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第三話、人の手を借りる猫

(一)

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 最初はからかってやるつもりだった。
 その程度の事で人の子が、と考えを巡らせられなかった俺の浅はかさと人の子の弱さ。いや、繊細さとでも言うのだろう。

 布団の中で昏々と眠り続けているすず子。その魂を危うく常世とこよへやってしまう所だった。
 何も口にしようとしなかったと玉から聞かされ……顔を顰めた。

 腹も減らない、喉も乾かないこの神域。
 散歩のついでに俺が拾って来たり、ふいに辿り着いてしまった命が尽きかけた現世うつしよの生き物が苦痛なく安らかに、静かに魂の形となれるよう、この庭の片隅に寝かせてやっていたのは俺自身だったと言うのに。

 青く茂る木々や露に輝く花々に囲まれ穏やかに眠り、その時を迎える場所を与えていた。


 玉は人の子が何日、食事と言う行為を行わなければ肉体と魂が分かれてしまうのかを知らない。拾った時の玉はまだ現世で産まれて一年も経っていなかった。すず子が本当に果物のひと口すら口にしなかったと俺に報告が上がらなかったのは仕方のない話。
 俺も俺だ、観念して何か食っているだろうと高を括って――現世で生きている人の子もこちらでは腹が減らない事を分かっていたのに。

 なんたる傲り……そしてすず子の信念の強さ。

 自分がまさか娶ろうと思う程に、現世から攫ってしまった程に、良い芳香を持つ者の魂を意図せず――全ては俺の我が儘だ。すず子の本意ではないと言うのに眠りに就かせてしまったと知り、悔いた。

 そのまま何も口にしなければすず子はいずれ……だから無理やりにでも口に含ませた桃の汁。嫌がり、頑なに拒んだあの姿を思い返すと胸が痛む。

「国芳様、手を動かして下さい」
「なあ黒……神はともかく、よく人の子について調べたな」
「時間だけは途方もなく、ありますからね」

 黒衣の着物の男の手にある書状の枚数が多い。

「また現世で“流行った”のか」
「縁を切る、と……」

 時々、神に伝えるのを憚りたくなる願いが上がる。
 特に現世で広く伝聞された時。
 すず子のようにあの土地の人の子ではない者がふらりと神社に訪れる事は珍しく、だからたまたま現世に降りていた俺は……どことなく漂う甘い匂いと感じ取れたすず子の願いの変化が気になって、御籤みくじの箱の上で横になって様子を見ていた。

 手前の拝殿までしか見ることが出来ないすず子は気づいていなかったようだが、奥の本殿の中では栗色の野鼠の姿をした神の分身が直にすず子の心の内の願いに小さな耳を傾けていた。

 彼女の拙くも神を慮っての作法と素直な心の変化に気を良くした神……あれは気まぐれだった。
 神に気に入られた人の子――不思議な縁なのか、俺の求める芳香をすず子は確かに持っていた。

 神は言う。
 お前たちはどのような姿かたちをしていてもいずれどこかで出会い、互いに惹かれあうのだと。
 その巡り合わせは、と言いかけてやめてしまった気の奔放さ。まさしく神の悪戯か。

「国芳様、このままでは焚き上げる願いが多く……玉乃井もまだ人の子に付きっきりで手が回りませんし」
「そうだな……こればかりは」

 清浄の神域に積み重なっていく人の子の願い。
 浅い願いから怨念じみたものまで千差万別、あまりにも浅い願いや怨念は神に直接届ける前に俺の独断で神社の境内で焚き上げてしまうのだが。
 神も忙しい――あの小さな野鼠の分身が供物をちょろまかしに来るくらいだ。神の持つ威力いりきが多少、減っていたのだろう。

 あの供物は神の糧。
 人の子の神への信仰こそが糧。
 すず子に現世の食事が必要なのと同じように神には神の糧が必要だった。

「修行に出している社務所の猫たちも、皆が人の子の毒気にやられています」
「ふむ……」

 あの神社にいる人の子は宮司の爺さん一人しかいない。
 普段、社務所に詰めているのは猫……神使になる為の見習い猫たち。
 完全に人の姿になれる者だけが正式な神使となれる。
 どんな願いも、怨念も受け止められる己の器を形作る修行の場としているがこの願いの数もさることながら、何やらここ数日“別件”が忙しいらしい。

 あそこは人の子の目には古びた、寂びれた場所に見えようとも古からの霊山を背後に持つ絶対的な格がある。
 小さな姿となった神が気まぐれに遊びに降りて来る程に……だからあの神社は俺が直接、散歩と称して見回り、拝殿の奥で密かに人の子の願いに耳を傾け、筆を執る事もあった。

 一時的とはいえ、猫の手も足りないようならば“人の手”を借りてしまえばいいのではないだろうか。
 しかも人と猫の二人とも一緒に。
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