50 / 58
奴隷商人
価値の精算:ケルメス(高級染料)
しおりを挟む
フィレンツェの冬は、石の冷たさが肺の奥まで刺さる。
しかし、大気そのものはどこか熱を孕んでいた。金と信仰、そして膨大な知性が、静止した時間の底で青白く燃え続けているからだ。
ラウロは、織物ギルド「アルテ・デッラ・ラーナ」の裏手に佇む名もなき石造りの建物を見上げた。
看板はない。ただ、扉の脇に刻まれた小さな羊毛の紋章だけが、ここが都市の心臓部の一部であることを証明していた。
重い扉を押し開けると、そこには染色の街に似つかわしくない無機質な空間が広がっていた。立ち込める酢の匂いも、煮え立つ釜の熱気もない。あるのは、乾いた石床と低い机、そして——命を抜かれた抜け殻のような、白い布切れが数枚。
机の向こうに座る男、サンドロ・ディ・バルディは視線さえ上げなかった。
染色監督官。この都市国家における「赤」の絶対的な門番。
「……量は」
挨拶も、名乗りも、冬の冷気の中に霧散した。
ラウロは無言で、封蝋の施された小袋を机に置いた。サンドロはその重さを測るように見つめるが、触れようとはしない。
「今年分か」
「ええ」
「余らないな?」
「余らせません」
サンドロがようやく顔を上げた。その目は、商人の品定めをするためではなく、深い淵の底で覚悟の在処を確かめるような鋭利さを帯びていた。
「赤はな」
サンドロは、重い沈黙を切り出すように言った。
「欲しがる者が多い。だが、纏うことが許される者は、驚くほど少ない」
ラウロは頷かなかった。フィレンツェの複雑な法も、身分による色彩の制限も、彼にとっては等しく無機質なルールに過ぎない。
「この赤は、市場に出ない」
「承知しています」
「競りにもならない」
「ええ」
「帳簿には——」
「『赤色染料・特別等級』…ですね」
サンドロの口角が、わずかに歪んだ。それは笑みというより、歯車が噛み合ったことへの冷徹な確認だった。
「君は、この赤が何に使われるか、知っているか」
ラウロは僅かな間を置き、機械的に首を振った。
「いいえ」
「誰が着るかも?」
「知りません」
「どの式典で使われるかも?」
「……興味がありません」
沈黙が部屋を支配する。外から聞こえるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の鐘の音が、厚い石壁を抜けて微かに響いた。
「……それでいい」
サンドロは立ち上がり、ようやく小袋に指をかけた。封蝋の刻印を確認する所作は、まるで秘蹟を執り行う司祭のようでもあった。
「赤を売りに来る商人は多い。だが、赤を『管理』しに来る商人は少ない」
サンドロは低い声で続ける。
「君は、この赤を誰の権威にも結びつけていない。神とも、家門とも、理念とも。だから、この赤は安全だ」
引き寄せられた分厚い帳簿に、羽ペンが走る。
数量、等級、受領。
そこには、対価としての金額は記されない。この赤の価値は、数字で測れる領域を超えているからだ。
「支払いは、いつもの形で」
サンドロは帳簿を閉じ、ラウロを射抜くように見た。
「聖年を控えた今、この赤は例年とは違う意味を持つ。
君は、この色が誰の肩を飾るのか、本当に興味がないのか」
「一商人には、無用な関心と心得ております」
「…それは重畳」
ラウロは深く一礼し、踵を返した。
外に出ると、フィレンツェの喧騒が彼を包み込んだ。
行き交う群衆、風に踊る極彩色の布。その中には、確かに「赤」も混じっている。だが、彼が今置いてきた「赤」は、ここにはない。
外套の襟を立て、彼は歩き出す。目的地はメディチ家の影がちらつく銀行だ。
あの赤は、今この瞬間から帳簿の中で死に、誰かの肌の上で再び産声を上げる。
——その正体が、聖職者の慈悲か、君主の野心か。
それを知らぬことこそが、この街で「赤」を扱う唯一の資格だった。
しかし、大気そのものはどこか熱を孕んでいた。金と信仰、そして膨大な知性が、静止した時間の底で青白く燃え続けているからだ。
ラウロは、織物ギルド「アルテ・デッラ・ラーナ」の裏手に佇む名もなき石造りの建物を見上げた。
看板はない。ただ、扉の脇に刻まれた小さな羊毛の紋章だけが、ここが都市の心臓部の一部であることを証明していた。
重い扉を押し開けると、そこには染色の街に似つかわしくない無機質な空間が広がっていた。立ち込める酢の匂いも、煮え立つ釜の熱気もない。あるのは、乾いた石床と低い机、そして——命を抜かれた抜け殻のような、白い布切れが数枚。
机の向こうに座る男、サンドロ・ディ・バルディは視線さえ上げなかった。
染色監督官。この都市国家における「赤」の絶対的な門番。
「……量は」
挨拶も、名乗りも、冬の冷気の中に霧散した。
ラウロは無言で、封蝋の施された小袋を机に置いた。サンドロはその重さを測るように見つめるが、触れようとはしない。
「今年分か」
「ええ」
「余らないな?」
「余らせません」
サンドロがようやく顔を上げた。その目は、商人の品定めをするためではなく、深い淵の底で覚悟の在処を確かめるような鋭利さを帯びていた。
「赤はな」
サンドロは、重い沈黙を切り出すように言った。
「欲しがる者が多い。だが、纏うことが許される者は、驚くほど少ない」
ラウロは頷かなかった。フィレンツェの複雑な法も、身分による色彩の制限も、彼にとっては等しく無機質なルールに過ぎない。
「この赤は、市場に出ない」
「承知しています」
「競りにもならない」
「ええ」
「帳簿には——」
「『赤色染料・特別等級』…ですね」
サンドロの口角が、わずかに歪んだ。それは笑みというより、歯車が噛み合ったことへの冷徹な確認だった。
「君は、この赤が何に使われるか、知っているか」
ラウロは僅かな間を置き、機械的に首を振った。
「いいえ」
「誰が着るかも?」
「知りません」
「どの式典で使われるかも?」
「……興味がありません」
沈黙が部屋を支配する。外から聞こえるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の鐘の音が、厚い石壁を抜けて微かに響いた。
「……それでいい」
サンドロは立ち上がり、ようやく小袋に指をかけた。封蝋の刻印を確認する所作は、まるで秘蹟を執り行う司祭のようでもあった。
「赤を売りに来る商人は多い。だが、赤を『管理』しに来る商人は少ない」
サンドロは低い声で続ける。
「君は、この赤を誰の権威にも結びつけていない。神とも、家門とも、理念とも。だから、この赤は安全だ」
引き寄せられた分厚い帳簿に、羽ペンが走る。
数量、等級、受領。
そこには、対価としての金額は記されない。この赤の価値は、数字で測れる領域を超えているからだ。
「支払いは、いつもの形で」
サンドロは帳簿を閉じ、ラウロを射抜くように見た。
「聖年を控えた今、この赤は例年とは違う意味を持つ。
君は、この色が誰の肩を飾るのか、本当に興味がないのか」
「一商人には、無用な関心と心得ております」
「…それは重畳」
ラウロは深く一礼し、踵を返した。
外に出ると、フィレンツェの喧騒が彼を包み込んだ。
行き交う群衆、風に踊る極彩色の布。その中には、確かに「赤」も混じっている。だが、彼が今置いてきた「赤」は、ここにはない。
外套の襟を立て、彼は歩き出す。目的地はメディチ家の影がちらつく銀行だ。
あの赤は、今この瞬間から帳簿の中で死に、誰かの肌の上で再び産声を上げる。
——その正体が、聖職者の慈悲か、君主の野心か。
それを知らぬことこそが、この街で「赤」を扱う唯一の資格だった。
3
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる