。心底愛おしい存在、言うなればペットでも撫でているように頬が紅潮していた。

「そろそろ反撃しましょうか。私の可愛い可愛い『怨嗟連鎖グラッジ・チェイン』

　名を呼ばれた蒼白の脇差が周囲の霊魂を取り込んで発光する。仄かに明滅を繰り返す光はまるで呼吸のようだった。

「私の力も、所詮は瞞まやかしですから」

　地を蹴る夜羅に再び拳が振り下ろされる。すんでのところで身を捻り軽やかに躱した彼女は、逆手に持った脇差を吹き抜ける風の如く薙いだ。いとも容易く裂ける紅蓮の鎧、刃は軽々とその奥へと至る。次いで、吹き上がる鮮血越しに両者の視線が交差。男が見た夜羅の表情は何処までも冷たく、漆黒の瞳は一切の光すら宿していなかった。

「脆いものです。鎧など私の前では何の意味も成さない」

　深く裂けた胸部。仰向けに倒れ込んだ男は鎧を消失させ虚ろな表情で虚空を仰いだ。傷口の上に座り込んだ夜羅は、男の顔を無垢な少女のような表情で見下ろす。

　そして、右目を躊躇い無く突き刺した。

「──ッ!!」

　吹き上がる血が夜羅の顔面に飛び散る。脈打ち跳ねた身体も、胸部に跨られていることで力の行き場を無くし即座に制止。断末魔の叫び声が人の居なくなった駐車場内で響き渡った。
 
「あ……が……!!」 

　この世のものとは思えない痛みのあまり喉で引っ掛かる声。荒くなった息が歪な呼吸音を立てる。何度も浅い呼吸を繰り返す男の胸中は既に恐怖で埋め尽くされていた。

「痛いですか？　痛くないですよね？　痛い筈がありません。貴方が因縁をつけて強姦した、か弱い女子供の心の方が余程痛いですもんね。大の男が情けないですよね？　力で敵うはずの無い女性ばかりを狙うなんて」

　突き刺さった脇差が抜かれ、目を貫かれたグロテスクな顔面が晒される。抉れた顔面を見てもなお夜羅の表情は何一つ変わらない。

「目をやられてしまった人は戦えるのでしょうか？　戦いにおいて視覚は大事ですよね？　相手の動きが見えなければ、それだけでハンデを背負うことになる」

　抜かれた脇差の切っ先が左目の上へと移動する。押さえ付けられ身動きの取れない男は、首を小さく振ることで命乞いをしてみせた。

「お、俺が悪かった……本当に悪かった……」

「女子供を強姦した挙句に殺し回っていましたね。それは愛されていた誰かの母親だったり、逆に母親の大切な子供だったかもしれないのですよ？　ある日突然、大切な者が家へと帰って来ない。これほど辛いことはありますでしょうか？　貴方に大切な者を失った人の気持ちが解りますか？」

「悪いことをしたと思ってる。頼む……助けてくれ」

「この状況で、本当にまだ生きたいと思えますか？」  

　首を縦に振る男は身体の震えが止まらないことに辟易する。過呼吸になるほど呼吸が繰り返され、額には大量の脂汗が滲んでいた。

「解りました。貴方が今後一切の悪事を働かないと約束するのであれば、私の言うことを一つ聞くという条件でお助けします」

「……条件？　金か？　人の為に力を使役することか？」

「いいえ、もっと簡単なことです」

　優しい表情での否定と共に脇差が振り下ろされる。

「ああアアアアア゛!!」

　無慈悲に堕ちた切っ先。右目と同じくして貫かれた左目より再び血飛沫があがった。見るに堪えない光景の中、夜羅だけが何の感情も抱かずに正視する。

「条件はただ一つ、無様に死んで下さい。そうしたら助けてあげますよ」

　語尾を弾ませながら流れるような動作で首を撥ねた夜羅。男は完全に絶命しており、反射的に目を背けたくなるような死体が残されていた。広がりゆく血がアスファルトの上で鈍い黒を主張する。血液の拡がりをしばらく目で追っていた夜羅は、何かを思い出したように短い声を発した。

「そういえば、死んでしまったのなら助けることは出来ませんね。私のうっかりさんでした」

　頭をぽかりと叩きながら「まあ女は愛嬌ということで」と付け加えた夜羅は脇差を軽く振って穢けがれを落とす。飛び散った血液が嫌な音を立てて地に付着した。

「さて、猿は生きているでしょうか」

　彼女は凄惨な死体には目もくれず、静かに遊園地の方角へと歩みを進めた。