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青空の笑顔
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今日子は、まるで眠っているようだった。
いつまでたっても、お棺を閉められない哲夫に、母親の睦美が、息子の手をそっと握った。
わかっている。
そろそろお別れしなければ。
哲夫は静かに、廊下を歩き始めた。
下を向いて歩くな。上を向け。そう哲夫の父から教えられていた。
下を向き、肩を落とし歩いていると、シャンとしろといつも怒られたので、下を向いて歩くということが自然に出来なくなっていたのだ。
哲夫の父は坂本九のファンだった。
よく「上を向いて歩こう」を大して上手くもないのに、歌っていた。
頭の中で、「上を向いて歩こう」の曲がリフレインしている。
懸命に上を向いて歩こうとしたが、無理だった。どうしても下を向いてしまう。
だが、この時ばかりは下を向いて歩いていても、父親もきっと許してくれるだろうと思った。
俺と一緒になって幸せだったか?
もしかしたら、酒本広志と一緒になっていた方が幸せだったか?
下を向いて歩きながら、そんなことを考えてしまう。涙がこぼれそうになった。
「……大塚さんも、気の毒ね。まだ若いのに」
ふと、そんな声が聞こえてきた。
大塚さんと今日子の旧姓で呼んでいることから、今日子の独身時代からの知人だろうか。哲夫は足を止めた。見ると、数人の女性のグループが輪になって話をしている。その中の何人かは見覚えがあった。
おそらく、大学時代の今日子が所属していたテニスサークルの知人だろう。
「でも……、美人薄明っていうの?本当よね」
甲高い声の茶髪のボブカットの女性がそう言った。声のトーンのせいなのかどうかはわからないが、妙に癇に障った。
言い方にトゲがあるように感じられた。
「うん、そうね。本当に残念よね」
そう答えた黒髪を後ろでまとめた女性は、涙ぐんでいて、ハンカチで目頭を押さえた。
「残念だけど……、やっぱり世の中は平等よね。美人で東大出て、家もお金持ちで……、でも、長く生きられなかった」
聞き捨てならない言葉だった。今すぐこの女性を殴ってやりたい衝動にかられた。気がつくと一歩前に出ていた。
「ちょっと……」
髪をまとめた女性が哲夫の存在に気がついた。その言葉で、茶髪の女性が振り向いた。哲夫と目が合って、気まずそうに眼を伏せた。
哲夫は茶髪の女性の元に歩み寄った。
「あの……、ごめんなさい。今のは、その……」
先程の饒舌な様子とは打って変わって、口の中でボソボソと何やら言っている。
「……今日子のように、生前、精一杯生きてきて、人のことを悪く言ったことなどない人間ですら、死んでからそのように言われるのならば、あなたなど、死んでから涙を流してくれる人など一人もいないでしょうね」
哲夫はそう吐き捨てて、その場を去った。
「……ごめんなさい」
背後で、小さな声で謝る声がしたと同時に、頭を下げる気配がした。
しかし、この声は、茶髪の女性の声ではない。黒髪で髪をまとめた女性のものだろう。
茶髪の女性は、膠着してその場に立ち尽くしている。振り向かなくても空気でわかる。
自分でも驚くほど、冷徹な言葉を浴びせてしまった。だが、微塵も後悔していない。
今日子のために、言ってやって良かった。
しばらく、まるで牛歩のようにゆっくりと歩いていた。
すると、後ろからこちらに駆け寄る足音が聞こえてきた。
なんだろう面倒くさいと思いながら、振り向いた。
そこには、あの茶髪の女性がいた。少し息を切らしている様子だ。青ざめた顔をしている。
「あの……先程は失礼なことを言ってしまって、本当にすみませんでした」
茶髪の女性はそう言って、深々と頭を下げた。
謝るくらいなら始めから言うなと、内心毒づいたが、口に出さなかった。
「いえ……」
ぶっきらぼうにそう答え、踵を返した。この女の顔はもう見ていたくない。
「あの……」
なおも、声を上げる女を哲夫は無視した。
「あの……、私、、今日子さんが羨ましかったんです」
羨ましかった……?女の意外な言葉に思わず、足を止めた。
「あの、今日子さんって、とても美人だし、頭もものすごくいいし、性格も親しみやすくて、優しくて……、今日子さんみたいな人って、同姓からは嫌われるガチなんですけど、なぜか今日子さんは誰からも好かれていて……」
いきなり、今日子のことを絶賛し始めた。うすうす思っていたが、やはり嫉妬心からくるものだったか。
この女性の言うとおり、今日子は万人に好かれるタイプだったが、同姓の中には今日子を妬むものもいただろう。
当然だ。自慢の妻だ。
「それに、大学時代にとてもいい人と付き合っていて」
大学時代に付き合っていたいい人……、それは、もしかして酒本広志のことか?
哲夫は背筋が凍るような感覚に襲われた。
「それは、あなたのことだと思います。お名前哲夫さんですよね?今日子さん、よくあなたのことを話してました。とても幸せそうに」
自分のことを……?凍りつきそうになっていた背中に急に暖かい日差しが降り注いだかのようだった。
「ええ、哲夫さんみたいな素敵な人と付き合えるなんて、夢のようだと言っていたのを、とてもよく覚えています。その言った時の今日子さんの顔はとても美しい顔をしていました。まるで聖母マリアのように。何年も経っていますが、今でもその顔をはっきりと覚えています」
思いがけない女性の言葉に、哲夫の心は救われた。
「私……、亡くなった方に対してひどいことを言ってしまって……。あなたの言うとおり、私みたいな人間は死んでも、誰一人泣いてもくれないでしょうね」
そう言って、女性はうつむいた。キラリと涙が一粒こぼれ落ちるのが見えた。
「いえ……、こちらも言葉が過ぎました。非礼を詫びます」
哲夫は女性に背を向けて、歩き始めた。
「本当にごめんなさい」
と、すすり泣きながら言う女性の声が聞こえた。
聖母マリアのような顔。容易にどんな表情か想像することができた。
今日子の笑顔はいつもそんな風に哲夫には見えていた。
上を向いて歩こう。
顔を上に向けると、そこには青空が広がっていた。
さっきまで降っていた雨はいつもの間にか、止んでいた。
目にたまっていた涙が一滴あふれて、自分の頬をつたって落ちていくのがわかった。
青空をキャンバスに、聖母マリアのように笑っている、今日子の顔がうつった。
空に向かって、哲夫は言った。
「ありがとう……。今日子」
いつまでたっても、お棺を閉められない哲夫に、母親の睦美が、息子の手をそっと握った。
わかっている。
そろそろお別れしなければ。
哲夫は静かに、廊下を歩き始めた。
下を向いて歩くな。上を向け。そう哲夫の父から教えられていた。
下を向き、肩を落とし歩いていると、シャンとしろといつも怒られたので、下を向いて歩くということが自然に出来なくなっていたのだ。
哲夫の父は坂本九のファンだった。
よく「上を向いて歩こう」を大して上手くもないのに、歌っていた。
頭の中で、「上を向いて歩こう」の曲がリフレインしている。
懸命に上を向いて歩こうとしたが、無理だった。どうしても下を向いてしまう。
だが、この時ばかりは下を向いて歩いていても、父親もきっと許してくれるだろうと思った。
俺と一緒になって幸せだったか?
もしかしたら、酒本広志と一緒になっていた方が幸せだったか?
下を向いて歩きながら、そんなことを考えてしまう。涙がこぼれそうになった。
「……大塚さんも、気の毒ね。まだ若いのに」
ふと、そんな声が聞こえてきた。
大塚さんと今日子の旧姓で呼んでいることから、今日子の独身時代からの知人だろうか。哲夫は足を止めた。見ると、数人の女性のグループが輪になって話をしている。その中の何人かは見覚えがあった。
おそらく、大学時代の今日子が所属していたテニスサークルの知人だろう。
「でも……、美人薄明っていうの?本当よね」
甲高い声の茶髪のボブカットの女性がそう言った。声のトーンのせいなのかどうかはわからないが、妙に癇に障った。
言い方にトゲがあるように感じられた。
「うん、そうね。本当に残念よね」
そう答えた黒髪を後ろでまとめた女性は、涙ぐんでいて、ハンカチで目頭を押さえた。
「残念だけど……、やっぱり世の中は平等よね。美人で東大出て、家もお金持ちで……、でも、長く生きられなかった」
聞き捨てならない言葉だった。今すぐこの女性を殴ってやりたい衝動にかられた。気がつくと一歩前に出ていた。
「ちょっと……」
髪をまとめた女性が哲夫の存在に気がついた。その言葉で、茶髪の女性が振り向いた。哲夫と目が合って、気まずそうに眼を伏せた。
哲夫は茶髪の女性の元に歩み寄った。
「あの……、ごめんなさい。今のは、その……」
先程の饒舌な様子とは打って変わって、口の中でボソボソと何やら言っている。
「……今日子のように、生前、精一杯生きてきて、人のことを悪く言ったことなどない人間ですら、死んでからそのように言われるのならば、あなたなど、死んでから涙を流してくれる人など一人もいないでしょうね」
哲夫はそう吐き捨てて、その場を去った。
「……ごめんなさい」
背後で、小さな声で謝る声がしたと同時に、頭を下げる気配がした。
しかし、この声は、茶髪の女性の声ではない。黒髪で髪をまとめた女性のものだろう。
茶髪の女性は、膠着してその場に立ち尽くしている。振り向かなくても空気でわかる。
自分でも驚くほど、冷徹な言葉を浴びせてしまった。だが、微塵も後悔していない。
今日子のために、言ってやって良かった。
しばらく、まるで牛歩のようにゆっくりと歩いていた。
すると、後ろからこちらに駆け寄る足音が聞こえてきた。
なんだろう面倒くさいと思いながら、振り向いた。
そこには、あの茶髪の女性がいた。少し息を切らしている様子だ。青ざめた顔をしている。
「あの……先程は失礼なことを言ってしまって、本当にすみませんでした」
茶髪の女性はそう言って、深々と頭を下げた。
謝るくらいなら始めから言うなと、内心毒づいたが、口に出さなかった。
「いえ……」
ぶっきらぼうにそう答え、踵を返した。この女の顔はもう見ていたくない。
「あの……」
なおも、声を上げる女を哲夫は無視した。
「あの……、私、、今日子さんが羨ましかったんです」
羨ましかった……?女の意外な言葉に思わず、足を止めた。
「あの、今日子さんって、とても美人だし、頭もものすごくいいし、性格も親しみやすくて、優しくて……、今日子さんみたいな人って、同姓からは嫌われるガチなんですけど、なぜか今日子さんは誰からも好かれていて……」
いきなり、今日子のことを絶賛し始めた。うすうす思っていたが、やはり嫉妬心からくるものだったか。
この女性の言うとおり、今日子は万人に好かれるタイプだったが、同姓の中には今日子を妬むものもいただろう。
当然だ。自慢の妻だ。
「それに、大学時代にとてもいい人と付き合っていて」
大学時代に付き合っていたいい人……、それは、もしかして酒本広志のことか?
哲夫は背筋が凍るような感覚に襲われた。
「それは、あなたのことだと思います。お名前哲夫さんですよね?今日子さん、よくあなたのことを話してました。とても幸せそうに」
自分のことを……?凍りつきそうになっていた背中に急に暖かい日差しが降り注いだかのようだった。
「ええ、哲夫さんみたいな素敵な人と付き合えるなんて、夢のようだと言っていたのを、とてもよく覚えています。その言った時の今日子さんの顔はとても美しい顔をしていました。まるで聖母マリアのように。何年も経っていますが、今でもその顔をはっきりと覚えています」
思いがけない女性の言葉に、哲夫の心は救われた。
「私……、亡くなった方に対してひどいことを言ってしまって……。あなたの言うとおり、私みたいな人間は死んでも、誰一人泣いてもくれないでしょうね」
そう言って、女性はうつむいた。キラリと涙が一粒こぼれ落ちるのが見えた。
「いえ……、こちらも言葉が過ぎました。非礼を詫びます」
哲夫は女性に背を向けて、歩き始めた。
「本当にごめんなさい」
と、すすり泣きながら言う女性の声が聞こえた。
聖母マリアのような顔。容易にどんな表情か想像することができた。
今日子の笑顔はいつもそんな風に哲夫には見えていた。
上を向いて歩こう。
顔を上に向けると、そこには青空が広がっていた。
さっきまで降っていた雨はいつもの間にか、止んでいた。
目にたまっていた涙が一滴あふれて、自分の頬をつたって落ちていくのがわかった。
青空をキャンバスに、聖母マリアのように笑っている、今日子の顔がうつった。
空に向かって、哲夫は言った。
「ありがとう……。今日子」
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