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#01 曼珠沙華の心に棘はあるか?
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……赤い曼珠沙華は華やかで美しく、どこかもの悲しい悲哀をいつもあたしに感じさせる。……曼珠沙華という華は美しい……執拗に華美で毒のある印象すらあたしに思わせるほどに…… あの秘めやかな影のある美しさをもつ悲しげな表情。その様子だけで人を虜にする妖美で可憐な美しさ……しかしその美しき影のある姿に、あたしはあの華自身の持つ毒、あの華自身の存在の美しさにあざとさを感じえずにはいられないのだ……。
あの華は……人の心を虜にさせるような感情が集り可視化され生まれてきた存在。そんな生命を秘めやかに持って生まれてきた華に違いない。……あれはそういう華だ。
……そしてあの華の持ってうまれた美しい毒、その心に棲み潜む棘があたしの心を強く惹きつけていた。
ありのままの造形の美しさを真摯に見染める恭二なら、曼珠沙華に棘はないと言うだろう。でも私は自分が感じている感性すらもひとつの美しき真実だと信じている。だから曼殊沙華はその存在自身に、きっと秘めやかな毒の棘を持っているのだと感じていた。
……一嗣ならどう考えるのだろう。
昨日又、彼からの手紙が届いた。……封はあけなかった。
一人の若い女が花魁のように妖美な仕草で着物をはだけさせ、艶めかしく肌を露出させる。肩から乳房、下半身をも半身露出させ、髪をかきあげる仕草で、官能的でもあり、視線と獲物を狙うかのような能動的で動物的な表情をカメラに向ける。すべるような艶やかな肌と乳房が、シルクのような滑らかさを帯びている。若さも手伝って彼女のきめ細やかな肌と乳房からは、雌特有のフェロモンが匂い立つほどにも色気を醸しだしている。光の加減を調節する何本もの撮影用の銀色のスチール傘に囲まれて、彼女はその裸体の曲線美を描くように若々しい艶やかな裸体をカメラのレンズに向けて色めきたたせていた。
バシャッ! バシャッ!
白銀色の光のシャワーを浴びて、彼女は自ら艶めかしく肌を晒す、自ら裸体を晒していく……
赤い欲情に燃え散る曼殊沙華のように、切なく妖美に、華やかに美しく……
バシャッ! バシャ! バシ! バシ! バシ!
激しく光と共に瞬いていくカメラのシャッター音に合わせ、彼女はポーズを少しずつ変えながら絶妙な角度でカメラに目線を流す……水嶋 瀬奈は十分に理解していた。どうすれば女として、雌として、被写体として不特定多数の男達の欲望を刺激し、官能的にも欲情させ己の虜にさせる事ができるのか、男達がどんな目で私を見て渇望し、雌としての自分を望んでいるのか、彼女は被写体としてもう十分すぎるほどにその意味もこの撮影の目的も理解していた。
自分の艶やかな身体のラインが一番官能的に見える姿勢を彼女はよく理解していた。男の欲望を刺激するかのような仕草に、男を誘惑するような視線、顔の表情、繊細なしぐさ、瞬きのタイミングや、息遣いの様子や具合までも、その官能的な感覚がレンズを通してでも伝わるように、男達の欲望を満足させる目的の為に色めき立つような卑猥な被写体、そんな被写体として、もう何度も長い月日を、こんな撮影を重ねてきているのだから
そして彼女を撮るその女写真家は、最後のシャッターを切りながら、彼女にOK のサインを出した
女写真家「はい、瀬奈、お疲れ様。今回の撮影はこれで終了よ」
彼女がカメラを収め、タオルをかけてくれる
瀬奈「お疲れさまでした」
写真家「今回はまた違った趣向の最高に美しい作品に仕上がるわ。ありがとう」
瀬奈「こちらこそ、ずっと憧れていた写真家さんに撮ってもらえて光栄ですよ」
……光栄?
光栄……か。彼女は自分の発した言葉に刹那的にある思いを重ね、強く毒づいた。
今の私は男達の欲望の視線にまみれた、卑猥な被写体、欲望にまみれた黒い被写体だ。今の私の裸体は恐ろしい程、人々の目にさらされている。夢を見たモデルという仕事を続けつつも、同時にそれは多くの目に常に視姦されて続けていくのだという強迫観念が今の私の中には共存していた。被写体は自分自身で望んでいた事であるが、私の身体は人々の興味と欲望という視線の無限の針に纏わりつかれ、常に貫かれ続けている……いうなれば私の身体は堕落の針に貫かれ続ける黒い棺、黒い被写体だ。……その現実はモデルを続け、常に被写体である以上、それは自分自身への苦しみとの葛藤の呪縛意外なにものでもないのかもしれない。
純粋に美しい被写体と飾られ撮影してもらえる事自体は幸せな事だった。それは嘘ではない。特に私の心を貫き写す写真家に指名される事は光栄なことだ。
写真はこの世界の奇跡だ。もう二度と巡り合う事のできない、過ぎ去っていく瞬間、その一瞬のきらめきを、過去の真実をこの世界に唯一繋ぎ止めることが出来る。
そして人間にはその輝いていた瞬間の奇跡の一瞬がある。シャッターを切った瞬間から、もうその瞬間には戻れない、永久に巡り合えない美しい時を紡ぐ自分の美しい姿を永久に留める奇跡の力、美を閉じ込める力が、撮影の時間の中にはそして写真の中にはそれが確実にある。
だから私はその時間に惹かれ、もう二度と訪れないその瞬間の美しい自分自身に出会う事に溺れた。被写体として写真家に美しき作品として撮られる事に誇りを感じていた。
特に著名な名のある写真家に指名され、撮影され、写真集を出してもらえる事は被写体として申し分ない。仕事上、相乗効果として名前も売れ、モデルとしてはステータスにもなるものだ。……被写体として世に名前を売り込み有名になってゆく、知ってもらうという事においてはこれ以上光栄な事はない。
そう、被写体としての自分を売るという事に関しては。この世界で食べて生き抜いていくという事実に関しては……。
だが代償に、今の若い自分の裸体と素肌を惜しみなくさらけ出し、素顔までも晒し、裸体を生活に換えて見せるという目の前の事実に、将来的に今後一切の人生、生活、自尊心を保ち、この道に迷いを持たず、ゆるぎない強い信念と崇高な意思を持てる強き自分があるのならばね……。誹謗中傷もあるだろう。好奇な眼で見られ、陰で噂され、指をさされる事さえも。
いや、私のように裸体を晒す被写体の中に、迷いや苦悩のない被写体などいないだろう。少なくとも私は常に葛藤している。せめてもの希望は私の裸体を晒した作品群を美しきアート作品として見てもらえる事が望みだが、純真にその目を持っている人間は恐らく数少ないマイノリティなのだろう。現実はそうはいかないものだ。この私が女である以上、雌として裸体を晒す以上……
でもこれは自分自身で選んだ道。蛇の道は蛇なのだ。
そう自分自身に無理にでも言い聞かせ、私はもう何度もこの手の被写体として仕事を続けてきた。
若い女として魅力的な容姿に恵まれていた瀬奈にとって、有名になる為に、名を売るにはヌード撮影という道は確かに近道であった。裸体を晒すだけでなく、ファンを飽きさせない為、写真家達と瀬奈は試行錯誤を踏まえ、表現という事に純粋に努力した。努力と言えば、写真家達のアブノーマルな世界感や要求にも望みがたい事にも従順に適応していった事。タブーやノーは一切しなかった。若く魅力的な美しい女、という武器と看板を高らかに掲げ、自分自身の感情を被写体として表現する能力に貪欲に長けていた瀬奈は、少なくともスキャンダラスな、この手のヌードモデルモデルとしては注目を集めることが出来たからだ。
その反面、その事実は、彼女自身が望む理想から遠のいていくという現実と、あるプレッシャーのような焦りにも似た葛藤にせめぎ合っていた。
彼女の中で一嗣との約束が彼女の心を強く傷つけ追い詰めていた。
いつか一嗣の側に添い遂げるような、しなやかに輝くような素敵なモデルになりたい。
その事だけを夢見て、瀬奈は走り続けていた筈であった。だが現実は瀬奈が望んだ願った方向へは道は開けてはいかなかった。そんな現実が瀬奈の前に立ちはだかっていった。
それは瀬奈が二十三歳の時であった。当時、ポートレートとしての被写体を個人的に繰り返していた素人同然であった瀬奈にその話を持ち込んできた写真家はかつての仲間であり、業界で彗星のごとく名を轟かせた写真家、世良 恭二からの誘いであった。幾度となくヌードモデルの被写体を業界へ華々しく売り込んでいた彼の写真集の評判は逸品で、彼に撮られるという事は、写真集と共にモデルとしてその名が売れていくひとつの節目とさえ言われる程の著名的な写真家となっていた。瀬奈に課せられた条件。セミヌードはその課題だった。
恭二はグラビア撮影を得意とする写真家であったが、同時に作品撮りとしてのヌード撮影にも定評があり、見込みのある被写体をモデルとして随時プロデュースを行っていた。
そんな時、瀬奈は恭二に声をかけられた。当時、若く夢を見ていた右も左もこの業界の事すら知らない瀬奈にとって、自分の夢を純粋に追い続け目指していた彼女自身の目に、それは又とないチャンスのように思えた。
だが、恭二がプロデュースした写真集を出した後で、瀬奈を取り巻く現実は恐ろしい程ねじ曲がり、別の表情を瀬奈に見せはじめるのだった。次から被写体としての瀬奈に要求されるのは、事あるごとにヌード撮影の依頼であった。そしてそれは撮影を重ねるごとに過剰に過激にエスカレートしていき、皮肉にも、若く美しい瀬奈の写真集は話題となり、彼女の意思と思惑とは反比例して名前は売れていく。より過激な撮影を要求され、仕事をこなしていくごとに、本人の夢や意思とは裏腹に瀬奈の卑猥な美しき被写体へのイメージの定着が世論の目によって創り上げられていった。
……そして今もなお、止まない一嗣からの手紙を見るたびに、心毒づく彼女がいた。毒づいてしまうのは、自分が卑猥な被写体に染まってしまったからだけではなかった。一嗣とは相反する写真を撮らえる、恭二に撮られた写真がきっかけで自分の名が売れてしまった事が何よりも彼女の心を苦しめていた。
一嗣は類まれな魂をも映し出すような写真を撮れるセンスを持っていた。一嗣はいつか世界に名を馳せるほどの写真家になるだろう、瀬奈は幼馴染の頃よりそう思っていた。いつか彼の目に敵う美しいしなやかなモデルになって、世界一の写真家になるであろう彼に撮られたい、最高の自分を撮ってもらいたい……そんな淡く美しい夢を瀬奈は心に抱えていた筈であった。
そんな彼女がモデルとして人生を歩もうと背中を押してくれたのが、彼の写真であり、心に決めた望む被写体としての原点が一嗣の存在であった筈だった。お互いに夢を見た写真家と被写体となったその時に、彼に撮影してもらえるその日を夢見て、彼女は被写体としての人生を歩き始めた筈だった。
だが今の瀬奈は男性の欲望を満たす嗜好に近いモデルという現在の被写体としての着地点に一嗣の願った理想の自分自身とは程遠い場所にいるのだろうという後ろめたさと絶望感を感じていた、そしてその事実とのギャップに葛藤し、その現実に苦しむ瀬奈自身がそこに居た。
今の私は、彼の望んでいる美しさとはとても思えない、男性の性癖をそそり、その為に自分の裸体をさらけ出し、素顔と痴態を晒すような黒く欲望にまみれたような黒い被写体だ。グラビアや写真集といえば聞こえはいいが、実際はどれも男性の欲望を満たすためのように撮影された作品ばかりだ。
やめよう。写真家は常に作品として、アーティストとしてモデルを起用するものだ、だからこれはモデルとしての自分自身に問うべき、自分のアイデンティティに関わる、己の存在価値に関わる個人的な悩みなのだ。これは自分が招き望んだ事でもあるのだから。
こんな欲望の視線に纏わりつかれている、黒い被写体のわたしを知っても、一嗣はいつか再会した時に、彼の中で被写体として受け入れてくれるのだろうか。行方不明の彼との約束を胸に抱きながら、瀬奈はやるせない現実の自分自身に朝まで酒を浴びては自堕落な生活へ落ちていく日々が続いていた。
しかし紗殻 一嗣との出会いは再びカメラのフラッシュに弾かれ訪れる事になった。
ある日、仕事に疎み、どうにも生活に首が回らなくなり、金に困っていた私は、業界で知り合った、私に以前から気があるらしい若いイケメンモデルに誘われ、金銭目的の援助交際のような流れで新宿のホテルで一夜限りの火遊びに至ってしまった。
だがホテルから出たところ、いきなりカメラのフラッシュの雨を浴びる事になる。
「やめてくれ!」
私の火遊びの相手は、都会のホテル街でカメラを持つその男におののくと、あたしを盾にしてカメラのフラッシュから隠れるように震える子犬のようにうずくまった。……まぁ。あたしはきっと彼にとっては体のいい遊び相手だったのだろうが、それでも女を盾にするか? アンタはあたしに少しは気があったんじゃなかったのか? こんなセンセーショナルなこんなシチュエーションはまるで撮影現場でのあたしの写真集と同じじゃない……写真集と同じ? ……ああ。そうか……そうね、やはりこの人も作品を見てわたしを性癖の対象としてしかみていなかったのか……。カメラ男のフラッシュの光が今度はあたしに激しく注がれる、やがて彼は背徳への罪悪感からか、カメラのフラッシュに怯え、そのままあたしだけをその場に取り残して、駆け出し、逃げ出した。……ああきっと、今更、別の女のところへでも逃げ帰るのか。
……馬鹿な男、写真はその瞬間にしかない、永遠に巡り合えないあなた自身を確実にその時をとどめているというのに。写真から逃げる事などできやしないのに。現実の時間とその瞬間を唯一この世にとどめておくことができる素晴らしいものだというのに……。彼はなんという中途半端で悲しい被写体なのだろう。軽々しく慣れない火遊びなんかに覚悟もなく足を踏み込むからだ……そう。人生とは覚悟の中で成り立っているのだ、もう少し冷静で賢い日々を覚悟を持って生きている男だったなら、このカメラ男を買収するという理性的な行動と選択の道もあっただろうに……
しかしわたしにとって重要な問題はそこではなかった。
何故ならば、そのカメラを持った男を、あたしは皮肉にも、懐かしくも良く知っていたからだ。
瀬奈「……一嗣?」
一嗣「……瀬奈?」
まぁ。なんて都会的でドラマティックで劇的な再開なんでしょう。
涙がにじむよ。泣けてくるよ、こんな再会の仕方って……ナイよ。
東京の新宿のホテル街で、芸能人のスキャンダルを取り押さえる色モノ週刊誌のパパラッチきどりのカメラ男。そんなドラマのようなシーンを感じさせるカメラを持つ彼は、間違いなくあの一嗣だった。
あたしと一嗣の、この劇的な出会いは、なしくずし的に、そのままの流れでビル街の飲み屋街へと足を運び、お互い古傷を晒し朝まで飲みあかすことになった。
その日、色気もない大衆酒場ともいえる店であたし達は実に微妙な再会の祝杯をあげた。
一嗣「いや驚いた、まさかアイツの嫁から依頼されてた浮気相手の正体が瀬奈だったなんてな」
瀬奈「やめてよ、彼とは初めてよ。はあ? 嫁って、アイツ奥さんいたんだ、まあ。どうでもいいけどさ。仕事が途切れて生活に困って仕方なかったのよ。前からしつこく口説かれていたのもあって、謝礼の条件で一夜限りの火遊びにつき合っただけなの。彼の浮気相手はきっとあたしじゃあないのだわ、それは確実よ」
一嗣「まぁ。そうだろうさ。ありゃ瀬奈のタイプじゃないからな」
瀬奈「ところで、一嗣の目指していた世界一のカメラマンって? こういう事なワケ?」
一嗣「耳が痛いね。だが残念ながらこれが今の現実なのさ。表向きの仕事は浮気調査が主流の探偵まがいな仕事でね。食べてくためには仕方ないってわけさ。恥ずかしいけど、こんな姿を瀬奈に見られてしまったら、写真家も何もあったもんじゃないな。ここ数年、お前の前に姿をみせられなかったのは、こんな無様な状況でいるうちは、お前の前に姿を見せたくはなくてね」
瀬奈「ああ。そう言うこと……まぁ。あたしも今いる位置はとても貴方に自慢できるとはいえないんだけれどもね……今のあたしは、まるで黒い被写体ですもの」
一嗣「黒い被写体? なんだよそれ」
瀬奈「今でも写真を続けているのなら今の私の事はもう知っているんでしょ? 今は常に自分自身が周囲の好奇心と欲望の目の針に刺されているように感じるの。ヒリヒリとね、いつも知らない他人にどこかで指をさされているんじゃないかとおびえているのだわ、心の中では人前にどうどうと威張れない卑猥な撮影のモデルだからね、だから黒い裸体なの。ああ私は誰の裸もしらないのに、周りの隣人や世間は皆私の裸体を知っているのだわ」
一嗣「やれやれ、それが自分を黒い被写体と責める理由かい? プライドが持てず嫌ならそんな被写体なんか辞めればいいじゃないか。だけど今、瀬奈は立派にプロのモデルとして頑張ってるから続けているんじゃないのか?」
瀬奈「……」
瀬奈「……ねぇ。あの時一嗣があたしを撮りたいと思ってくれていた時のあたしってさ……絶対に、今あたしのいるこんな場所じゃなかったよね? もっとこう太陽の光をどうどうと浴びれるような、そんな風に輝いていて、海の浜辺で天使のような笑顔をふりまき輝いているような……白い被写体なんだよね?」
一嗣「俺的には今時天使のような笑顔をふりまき輝く被写体っていうのも十分、あざとくて黒いと思うけどね。……というかさっきから俺には瀬奈の口から飛び出してくる、白だの黒だのの拘りの違いが良く解らないな。俺の今の現実だって瀬奈の中では随分違っただろ、瀬奈はそんな俺をさしずめ黒いカメラマンとでも呼ぶのかい? そうじゃないだろう? 現実はそうおいそれと甘くはないものさ、それでも自分の好きな事は大切に続けているつもりだし、その情熱は失ってはいないさ。瀬奈だってそうだろう? まぁ。今はまだ理想からはほど遠いというところは、なんていうか、その辺はお互い様って事でいいんじゃないか? 焦る事はないさ」
瀬奈「でもあたし、今も一嗣が写真を続けているのは十分解ったわ。今時の探偵はおもむろに一眼レフカメラなんかもち歩かないもの。そういうのって普通は隠密に隠しカメラかなんかじゃないの? 怪しげなペン的な」
一嗣「え? そういうものなのか。俺は結論、撮れればいいと思っていたし、そこ拘ってなかったよ。てゆーかそもそも向いていないんだよ、こそこそ探偵みたいな真似が、勿論写真は続けているし時々、都内のギャラリーで小さな個展は開いているんだ」
瀬奈「ふふ。いきなり目の前に飛び出してきてフラッシュ浴びせる探偵なんかいないものね。ふふふ。なんか安心した。一嗣そういうとこ全然変わっていないね、ちょっとほっとしたよ」
一嗣「そうか?」
瀬奈「うん」
瀬奈「あーあ。……なんだか自分の理想や夢ってさ、追えば追う程、頑張れば頑張るほど魂が擦り切れて遠のく、手の届かない幻みたい」
一嗣「まだまだお互いに発展途中って事さ、これから理想に近づく為の道を、少しづつ模索していけばいいのさ、それに何か勘違いしてるみたいだけど、写真家から言わせてもらえばレンズ越しに見る被写体に黒も白もねぇよ、どの被写体も自分らしく十分輝いてるものだよ、ありのままにね。今の瀬奈は十分、被写体として魅力的だよ」
瀬奈「そうかな……でも一嗣って昔から、ヌード撮影に興味はないんでしょう?」
一嗣「別にヌードを否定しているわけじゃないさ。ただ俺はその先を超えた美しい魂を撮りたい、その本質的な美しさは内面から醸し出されているものだと思っているからだよ。それを可視化してみたいんだ。その拘りは変わってない。勿論それにヌードが必要ならヌードでも撮るさ、だけど違うんだ。それが何か今でも答えは出ないんだ」
その日、私達は熱く語り明かした。大好きな彼との再会。懐かしさも手伝って、今のお互いの現状には納得していないと、お互いを確かめ合い、恥ずかしそうにはにかみながらも微笑み、そして何よりも私達はあの瞬間の時間を取り戻した気がした。久しぶりに会った一嗣はあの頃とは何も変わっていなくって、お互いに未だ理想の夢には程遠いところにいるけれども、二人の間には、確実に懐かしい時間が戻ってきたことを実感した。あたしが頼んだカルーアミルクが出てきたところで時刻は既に夜中の三時をまわっていた。
瀬奈「あーあ……あたしのこの先のモデル人生ってここから方向転換とかできるのかなぁ」
一嗣「俺の写真家として撮りたいモノもまだまだ見つからないのかなぁ」
瀬奈「……ね。学生の時の向日葵畑で交わした約束まだ覚えている?」
一嗣「二人で理想の写真家と被写体となった時に、向日葵畑で撮影して写真集を出そうってあの頃交わした青くさい約束かい?」
瀬奈「あら、あたしは本気だったのよ? 一嗣のあの言葉があたしをこの世界へと背中を押してくれたんだから……今だって約束を大切に思ってる」
一嗣「……」
一嗣「……俺もだよ、あの時の夢は今でも描いているよ」
瀬奈「ね。写真集、出しちゃおうか? 今すぐ」
一嗣「よせよ、こんな浮気調査の探偵なんかにまた撮られたいのか? ヌードのその先にある美しさってやつが俺にはまだ見えていないのさ。恭二や瀬奈に偉そうなことさんざん言っておいてなんだけど、もしかしたら今はまだまだ俺が二人に追い付いていないのかもしれないな。恭二の奴は立派だよ。有言実行でしっかり夢を叶えてやがる……俺だけ出遅れてるんだぜ」
瀬奈「……じゃあ向日葵畑での約束は?」
一嗣「まだお預け、ってとこだな」
その時、グーっと彼のお腹の虫が鳴いた。
瀬奈「あ。絞めにラーメン食べにいこっか」
一嗣「おー。そうそう俺、最近この辺界隈の明け方までやってる美味いラーメン屋発掘しててさ、いい店知ってるんだ」
……ひとつだけ変わらないものがあった
それはあの時となんらかわらない彼の屈託のない笑顔。
わたしの一番大好きな彼との幸せな世界。
焦る事はない。私達の夢はまだ発展途上
今はこうして再び彼と再び巡り合えた事だけでも上出来だ。
私達の夢へのリベンジはここから始めてもかまわない
いつか彼に撮られる、
二度と戻らないその奇跡の一瞬の為に閉じ込めてもらえる日を夢見ながら
あたしは明日も写真家達にあたし自身の総てを撮らせるのだろう
だが自分自身で今わかる事がある。
被写体に黒も白もない。
私のやり方で彼に認めてもらえるように、今からでも私は生まれ変わりたいと思った。
……彼に撮られる為に、白い被写体を夢見て。
あの華は……人の心を虜にさせるような感情が集り可視化され生まれてきた存在。そんな生命を秘めやかに持って生まれてきた華に違いない。……あれはそういう華だ。
……そしてあの華の持ってうまれた美しい毒、その心に棲み潜む棘があたしの心を強く惹きつけていた。
ありのままの造形の美しさを真摯に見染める恭二なら、曼珠沙華に棘はないと言うだろう。でも私は自分が感じている感性すらもひとつの美しき真実だと信じている。だから曼殊沙華はその存在自身に、きっと秘めやかな毒の棘を持っているのだと感じていた。
……一嗣ならどう考えるのだろう。
昨日又、彼からの手紙が届いた。……封はあけなかった。
一人の若い女が花魁のように妖美な仕草で着物をはだけさせ、艶めかしく肌を露出させる。肩から乳房、下半身をも半身露出させ、髪をかきあげる仕草で、官能的でもあり、視線と獲物を狙うかのような能動的で動物的な表情をカメラに向ける。すべるような艶やかな肌と乳房が、シルクのような滑らかさを帯びている。若さも手伝って彼女のきめ細やかな肌と乳房からは、雌特有のフェロモンが匂い立つほどにも色気を醸しだしている。光の加減を調節する何本もの撮影用の銀色のスチール傘に囲まれて、彼女はその裸体の曲線美を描くように若々しい艶やかな裸体をカメラのレンズに向けて色めきたたせていた。
バシャッ! バシャッ!
白銀色の光のシャワーを浴びて、彼女は自ら艶めかしく肌を晒す、自ら裸体を晒していく……
赤い欲情に燃え散る曼殊沙華のように、切なく妖美に、華やかに美しく……
バシャッ! バシャ! バシ! バシ! バシ!
激しく光と共に瞬いていくカメラのシャッター音に合わせ、彼女はポーズを少しずつ変えながら絶妙な角度でカメラに目線を流す……水嶋 瀬奈は十分に理解していた。どうすれば女として、雌として、被写体として不特定多数の男達の欲望を刺激し、官能的にも欲情させ己の虜にさせる事ができるのか、男達がどんな目で私を見て渇望し、雌としての自分を望んでいるのか、彼女は被写体としてもう十分すぎるほどにその意味もこの撮影の目的も理解していた。
自分の艶やかな身体のラインが一番官能的に見える姿勢を彼女はよく理解していた。男の欲望を刺激するかのような仕草に、男を誘惑するような視線、顔の表情、繊細なしぐさ、瞬きのタイミングや、息遣いの様子や具合までも、その官能的な感覚がレンズを通してでも伝わるように、男達の欲望を満足させる目的の為に色めき立つような卑猥な被写体、そんな被写体として、もう何度も長い月日を、こんな撮影を重ねてきているのだから
そして彼女を撮るその女写真家は、最後のシャッターを切りながら、彼女にOK のサインを出した
女写真家「はい、瀬奈、お疲れ様。今回の撮影はこれで終了よ」
彼女がカメラを収め、タオルをかけてくれる
瀬奈「お疲れさまでした」
写真家「今回はまた違った趣向の最高に美しい作品に仕上がるわ。ありがとう」
瀬奈「こちらこそ、ずっと憧れていた写真家さんに撮ってもらえて光栄ですよ」
……光栄?
光栄……か。彼女は自分の発した言葉に刹那的にある思いを重ね、強く毒づいた。
今の私は男達の欲望の視線にまみれた、卑猥な被写体、欲望にまみれた黒い被写体だ。今の私の裸体は恐ろしい程、人々の目にさらされている。夢を見たモデルという仕事を続けつつも、同時にそれは多くの目に常に視姦されて続けていくのだという強迫観念が今の私の中には共存していた。被写体は自分自身で望んでいた事であるが、私の身体は人々の興味と欲望という視線の無限の針に纏わりつかれ、常に貫かれ続けている……いうなれば私の身体は堕落の針に貫かれ続ける黒い棺、黒い被写体だ。……その現実はモデルを続け、常に被写体である以上、それは自分自身への苦しみとの葛藤の呪縛意外なにものでもないのかもしれない。
純粋に美しい被写体と飾られ撮影してもらえる事自体は幸せな事だった。それは嘘ではない。特に私の心を貫き写す写真家に指名される事は光栄なことだ。
写真はこの世界の奇跡だ。もう二度と巡り合う事のできない、過ぎ去っていく瞬間、その一瞬のきらめきを、過去の真実をこの世界に唯一繋ぎ止めることが出来る。
そして人間にはその輝いていた瞬間の奇跡の一瞬がある。シャッターを切った瞬間から、もうその瞬間には戻れない、永久に巡り合えない美しい時を紡ぐ自分の美しい姿を永久に留める奇跡の力、美を閉じ込める力が、撮影の時間の中にはそして写真の中にはそれが確実にある。
だから私はその時間に惹かれ、もう二度と訪れないその瞬間の美しい自分自身に出会う事に溺れた。被写体として写真家に美しき作品として撮られる事に誇りを感じていた。
特に著名な名のある写真家に指名され、撮影され、写真集を出してもらえる事は被写体として申し分ない。仕事上、相乗効果として名前も売れ、モデルとしてはステータスにもなるものだ。……被写体として世に名前を売り込み有名になってゆく、知ってもらうという事においてはこれ以上光栄な事はない。
そう、被写体としての自分を売るという事に関しては。この世界で食べて生き抜いていくという事実に関しては……。
だが代償に、今の若い自分の裸体と素肌を惜しみなくさらけ出し、素顔までも晒し、裸体を生活に換えて見せるという目の前の事実に、将来的に今後一切の人生、生活、自尊心を保ち、この道に迷いを持たず、ゆるぎない強い信念と崇高な意思を持てる強き自分があるのならばね……。誹謗中傷もあるだろう。好奇な眼で見られ、陰で噂され、指をさされる事さえも。
いや、私のように裸体を晒す被写体の中に、迷いや苦悩のない被写体などいないだろう。少なくとも私は常に葛藤している。せめてもの希望は私の裸体を晒した作品群を美しきアート作品として見てもらえる事が望みだが、純真にその目を持っている人間は恐らく数少ないマイノリティなのだろう。現実はそうはいかないものだ。この私が女である以上、雌として裸体を晒す以上……
でもこれは自分自身で選んだ道。蛇の道は蛇なのだ。
そう自分自身に無理にでも言い聞かせ、私はもう何度もこの手の被写体として仕事を続けてきた。
若い女として魅力的な容姿に恵まれていた瀬奈にとって、有名になる為に、名を売るにはヌード撮影という道は確かに近道であった。裸体を晒すだけでなく、ファンを飽きさせない為、写真家達と瀬奈は試行錯誤を踏まえ、表現という事に純粋に努力した。努力と言えば、写真家達のアブノーマルな世界感や要求にも望みがたい事にも従順に適応していった事。タブーやノーは一切しなかった。若く魅力的な美しい女、という武器と看板を高らかに掲げ、自分自身の感情を被写体として表現する能力に貪欲に長けていた瀬奈は、少なくともスキャンダラスな、この手のヌードモデルモデルとしては注目を集めることが出来たからだ。
その反面、その事実は、彼女自身が望む理想から遠のいていくという現実と、あるプレッシャーのような焦りにも似た葛藤にせめぎ合っていた。
彼女の中で一嗣との約束が彼女の心を強く傷つけ追い詰めていた。
いつか一嗣の側に添い遂げるような、しなやかに輝くような素敵なモデルになりたい。
その事だけを夢見て、瀬奈は走り続けていた筈であった。だが現実は瀬奈が望んだ願った方向へは道は開けてはいかなかった。そんな現実が瀬奈の前に立ちはだかっていった。
それは瀬奈が二十三歳の時であった。当時、ポートレートとしての被写体を個人的に繰り返していた素人同然であった瀬奈にその話を持ち込んできた写真家はかつての仲間であり、業界で彗星のごとく名を轟かせた写真家、世良 恭二からの誘いであった。幾度となくヌードモデルの被写体を業界へ華々しく売り込んでいた彼の写真集の評判は逸品で、彼に撮られるという事は、写真集と共にモデルとしてその名が売れていくひとつの節目とさえ言われる程の著名的な写真家となっていた。瀬奈に課せられた条件。セミヌードはその課題だった。
恭二はグラビア撮影を得意とする写真家であったが、同時に作品撮りとしてのヌード撮影にも定評があり、見込みのある被写体をモデルとして随時プロデュースを行っていた。
そんな時、瀬奈は恭二に声をかけられた。当時、若く夢を見ていた右も左もこの業界の事すら知らない瀬奈にとって、自分の夢を純粋に追い続け目指していた彼女自身の目に、それは又とないチャンスのように思えた。
だが、恭二がプロデュースした写真集を出した後で、瀬奈を取り巻く現実は恐ろしい程ねじ曲がり、別の表情を瀬奈に見せはじめるのだった。次から被写体としての瀬奈に要求されるのは、事あるごとにヌード撮影の依頼であった。そしてそれは撮影を重ねるごとに過剰に過激にエスカレートしていき、皮肉にも、若く美しい瀬奈の写真集は話題となり、彼女の意思と思惑とは反比例して名前は売れていく。より過激な撮影を要求され、仕事をこなしていくごとに、本人の夢や意思とは裏腹に瀬奈の卑猥な美しき被写体へのイメージの定着が世論の目によって創り上げられていった。
……そして今もなお、止まない一嗣からの手紙を見るたびに、心毒づく彼女がいた。毒づいてしまうのは、自分が卑猥な被写体に染まってしまったからだけではなかった。一嗣とは相反する写真を撮らえる、恭二に撮られた写真がきっかけで自分の名が売れてしまった事が何よりも彼女の心を苦しめていた。
一嗣は類まれな魂をも映し出すような写真を撮れるセンスを持っていた。一嗣はいつか世界に名を馳せるほどの写真家になるだろう、瀬奈は幼馴染の頃よりそう思っていた。いつか彼の目に敵う美しいしなやかなモデルになって、世界一の写真家になるであろう彼に撮られたい、最高の自分を撮ってもらいたい……そんな淡く美しい夢を瀬奈は心に抱えていた筈であった。
そんな彼女がモデルとして人生を歩もうと背中を押してくれたのが、彼の写真であり、心に決めた望む被写体としての原点が一嗣の存在であった筈だった。お互いに夢を見た写真家と被写体となったその時に、彼に撮影してもらえるその日を夢見て、彼女は被写体としての人生を歩き始めた筈だった。
だが今の瀬奈は男性の欲望を満たす嗜好に近いモデルという現在の被写体としての着地点に一嗣の願った理想の自分自身とは程遠い場所にいるのだろうという後ろめたさと絶望感を感じていた、そしてその事実とのギャップに葛藤し、その現実に苦しむ瀬奈自身がそこに居た。
今の私は、彼の望んでいる美しさとはとても思えない、男性の性癖をそそり、その為に自分の裸体をさらけ出し、素顔と痴態を晒すような黒く欲望にまみれたような黒い被写体だ。グラビアや写真集といえば聞こえはいいが、実際はどれも男性の欲望を満たすためのように撮影された作品ばかりだ。
やめよう。写真家は常に作品として、アーティストとしてモデルを起用するものだ、だからこれはモデルとしての自分自身に問うべき、自分のアイデンティティに関わる、己の存在価値に関わる個人的な悩みなのだ。これは自分が招き望んだ事でもあるのだから。
こんな欲望の視線に纏わりつかれている、黒い被写体のわたしを知っても、一嗣はいつか再会した時に、彼の中で被写体として受け入れてくれるのだろうか。行方不明の彼との約束を胸に抱きながら、瀬奈はやるせない現実の自分自身に朝まで酒を浴びては自堕落な生活へ落ちていく日々が続いていた。
しかし紗殻 一嗣との出会いは再びカメラのフラッシュに弾かれ訪れる事になった。
ある日、仕事に疎み、どうにも生活に首が回らなくなり、金に困っていた私は、業界で知り合った、私に以前から気があるらしい若いイケメンモデルに誘われ、金銭目的の援助交際のような流れで新宿のホテルで一夜限りの火遊びに至ってしまった。
だがホテルから出たところ、いきなりカメラのフラッシュの雨を浴びる事になる。
「やめてくれ!」
私の火遊びの相手は、都会のホテル街でカメラを持つその男におののくと、あたしを盾にしてカメラのフラッシュから隠れるように震える子犬のようにうずくまった。……まぁ。あたしはきっと彼にとっては体のいい遊び相手だったのだろうが、それでも女を盾にするか? アンタはあたしに少しは気があったんじゃなかったのか? こんなセンセーショナルなこんなシチュエーションはまるで撮影現場でのあたしの写真集と同じじゃない……写真集と同じ? ……ああ。そうか……そうね、やはりこの人も作品を見てわたしを性癖の対象としてしかみていなかったのか……。カメラ男のフラッシュの光が今度はあたしに激しく注がれる、やがて彼は背徳への罪悪感からか、カメラのフラッシュに怯え、そのままあたしだけをその場に取り残して、駆け出し、逃げ出した。……ああきっと、今更、別の女のところへでも逃げ帰るのか。
……馬鹿な男、写真はその瞬間にしかない、永遠に巡り合えないあなた自身を確実にその時をとどめているというのに。写真から逃げる事などできやしないのに。現実の時間とその瞬間を唯一この世にとどめておくことができる素晴らしいものだというのに……。彼はなんという中途半端で悲しい被写体なのだろう。軽々しく慣れない火遊びなんかに覚悟もなく足を踏み込むからだ……そう。人生とは覚悟の中で成り立っているのだ、もう少し冷静で賢い日々を覚悟を持って生きている男だったなら、このカメラ男を買収するという理性的な行動と選択の道もあっただろうに……
しかしわたしにとって重要な問題はそこではなかった。
何故ならば、そのカメラを持った男を、あたしは皮肉にも、懐かしくも良く知っていたからだ。
瀬奈「……一嗣?」
一嗣「……瀬奈?」
まぁ。なんて都会的でドラマティックで劇的な再開なんでしょう。
涙がにじむよ。泣けてくるよ、こんな再会の仕方って……ナイよ。
東京の新宿のホテル街で、芸能人のスキャンダルを取り押さえる色モノ週刊誌のパパラッチきどりのカメラ男。そんなドラマのようなシーンを感じさせるカメラを持つ彼は、間違いなくあの一嗣だった。
あたしと一嗣の、この劇的な出会いは、なしくずし的に、そのままの流れでビル街の飲み屋街へと足を運び、お互い古傷を晒し朝まで飲みあかすことになった。
その日、色気もない大衆酒場ともいえる店であたし達は実に微妙な再会の祝杯をあげた。
一嗣「いや驚いた、まさかアイツの嫁から依頼されてた浮気相手の正体が瀬奈だったなんてな」
瀬奈「やめてよ、彼とは初めてよ。はあ? 嫁って、アイツ奥さんいたんだ、まあ。どうでもいいけどさ。仕事が途切れて生活に困って仕方なかったのよ。前からしつこく口説かれていたのもあって、謝礼の条件で一夜限りの火遊びにつき合っただけなの。彼の浮気相手はきっとあたしじゃあないのだわ、それは確実よ」
一嗣「まぁ。そうだろうさ。ありゃ瀬奈のタイプじゃないからな」
瀬奈「ところで、一嗣の目指していた世界一のカメラマンって? こういう事なワケ?」
一嗣「耳が痛いね。だが残念ながらこれが今の現実なのさ。表向きの仕事は浮気調査が主流の探偵まがいな仕事でね。食べてくためには仕方ないってわけさ。恥ずかしいけど、こんな姿を瀬奈に見られてしまったら、写真家も何もあったもんじゃないな。ここ数年、お前の前に姿をみせられなかったのは、こんな無様な状況でいるうちは、お前の前に姿を見せたくはなくてね」
瀬奈「ああ。そう言うこと……まぁ。あたしも今いる位置はとても貴方に自慢できるとはいえないんだけれどもね……今のあたしは、まるで黒い被写体ですもの」
一嗣「黒い被写体? なんだよそれ」
瀬奈「今でも写真を続けているのなら今の私の事はもう知っているんでしょ? 今は常に自分自身が周囲の好奇心と欲望の目の針に刺されているように感じるの。ヒリヒリとね、いつも知らない他人にどこかで指をさされているんじゃないかとおびえているのだわ、心の中では人前にどうどうと威張れない卑猥な撮影のモデルだからね、だから黒い裸体なの。ああ私は誰の裸もしらないのに、周りの隣人や世間は皆私の裸体を知っているのだわ」
一嗣「やれやれ、それが自分を黒い被写体と責める理由かい? プライドが持てず嫌ならそんな被写体なんか辞めればいいじゃないか。だけど今、瀬奈は立派にプロのモデルとして頑張ってるから続けているんじゃないのか?」
瀬奈「……」
瀬奈「……ねぇ。あの時一嗣があたしを撮りたいと思ってくれていた時のあたしってさ……絶対に、今あたしのいるこんな場所じゃなかったよね? もっとこう太陽の光をどうどうと浴びれるような、そんな風に輝いていて、海の浜辺で天使のような笑顔をふりまき輝いているような……白い被写体なんだよね?」
一嗣「俺的には今時天使のような笑顔をふりまき輝く被写体っていうのも十分、あざとくて黒いと思うけどね。……というかさっきから俺には瀬奈の口から飛び出してくる、白だの黒だのの拘りの違いが良く解らないな。俺の今の現実だって瀬奈の中では随分違っただろ、瀬奈はそんな俺をさしずめ黒いカメラマンとでも呼ぶのかい? そうじゃないだろう? 現実はそうおいそれと甘くはないものさ、それでも自分の好きな事は大切に続けているつもりだし、その情熱は失ってはいないさ。瀬奈だってそうだろう? まぁ。今はまだ理想からはほど遠いというところは、なんていうか、その辺はお互い様って事でいいんじゃないか? 焦る事はないさ」
瀬奈「でもあたし、今も一嗣が写真を続けているのは十分解ったわ。今時の探偵はおもむろに一眼レフカメラなんかもち歩かないもの。そういうのって普通は隠密に隠しカメラかなんかじゃないの? 怪しげなペン的な」
一嗣「え? そういうものなのか。俺は結論、撮れればいいと思っていたし、そこ拘ってなかったよ。てゆーかそもそも向いていないんだよ、こそこそ探偵みたいな真似が、勿論写真は続けているし時々、都内のギャラリーで小さな個展は開いているんだ」
瀬奈「ふふ。いきなり目の前に飛び出してきてフラッシュ浴びせる探偵なんかいないものね。ふふふ。なんか安心した。一嗣そういうとこ全然変わっていないね、ちょっとほっとしたよ」
一嗣「そうか?」
瀬奈「うん」
瀬奈「あーあ。……なんだか自分の理想や夢ってさ、追えば追う程、頑張れば頑張るほど魂が擦り切れて遠のく、手の届かない幻みたい」
一嗣「まだまだお互いに発展途中って事さ、これから理想に近づく為の道を、少しづつ模索していけばいいのさ、それに何か勘違いしてるみたいだけど、写真家から言わせてもらえばレンズ越しに見る被写体に黒も白もねぇよ、どの被写体も自分らしく十分輝いてるものだよ、ありのままにね。今の瀬奈は十分、被写体として魅力的だよ」
瀬奈「そうかな……でも一嗣って昔から、ヌード撮影に興味はないんでしょう?」
一嗣「別にヌードを否定しているわけじゃないさ。ただ俺はその先を超えた美しい魂を撮りたい、その本質的な美しさは内面から醸し出されているものだと思っているからだよ。それを可視化してみたいんだ。その拘りは変わってない。勿論それにヌードが必要ならヌードでも撮るさ、だけど違うんだ。それが何か今でも答えは出ないんだ」
その日、私達は熱く語り明かした。大好きな彼との再会。懐かしさも手伝って、今のお互いの現状には納得していないと、お互いを確かめ合い、恥ずかしそうにはにかみながらも微笑み、そして何よりも私達はあの瞬間の時間を取り戻した気がした。久しぶりに会った一嗣はあの頃とは何も変わっていなくって、お互いに未だ理想の夢には程遠いところにいるけれども、二人の間には、確実に懐かしい時間が戻ってきたことを実感した。あたしが頼んだカルーアミルクが出てきたところで時刻は既に夜中の三時をまわっていた。
瀬奈「あーあ……あたしのこの先のモデル人生ってここから方向転換とかできるのかなぁ」
一嗣「俺の写真家として撮りたいモノもまだまだ見つからないのかなぁ」
瀬奈「……ね。学生の時の向日葵畑で交わした約束まだ覚えている?」
一嗣「二人で理想の写真家と被写体となった時に、向日葵畑で撮影して写真集を出そうってあの頃交わした青くさい約束かい?」
瀬奈「あら、あたしは本気だったのよ? 一嗣のあの言葉があたしをこの世界へと背中を押してくれたんだから……今だって約束を大切に思ってる」
一嗣「……」
一嗣「……俺もだよ、あの時の夢は今でも描いているよ」
瀬奈「ね。写真集、出しちゃおうか? 今すぐ」
一嗣「よせよ、こんな浮気調査の探偵なんかにまた撮られたいのか? ヌードのその先にある美しさってやつが俺にはまだ見えていないのさ。恭二や瀬奈に偉そうなことさんざん言っておいてなんだけど、もしかしたら今はまだまだ俺が二人に追い付いていないのかもしれないな。恭二の奴は立派だよ。有言実行でしっかり夢を叶えてやがる……俺だけ出遅れてるんだぜ」
瀬奈「……じゃあ向日葵畑での約束は?」
一嗣「まだお預け、ってとこだな」
その時、グーっと彼のお腹の虫が鳴いた。
瀬奈「あ。絞めにラーメン食べにいこっか」
一嗣「おー。そうそう俺、最近この辺界隈の明け方までやってる美味いラーメン屋発掘しててさ、いい店知ってるんだ」
……ひとつだけ変わらないものがあった
それはあの時となんらかわらない彼の屈託のない笑顔。
わたしの一番大好きな彼との幸せな世界。
焦る事はない。私達の夢はまだ発展途上
今はこうして再び彼と再び巡り合えた事だけでも上出来だ。
私達の夢へのリベンジはここから始めてもかまわない
いつか彼に撮られる、
二度と戻らないその奇跡の一瞬の為に閉じ込めてもらえる日を夢見ながら
あたしは明日も写真家達にあたし自身の総てを撮らせるのだろう
だが自分自身で今わかる事がある。
被写体に黒も白もない。
私のやり方で彼に認めてもらえるように、今からでも私は生まれ変わりたいと思った。
……彼に撮られる為に、白い被写体を夢見て。
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