9 / 15
【ママ友、追跡】
ユリ、綻び
しおりを挟む
夏休みに入った。
ユリはこの頃、一昨日の春に装丁したイヤミスをよく思い出す。
本の中に、こんなシーンがあった。主人公の女は浮気をした旦那を夜な夜な追跡し、嫉妬の挙句、浮気相手の目の前でその背中に深々と包丁を突き立てる。
そのシーンが印象的だったので、ユリは装丁案の一つに取り入れた。黒をベースとした写実的なデザインで、街灯のひとつだけ灯る路地裏に落ちたナイフがきらめいている。タイトルは血の色。天から白い花びら散らせ、存分に盛り込んだおどろおどろしさの中に、主人公の性格の派手さを表現したつもりだった。ユリ自身も気に入っていたため、採用された時は嬉しかった。
しかしながらユリは思ったものだ。小説家は「めり込ませた」という表現を使っていたが、女の細腕(主人公はモデルだった)で、包丁を「めり込ませ」るくらい深く刺せるものなのだろうか、と。
だがユリは今なら、夫への憎しみを持ってすれば、容易にそれができると確信している。
きっかけは、些細なことの積み重ねだった。ケイタを寝かしつけリビングで仕事をしていると、パチン、パチン……背後で規則的な音がする。
──また爪を切ってる。
このところ、夫のキョウヘイがやけに綺麗好きになったと感じていた。
それに、車に乗った時の違和感。ユリは運転をしない。週末はキョウヘイの運転する車でショッピングモールなどに出かけるのがお決まりになっているのだが、店に着き、降りようとした瞬間に気づいた。助手席のシートの位置がいつもより下がっているのだ。
次の週はさらに車内に芳香剤が設置され、洗車に行ったのか窓や車体がピカピカに磨き上げられていた。
さらに、夫は不自然なくらい饒舌になった。帰ってきた瞬間から今日の業務がいかに大変だったか、クレーマー気質の顧客の対応にいかに苦労しているかをまくし立てる。
彼は保険会社の営業職として働いていることもあり口達者だが、家庭内でペラペラと仕事のことを何でも話すタイプではない。
まだ付き合いたての頃、どんどん寡黙になっていくキョウヘイに気づき、自分に心を開いてくれているのだと嬉しかったのに。まるで他人に戻ったみたいだった。
決定的になったのは、キョウヘイのスーツの内ポケットから見知らぬピアスが出てきたことである。こんなところに偶然誰かのアクセサリーが入り込むなどありえない。陳腐すぎる、と思った。
──まるで安っぽい昼ドラじゃないの。
これは相手からの挑戦状と解釈してよいのだろうか。
──あの人、こんなに馬鹿だったっけ。
ユリは怒りよりも脱力感を覚え、その場にへたり込んだ。ありきたりの展開に微笑んでさえいた。裏切られたことに加え、こんな夫を選んでしまった自分にも失望した。
平凡だけれど幸せな生活が、いとも簡単に崩壊してゆく──
適齢期に結婚し、すぐに妊娠、出産し、転勤族ながらも在宅ワークで家計を支え……自分の人生が、これまで通り順調に進んでゆくことを、疑ったことなど一度もなかった。
「不倫」や「浮気」なんていう言葉は、ドラマや小説、ネット上の人気ブログなど、至るところに溢れている。
それはつまり、絶対なる安全圏から他人の不幸をを眺めることは、れっきとしたエンターテイメントだということを意味する。しかし自分の身に降りかかった途端、それは悲劇と化す。
──まさか、「当事者」になってしまうなんて。
夫への憎しみはその後、体の内側から徐々に徐々に膨らんできて、今にも破裂しそうだった。
それでも本人を責めないのはケイタのためである。キョウヘイが本気だったらどうしよう。離婚を切り出されたらどうしよう。
いくら手に職をもっているとは言っても収入は不安定だし、この先ずっと仕事をもらえる保証もない。シングルでやっていく自信はとてもなかった。
ユリは葛藤を、仕事に打ち込むことで忘れようとした。考えることを先延ばしにしたのだ。しかし仕事が一段落した時、限界を迎えたユリは、平常の精神状態であれば絶対にしない行動をとってしまう。
マミコ達に相談してしまったのである。
ユリはこの頃、一昨日の春に装丁したイヤミスをよく思い出す。
本の中に、こんなシーンがあった。主人公の女は浮気をした旦那を夜な夜な追跡し、嫉妬の挙句、浮気相手の目の前でその背中に深々と包丁を突き立てる。
そのシーンが印象的だったので、ユリは装丁案の一つに取り入れた。黒をベースとした写実的なデザインで、街灯のひとつだけ灯る路地裏に落ちたナイフがきらめいている。タイトルは血の色。天から白い花びら散らせ、存分に盛り込んだおどろおどろしさの中に、主人公の性格の派手さを表現したつもりだった。ユリ自身も気に入っていたため、採用された時は嬉しかった。
しかしながらユリは思ったものだ。小説家は「めり込ませた」という表現を使っていたが、女の細腕(主人公はモデルだった)で、包丁を「めり込ませ」るくらい深く刺せるものなのだろうか、と。
だがユリは今なら、夫への憎しみを持ってすれば、容易にそれができると確信している。
きっかけは、些細なことの積み重ねだった。ケイタを寝かしつけリビングで仕事をしていると、パチン、パチン……背後で規則的な音がする。
──また爪を切ってる。
このところ、夫のキョウヘイがやけに綺麗好きになったと感じていた。
それに、車に乗った時の違和感。ユリは運転をしない。週末はキョウヘイの運転する車でショッピングモールなどに出かけるのがお決まりになっているのだが、店に着き、降りようとした瞬間に気づいた。助手席のシートの位置がいつもより下がっているのだ。
次の週はさらに車内に芳香剤が設置され、洗車に行ったのか窓や車体がピカピカに磨き上げられていた。
さらに、夫は不自然なくらい饒舌になった。帰ってきた瞬間から今日の業務がいかに大変だったか、クレーマー気質の顧客の対応にいかに苦労しているかをまくし立てる。
彼は保険会社の営業職として働いていることもあり口達者だが、家庭内でペラペラと仕事のことを何でも話すタイプではない。
まだ付き合いたての頃、どんどん寡黙になっていくキョウヘイに気づき、自分に心を開いてくれているのだと嬉しかったのに。まるで他人に戻ったみたいだった。
決定的になったのは、キョウヘイのスーツの内ポケットから見知らぬピアスが出てきたことである。こんなところに偶然誰かのアクセサリーが入り込むなどありえない。陳腐すぎる、と思った。
──まるで安っぽい昼ドラじゃないの。
これは相手からの挑戦状と解釈してよいのだろうか。
──あの人、こんなに馬鹿だったっけ。
ユリは怒りよりも脱力感を覚え、その場にへたり込んだ。ありきたりの展開に微笑んでさえいた。裏切られたことに加え、こんな夫を選んでしまった自分にも失望した。
平凡だけれど幸せな生活が、いとも簡単に崩壊してゆく──
適齢期に結婚し、すぐに妊娠、出産し、転勤族ながらも在宅ワークで家計を支え……自分の人生が、これまで通り順調に進んでゆくことを、疑ったことなど一度もなかった。
「不倫」や「浮気」なんていう言葉は、ドラマや小説、ネット上の人気ブログなど、至るところに溢れている。
それはつまり、絶対なる安全圏から他人の不幸をを眺めることは、れっきとしたエンターテイメントだということを意味する。しかし自分の身に降りかかった途端、それは悲劇と化す。
──まさか、「当事者」になってしまうなんて。
夫への憎しみはその後、体の内側から徐々に徐々に膨らんできて、今にも破裂しそうだった。
それでも本人を責めないのはケイタのためである。キョウヘイが本気だったらどうしよう。離婚を切り出されたらどうしよう。
いくら手に職をもっているとは言っても収入は不安定だし、この先ずっと仕事をもらえる保証もない。シングルでやっていく自信はとてもなかった。
ユリは葛藤を、仕事に打ち込むことで忘れようとした。考えることを先延ばしにしたのだ。しかし仕事が一段落した時、限界を迎えたユリは、平常の精神状態であれば絶対にしない行動をとってしまう。
マミコ達に相談してしまったのである。
1
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい
設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀
結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。
結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。
それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて
しなかった。
呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。
それなのに、私と別れたくないなんて信じられない
世迷言を言ってくる夫。
だめだめ、信用できないからね~。
さようなら。
*******.✿..✿.*******
◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才 会社員
◇ 日比野ひまり 32才
◇ 石田唯 29才 滉星の同僚
◇新堂冬也 25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社)
2025.4.11 完結 25649字
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる