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隣室からアレっぽい音が聞こえるんだが、喘ぎ声がどう聞いても「羊」

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 ギシッギシッギシッギシッ……。

 おっぱじまったか。全くお盛んだよなぁ。俺は一人ため息を吐く。

 だがため息と同時に、俺は期待してもいた。来い来い、あの声、あの声来い!

「メ゛ェェ~メェメェメメ゛ェェ~~!」

 来た! 薄い壁を通して聞こえてくるのは、もはや俺の耳にこびりついて離れなくなった「羊子」の鳴き声である。




 事の始まりは半年前。

 高校卒業と同時に入居した築三十五年のオンボロアパートの一室で、必要最小限の家具の配置が終わって一息ついたところだった。

 ギシッギシッギシッギシッ……。

 俺の隣、101号室からベッドの軋むような物音が聞こえてくる。

 参ったな、こんな真っ昼間から……部屋の主は行為が筒抜けだと自覚しているのだろうか。全く勘弁してくれよ。そう心の中で愚痴りながらも、情けないことに下半身の膨張を感じる。

「メ゛ェェ~~メェメェ~」

 だが突如起こった声により、俺のそれは一瞬にして萎えた。

「メェ~~~メ゛メ゛ェェェメェ~~!!」

 メェ?! なんだよ「メェ」って? メーメー鳴くのは羊だよな……。まさか羊とヤってるのか?

 気になった俺は立ち上がり壁に耳をつけ息を凝らした。やはり「メェメェ」と声は絶妙な緩急を付けつつ続いて、数分後、俺の足が痺れ出した頃にやっと止んだ。

 俺は頭に多数の疑問符を浮かばせながらすっかり冷めたコーヒーを飲み干した。再び壁に向かい、今度は座って耳を押し当てるが物音ひとつしない。壁は相当薄そうだからピロートークの一つや二つ聞こえても良さそうなのに、だ。

 羊みたいな声と軋む物音。他の音は一切聞こえない。謎は謎のまま日々は過ぎた。

 その間も音と声は何度も聞こえてきた。仕事が終わって帰宅した直後や朝ごはんを掻き込んでいる最中、休みの日にダラダラとテレビを見ている時などなど、特に時間は決まっていなかった。
 共通するのは「夜以外」ということだけ。

 引越しの挨拶を装い偵察に行っても誰も出ないし、何度もアパートの前で部屋の主を待ち構えてみたりもしたのだが空振りに終わった。結局俺に確かめるすべは無いのである。

 そうやって謎が深まれば深まるほど、物音を聞く回数が増えるほど、俺の妄想は捗るのだ。

 例えばある夜の妄想はこうだ。
 羊子──俺は声の主にそう名付けた──は心の病に罹っている。彼女の生命線はある一人の男。
 彼は羊子をオンボロアパートの一室に軟禁し、抱くためだけに訪れる。羊子は男に抱かれる他は、ひたすら静かに、ただ息をするだけの生活だ。
 羊子の宝ものは幼くして死に別れた母にもらった、ピンク色の花の散りばめられた鍵付きの貯金箱。羊子はお金を持っていないから、箱の中にはやはり母と拾った色とりどりのシー・グラスをいれてある。貯金箱を開けた時にだけ、羊子は胎内にいるみたいに穏やかな気持ちになるのだった。
 羊子はそんな生活を受け入れる。だが受け入れたと思うのは実は勘違いで、羊子は男を憎んでいる。
 憎んでいるが、羊子の体は男を忘れられない。矛盾しきった心と体、その果てに羊子は羊みたいな声で鳴くのだ。メェメェと。

 そんな数々の陳腐な妄想の果てに俺の出した結論はこうだ──あれは人間の出す声ではない。

 女の体に羊の顔の乗った、言わば半人半羊の羊子。
職場でも友人との飲み会の席でも、俺は羊子のことを思う。もはや「恋」と言っても差し支えないくらいに。
 俺は図書館に行って羊の生態について調べさえした。羊の写真集の中で、羊たちは牧歌的な様子で牧草を食んでいる。

 俺は羊子を本来の居場所──もちろん草原だ──に連れて行ってやりたい。

 視界を遮るものなんて何もない、地平線だけが二人を囲む、だだっ広い草の海。羊子は穏やかな横長の瞳で俺をじっと見る。俺も羊子を見つめる。羊子は目の形を三日月に変えて微笑む。俺も微笑む。いつの間にか羊子は本物の羊の姿となっている。

 羊子は普段何を食べているだろうか。添加物たっぷりのジャンクフード? 味付けの濃い惣菜? 血糖値をすぐさま上昇させるレンチン食品? 薄暗く狭い自室で砂を噛むように、ただなけなしの栄養を摂るためだけに、箸を口に運んでいるに違いない。なんとなく、彼女はすさんだ暮らしを送っている気がするから。

 羊子は好きなだけ俺と追いかけっこした後、牧草を口いっぱいに頬張るだろう。彼女は思う存分咀嚼し、腹一杯になるまで繰り返す。
 そして手足を草の上に放り投げ、無防備な腹を晒して眠るだろう。俺は腹の毛をゆっくりと撫でつけながら一緒に眠る。気付けば眼前に広がるのは降るような星空──。

 そんな空想をしていると、俺はたちまち夢の中なのだった。

 ……俺は上に恋と書いたが訂正させてほしい。恋と呼ぶにはあまりに乱暴、愛と呼ぶにはみずみずしくて……そうこれは純愛──。

 俺の妄想は止まるところを知らなかった。




 果てのない妄想にとどめを刺されたのは、台風一過の青空が広がる秋の初めのことだった。

 大型で非常に強い台風十九号は、俺と羊子の部屋のベランダを隔てる壁を破った。壁と言うよりは、火災などの時に避難するため薄く作られている板みたいなアレだ。

 壁に空いた穴は人ひとりが難なく通れるくらいには大きい。穴は俺をそそのかす。「穴をくぐって隣を覗け! 羊子の正体を知りたいんだろ? さあ早く!」と。
 はかったかのように隣室からは、ひときわ大きな羊子の鳴き声が。

 とたんに台風が来たのも、台風が壁を壊したのも、その穴を通って俺が隣室を盗み見するのも必然的なことのように思えてきて、いつの間にか羊子の部屋の窓のそばにいた。

 さぁ羊子! 俺に姿を見せてごらん、恥ずかしがることなんてない。半人半羊の君は、誰が何と言おうと綺麗だから。

 はやる気持ちを抑えつつ、薄いレースのカーテンの隙間から目を凝らす。

 すると──




 デカくて薄汚い山羊が一匹、ベッドの上でピョンピョン跳ねてた。
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