26 / 58
奴隷商人
ナイルの水位、商人の時間(アル=カーヒラ)
しおりを挟む
アル=カーヒラの朝は、張り詰めていた糸がふっと緩むような、独特の湿り気を帯びていた。
「今日の水位、15キュビット――!」
布告役(ムナーディー)の野太い声が、迷路のような路地を駆け抜けていく。昨日よりも一段高いその数字は、都市の肺に新鮮な空気を送り込んだ。
パン屋の店先に掲げられた値札が、人知れず書き換えられる。並ぶ人々の強張った頬に、ようやく慎ましい笑みが灯った。
増水の祝祭は、もう目前だ。この都市が「待つ」という受動的な苦痛から解放され、母なる川の意志に身を「委ねる」至福の時が近づいている。
(――刻限だ)
ラウロは、フンドゥクの窓から差し込む光の角度でそう判断した。喧騒が最高潮に達する前に、彼は音もなく旅の準備を終え、早朝の街へと滑り出した。
ハサンの館は、朝の光の中でも変わらぬ威容を誇っていた。石造りの壁は冷徹なまでの重厚さを保ち、門を叩けば、すでに申し送りを受けていた門番が、一言も発さずにラウロを中へと導いた。
中庭には、整然と並べられた木箱と包みが朝日を浴びていた。
象牙の装飾が鈍く光る武具。異国の芳香を漏らす香料の壺。丁寧に装丁された書籍と、乾燥した薬材の束。
それらはすべて、マムルーク朝への国家向け調達品という厳格な篩(ふるい)にかけられ、なおその網目から零れ落ちた、質を落とさぬ余剰である。
「数は揃っている」
奥から現れたハサンが、短く告げた。その眼光は鋭く、検品を許さぬ自負に満ちている。
「足りないものはない。過ぎたものもない」
「十分だ」
ラウロは即答した。
ここでは、秤を出すことさえ無作法にあたる。価格の再確認も、品質の保証も不要だった。ハサンという男の矜持が、そのまま荷の価値であった。
「今年は"金"はどうだ?持ち込まれる量はいつもより少ないとは耳にしているが…」
「ありがたいことに、少しばかり分けて貰えた」
それならと、ハサンは懐から封蝋の施された書類を取り出した。
「港を出る際に役立つだろう」
ハサンの預託信任状だった。
ママドゥの信用状(スフタジャ)と合わせることで国外に出る際に効果を発揮する。
「恩にきる。感謝する」
ハサンはラウロを鋭く一瞥し、ふっと鼻を鳴らした。
「増水の祝祭前に出るとは、相変わらず嗅覚がいいな」
「祭りの中では商人は邪魔なだけだ」
「違いない」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。それは商取引の終わりを告げる事務的な間ではなく、互いの領分を認め合う、別れのための儀式だった。
ハサンは背筋を正し、右手を恭しく胸に当てる。それは知人への軽い挨拶ではない。マムルーク朝の秩序を背負う商人としての、公的な別れの所作(サイン)だった。
「お前の航路が、秩序を失わぬことを」
国家に仕える者が、荒波を往く個人に送る最大限の祝福。ラウロもまた、鏡のように同じ所作を返した。
「あなたの選別が、国を壊さぬことを」
それは敬礼でもなければ、神への祈りでもない。
互いに巨大な歯車の一部として責任を負う者同士が交わす、冷徹で真摯な確認だった。
ハサンは満足そうに頷き、控えていた家の者たちに顎で合図を送った。
「港まで運ばせる。外の検問も、こちらで通す」
「助かる」
「商人は、荷を見ていろ。それでいい」
それが、この都の「力」を持つ者の流儀だった。
都市外縁の検問所。ラウロは一言も発さず、影のように荷の後ろに控えていた。
ハサンの家の者が、象牙の印章が押された書類を差し出し、簡潔に応答する。
「官営請負品の移送だ」
それ以上の説明は不要だった。兵士は箱の封印を一瞥し、重い槍を引いて目を伏せる。
アル=カーヒラの喧騒と、権力の残滓が、静かに背後へと退いていった。
ブーラーク港。
ナイルの水面は、上流から運ばれてきた豊かな泥を含み、鈍い光を帯びてうねっていた。
倉庫の管理人にママドゥの名を告げると、男は迷いなく頷いた。差し出された預託信任状の内容が照合され、奥から運び出されたのは、タガーザの岩塩だ。
白く、重く、乾いたその塊は、西アフリカの過酷な砂漠の時間を凝縮したような輝きを放っていた。
香料、書籍、武具、薬材。そして、砂漠の塩。
すべての荷が、船の胃袋へと吸い込まれていく。人は乗らない。今日はただ、価値ある「物」だけが移動する。
もやい綱が解かれ、船が岸を離れた。
ブーラークの喧騒が、遠ざかる風の音にかき消されていく。都市はすでに、ラウロという一人の異邦人を忘れ、来るべき増水の祝祭へとその熱量を注ぎ込み始めていた。
ラウロは甲板に立ち、最後に一度だけ、アル=カーヒラの輪郭を網膜に焼き付けた。
この街では、人は役割によって選別される。
信仰は祈りである以上に、秩序として都市を統治する。
そして商人は、軽々しく神の名を口にする代わりに、己の選択に全責任を負う。
(……良い都市だ)
だが、留まる場所ではない。
船首が北を向いた。
目指すはアル=イスカンダリーヤ。
次の取引へ。次の選択へ。
ナイルの流れが、ゆっくりと背後へ引いていく。
祝祭の喧騒は水位と共に街を飲み込み、商人の時間は再び、果てしない海の上へと戻っていった。
「今日の水位、15キュビット――!」
布告役(ムナーディー)の野太い声が、迷路のような路地を駆け抜けていく。昨日よりも一段高いその数字は、都市の肺に新鮮な空気を送り込んだ。
パン屋の店先に掲げられた値札が、人知れず書き換えられる。並ぶ人々の強張った頬に、ようやく慎ましい笑みが灯った。
増水の祝祭は、もう目前だ。この都市が「待つ」という受動的な苦痛から解放され、母なる川の意志に身を「委ねる」至福の時が近づいている。
(――刻限だ)
ラウロは、フンドゥクの窓から差し込む光の角度でそう判断した。喧騒が最高潮に達する前に、彼は音もなく旅の準備を終え、早朝の街へと滑り出した。
ハサンの館は、朝の光の中でも変わらぬ威容を誇っていた。石造りの壁は冷徹なまでの重厚さを保ち、門を叩けば、すでに申し送りを受けていた門番が、一言も発さずにラウロを中へと導いた。
中庭には、整然と並べられた木箱と包みが朝日を浴びていた。
象牙の装飾が鈍く光る武具。異国の芳香を漏らす香料の壺。丁寧に装丁された書籍と、乾燥した薬材の束。
それらはすべて、マムルーク朝への国家向け調達品という厳格な篩(ふるい)にかけられ、なおその網目から零れ落ちた、質を落とさぬ余剰である。
「数は揃っている」
奥から現れたハサンが、短く告げた。その眼光は鋭く、検品を許さぬ自負に満ちている。
「足りないものはない。過ぎたものもない」
「十分だ」
ラウロは即答した。
ここでは、秤を出すことさえ無作法にあたる。価格の再確認も、品質の保証も不要だった。ハサンという男の矜持が、そのまま荷の価値であった。
「今年は"金"はどうだ?持ち込まれる量はいつもより少ないとは耳にしているが…」
「ありがたいことに、少しばかり分けて貰えた」
それならと、ハサンは懐から封蝋の施された書類を取り出した。
「港を出る際に役立つだろう」
ハサンの預託信任状だった。
ママドゥの信用状(スフタジャ)と合わせることで国外に出る際に効果を発揮する。
「恩にきる。感謝する」
ハサンはラウロを鋭く一瞥し、ふっと鼻を鳴らした。
「増水の祝祭前に出るとは、相変わらず嗅覚がいいな」
「祭りの中では商人は邪魔なだけだ」
「違いない」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。それは商取引の終わりを告げる事務的な間ではなく、互いの領分を認め合う、別れのための儀式だった。
ハサンは背筋を正し、右手を恭しく胸に当てる。それは知人への軽い挨拶ではない。マムルーク朝の秩序を背負う商人としての、公的な別れの所作(サイン)だった。
「お前の航路が、秩序を失わぬことを」
国家に仕える者が、荒波を往く個人に送る最大限の祝福。ラウロもまた、鏡のように同じ所作を返した。
「あなたの選別が、国を壊さぬことを」
それは敬礼でもなければ、神への祈りでもない。
互いに巨大な歯車の一部として責任を負う者同士が交わす、冷徹で真摯な確認だった。
ハサンは満足そうに頷き、控えていた家の者たちに顎で合図を送った。
「港まで運ばせる。外の検問も、こちらで通す」
「助かる」
「商人は、荷を見ていろ。それでいい」
それが、この都の「力」を持つ者の流儀だった。
都市外縁の検問所。ラウロは一言も発さず、影のように荷の後ろに控えていた。
ハサンの家の者が、象牙の印章が押された書類を差し出し、簡潔に応答する。
「官営請負品の移送だ」
それ以上の説明は不要だった。兵士は箱の封印を一瞥し、重い槍を引いて目を伏せる。
アル=カーヒラの喧騒と、権力の残滓が、静かに背後へと退いていった。
ブーラーク港。
ナイルの水面は、上流から運ばれてきた豊かな泥を含み、鈍い光を帯びてうねっていた。
倉庫の管理人にママドゥの名を告げると、男は迷いなく頷いた。差し出された預託信任状の内容が照合され、奥から運び出されたのは、タガーザの岩塩だ。
白く、重く、乾いたその塊は、西アフリカの過酷な砂漠の時間を凝縮したような輝きを放っていた。
香料、書籍、武具、薬材。そして、砂漠の塩。
すべての荷が、船の胃袋へと吸い込まれていく。人は乗らない。今日はただ、価値ある「物」だけが移動する。
もやい綱が解かれ、船が岸を離れた。
ブーラークの喧騒が、遠ざかる風の音にかき消されていく。都市はすでに、ラウロという一人の異邦人を忘れ、来るべき増水の祝祭へとその熱量を注ぎ込み始めていた。
ラウロは甲板に立ち、最後に一度だけ、アル=カーヒラの輪郭を網膜に焼き付けた。
この街では、人は役割によって選別される。
信仰は祈りである以上に、秩序として都市を統治する。
そして商人は、軽々しく神の名を口にする代わりに、己の選択に全責任を負う。
(……良い都市だ)
だが、留まる場所ではない。
船首が北を向いた。
目指すはアル=イスカンダリーヤ。
次の取引へ。次の選択へ。
ナイルの流れが、ゆっくりと背後へ引いていく。
祝祭の喧騒は水位と共に街を飲み込み、商人の時間は再び、果てしない海の上へと戻っていった。
2
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる