冷風

更科ゆう

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11年前の…

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「すみません、廊下を走らないでください」

 病院の廊下を走るけたたましい騒音に、看護師の人のそれを制する声が重なる。
 美佐子は、もしやと思い、病室から出てみた。
 案の定、娘の美咲がものすごい勢いで走っている。

「美咲、落ち着きなさい」

 美佐子が声量を抑えて、声をかけたが全く効果はなかった。あっという間に、美佐子のもとにたどり着くと、

「お、お兄ちゃんは?」

 肩を上下に大きく上げ下げし、ゼイゼイと激しく呼吸をしながら、聞いてくる。

「大丈夫よ。今、眠ってるけど」

 その言葉を聞くなり、病室に美咲は体を滑り込ませるようにして、入って行った。ベッドの上で寝ている和樹を見て、安心したのか、フーっと大きなため息をついた。

「幸い打ちどころが、良かったみたい。すぐに退院できるって」

「良かったー」
 美咲はその場に崩れるようにして座り込んだ。

「美咲大丈夫か?」
 振り向くと、そこには広志がスーツ姿で立っていた。美咲を抱えて起こそうとした。

「わたしは、平気よ」
と、広志の手を振り払って、自らの力で起き上がった。

「メールみたぞ、良かったな。不幸中の幸いで」
 そう言って、和樹の寝ているベッドの隣の椅子に腰かけた。わが子を心から慈しむ目で見ている。普段なかなか見れない表情だった。



 
 突然、美佐子がパートをしている職場に、電話がかかってきた。美佐子は不動産会社で事務の仕事をしている。たいてい、勤務中は携帯の音はオフにしている。

「酒本さん、日本恵明大学から電話よ。なんでも息子さんの和樹くんのことでって。一番とって」
 
 主任の荻原さんから、そういわれた時、頭が真っ白になった。
 病院から電話……?それも和樹のことって……。震える手で受話器をとり、ランプのついている一番を押した。

「酒本美佐子さんですが?三橋大学の酒本和樹さんのお母様でお間違いないでしょうか?」

「はい……」
 美佐子は、弱々しくそう答えた。

「落ち着いて聞いてください。実は……」
 
 まるで夢遊病者のようにフラフラとしながら、美佐子はタクシーに飛び乗った。
 和樹は、美佐子と広志の第一子で、下の妹の美咲とは三つ離れている。現在は、大学1年生で、実家を出て一人暮らしをしている。家から大学まで、片道で2時間以上もかかるということと、なにより和樹本人が一人暮らしをすることを熱望したのだ。

 片道2時間ぐらいかけて、大学通っている人なんか、結構いるじゃない」
 美佐子は、最初は反対だった。しかし、

「いいじゃないか、男は早いうちに家を出た方がいい」
と広志が、後押しした。
 広志は、静岡県の県立の高校をでて、東京の会社に就職するために上京してきた。自分も十八歳で既に親元を離れ、独立していたので、和樹もそうした方がいいという考え方なのだろう。
 
 妹の美咲は、お兄ちゃん子なので、てっきり和樹が家を出ていくことに猛反対するだろうかなと思ったが、

「……いいよ、お兄ちゃんの決めたことなんだし、好きにしたら?」
と、あっさり賛成した。多数決で3対1。和樹の一人暮らしは決まった。

 美佐子も正直和樹が家を出ていくのは、寂しいが早いうちに家を出て、自分のことは自分でできるようにするというのも悪くないだろう思った。

 病院の人からかかってきた電話の内容はこうだった。
 
 和樹が、実家の近辺の工事現場の近くにいたら、突然資材が崩れ落ちてきて、病院に搬送されたという。和樹は今日、実家に帰ってくることになっていた。
 和樹は学生証を所持していたので、そこから大学に連絡がいき、保護者の広志に連絡を入れたが、あいにく、すぐに連絡がとれず、美佐子の職場に連絡がきたということだ。

 タクシーの中で、広志にもう一度連絡しなければと思った。携帯に電話したら、やはり携帯はオフになっていた。続けて会社に電話をしてみたが、外出中だという。きっと商談かなにかの最中だろう。美佐子は再び広志の携帯に電
話し、留守電にメッセージを入れた。

 次に美咲にも連絡らしなければと思い、携帯にも連絡をいれたが、こちらも電源が切られている。時間的には放課後のはずだ。学校に直接連絡を入れて、担任の先生から美佐子に話してもらうことにした。
 
 美佐子は、両手で穿いている薄い緑のスカートをギュッとつかんだ。跡がついて、もう戻らなくなってしまうほどに強く。なけなしのパート代の中から、奮発して買った2万円もするスカートだったが、かまわなかった。やがて美佐子は自分の両手を胸の前で組んだ。

 どうか、どうか、和樹をお救いください。神様。
 美佐子は、特に宗教を持っているというわけではない。しかし、和樹の無事を願い祈り続けた。
 
 ――美佐子11年前の出来事のことを思い出していた……。
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