horízōn ~はるかとおく~ :咎人之王

つみ²

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奴隷商人

色のない道(アペニン越え)

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フィレンツェの北門、サン・ガッロ門を背にした瞬間、世界から色が消えた。
背後に残してきた「花の都」の喧騒――革を叩く職人の金槌の音、市場で飛び交う露店商の怒号――は、北から吹き下ろす冷淡な風に、いとも容易く削ぎ落とされていく。石畳は牙を剥くように荒れ、道は容赦のない上り坂へと姿を変えた。

一日目は、ただ馬の歩幅を揃えることだけに費やされた。
夕刻、薄暮に沈みかけた丘の向こうにスカルペリアの灯火が見えた時、一行の誰もが、凍てついた肺の奥から無言のまま息を吐いた。

だが、真の試練は二日目にあった。

距離にすれば、知れている。
しかし一月のアペニン山脈は、物理的な距離という概念そのものを嘲笑う。

雪と泥濘が交互に現れ、蹄はたびたび凍土に滑った。進んでいるはずなのに景色は変わらず、ただ時間だけが鉛のように重く、足元に沈殿していく。

フィエーゾレの脇を抜ける頃、視界を支配していたオリーブの銀緑色は途切れ、葉を落としたナラやブナの原生林が、黒々とした壁となって行く手を塞いだ。
聞こえるのは、蹄が氷を砕く乾いた音と、自身の荒い吐息だけだ。

不意に、谷間のどこかで狼の遠吠えが響いた。
それは獲物を追う声ではない。ただ、この山嶺に「支配者として在る」ことを告げる、無関心な宣告だった。

峠の頂、ラ・フータ。
雲が足元を流れ、見渡す限りの嶺が、冷たい光を宿した雪で縁取られている。

ここにあるのは、都市の知性でもなければ、メディチの金でもない。
ただ、剥き出しの自然が放つ圧倒的な威圧だけだった。

その夜、一行はようやくフィレンツォーラの宿へと辿り着いた。

「……生き返るな」

誰かの低い呟きが、広間に溶ける。

濡れたマントから立ちのぼる白濁した湯気と、安ワインの酸っぱい匂い。
外の刺すような寒気とは対照的に、暖炉には巨大な薪がくべられ、爆ぜる音が護衛たちの低い笑い声と混じり合っていた。

屈強な男たちは剣を膝に置いたまま、豆の煮込みを無心にかき込んでいる。
窓の外はすでに漆黒だ。闇に沈むアペニンの稜線を見上げるだけで、指先が痺れるような行軍の感覚が甦る。

ラウロは暖炉の前に立ち、爆ぜる火をじっと見つめていた。

「旦那」

ロドヴィコが、盃を手にしたまま声をかける。

「フィレンツェを出ると、いつも少し……ほっとした顔になりますね」

ラウロは動かない。
舞い上がる火の粉を視線で追いながら、静かに応じた。

「カッファから始まった商売の巡りが、あの街で一度、閉じる。精算が済むまでは、どうしても落ち着かん。
値が付かなかったらどうしよう、とか。道中で襲われたらどうする、とか……」

一拍置いて、彼はかすかに口角を上げた。

「それに、私は権威や権力の空気が苦手でな。
あの街は、常に“見られている”。正しくあれ、と言われ続けているようで」

「今日はよく喋る」

背後で、トゥマニが珍しく笑みを含ませた。
彼もまた、この山中の静寂に救われている。そのことを、ラウロは言葉を介さずとも理解していた。

「わかりますよ、旦那」

ロドヴィコが深く頷く。

「華やかですけど……あそこには『ちゃんとしていなければならない』空気があります。息を抜くと、すぐ何かに咎められそうで」

「明確な支配者がいる都市は、大抵そうだ」

ラウロは火から目を離し、仲間たちを見渡した。

「ボローニャから引き返す時に、もう一度寄らねばならん。だが、それは次の商いの準備だ。割り切るしかない」

その夜、藁を敷いただけの簡素な寝台に身を横たえると、階下から馬のいななきと、時折響く夜回りの足音が聞こえてきた。

石の都の静寂よりも、この荒々しい山の夜の音こそが、今の彼らには確かな安らぎだった。

ラウロは目を閉じる。
明日もまた続く険しい道のりを、静かな覚悟とともに受け入れながら。
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