冷風

更科ゆう

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初恋…

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 哲夫と今日子が結婚してから、間もなくのことだ。偶然、街角で大学時代の友人である、国本と会った。

「よー、長峰、元気か?」
 相変わらず、図体もでかければ、声もでかい。

「ああ、国本か」
 偶然、街で会うなんて確率論的にはかなり低いはずなのに、こんなこともあるのだなとこの時は思った。
 後にもっと低い、天文学的な確率に遭遇することをこの時は露ほども思っていなかった。

「どうだよ、長峰。結婚生活は?」
 独身である国本は、案の定、新婚生活のことを、肘でこづきながら聞いてきた。

「いやー、まあボチボチだよ」
 と、哲夫はとりあえず、当たりさわりのない言い方をしておいた。

「またーまたー、なにを言ってるんだよ。初恋の人だろ?」
 初恋の人?なぜ、それを知っている?国本にそのことを話したことあったけ?予想外に図星を刺され、自分でも顔が赤くなっていくのがわかった。

「なに言ってんだよ。そんなわけないだろ」

「またー、顔が真っ赤になってるぞ」
 やっぱり、顔にでていたか。恥ずかしさで顔がますます赤くなっていくのを自覚した。せっかく、久しぶりに学友に会って、嬉しかったがその場を立ち去りたい気分になっていた。

 ふいに、国本の背広の胸ポケットに入っている携帯が鳴った。
「もしもし、あ、ごめん。すぐ行く」
と、国本は携帯に出るなり、見えない相手に平謝りしていた。

「長峰、悪いな。これから、飲み会が入ってるんだ。ちょっと集合時間に遅れてて、今電話が入った」

「そうか。じゃあ、また今度ゆっくり話そうな」
 国本は、じゃあな、と言って去って行った。
 ちょっと浮かれているように見える。合コンかな?と哲夫は思った。
 
 ――初恋の人――
 
 そう、今日子は初恋の人なのだ。聞くところによると、初恋の人と結婚できる確率は、わずかに1%らしい。
 その1%に入れるなんて、なんと幸運なことだろう。

 今日子と初めて出会ったのは、高校3年生の時だった。予備校でのことだった。

「すみません、これ落としましたか?長峰哲夫さん」
と、声をかけられた。
 一瞬、鈴音を聞いたような気がした。
 
 ふり返ると、そこに背の高い黒髪の長い髪を後ろで束ねた女性が立っていた。
 
 哲夫はこの女性のことを知っていた。名前は大塚今日子。なぜ知っているのかというと、東大の模試で上位成績者に入っていて、しかも美人ということで、予備校でちょっとした有名人になっていた。
 今日子は、水色の大学ノートを右手に持ち、哲夫に向かって差し出している。

「ありがとう」
と、言いながら、大学ノート受け取った。水色の大学ノートは数学用にしてある。
内心なんで自分の名前を知ってるのかなと思った。

「どういたしまして」
と、言って踵を返し、去ろうとした。

「あの、なんで俺の名前を知ってるんですか?」
と、思い切って聞いた。すると、

「だって、ノートの後ろに書いてありますから」
と言って、今日子はクスッと微笑んだ。
 なんだ、そうだったのか。確かに大学ノートの裏に、でかでかと長峰哲夫と書いてある。

「じゃあ、これで」
と、頭を少し下げて今日子は去って行った。
 
 たったそれだけのことだった。それだけのことなのに、なぜかその日以来、この出来事のことが哲夫の脳裏から離れられなくなっていた。
 水色の数学の大学ノートを見るたびに、今日子のことが思い出される。ノートを開いても、真っ新な白地に今日子の笑顔が見えるようだった。
 
 病気かと病気かと思った。これは一体なんなのだろう。生まれて初めての感情だった。

 これが噂に聞く、恋というものなのか。

 いつも、今日子のことを考えて、勉強が手につかなくなった。
 成績は今までにないくらいに下降してしまった。
 そのせいで両親から、特に父親からこっぴどく怒られた。しかし、怒られても、駄目だった。なにも手に着かない。
 
 大塚今日子は相変わらず、東大の模試の成績はいいようだった。
 それに比べて、哲夫の成績は真っ逆さまに、落ちていく。

 ある日、哲夫は肩を落としながら、予備校へと歩いていた。自分でも情けないが、猫背気味になってしまう。
 その道中、仲の良さそうなカップルが腕を組んで歩いていた。その二人は、

「去年までこの予備校に、通ってたなんて随分遠い昔のことみたいに思えるよね」

「うん、でも私達ががんばって去年勉強したからだよね。浪人したら、まだこの予備校、通ってたかも」
と、言いながら仲睦まじそうに歩いて行った。

 その時、哲夫はふと、気がついた。このままの自分の成績では、今日子と同じ東大に入ることはできない。もしも、今日子が現役で東大に入って、自分が浪人してしまったら、一足早く大学生になってしまった今日子に恋人ができてしまうかもしれない。
 
 そんなことは耐えられない。
 冷静になればすぐにわかることなのに、なんでそんな簡単なことにも考えが及ばなかったのだろう。自分のバカさ加減に自らを殴りたくなった。
 
 そのことに、気がついてから、猛勉強を始めた。
 睡眠時間3時間ぐらいしかとってなかったが、妙にハイテンションになり、全然平気だった。

 結果、哲夫、今日子ともに現役で東大に合格することができた。

 東大のキャンパス内で今日子の姿は探さなくても、すぐにわかった。男が群がっているからだ。予想どおり、ライバルは多かった。ある日、今日子にまわりに集まっていた男が、その群れの中から、ふいに離れた。
 今日子の人気ぶりについに諦めたのかと思ったら、ふと聞き捨てならない言葉を口にした。

「あーあー、彼氏いるってわかっちゃったら、残念だよな」

 なに、彼氏がいるって?既に、一体誰なんだろう?あの群れの中の誰かなのか?
 哲夫は、途方にくれてその場に立ち尽くした。

 東大のキャンパスにまだ春だというのに、まるで木枯らしのような強い風が吹いた。 
 
 それから、しばらく哲夫は絶望の中にいた。自分に告白してくれた女の子もいたが、断ってしまった。とても付き合うという気になれなかった。
 
 ある日、東大の構内を歩いていると、

(あ、あいつか……)
と思う男がいた。今日子と楽しそうに談笑している。
 背が高く、なかなかのイケメンで、髪型、服装と共にかなり気を使っているのが見てとれる。
 今日子と二人並んでいるその様子は、確かに絵になっていた。同級生ではないかな?先輩かもしれない。
 
 哲夫はその男を見て、こんな奴だったら今日子とお似合いだ、仕方がないなと思った。

 頭の中では納得したが、感情が追いつかない。いつから付き合っているのだろうか?
 なぜ自分はもっと早く今日子に告白しなかったのだろうか、俺ってなんて馬鹿なんだろうと後悔した。

 それから程なくして、そのイケメンが今日子以外の女子と歩いているところを見かけた。その男はその娘とも実に楽しそうにしゃべっていた。今日子というものがありながら、なんだ、と哲夫は思った。しばし、その様子を見ていると、なんとその男は、隣の女子の腰に手を回したではないか。しかも、その女子はそのイケメンによりそっている。その様は完全に恋人同士のようだった。たまらずその男に詰め寄った。

「ん、なんだよ?」
と、その男に言われた。

「なんてことをしているんだ」
 言いながら、哲夫はその女に回している手を振りほどいた。

「なんだよ。お前。サユリのなんだっていうんだよ。おい、サユリ。このコイツ知ってるか?」

「ううん、全然知らない」
 サユリと呼ばれた女は、高速で首を横にふって否定した。

「サユリとちょっと向こうに行ってろよ」
と、男に言われて、サユリは小さく頷き、その場から小走りに去った。その男と二人きりになると、男は、

「一体何なんだ?サユリのことが好きなのか?」
などと、言ってきた。まさかと心の中で、全力で否定した。

「あなたは今日子というものがありながら、あのサユリという人とも付き合っているのですか?」
という、哲夫の言葉に男はまるで狐につままれたような顔した。

「ハ……?誰だ。今日子って?」
 男の言葉に、哲夫の頭の中の血管が何本か切れた。思わず殴りかかりそうになっていた。

「とぼけるな!!」
大声で叫んでしまった。数メートル先にいる人がこちらを振り向いて見た。

「大塚今日子のことだ」
 なれなれしくも呼び捨てにしてしまった。

「ああ、大塚さんね。あんた、なにか勘違いしてるね。俺は大塚さんの彼氏なんかじゃないよ。俺の彼女はさっき一緒いた。山崎サユリって娘」

 え……?今日子の彼氏じゃない?そう言えば、この男が彼氏だなんて誰も言ってないじゃないか。俺は、なんてことをしてしまったのだろう。

「す、すみませんでした。本当にこちらの勘違いでした」
 素直に頭を下げて、謝罪した。
 なんて馬鹿なことをしてしまったのだろう。自分でもどうかしていると思う。冷静になり、顔上げて男の顔見ると、ニヤニヤしながら自分のことを見ていることに気がついた。

「そうか、お前……、そうか大塚さんのファンは多いからな」
と納得したように、うんうんと頷いている。

「ま、許してやってもいいよ。おごってくれたらな」
と、言われた。
 
 哲夫は二つ返事で承諾した。
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