冷風

更科ゆう

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心あたり

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 日本恵明病院にたどり着いた。道路はかなり空いていて、運良く信号にもほとんどつかまらなかったはずなのに、恐ろしく長い時間に感じられた。
 
 病院の受付で名前を言うと、担当であるという看護師の人が現れ、案内してくれた。

「ひとまず、ご安心ください。息子さん、とても幸運で打ちどころが良かったのか、無事ですよ」
 
 ベテランとおぼしき、年配の看護師の話を聞いた途端、美佐子の全身にまとわりついていた緊張感が、さざ波のようにひいていくのが、わかった。

「こちらです。今は、眠っていますので、お静かに。でも脳波なども問題なく、大きな外傷もないので、すぐに退院できますよ」
 
 看護師はそう言って、一礼して去って行った。忙しいのだろうなと思った。
 
 病室に入り、眠っている和樹の顔を見た。穏やかな顔で眠っている。微かに寝息も聞こえる。
 その顔は和樹が赤ちゃんの時を思い出させた。成長とともに随分顔が変わったように思えるが、根本的には何も変わっていない。
 
 窓のカーテンのすき間から、わずかに夕日が差し込んで、和樹の寝顔を照らした。その光がまるで後光のように思えた。
 
 おおう、神様、神様。ありがとうございます。
 
 美佐子は、天を仰いで神様に感謝した。そして、なんどもなんども空に向かって頭を下げ続けた。
 
 わが子をお救いたもうてくださってありがとございます。
 和樹にもたらされた幸運を、神様に感謝せずにはいられない。
 
 毎日、毎日テレビの報道で暗いニュースを伝えられる。悲しい事件や事故で、それまで築いてきた日常が崩れる。でも、それは自分とは一線を介していて、
 
 自分の身には起こらないであろう。万が一起こったとしても、きっと神様が助けてくれる。
 
 そう思わなければ、やってけない。

「酒本さん、ちょっとよろしいですか?」

 先程の看護師に呼ばれた。

「はい」
 と、美佐子が腰を浮かせて応対すると、

「あの……、できれば、お父様もご一緒に……」
 と遠慮がちに言われたので、広志も席をたった。

「じゃあ、美咲頼んだぞ」

「うん、任せといて」
 美咲に和樹のことは任せて、看護師の元に行くと、

「警察の方からお話があるそうです」
 警察……?その言葉を聞いた途端、美佐子の心は曇った。一体なんで?ただの事故ではなかったのか?一緒に歩いている広志が美佐子に耳打ちする。

「あのな、警察っていうのは事故の場合でも、一応聞き込みをするんだよ。疑るのが彼らの仕事だからな」
 広志にそう言われて、美佐子の心は晴れた。表情が曇っていたのを、広志は見逃さなかったのだろう。広志のこういう優しいところが好きだ。待合室のようなところに案内されると、既に警察の人と思われる人物がそこに、座っていた。

「私、○○署の田村と申します」
 と言いながら、警察署を見せてきた。広志と美佐子は顔を見合わせ、田村と名乗った男に対して、軽く一礼した。

「この度は、和樹さんが大変ことになられて、心中お察し申し上げます。しかし先程、担当の医師の方にお伺いしましたが、不幸中の幸い、大事には至らなかったそうで……」

「はい、私どもも、ひとまず安心しております」
 広志が答えた。

「立ち話もなんですので、まずはおかけ下さい」
 田村に促され、二人は椅子に座った。

「あの、息子さんこのようなことになったのに、こんなこと申し上げるの心苦しいのですが……、最近和樹さんの方から、なにか変わったことがあったという話は聞いてないでしょうか?」

「いいえ、全く。和樹は大学に入学してから、一人暮らしを始めて、今日は久しぶりに実家に帰ってくることになっていたのです」

 田村の問いに、広志が応じる。広志はある程度予想していたのか、冷静な対応だ。

「そうでしたか……。ということは。和樹さんの近況はお聞きしていなんですね。実は……、今回の事故ですが、工事現場の近くで不振な人影を見たという目撃情報がありまして」

「えっ?何だって?」
 田村の言葉に、さすがに広志も冷静に応じられない様子だ。美佐子も心臓が早鐘を打つのが自分でもわかった。

「はい、工事現場の人にも確認したのですが、資材の方は安全性に問題がないか、確認したばかりだそうで、自然に崩れるとは考えにくいということなんです。なんでもいいので、なにか心当たりのようなものはありませんか?例えば、人に恨まれるようなことがあったとか……」

 心当たり……?そう言われて、長峰今日子の言葉が美佐子の脳裏に蘇る。
 
 ――アンタノコドモガシネバヨカッタノヨ――
 
「馬鹿なこと言わないでくださいよ!!」
 バンッと机をたたく音で美佐子は、我に返った。

「そんなわけなでしょ?人に恨まれる?うちの子はそんな子じゃありませんよ」

 広志が見たこともないような怖い顔をして激昂している。

「もちろん、そうですよね。大変申し訳ありません。お子様がそんな方だとは思いません。ですが、逆恨みということもありますし、こちらも少しでも事件解決のために情報を収集するのが仕事ですので。なにか些細なことでも結構ですので、ありませんか?」

 田村は、丁重な言葉遣いをしているが、その態度はいったて冷静だ。むしろ、ふてぶてしくも見える。きっと怒鳴られたり、なじられたりするのは慣れているのだろう。

 広志は、目を閉じ、指でこめかみのあたりをおさえ、しばらく考え込んだ。やがて、首を左右に大きくふり、こう言った。

「イヤ……、私にはまったくそういった心当たりはありません」

「そうですが……」
 田村が広志の言葉に短く答えたと思うと、美佐子の方に顔を向けてきた。明らかに顔がこう言っている。

 ――奥様はなにか心当たりはありませんか?――

「あの……、わたくしの方も……、そういった心当たりはありません」
 弱々しい声でそう答えた。田村は美佐子の顔をじっと見ている。もしかして嘘が見抜かれたのかと、不安な気分になった。
「……そうですか」
 田村は美佐子の顔を見たまま、そう答えた。

「当たり前だ。そんなものは無い」

 広志はふんぞり返ってそう言った。
 その様子を見て、美佐子は少し申し訳ない気分になった。

 だが、美佐子は気がついてなかったのだ。夫が嘘をついていることに。心当たりがあるにも関わらず。

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