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1話 豆柴の恩返し
6.名前と過去2
しおりを挟む……——ここのところ彼女は野良犬だったらしい。
という事はその前がある。彼女は野良犬になる前、一人暮らしのおばあちゃんのもとで暮らしてたそうだ。
その飼い主が彼女を"タマ"と呼んだのだと。
おばあちゃんの家の仏壇の前にはおじいさんと茶トラの猫の写真が飾られてたそうだ。
「タマは多分あの茶トラの猫さんの名前だと思うんです」
「なるほど」
結構な高齢だったおばあちゃんはだんだん身の回りの事がおぼつかなくなって、心配した息子夫婦との同居が決まった。
息子夫婦はマンション暮らしだから、邪魔になることを危惧した彼女は自ら姿をくらませたそうだ。そして先述の公園に至ると……。
「……新しい名前考える?」
「えっ」
「いや、タマが気に入ってるならいいんだけど。嫌じゃないなら」
「あのっ」
「なに?」
わたし、このままここにいてもいいんでしょうか?と今さらな事を聞かれてぽかんとしてしまった。
たった一宿の恩返しにあんなに頑張って料理をしてたのだろうか? だとしたらどこまでも生真面目で懸命な犬だ。今もまた眉間に皺が寄ってる。
「一度拾ったんだから、簡単に放り出したりしないよ。この家ペット可だし問題ないよ」
「ほっ、ほんとうにいいんですかっ……」
「おばあちゃんよりいい飼い主になれるかは分からないけど」
「……お、おばあちゃんのことも好きだったんですけどっ……」
でも拾ってもらえてうれしいですと彼女は言った。
黒目がちな丸い瞳が潤んで、たしかに豆柴らしく見える。
どんな名前が似合うだろう? 彼女の特徴を考えてみる。
赤茶色のふわふわした髪、黒くて丸く大きい瞳、小さくて短い手足、丸くて小さな顔。髪と同じ色の短い困り眉……。
「……あずき」
「あ、あずきですかっ」
「うん。どうかな、嫌だったら違うの考えるけど」
「いいですっ! 好きです、あずきがいいですっ」
ぱぁっと表情が明るくなり、両手で拳を握った。顔は笑ってるのに眉間には皺が寄ってる。感情のたかぶりが眉間に出るようだ。
「じゃあ、あずきにしよう」
よろしくねあずきと言うと、はいっと元気よく返事をした。
その日からピーと僕の一人と一匹の暮らしは、あずきを加えた一人と二匹の暮らしになった。
□□□
……——カーテンの隙間から差し込む朝日がまぶしい。
もう朝だ。昨日はネットでペット用品を見てたから、ついつい夜更かししてしまった。
ふとリビングに視線を移すと、クッションの上に眠る赤茶色の豆柴の尻が見える。飼い主に尻をむけて眠るとは神経の太い犬だ。
(あずき、犬に戻ったのかな?)
昨日は豆柴が女の子に見えた。僕の精神に何らかの異常があるのかと思ったけど、スーパーで可愛い妹さんですねと言われたので、多分現実のできごとだったんだろう。
しかし一晩明ければ眠ってるのは間違いなく犬だ。間違えて拾ったんじゃなくてよかったけど。
あずきのむこうのカゴの中で、そら豆みたいな緑色のインコがまだ眠ってる。うちは豆だらけになった……。
(洗い物しよ……)
夕食のあと使ったマグカップを洗うのが面倒で流しに残したままだった。
ごそごそと起き上がってキッチンに行く。マグカップはやっぱり二つある。
昨日大きな来客用のマグカップを小さな手で持っていたあずきの姿を思い出す。でも背後のリビングにはやっぱり犬が寝てる。
考えても仕方ない。僕はスポンジに洗剤を出して、マグカップを洗った。
ザーザーと水を流して泡を洗い流してたら、ふと背後に気配を感じた。
「……あのっ」
聞き覚えのある声がする。これが夢か現かこの目で確かめるまで考えるのはやめようと思った。
僕はひとつ深呼吸してから、カゴに二つ目のカップを置いて声の主へ向け振り向いた。
fin.
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