1 / 27
1話
しおりを挟む
長野県松本市、古い城下町であるこの街には、駅を降りた瞬間からからりと乾いた風が気持ちよく吹いていた。
駅前には、スーツケースを引いている様々な国からの旅行者が忙しなく歩いている。
かくいう私も、その旅行者の一人だ。
とは言っても、楽しい楽しい一人旅、というわけではない。
ことの起こりは1週間前、家に帰ると、婚約者が浮気相手と一緒に私のベッドでくんずほぐれつしていた。
同じ会社の同僚であり、結婚の報告も会社にしていたというのに、この仕打ちはあり得ない。
ブチギレたままその足で同棲していた家を引き払い、マンスリーマンションに引っ越しをした。そして会社にも居づらくて退職願を提出し、私は落ち着ける家も職場も一度に失う形になってしまった。
少し感情的に動きすぎたかな、とは思う。けれど、初めてできた彼氏でもあり、結婚の約束をしていた相手でもあるのだ。
そりゃあ、我を失っても仕方ないというものだろう。
ヤケクソのまま、溜め込んだ貯金を使って、私は兼ねてから訪れたかった温泉宿に来ていた。
ブックストアやベーカリーが併設された複合施設でもある宿は、老舗旅館を改装して出来上がったもので、モダンでありながらも和の心あふれる落ち着いた空間になっていた。
到着して早々、私は荷物の開梱作業もなおざりに、温泉へと向かった。
まだ夕方で、入っている人は数少ない。
「ふぅぅ」
体をざっと流して、檜の湯船に浸かる。
大きな窓からは青々とした日本庭園が覗いていて、非日常感にどっぷりと浸ることができた。
大きく深呼吸をすると、鼻腔を木の爽やかな香りが通り抜ける。
怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになった体が、ゆったりと整って行くような感覚だった。
温泉を出ると、早速お夕食。
山菜の天ぷらに、お刺身の盛り合わせ、出汁の効いたあたたかな湯豆腐。菜の花のおひたしに、鹿肉のローストまで出てきた。
天ぷらは爽やかな苦味が心地よく、椿油で揚げているとかで、からりと軽い食感だった。
山間の松本市だけれど、お刺身も新鮮で、ほかほかのご飯に乗せると、いくらでも食べてしまいそう。
お酒だって進んじゃう。
頼んだのは、長野の銘酒「夜明け前」の生原酒。長野出身である島崎藤村にちなんだこのお酒は、生酒だけあってお米の風味が濃厚でありながらみずみずしく、透明感のある味わい。喉をするすると通ってしまう。
「はぁ……。なんでこんなことになっちゃったかなぁ」
部屋で一人、浴衣を着てご飯を食べていると、どうしたって色々考えてしまう。
「結婚間近で浮気されるほど、私ってどうでもいい女だったのかしら」
「そりゃあ、浮気する方が悪いにゃ。自分に原因を求めたって無駄無駄にゃ」
突然、背後から声がかかった。
「へっ?」
びっくりして振り返ると、そこには白黒のハチワレ模様の猫がいた。尻尾の先端が微妙に二股に分かれ、先割れスプーンのようになっている。
「えっ、中途半端な猫又?」
「誰が中途半端にゃ! せっかく励ましてやったのに、失礼な女だにゃ。って、わたしのことが視えてるにゃ!?」
「ああうん、視るのは随分と久しぶりだけれど……」
そう、私にはなかなか人と深く付き合えない秘密があった。人ならざるものが視えるのだ。
だからこそ初めて彼氏ができるのも遅かったし、失恋でこんなに荒れている。
婚約者……今となっては元彼となった男と初めて会った時、彼のそばにいるとあやかしや幽霊が視えないことに気がついた。今まで他の人には視えないものが視える力のせいで、ついうっかり変なことを口走ってしまったりして、人間関係に支障をきたしていたのが無くなった。
それで喜び勇んでお付き合いを申し込み、結婚まで考える仲になっていたのに……。
ぐちぐちぐちぐち。
やけになって猫又相手に愚痴っていると、猫又は呆れたようにこういった。
「そりゃ、その男が精力旺盛すぎて幽霊もあやかしも近寄れなかっただけだろうにゃ。今までもお前が気づいていなかっただけで浮気されていたに違いないにゃ。そういう、シモの生命力が強すぎて魔を寄せ付けない奴はたまにいるにゃ」
「な、なんですってぇ!?」
慰めてもらおうと思ったのに、傷口に塩を塗られた。
そっかぁ。元彼と付き合い始めてからあやかしの類が視えなくなっていたのは、元彼が女にだらしない奴だったからなのかぁ。
って、納得できるかぁ!
私は怒りを紛らわすように、ぐいっとお猪口を傾けた。
もう、やってらんない。
食べて飲んで、全部忘れてやる!
駅前には、スーツケースを引いている様々な国からの旅行者が忙しなく歩いている。
かくいう私も、その旅行者の一人だ。
とは言っても、楽しい楽しい一人旅、というわけではない。
ことの起こりは1週間前、家に帰ると、婚約者が浮気相手と一緒に私のベッドでくんずほぐれつしていた。
同じ会社の同僚であり、結婚の報告も会社にしていたというのに、この仕打ちはあり得ない。
ブチギレたままその足で同棲していた家を引き払い、マンスリーマンションに引っ越しをした。そして会社にも居づらくて退職願を提出し、私は落ち着ける家も職場も一度に失う形になってしまった。
少し感情的に動きすぎたかな、とは思う。けれど、初めてできた彼氏でもあり、結婚の約束をしていた相手でもあるのだ。
そりゃあ、我を失っても仕方ないというものだろう。
ヤケクソのまま、溜め込んだ貯金を使って、私は兼ねてから訪れたかった温泉宿に来ていた。
ブックストアやベーカリーが併設された複合施設でもある宿は、老舗旅館を改装して出来上がったもので、モダンでありながらも和の心あふれる落ち着いた空間になっていた。
到着して早々、私は荷物の開梱作業もなおざりに、温泉へと向かった。
まだ夕方で、入っている人は数少ない。
「ふぅぅ」
体をざっと流して、檜の湯船に浸かる。
大きな窓からは青々とした日本庭園が覗いていて、非日常感にどっぷりと浸ることができた。
大きく深呼吸をすると、鼻腔を木の爽やかな香りが通り抜ける。
怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになった体が、ゆったりと整って行くような感覚だった。
温泉を出ると、早速お夕食。
山菜の天ぷらに、お刺身の盛り合わせ、出汁の効いたあたたかな湯豆腐。菜の花のおひたしに、鹿肉のローストまで出てきた。
天ぷらは爽やかな苦味が心地よく、椿油で揚げているとかで、からりと軽い食感だった。
山間の松本市だけれど、お刺身も新鮮で、ほかほかのご飯に乗せると、いくらでも食べてしまいそう。
お酒だって進んじゃう。
頼んだのは、長野の銘酒「夜明け前」の生原酒。長野出身である島崎藤村にちなんだこのお酒は、生酒だけあってお米の風味が濃厚でありながらみずみずしく、透明感のある味わい。喉をするすると通ってしまう。
「はぁ……。なんでこんなことになっちゃったかなぁ」
部屋で一人、浴衣を着てご飯を食べていると、どうしたって色々考えてしまう。
「結婚間近で浮気されるほど、私ってどうでもいい女だったのかしら」
「そりゃあ、浮気する方が悪いにゃ。自分に原因を求めたって無駄無駄にゃ」
突然、背後から声がかかった。
「へっ?」
びっくりして振り返ると、そこには白黒のハチワレ模様の猫がいた。尻尾の先端が微妙に二股に分かれ、先割れスプーンのようになっている。
「えっ、中途半端な猫又?」
「誰が中途半端にゃ! せっかく励ましてやったのに、失礼な女だにゃ。って、わたしのことが視えてるにゃ!?」
「ああうん、視るのは随分と久しぶりだけれど……」
そう、私にはなかなか人と深く付き合えない秘密があった。人ならざるものが視えるのだ。
だからこそ初めて彼氏ができるのも遅かったし、失恋でこんなに荒れている。
婚約者……今となっては元彼となった男と初めて会った時、彼のそばにいるとあやかしや幽霊が視えないことに気がついた。今まで他の人には視えないものが視える力のせいで、ついうっかり変なことを口走ってしまったりして、人間関係に支障をきたしていたのが無くなった。
それで喜び勇んでお付き合いを申し込み、結婚まで考える仲になっていたのに……。
ぐちぐちぐちぐち。
やけになって猫又相手に愚痴っていると、猫又は呆れたようにこういった。
「そりゃ、その男が精力旺盛すぎて幽霊もあやかしも近寄れなかっただけだろうにゃ。今までもお前が気づいていなかっただけで浮気されていたに違いないにゃ。そういう、シモの生命力が強すぎて魔を寄せ付けない奴はたまにいるにゃ」
「な、なんですってぇ!?」
慰めてもらおうと思ったのに、傷口に塩を塗られた。
そっかぁ。元彼と付き合い始めてからあやかしの類が視えなくなっていたのは、元彼が女にだらしない奴だったからなのかぁ。
って、納得できるかぁ!
私は怒りを紛らわすように、ぐいっとお猪口を傾けた。
もう、やってらんない。
食べて飲んで、全部忘れてやる!
69
あなたにおすすめの小説
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
相続した畑で拾ったエルフがいつの間にか嫁になっていた件 ~魔法で快適!田舎で農業スローライフ~
ちくでん
ファンタジー
山科啓介28歳。祖父の畑を相続した彼は、脱サラして農業者になるためにとある田舎町にやってきた。
休耕地を畑に戻そうとして草刈りをしていたところで発見したのは、倒れた美少女エルフ。
啓介はそのエルフを家に連れ帰ったのだった。
異世界からこちらの世界に迷い込んだエルフの魔法使いと初心者農業者の主人公は、畑をおこして田舎に馴染んでいく。
これは生活を共にする二人が、やがて好き合うことになり、付き合ったり結婚したり作物を育てたり、日々を生活していくお話です。
《完結》当て馬悪役令息のツッコミ属性が強すぎて、物語の仕事を全くしないんですが?!
犬丸大福
ファンタジー
ユーディリア・エアトルは母親からの折檻を受け、そのまま意識を失った。
そして夢をみた。
日本で暮らし、平々凡々な日々の中、友人が命を捧げるんじゃないかと思うほどハマっている漫画の推しの顔。
その顔を見て目が覚めた。
なんと自分はこのまま行けば破滅まっしぐらな友人の最推し、当て馬悪役令息であるエミリオ・エアトルの双子の妹ユーディリア・エアトルである事に気がついたのだった。
数ある作品の中から、読んでいただきありがとうございます。
幼少期、最初はツラい状況が続きます。
作者都合のゆるふわご都合設定です。
日曜日以外、1日1話更新目指してます。
エール、お気に入り登録、いいね、コメント、しおり、とても励みになります。
お楽しみ頂けたら幸いです。
***************
2024年6月25日 お気に入り登録100人達成 ありがとうございます!
100人になるまで見捨てずに居て下さった99人の皆様にも感謝を!!
2024年9月9日 お気に入り登録200人達成 感謝感謝でございます!
200人になるまで見捨てずに居て下さった皆様にもこれからも見守っていただける物語を!!
2025年1月6日 お気に入り登録300人達成 感涙に咽び泣いております!
ここまで見捨てずに読んで下さった皆様、頑張って書ききる所存でございます!これからもどうぞよろしくお願いいたします!
2025年3月17日 お気に入り登録400人達成 驚愕し若干焦っております!
こんなにも多くの方に呼んでいただけるとか、本当に感謝感謝でございます。こんなにも長くなった物語でも、ここまで見捨てずに居てくださる皆様、ありがとうございます!!
2025年6月10日 お気に入り登録500人達成 ひょえぇぇ?!
なんですと?!完結してからも登録してくださる方が?!ありがとうございます、ありがとうございます!!
こんなに多くの方にお読み頂けて幸せでございます。
どうしよう、欲が出て来た?
…ショートショートとか書いてみようかな?
2025年7月8日 お気に入り登録600人達成?! うそぉん?!
欲が…欲が…ック!……うん。減った…皆様ごめんなさい、欲は出しちゃいけないらしい…
2025年9月21日 お気に入り登録700人達成?!
どうしよう、どうしよう、何をどう感謝してお返ししたら良いのだろう…
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
A級パーティから追放された俺はギルド職員になって安定した生活を手に入れる
国光
ファンタジー
A級パーティの裏方として全てを支えてきたリオン・アルディス。しかし、リーダーで幼馴染のカイルに「お荷物」として追放されてしまう。失意の中で再会したギルド受付嬢・エリナ・ランフォードに導かれ、リオンはギルド職員として新たな道を歩み始める。
持ち前の数字感覚と管理能力で次々と問題を解決し、ギルド内で頭角を現していくリオン。一方、彼を失った元パーティは内部崩壊の道を辿っていく――。
これは、支えることに誇りを持った男が、自らの価値を証明し、安定した未来を掴み取る物語。
悪役令嬢になるのも面倒なので、冒険にでかけます
綾月百花
ファンタジー
リリーには幼い頃に決められた王子の婚約者がいたが、その婚約者の誕生日パーティーで婚約者はミーネと入場し挨拶して歩きファーストダンスまで踊る始末。国王と王妃に謝られ、贈り物も準備されていると宥められるが、その贈り物のドレスまでミーネが着ていた。リリーは怒ってワインボトルを持ち、美しいドレスをワイン色に染め上げるが、ミーネもリリーのドレスの裾を踏みつけ、ワインボトルからボトボトと頭から濡らされた。相手は子爵令嬢、リリーは伯爵令嬢、位の違いに国王も黙ってはいられない。婚約者はそれでも、リリーの肩を持たず、リリーは国王に婚約破棄をして欲しいと直訴する。それ受け入れられ、リリーは清々した。婚約破棄が完全に決まった後、リリーは深夜に家を飛び出し笛を吹く。会いたかったビエントに会えた。過ごすうちもっと好きになる。必死で練習した飛行魔法とささやかな攻撃魔法を身につけ、リリーは今度は自分からビエントに会いに行こうと家出をして旅を始めた。旅の途中の魔物の森で魔物に襲われ、リリーは自分の未熟さに気付き、国営の騎士団に入り、魔物狩りを始めた。最終目的はダンジョンの攻略。悪役令嬢と魔物退治、ダンジョン攻略等を混ぜてみました。メインはリリーが王妃になるまでのシンデレラストーリーです。
飯屋の娘は魔法を使いたくない?
秋野 木星
ファンタジー
3歳の時に川で溺れた時に前世の記憶人格がよみがえったセリカ。
魔法が使えることをひた隠しにしてきたが、ある日馬車に轢かれそうになった男の子を助けるために思わず魔法を使ってしまう。
それを見ていた貴族の青年が…。
異世界転生の話です。
のんびりとしたセリカの日常を追っていきます。
※ 表紙は星影さんの作品です。
※ 「小説家になろう」から改稿転記しています。
【完結】魔術師なのはヒミツで薬師になりました
すみ 小桜(sumitan)
ファンタジー
ティモシーは、魔術師の少年だった。人には知られてはいけないヒミツを隠し、薬師(くすし)の国と名高いエクランド国で薬師になる試験を受けるも、それは年に一度の王宮専属薬師になる試験だった。本当は普通の試験でよかったのだが、見事に合格を果たす。見た目が美少女のティモシーは、トラブルに合うもまだ平穏な方だった。魔術師の組織の影がちらつき、彼は次第に大きな運命に飲み込まれていく……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる