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奴隷商人
暖炉の火と熱(ピサ)
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1449年、年明け。
イタリア北部の港町ジェノヴァを包み込むのは、色彩を剥ぎ取られたかのような、灰色の冬だった。
暖炉の奥で爆ぜる薪の音が、石壁に囲まれた室内に小さく響く。
倉庫兼事務所のさらに奥、厚い石壁に守られたその一角は、外の世界から切り離された、わずかな避難所だった。火にかざした指先がじんわりと温まり、ラウロは椅子に深く腰を沈めたまま、動こうとしない。
「……はぁ」
白く濁った吐息が零れる。
窓の外では、低く垂れ込めた雲の下、港のクレーンや船のマストが幽霊のような影を落としていた。
寒がりの彼にとって、リグリア海の冬は暴力的なまでに冷酷だ。暖炉から一歩離れれば、体の芯まで削がれるような錯覚に陥る。温かい飲み物を手に帳簿をめくるだけで、今日の仕事の大半は終わったも同然だった。
向かいでは、同じく南国育ちのトゥマニが、外套の肩をすぼめ、黙って炎を見つめている。
「……冬だけだな」
独り言のような呟き。
「何がだ」
「マスターが、こんなに人間らしい顔をするのは」
ラウロは一瞬きょとんとし、すぐに苦笑した。
「放っておけ。寒いと余裕がなくなるだけだ」
その静寂を破ったのは、控えめだが芯の通ったノックだった。
扉が開き、冷気とともに男が入ってくる。
ロドヴィコ・バルディ。
声を荒げることもなく、武勇を語ることもない。ただ、冬を避け、無理をせず、必ず帰る道を残す。その判断だけを積み重ねてきた。
かつては戦場にいたという。
だが彼の指示は、突撃ではなく撤退のために出される。
部下を駒として使わない代わりに、命の重さを正確に計る男だった。
厚手の外套の下でも隠しきれない体躯。顎に刻まれた古傷が、彼の来歴を雄弁に物語っていた。だが、その眼差しには、場を読む者の余裕があった。
「旦那、来ましたぜ」
ラウロは名残惜しそうに暖炉を一瞥し、自分を叱咤するように背を伸ばす。
「今年もまた、宜しく頼む。馬車と皆を、倉庫に寄せてくれ」
ロドヴィコはそれだけで全てを察し、短く頷いて踵を返した。
扉が閉まる瞬間、吹き込んだ風に炎が激しく揺れる。ラウロは未練を断ち切るように、火を落とした。
「……さて、頑張りますか」
倉庫に集まった護送隊は、かつてロンバルディアの戦場を共に生き延びた精鋭たちだった。
今は鎧を纏っていないが、その立ち姿に隙はない。
ラウロは彼らの前に立ち、静かに、しかし通る声で告げる。
「皆、今年も宜しく頼む。……これは私からの、ささやかな心付けだ」
トゥマニが捧げ持った盆には、小さな布袋が整然と並んでいた。
受け取った男たちが中を覗き込み、一様に息を呑む。
「……ええんですかい、これ?」
不揃いながらも芳醇な香りを放つ黒胡椒。
そこに貴重な黒糖のひとかけらと、滋養に富むフェヌグリーク。
「気にするな。真面目に約束を守り、仕事をしてくれる。それだけでいい。
私にとって、信用の価値とはそういうものだ」
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
ラウロはさらに、ロドヴィコへ別の二つの袋を差し出した。
「君にはこれを。……今年はインディゴが安かった。染物屋に持っていけば銀になる。
大きい方は乾燥ナツメだ。隊で分けるといい」
「おお……」
思わず、隊員たちから声が漏れる。
ロドヴィコは一瞬だけ眉を上げ、苦笑した。
「旦那……甘やかし過ぎですぜ。銀行からも給金は出るってのに」
「君たちがいてこその、私の商売だ」
ラウロは静かに言った。
「働きで応えてくれれば、それで何も問題はない」
ロドヴィコはしばらくラウロを見つめ、やがて短く頷いた。
「……承知した」
その声には、契約以上のものが混じっていた。
やがて、重い音を立てて馬車が動き出す。
後方に流れていくジェノヴァの街並みは、依然として冷たく厳しい。
だが、揺れる荷台の中には、確かに熱が積まれていた。
それは単なる商品ではない。過酷な冬を越え、遠いフィレンツェまで歩みを進めるための、男たちの連帯という名の燃料だった。
ラウロは外套の襟を立て、馬車の振動に身を任せる。
目的地はまだ遠い。
しかし彼の胸には、先ほど消したはずの暖炉よりも確かな火――
信用という名の熱が、静かに灯り続けていた。
-
ジェノヴァの堅牢な城壁が背後に沈む頃、馬車はすでに軋み始めていた。
港町を離れてほどなく、道は痩せ、海と断崖に挟まれた頼りない帯へと変わる。左手には拒絶するようにそそり立つ灰色の岩肌、右手には底冷えのする鉛色の海。波は静かだが、ひとたび足を踏み外せば、そこには慈悲のない高さがあった。車輪が小石を噛み、砂を弾くたび、馬が神経質に鼻を鳴らす。
「初日はここまでだ」
ロドヴィコの声は、乾いた風のように淡々としていた。
まだ陽は高い。急げばもう一つ先の村まで届くだろう。だが、彼は手綱を緩めた。
未熟な商人は初日に距離を稼ぎたがる。しかし、この悪路でそれをやれば、二日目には馬の膝が笑い、三日目には動かなくなる。壊れた馬は替えがきかない。そして、替えのきかないものを消耗品として扱うほど、ロドヴィコという男は愚かではなかった。
宿は町外れの荒末なものだった。石壁と古い木の梁、それだけの場所。だが、囲いは頑丈で、馬の喉を潤す水桶には清い水が満ちている。
今はそれだけで、十分だった。
二日目。
道はさらに細さを増し、山が覆いかぶさるように迫ってくる。
潮の匂いは遠ざかり、代わりに湿った土と、粘りつくような松脂の香りが肺を突いた。車輪の転がる音が、乾いた響きから重い唸りに変わる。誰もが悟った。峠だ。逃げ場のない登攀と、脚を殺しにくる下りが始まる。
ロドヴィコは短く告げる。
「今日は短い。馬を温め、力を殺すな」
誰も異を唱えない。この隊において、ロドヴィコの言葉の少なさは、そのまま判断の確かさを意味していた。
三日目。
峠道は、ただひたすらに容赦がなかった。
岩肌を削り出しただけの道は、雨が降れば泥濘となり、晴れれば呪わしい粉塵を吐く。馬の蹄が滑り、車体が不吉な角度に傾くたび、護送隊の男たちが無言で肩を入れ、泥にまみれて押し支えた。
背中を伝う汗は、止まればすぐに冷気に奪われる。吐き出す息は、幽霊のように白く、すぐに消えた。
ラウロは馬車を降り、トゥマニと並んで泥に足を沈めた。
高価な外套を汚し、指先を岩で擦りむく。商人の手には似つかわしくない労働だったが、彼は一度も弱音を吐かなかった。
ロドヴィコが一度だけ振り返り、呟く。
「ここを越えれば、次は楽になる」
それは気休めの希望ではなく、冷徹な事実としての言葉だった。
夕刻、頂を越えた。誰一人として歓声を上げる者はいなかった。ただ、馬の歩調が、砂時計の砂が落ちるように、わずかに軽くなった。それだけで、彼らには勝利の報せとして十分だった。
四日目。
山を下る道は、登りとは別の意味で神経を削り取っていった。
重力に引かれた荷が、前へ、前へと馬を突き飛ばそうとする。車輪は制御を失って暴れようと軋む。ロドヴィコは何度も馬車を止め、車輪にくさびを打ち込み、執拗なまでに速度を殺した。
焦って駆け下りれば一時間は稼げるだろう。だが、その一時間と引き換えに、車軸が折れる未来を彼は見ていた。
「焦るな。道が自分たちに合わせるのを待て」
その言葉は、馬だけでなく、自分たちの焦燥を抑えつけるための呪文のようでもあった。
五日目。
ようやく、視界が開けた。
荒々しい山並みが背後に退き、柔らかな土地が広がり始める。整えられた畑、石造りの家々、そして煙突から昇る生活の煙。
空気が変わる。人の営みが放つ、微かな温もりの匂いだ。
最後の宿場、サルザーナ。
城壁と要塞に守られたその町で、門番は積荷を検分し、鋭い視線を向けた。だが、御者台に座るロドヴィコの顔を見るなり、男は黙って門を開いた。
幾度もこの難所を越え、一度も積荷を失わなかった男だけが持つ「信頼」という名の通行証だった。
夜、焚き火を囲み、誰かがぽつりと零した。
「……生きてるな」
返事をする者はいなかったが、誰もが深く頷いた。
六日目。
朝霧の向こうに、ピサの細い指のような塔が立ち並んでいた。
アルノ川の運んだ平原、白い石材、遠くから風に乗って届く鐘楼の響き。
ピサだった。
馬車は整えられた石畳を、一定のリズムで進んでいく。ここから先は、別の掟が支配する世界だ。商談、帳簿、そして金と信用が渦巻く街。
ラウロは外套の襟を正し、冷え切った肺の奥まで深く息を吸い込んだ。
峠の凍てつく空気はもうない。だが、全身に沈殿した疲労は、確かな「経験」という重みとなって、彼の芯に残っていた。
それでいい、と彼は思った。
無理を重ねて何かを損なうのではなく、一歩ずつ、確実に地を噛み締めて進んだ道程。何も削らず、何も失わず、ただ「目的」だけを抱えてここに辿り着いた。
フィレンツェは、もう、目と鼻の先だ。
-
ピサの街は、夜になると別の顔を見せた。
白い石畳に昼の光はなく、代わりに酒場から漏れる灯りと、人いきれが街路を満たしている。アルノ川から吹き上げる湿った風が、旅の埃と汗を冷やし、腹の底に溜まった疲れを思い出させた。
ロドヴィコが選んだのは、城壁寄りの古い酒場だった。看板は傾き、扉の軋みも大きい。だが、煮炊きの匂いは正直で、暖気が確かに外まで溢れている。
中は狭く、長卓が二つ。
護送隊の男たちは無言で腰を下ろし、外套を脱ぎ、武器を足元にまとめた。誰も騒がない。ここが安全圏だと、身体が知っている。
ほどなく、木椀に注がれた濃い豆の煮込みと、黒パン、薄く切られた塩漬け肉が並んだ。湯気が立つ。それだけで、空気が緩む。
ラウロは迷いなく椀を手に取り、パンを浸した。
「……ああ」
短い吐息が、ほとんど溜息のように漏れる。
トゥマニも同じように椀を抱え、無言で食べ始めた。
ロドヴィコは、それを一拍遅れて眺めていた。
「……いいのか、旦那」
「何がだ」
「ピサだ。もう少し上等な店もある。あんたほどの商人なら、白い肉に甘い酒、山ほど香辛料を使った皿でも――」
ラウロは、豆を口に運びながら首を振った。
「これでいい。いや、これがいい」
ロドヴィコは眉を寄せる。
「珍しいな。商人ってのは、腹に入る前に値段を味わう生き物だと思ってたが」
ラウロは小さく笑った。
「腹が冷えている時に、温かい飯が出てくる。それ以上にうまいものを、私は知らない」
スプーンを置き、ゆっくりと言葉を続ける。
「ヨーロッパのご馳走は、悪くない。だが、どうにも重たい。脂も、乳も、香辛料も多すぎる。口の中で主張し合って、最後に何を食べたのか分からなくなる」
ロドヴィコは酒を一口含み、鼻で笑った。
「贅沢な悩みだ」
「違う」
ラウロは即座に否定した。
「好みの問題だ。私は、腹に落ちる飯が好きなんだ。噛めば分かるもの、飲めば身体が分かるものがいい」
トゥマニが、椀を置かずに口を挟む。
「アル=カーヒラの屋台は、腹が空いていれば、どれも当たりだ」
ラウロは頷いた。
「そうだ。豆の煮込み、焼いた平たいパン、少しの香草。汗をかいた後に食べるなら、あれ以上のものはない」
ロドヴィコは思わず吹き出した。
「カイロの屋台が、ピサの料理より上だと言うか」
「うまい、ではなく“合っている”と言っている」
ラウロは淡々と答える。
「向こうの飯は、暑さと労働の中で食べる前提で出来ている。ここの豪勢な料理は、座って語り、酒を飲み、時間を浪費するためのものだ。悪くはない。ただ、今の私には不要だ」
護送隊の男の一人が、口の端で笑った。
「じゃあ旦那は、商談の前に腹を満たすタイプだな」
「腹が冷えていれば、判断も冷える」
ラウロはそう言って、最後の一口を飲み干した。
酒場の喧騒の中で、彼らの卓だけが静かだった。
誰も杯を重ねず、誰も声を張らない。ただ、温かい飯を食べ、呼吸を整えている。
ロドヴィコは、その光景をしばらく見てから、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、不思議な商人だ」
ラウロは答えなかった。
ただ、もう一度パンを煮込みに浸し、ゆっくりと口に運んだ。
外では鐘が鳴っている。
だが、この夜、彼らにとっての祝福は、木椀の底に残る温もりだけで十分だった。
イタリア北部の港町ジェノヴァを包み込むのは、色彩を剥ぎ取られたかのような、灰色の冬だった。
暖炉の奥で爆ぜる薪の音が、石壁に囲まれた室内に小さく響く。
倉庫兼事務所のさらに奥、厚い石壁に守られたその一角は、外の世界から切り離された、わずかな避難所だった。火にかざした指先がじんわりと温まり、ラウロは椅子に深く腰を沈めたまま、動こうとしない。
「……はぁ」
白く濁った吐息が零れる。
窓の外では、低く垂れ込めた雲の下、港のクレーンや船のマストが幽霊のような影を落としていた。
寒がりの彼にとって、リグリア海の冬は暴力的なまでに冷酷だ。暖炉から一歩離れれば、体の芯まで削がれるような錯覚に陥る。温かい飲み物を手に帳簿をめくるだけで、今日の仕事の大半は終わったも同然だった。
向かいでは、同じく南国育ちのトゥマニが、外套の肩をすぼめ、黙って炎を見つめている。
「……冬だけだな」
独り言のような呟き。
「何がだ」
「マスターが、こんなに人間らしい顔をするのは」
ラウロは一瞬きょとんとし、すぐに苦笑した。
「放っておけ。寒いと余裕がなくなるだけだ」
その静寂を破ったのは、控えめだが芯の通ったノックだった。
扉が開き、冷気とともに男が入ってくる。
ロドヴィコ・バルディ。
声を荒げることもなく、武勇を語ることもない。ただ、冬を避け、無理をせず、必ず帰る道を残す。その判断だけを積み重ねてきた。
かつては戦場にいたという。
だが彼の指示は、突撃ではなく撤退のために出される。
部下を駒として使わない代わりに、命の重さを正確に計る男だった。
厚手の外套の下でも隠しきれない体躯。顎に刻まれた古傷が、彼の来歴を雄弁に物語っていた。だが、その眼差しには、場を読む者の余裕があった。
「旦那、来ましたぜ」
ラウロは名残惜しそうに暖炉を一瞥し、自分を叱咤するように背を伸ばす。
「今年もまた、宜しく頼む。馬車と皆を、倉庫に寄せてくれ」
ロドヴィコはそれだけで全てを察し、短く頷いて踵を返した。
扉が閉まる瞬間、吹き込んだ風に炎が激しく揺れる。ラウロは未練を断ち切るように、火を落とした。
「……さて、頑張りますか」
倉庫に集まった護送隊は、かつてロンバルディアの戦場を共に生き延びた精鋭たちだった。
今は鎧を纏っていないが、その立ち姿に隙はない。
ラウロは彼らの前に立ち、静かに、しかし通る声で告げる。
「皆、今年も宜しく頼む。……これは私からの、ささやかな心付けだ」
トゥマニが捧げ持った盆には、小さな布袋が整然と並んでいた。
受け取った男たちが中を覗き込み、一様に息を呑む。
「……ええんですかい、これ?」
不揃いながらも芳醇な香りを放つ黒胡椒。
そこに貴重な黒糖のひとかけらと、滋養に富むフェヌグリーク。
「気にするな。真面目に約束を守り、仕事をしてくれる。それだけでいい。
私にとって、信用の価値とはそういうものだ」
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
ラウロはさらに、ロドヴィコへ別の二つの袋を差し出した。
「君にはこれを。……今年はインディゴが安かった。染物屋に持っていけば銀になる。
大きい方は乾燥ナツメだ。隊で分けるといい」
「おお……」
思わず、隊員たちから声が漏れる。
ロドヴィコは一瞬だけ眉を上げ、苦笑した。
「旦那……甘やかし過ぎですぜ。銀行からも給金は出るってのに」
「君たちがいてこその、私の商売だ」
ラウロは静かに言った。
「働きで応えてくれれば、それで何も問題はない」
ロドヴィコはしばらくラウロを見つめ、やがて短く頷いた。
「……承知した」
その声には、契約以上のものが混じっていた。
やがて、重い音を立てて馬車が動き出す。
後方に流れていくジェノヴァの街並みは、依然として冷たく厳しい。
だが、揺れる荷台の中には、確かに熱が積まれていた。
それは単なる商品ではない。過酷な冬を越え、遠いフィレンツェまで歩みを進めるための、男たちの連帯という名の燃料だった。
ラウロは外套の襟を立て、馬車の振動に身を任せる。
目的地はまだ遠い。
しかし彼の胸には、先ほど消したはずの暖炉よりも確かな火――
信用という名の熱が、静かに灯り続けていた。
-
ジェノヴァの堅牢な城壁が背後に沈む頃、馬車はすでに軋み始めていた。
港町を離れてほどなく、道は痩せ、海と断崖に挟まれた頼りない帯へと変わる。左手には拒絶するようにそそり立つ灰色の岩肌、右手には底冷えのする鉛色の海。波は静かだが、ひとたび足を踏み外せば、そこには慈悲のない高さがあった。車輪が小石を噛み、砂を弾くたび、馬が神経質に鼻を鳴らす。
「初日はここまでだ」
ロドヴィコの声は、乾いた風のように淡々としていた。
まだ陽は高い。急げばもう一つ先の村まで届くだろう。だが、彼は手綱を緩めた。
未熟な商人は初日に距離を稼ぎたがる。しかし、この悪路でそれをやれば、二日目には馬の膝が笑い、三日目には動かなくなる。壊れた馬は替えがきかない。そして、替えのきかないものを消耗品として扱うほど、ロドヴィコという男は愚かではなかった。
宿は町外れの荒末なものだった。石壁と古い木の梁、それだけの場所。だが、囲いは頑丈で、馬の喉を潤す水桶には清い水が満ちている。
今はそれだけで、十分だった。
二日目。
道はさらに細さを増し、山が覆いかぶさるように迫ってくる。
潮の匂いは遠ざかり、代わりに湿った土と、粘りつくような松脂の香りが肺を突いた。車輪の転がる音が、乾いた響きから重い唸りに変わる。誰もが悟った。峠だ。逃げ場のない登攀と、脚を殺しにくる下りが始まる。
ロドヴィコは短く告げる。
「今日は短い。馬を温め、力を殺すな」
誰も異を唱えない。この隊において、ロドヴィコの言葉の少なさは、そのまま判断の確かさを意味していた。
三日目。
峠道は、ただひたすらに容赦がなかった。
岩肌を削り出しただけの道は、雨が降れば泥濘となり、晴れれば呪わしい粉塵を吐く。馬の蹄が滑り、車体が不吉な角度に傾くたび、護送隊の男たちが無言で肩を入れ、泥にまみれて押し支えた。
背中を伝う汗は、止まればすぐに冷気に奪われる。吐き出す息は、幽霊のように白く、すぐに消えた。
ラウロは馬車を降り、トゥマニと並んで泥に足を沈めた。
高価な外套を汚し、指先を岩で擦りむく。商人の手には似つかわしくない労働だったが、彼は一度も弱音を吐かなかった。
ロドヴィコが一度だけ振り返り、呟く。
「ここを越えれば、次は楽になる」
それは気休めの希望ではなく、冷徹な事実としての言葉だった。
夕刻、頂を越えた。誰一人として歓声を上げる者はいなかった。ただ、馬の歩調が、砂時計の砂が落ちるように、わずかに軽くなった。それだけで、彼らには勝利の報せとして十分だった。
四日目。
山を下る道は、登りとは別の意味で神経を削り取っていった。
重力に引かれた荷が、前へ、前へと馬を突き飛ばそうとする。車輪は制御を失って暴れようと軋む。ロドヴィコは何度も馬車を止め、車輪にくさびを打ち込み、執拗なまでに速度を殺した。
焦って駆け下りれば一時間は稼げるだろう。だが、その一時間と引き換えに、車軸が折れる未来を彼は見ていた。
「焦るな。道が自分たちに合わせるのを待て」
その言葉は、馬だけでなく、自分たちの焦燥を抑えつけるための呪文のようでもあった。
五日目。
ようやく、視界が開けた。
荒々しい山並みが背後に退き、柔らかな土地が広がり始める。整えられた畑、石造りの家々、そして煙突から昇る生活の煙。
空気が変わる。人の営みが放つ、微かな温もりの匂いだ。
最後の宿場、サルザーナ。
城壁と要塞に守られたその町で、門番は積荷を検分し、鋭い視線を向けた。だが、御者台に座るロドヴィコの顔を見るなり、男は黙って門を開いた。
幾度もこの難所を越え、一度も積荷を失わなかった男だけが持つ「信頼」という名の通行証だった。
夜、焚き火を囲み、誰かがぽつりと零した。
「……生きてるな」
返事をする者はいなかったが、誰もが深く頷いた。
六日目。
朝霧の向こうに、ピサの細い指のような塔が立ち並んでいた。
アルノ川の運んだ平原、白い石材、遠くから風に乗って届く鐘楼の響き。
ピサだった。
馬車は整えられた石畳を、一定のリズムで進んでいく。ここから先は、別の掟が支配する世界だ。商談、帳簿、そして金と信用が渦巻く街。
ラウロは外套の襟を正し、冷え切った肺の奥まで深く息を吸い込んだ。
峠の凍てつく空気はもうない。だが、全身に沈殿した疲労は、確かな「経験」という重みとなって、彼の芯に残っていた。
それでいい、と彼は思った。
無理を重ねて何かを損なうのではなく、一歩ずつ、確実に地を噛み締めて進んだ道程。何も削らず、何も失わず、ただ「目的」だけを抱えてここに辿り着いた。
フィレンツェは、もう、目と鼻の先だ。
-
ピサの街は、夜になると別の顔を見せた。
白い石畳に昼の光はなく、代わりに酒場から漏れる灯りと、人いきれが街路を満たしている。アルノ川から吹き上げる湿った風が、旅の埃と汗を冷やし、腹の底に溜まった疲れを思い出させた。
ロドヴィコが選んだのは、城壁寄りの古い酒場だった。看板は傾き、扉の軋みも大きい。だが、煮炊きの匂いは正直で、暖気が確かに外まで溢れている。
中は狭く、長卓が二つ。
護送隊の男たちは無言で腰を下ろし、外套を脱ぎ、武器を足元にまとめた。誰も騒がない。ここが安全圏だと、身体が知っている。
ほどなく、木椀に注がれた濃い豆の煮込みと、黒パン、薄く切られた塩漬け肉が並んだ。湯気が立つ。それだけで、空気が緩む。
ラウロは迷いなく椀を手に取り、パンを浸した。
「……ああ」
短い吐息が、ほとんど溜息のように漏れる。
トゥマニも同じように椀を抱え、無言で食べ始めた。
ロドヴィコは、それを一拍遅れて眺めていた。
「……いいのか、旦那」
「何がだ」
「ピサだ。もう少し上等な店もある。あんたほどの商人なら、白い肉に甘い酒、山ほど香辛料を使った皿でも――」
ラウロは、豆を口に運びながら首を振った。
「これでいい。いや、これがいい」
ロドヴィコは眉を寄せる。
「珍しいな。商人ってのは、腹に入る前に値段を味わう生き物だと思ってたが」
ラウロは小さく笑った。
「腹が冷えている時に、温かい飯が出てくる。それ以上にうまいものを、私は知らない」
スプーンを置き、ゆっくりと言葉を続ける。
「ヨーロッパのご馳走は、悪くない。だが、どうにも重たい。脂も、乳も、香辛料も多すぎる。口の中で主張し合って、最後に何を食べたのか分からなくなる」
ロドヴィコは酒を一口含み、鼻で笑った。
「贅沢な悩みだ」
「違う」
ラウロは即座に否定した。
「好みの問題だ。私は、腹に落ちる飯が好きなんだ。噛めば分かるもの、飲めば身体が分かるものがいい」
トゥマニが、椀を置かずに口を挟む。
「アル=カーヒラの屋台は、腹が空いていれば、どれも当たりだ」
ラウロは頷いた。
「そうだ。豆の煮込み、焼いた平たいパン、少しの香草。汗をかいた後に食べるなら、あれ以上のものはない」
ロドヴィコは思わず吹き出した。
「カイロの屋台が、ピサの料理より上だと言うか」
「うまい、ではなく“合っている”と言っている」
ラウロは淡々と答える。
「向こうの飯は、暑さと労働の中で食べる前提で出来ている。ここの豪勢な料理は、座って語り、酒を飲み、時間を浪費するためのものだ。悪くはない。ただ、今の私には不要だ」
護送隊の男の一人が、口の端で笑った。
「じゃあ旦那は、商談の前に腹を満たすタイプだな」
「腹が冷えていれば、判断も冷える」
ラウロはそう言って、最後の一口を飲み干した。
酒場の喧騒の中で、彼らの卓だけが静かだった。
誰も杯を重ねず、誰も声を張らない。ただ、温かい飯を食べ、呼吸を整えている。
ロドヴィコは、その光景をしばらく見てから、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、不思議な商人だ」
ラウロは答えなかった。
ただ、もう一度パンを煮込みに浸し、ゆっくりと口に運んだ。
外では鐘が鳴っている。
だが、この夜、彼らにとっての祝福は、木椀の底に残る温もりだけで十分だった。
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そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
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