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第六話、人と猫と神様と
(四)
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「国芳さん……」
「そうしょげるな。一杯飲むか?」
夜、国芳さんの寝所の寝台で足を崩して座る。
「いただきます」
手に持たせてくれた盃に国芳さんが御神酒を注いでくれる。ふわ、と香る梨のような香りを感じながらゆらゆらと揺れる中に緩く映る自分の顔を見る。
鏡はこちらの世界にもあったから別に何とも思っていなかった筈なのに今日、拝殿に置かれていた丸い鏡に映った自分の顔はお化粧もしていないのに……今までもそれなりの顔にそれなりのお化粧をして過ごしてきていたけれど、あの顔は本当に私だったのだろうか。
取材交渉に来た人たちの理由は“美人過ぎる巫女さんの撮影がしたい”だった。たまちゃんは可憐で愛らしい顔立ちをしているけれど私なんて、大勢の中の一人だった。自分の顔が嫌いな訳じゃなかったけれど芸能人やモデルさんみたいなとびきりの美人とかの部類ではなかった。
「どうした、深刻そうな顔をして」
「……私の顔、変じゃないですよね」
心を揺らす不安と戸惑いをどう伝えたら良いのか分からない。
話を聞いてくれるように耳を少し傾ける仕草をする国芳さんの優しい表情。国芳さんは、綺麗な人だった。
攫われて仰ぎ見た最初から、夜を明かす仲になった今もそれは変わらない。
「お前は美しい」
「それ、は……」
胸が、ざわつく。
国芳さんの言葉は私を伴侶として思ってのことの筈なのに。
盃の中で小さく波立つお酒が自分の心を表しているようで、飲んでしまおうと唇に寄せる。
「すず子、止せ」
一口で飲みきってしまった。
普段は三度、四度と舐めるように少しずつ味わって飲んでいた物が喉を焼く。
すぐに取り上げられた盃。
ひりつく喉と胸を掻き毟りたくなる熱さ。
国芳さんも自分が言った言葉の後にいきなり私がお酒を一気にあおってしまった事に驚いていた。
「私、記憶が……」
攫われた時に持っていたバッグは?大切なお財布やスマートフォンは?たまちゃんに預けた服は?
どうして私はそれらを探しもせず、国芳さんやたまちゃんにも返却を望まなかった?
意識が、この世界に溶けだしている。
そう思った瞬間だった。
「すず子?」
私、この人のお嫁さんになってもいいって思っていた。
だから心も体も許して、こうしてお酒を飲みかわす夜を心地いいものだと思っていた。
肌が粟立つ。
血の気が引いた時の強い寒気にも似た感覚、胃がひっくり返りそうな不安が込み上げる。
――私は、わたし?
私の肩に触れようと差し伸べられる国芳さんの手が怖い。私はその手で攫われてここに住まわされ、婚姻の関係を持った。
人ではない人に囲まれて、気が付いた時にはもう私も“ただの人”じゃなくなってきて、それで、わたしは。
「すず子」
来ないで、とは言わなかった。
代わりに「ごめんなさい」と言って。
逃げるように国芳さんの寝所から出て蝋燭の明りが灯る外廊下を一人で歩く。もう覚えてしまったその道筋、夜の静けさにも慣れている筈なのに今は暗くて怖い。
自分の部屋に戻る為に歩いているのに、本当の自分の部屋は広い庭が見渡せる開放的な場所なんかじゃなくて、小さくて狭い何もないアパートだった筈だ、と意識が波打ち、揺れる。
止まらない心臓の強い拍動と早足で歩いたせいでお酒が急に体に回ってしまったのか歩けなくなり、立ち止まる。
「は……ッ」
息をついてもどうにもならない。
ぐらぐらする頭、力の入らない膝に廊下に崩れてしまった。
涙が滲んで、自分でもどうしたらいいか分からない。
国芳さんにどうやって弁解したらいい?今更こんな、怖くなって逃げ出したなんて。
体を起こそうと廊下と庭を仕切る手摺に凭れかかって、もう一度息をする。
「かわいいひとのこ」
とん、と小さな音を立てて手摺に飛び乗るように目の前に現れたのは栗色の野ねずみ――神様の分身だった。
「そのこころのゆれこそがひと、おまえをひとたらしめるこんげん」
「神様……」
頭を下げる事も出来ない私。
「よいよい。わたしはただの“ねずみさん”だ」
手摺を掴んでやっと体を支えている私の指先に小さな手が触れる。
「ふむ。ああ、くによしめ……あやつのいたずらがこうなるとは。ふむふむ」
小さな両手が私の指先をやさしく撫でてくれると途端に涙が溢れ出て、止まらなくなる。
でもどうしてだろう、涙からお酒の薄まった匂いのようなものが。
「のう、人の子。この揺らぎは肉と魂が剥離した時に出来た傷を私が補ったせいだ。その見目の美しさもお前の心の内から滲み出る物で間違いはないが――まだお前自身が慣れておらぬようだな」
「あ……っ」
「傷には私の気が混じり、それを国芳の気が包み込み、すっかり馴染んでしまったようだが……時期に慣れる」
手摺に凭れかかる私の目の前にはもう、栗色の野ねずみの姿はなくて……代わりにこの世の人ではないような、夜だと言うのに白い輝きを放つ幾重にも重ねられた十二単の着物姿の女性がいた。蝋燭の明りにきらきらと光って、床にまで広がる栗色のとても長い髪も、そのお顔も、言葉に出来ない美しさを湛えた――神様の本当のお姿があった。
「酒は抜けたか?人の子よ、もう呷るでない。あの酒は舐めるのが一番旨いのだ」
優しい指先が勝手にはらはらと滑り落ちる私の頬の涙を掬って……舐めてしまった。
「うむ」
輝きに目が奪われて、何も言葉が発せない。
「おお国芳め、もう来たか」
眩しいくらいに輝いていた体はあっという間に光の粒になって、まるで蛍が散っていくように蝋燭の明りだけの廊下に静かに消えて行った。
呆気にとられて動けない私、その光の粒が僅かに残る廊下の向こうから足音を立ててやって来る国芳さん。
「すず子!!」
手摺に凭れたまま腰が抜けてしまった私の頬にはまだ拭えない涙が残っている。
「神さま、が」
膝をついた国芳さんが私の頬に鼻先を寄せる。
「だろうな。こんな真似、神にしか出来ない」
「私……神様の、女神様のお姿を……きっと、私なんて見てはいけない……」
「いいんだよ。あのお方は人好きだ。お前の普段の行いも知っている」
「そうしょげるな。一杯飲むか?」
夜、国芳さんの寝所の寝台で足を崩して座る。
「いただきます」
手に持たせてくれた盃に国芳さんが御神酒を注いでくれる。ふわ、と香る梨のような香りを感じながらゆらゆらと揺れる中に緩く映る自分の顔を見る。
鏡はこちらの世界にもあったから別に何とも思っていなかった筈なのに今日、拝殿に置かれていた丸い鏡に映った自分の顔はお化粧もしていないのに……今までもそれなりの顔にそれなりのお化粧をして過ごしてきていたけれど、あの顔は本当に私だったのだろうか。
取材交渉に来た人たちの理由は“美人過ぎる巫女さんの撮影がしたい”だった。たまちゃんは可憐で愛らしい顔立ちをしているけれど私なんて、大勢の中の一人だった。自分の顔が嫌いな訳じゃなかったけれど芸能人やモデルさんみたいなとびきりの美人とかの部類ではなかった。
「どうした、深刻そうな顔をして」
「……私の顔、変じゃないですよね」
心を揺らす不安と戸惑いをどう伝えたら良いのか分からない。
話を聞いてくれるように耳を少し傾ける仕草をする国芳さんの優しい表情。国芳さんは、綺麗な人だった。
攫われて仰ぎ見た最初から、夜を明かす仲になった今もそれは変わらない。
「お前は美しい」
「それ、は……」
胸が、ざわつく。
国芳さんの言葉は私を伴侶として思ってのことの筈なのに。
盃の中で小さく波立つお酒が自分の心を表しているようで、飲んでしまおうと唇に寄せる。
「すず子、止せ」
一口で飲みきってしまった。
普段は三度、四度と舐めるように少しずつ味わって飲んでいた物が喉を焼く。
すぐに取り上げられた盃。
ひりつく喉と胸を掻き毟りたくなる熱さ。
国芳さんも自分が言った言葉の後にいきなり私がお酒を一気にあおってしまった事に驚いていた。
「私、記憶が……」
攫われた時に持っていたバッグは?大切なお財布やスマートフォンは?たまちゃんに預けた服は?
どうして私はそれらを探しもせず、国芳さんやたまちゃんにも返却を望まなかった?
意識が、この世界に溶けだしている。
そう思った瞬間だった。
「すず子?」
私、この人のお嫁さんになってもいいって思っていた。
だから心も体も許して、こうしてお酒を飲みかわす夜を心地いいものだと思っていた。
肌が粟立つ。
血の気が引いた時の強い寒気にも似た感覚、胃がひっくり返りそうな不安が込み上げる。
――私は、わたし?
私の肩に触れようと差し伸べられる国芳さんの手が怖い。私はその手で攫われてここに住まわされ、婚姻の関係を持った。
人ではない人に囲まれて、気が付いた時にはもう私も“ただの人”じゃなくなってきて、それで、わたしは。
「すず子」
来ないで、とは言わなかった。
代わりに「ごめんなさい」と言って。
逃げるように国芳さんの寝所から出て蝋燭の明りが灯る外廊下を一人で歩く。もう覚えてしまったその道筋、夜の静けさにも慣れている筈なのに今は暗くて怖い。
自分の部屋に戻る為に歩いているのに、本当の自分の部屋は広い庭が見渡せる開放的な場所なんかじゃなくて、小さくて狭い何もないアパートだった筈だ、と意識が波打ち、揺れる。
止まらない心臓の強い拍動と早足で歩いたせいでお酒が急に体に回ってしまったのか歩けなくなり、立ち止まる。
「は……ッ」
息をついてもどうにもならない。
ぐらぐらする頭、力の入らない膝に廊下に崩れてしまった。
涙が滲んで、自分でもどうしたらいいか分からない。
国芳さんにどうやって弁解したらいい?今更こんな、怖くなって逃げ出したなんて。
体を起こそうと廊下と庭を仕切る手摺に凭れかかって、もう一度息をする。
「かわいいひとのこ」
とん、と小さな音を立てて手摺に飛び乗るように目の前に現れたのは栗色の野ねずみ――神様の分身だった。
「そのこころのゆれこそがひと、おまえをひとたらしめるこんげん」
「神様……」
頭を下げる事も出来ない私。
「よいよい。わたしはただの“ねずみさん”だ」
手摺を掴んでやっと体を支えている私の指先に小さな手が触れる。
「ふむ。ああ、くによしめ……あやつのいたずらがこうなるとは。ふむふむ」
小さな両手が私の指先をやさしく撫でてくれると途端に涙が溢れ出て、止まらなくなる。
でもどうしてだろう、涙からお酒の薄まった匂いのようなものが。
「のう、人の子。この揺らぎは肉と魂が剥離した時に出来た傷を私が補ったせいだ。その見目の美しさもお前の心の内から滲み出る物で間違いはないが――まだお前自身が慣れておらぬようだな」
「あ……っ」
「傷には私の気が混じり、それを国芳の気が包み込み、すっかり馴染んでしまったようだが……時期に慣れる」
手摺に凭れかかる私の目の前にはもう、栗色の野ねずみの姿はなくて……代わりにこの世の人ではないような、夜だと言うのに白い輝きを放つ幾重にも重ねられた十二単の着物姿の女性がいた。蝋燭の明りにきらきらと光って、床にまで広がる栗色のとても長い髪も、そのお顔も、言葉に出来ない美しさを湛えた――神様の本当のお姿があった。
「酒は抜けたか?人の子よ、もう呷るでない。あの酒は舐めるのが一番旨いのだ」
優しい指先が勝手にはらはらと滑り落ちる私の頬の涙を掬って……舐めてしまった。
「うむ」
輝きに目が奪われて、何も言葉が発せない。
「おお国芳め、もう来たか」
眩しいくらいに輝いていた体はあっという間に光の粒になって、まるで蛍が散っていくように蝋燭の明りだけの廊下に静かに消えて行った。
呆気にとられて動けない私、その光の粒が僅かに残る廊下の向こうから足音を立ててやって来る国芳さん。
「すず子!!」
手摺に凭れたまま腰が抜けてしまった私の頬にはまだ拭えない涙が残っている。
「神さま、が」
膝をついた国芳さんが私の頬に鼻先を寄せる。
「だろうな。こんな真似、神にしか出来ない」
「私……神様の、女神様のお姿を……きっと、私なんて見てはいけない……」
「いいんだよ。あのお方は人好きだ。お前の普段の行いも知っている」
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