horízōn ~はるかとおく~ :咎人之王

つみ²

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奴隷商人

名を名で洗う(ピオンビノ)

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1448年、晩秋。ピオンビノ入港。
晩秋のティレニア海は、夏のような鮮烈な青を失い、鉛色の重みを湛えていた。南からの追い風を受け、我が帆船のメインスルが大きく膨らむ。

マレンマの湿地帯を右手にやり過ごし、船首が北へと向けば、いよいよ岩だらけの岬の先に「鋼鉄の街」ピオンビノがその姿を現した。

まず届いたのは、風に乗って漂う「鉄と煙」の匂いだ。
エルバ島から運ばれた鉄鉱石を精錬する炉の匂い、そして街の家々で焚かれる薪の煙が、潮騒のなかに混じり合う。数ヶ月前までこの海を埋め尽くしていたアルフォンソ王の艦隊はもういない。代わりに視界に入るのは、交易を取り戻そうと蠢く十数隻のガレー船や、腹の膨らんだコグ船の群れだ。

耳を澄ませば、船が波を切る音に混じり、遠く街の鐘楼(カンパニーレ)から正午を告げる鐘の音が響いてくる。それは包囲戦の恐怖を脱した祝詞のようにも、あるいは戦死者を悼む弔鐘のようにも聞こえた。

近づくにつれ、ピオンビノの輪郭が鋭さを増していく。
岬の突端に毅然と立つ「城塞(カステッロ)」の石壁。そして、その背後に広がるアッピアーニ家の宮殿。14世紀から続く堅牢な城壁は、先日の砲撃を受けた跡だろうか、一部が真新しい漆喰や石材で補修されている。

特に目を引くのは、街の入り口を守る「半円型防壁(リヴェッリーノ)」だ。
この戦いのために急造された、まだ白々しい石の色を残すあの半円形の要塞。つい先日、リナルド・オルシーニがこの街を守り抜くために築かせた最新の守備遺構だ。その威容は、海から近づく我々に対して「ここは容易には落ちぬ」という無言の威圧を放っている。

「帆を降ろせ!」

船長の怒鳴り声と共に、麻の帆が滑車と擦れる乾いた音が響く。
マリーナ・ディ・ピオンビノの入り江に入ると、風は急に凪ぎ、代わりに港の喧騒がダイレクトに鼓膜を叩く。

石畳の上を転がる荷車の車輪の音。
荷揚げを急ぐ荒くれ者たちの怒号。
そして、アッピアーニ家の徴税官たちが羊皮紙を広げるカサカサという音。

岸壁には、赤茶色の屋根瓦を戴いた古い家々が密集し、窓からは洗濯物が冬の気配を含んだ風に揺れている。さらに奥には、サンティ・アンティモ大聖堂の落ち着いた佇まいが見える。あそこには、この街の守護聖人が祀られているはずだ。

船がゆっくりと接岸し、太い麻縄がビットに投げかけられる。
足を一歩踏み出せば、まだ砲煙の記憶がかすかに残る、しかし確かな力強さを取り戻しつつある15世紀イタリアの「鉄の都」が、我々を飲み込んでいった。




トスカーナの潮風は、どこか鉄の匂いが混じっている。

ピオンビーノの港は、ジェノヴァのような華美な石造りの回廊も、秩序立った係留施設も持たない。剥き出しの岩肌と、塩害に晒されてひび割れた倉庫が並ぶ、荒々しくも実利的な場所だ。
だが、だからこそこの港には「正義」を問う眼差しが欠けていた。ここを訪れるのは、行き先を告げぬ船か、あるいは過去を捨てた者たちだけだ。
三隻の船が、静かにその腹を岸壁に寄せた。

桟橋に立つラウロは、一冊の帳面を抱えたまま、タラップを降りてくる船長アルヴィーゼを待った。老船長は深く帽子を脱ぎ、潮騒に負けない低い声で切り出した。

「……積荷を投棄しました。砂糖、明礬、それに低級香辛料の一部です。追跡を振り切るため、速度を優先しました」

言い訳は含まない。ただ事実のみを差し出すアルヴィーゼの背中には、海の厳しさを知る者特有の諦念が漂っていた。

「問題ない。判断は正しい。私はあなたを信頼している」

ラウロは帳面から目を上げることなく、短く応えた。損失の計算は頭の中で終わっている。
だが、今はそれを口にする時ではない。アルヴィーゼが安堵からわずかに肩を落とすのと入れ替わるように、ミケーレが足音を荒らげて現れた。

「私掠船を一隻、鹵獲しました」

ミケーレの頬には新しい切り傷があり、その瞳には戦闘の残火が灯っている。

「恨みを引きずりそうな連中は海へ帰しました。残ったのは、使い物になる大人しい連中だけです」

「船と身代金の処理はこちらで進める。残りの男たちはガレー船の漕ぎ手にでもするか?」

ラウロの問いに、ミケーレは薄く笑った。

「いえ、解放します。……俺たちに手を出すと、命よりも恐ろしい目に遭う。その噂を港から港へと運ばせるために」

死人は喋らないが、恐怖に震える生還者は饒舌だ。

「お前…本当、そういうの好きだな…」

ラウロはミケーレとアルヴィーゼと視線を合わせ、それから桟橋全体を見渡した。

「今日は全員休ませろ。船員も……積荷もだ」




倉庫の中は、凪いだ海のように静まり返っていた。
そこには市場の熱気も、競り人の怒声もない。ただ、土埃が舞う光光の下で、多くの人々が膝を突き、座らされていた。

ラウロは、ただ羽ペンとインク壺を携えて彼らの前に立った。

「これから、名を変える」

低い、だがよく通る声だった。人々の中にさざ波のような動揺が広がる。

「意味は分かるな? 
お前たちはこれから『キリスト教徒』として再定義される。
一度でもサラセンの手に落ちた者は、この地では異教徒の烙印を押されるからだ。
出自、過去、受けた屈辱。それらすべてを記録から消し去るための手続きだ」

ラウロは事務的に帳簿を広げた。

「洗礼は後だ。だが、名は先に変わる。
ここで生き延びるために必要な『仕様変更』だと思え。
……忠告しておくが、新しい名に固執はするな。買われた先で、また別の上書きが待っている。今しばらくは、名は、ただの記号だ」

事務的な宣告は、時としてどんな罵倒よりも残酷に響く。

一人目。
震える声で旧名を告げた男に、ラウロは新しい聖徒の名を与えた。男はそれを呪文のように呟き、自分という存在が摩耗していく音を聴いていた。

二人目。
旧名を呼ばれても、もはや反応を示さなかった。魂が先に抜けた肉体を、書記のペンが淡々と別の記号へと置き換えていく。

そして、一人の少女の番が来た。
彼女は顔を上げなかった。ラウロが新しい名を告げると、ただ機械的に頷いた。
彼女の腹の奥で、空腹か、あるいは消えかけた生命の残り火か、かすかな動きがあった。だが、ラウロの帳簿にはそんな微細な震えを記す欄など存在しない。

名。出自。年齢。技能。評価。
ラウロの羽ペンが走るたび、一人の人間が一列のデータへと変換されていく。

「今日は終わりだ」

帳簿を閉じる音が、審判の鐘のように静かな空間に響いた。

ラウロが倉庫を出ると、外では変わらず潮風が帆布を叩いていた。ここからジェノヴァまではもう数日の距離だ。
だが、この名もなき港で、彼らの旅は実質的な終着を迎えていた。

人としてではなく、換金可能な「数」として。
その数値を支配する帳簿だけが、神も知らない彼らの未来を冷徹に書き記していた。
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