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第9話
気難しい飼い猫 (2)
こんなこと、あってはならない。これでは自分の家、神崎一家の二の舞どころかもっと酷い。花見川が一番に可愛がっていると言っても過言では無い市原がまさかこんな裏切りをするなんて。心のどこかで疑っていたことが現実となってしまい、押し出されるようにエレベーターから降りた桐子のヒールの進みは悪い。
「体に傷はつけないで下さい。神崎さんと花見川は」
肌の露出の無い場所に対して暴力を振るってもすぐに発覚してしまう、と示唆する市原に桐子は流石に俯いてしまう。三十にもなってこんな恥辱を受けるなど――けれど自分は腹を括った。花見川勝のそばにいることを選んだのだから彼との肉体関係についてなど些末なこと、と鼻で笑って流してしまうのが極道の女として……。
頭の中で渦巻く言葉と持ち合わせている極道の女としての矜持に押し黙っていた桐子に対し市原は言葉を続ける。
「神崎さん、この事は内密に。四六時中ついて回っているせいで勘付かせない為に大変でしたが……ねえ、俺を差し置いてよくもまあただの女が」
ブラックスーツの男に連行されている桐子の足取りは重く、市原はぺらぺらとよく喋った。
桐子は最近の市原の行動を思い出し、振り返る。本当はそんな余裕なんて無いのに、自分の揺れる心を取り繕うにはそうするしかなかった。
(最近、市原さんが同行する事が少なくなっていた。私が来る前は常に帯同者の中に含まれていたと松尾さんは言っていたけれど……確かに私と勝さんが温泉に行く時にも市原さんは留守番で、私たちの行動の始終を知っていたのはごく近しい内部の者だけで)
明らかに情報が漏れていた。セキュリティはそこまで甘くないと桐子も思っていたので内部を知っている者が直接どこかにリークをしていたのなら。市原が、情報を流していたのなら。
どうしてそんな事を彼はしてしまったのだろう。待遇だって悪くないし、このまま勤めていれば松尾の補佐役にだってなれた筈。双雲会本部総務部の部長補佐ならば同年代の極道の中でも大出世にあたる。
それを蹴ったどころか長年仕えていた花見川に砂を掛けるような裏切りをするなんて。
「どうぞお嬢、こちらです」
意図的に売られなかった都内の土地。今、父親に売らせなければその命は取られる。桐子がどうにかしなければ金本と竹原は執拗に追い続けるだろう。
ただその土地は実質的には双雲の持ち物。花見川も土地の存在を知り、恣意的に残していた。そして花見川の助言を元に計画的に離婚をしている両親。父親が殺されたとして、土地の相続をするのは一人娘の桐子のみだが事と次第によらずとも父親の命どころか母親もろとも葬ってしまうのが大陸側のやり口だと言うのは桐子も承知している。
「今日はお話だけ、ね。ご聡明なお嬢なら……あの花見川の女になれるタマをしてりゃあこれからご説明する事についてもご理解いただけるかと」
しかし、手離すにしたって父親が生きている限りそちらの承認を取らなくてはならない。桐子が父親を説得し、花見川に黙って手続きを踏むことも出来なくはないが……桐子は知っていた。登記簿が動いた場合に多少は時間がずれようとも第三者が検知することは不可能ではない事を。だから売却すること自体は可能でも、その先は長く隠し通せない。
土地が実質的に双雲の持ち物であり、勝手な売却によって花見川勝の逆鱗に触れてしまう可能性も竹原たちは考えていない筈はない。大恩のある花見川に対する不義理な真似への制裁も、今この男達は目の前の土地が欲しいだけで神崎親子がどうなろうと心底どうでも良い、と考えるのがこの裏社会ではごく普通のことだった。
(売却額が一桁億だったとしても何かしらの拠点になった暁には数十億単位でのお金が動く、と勝さんは言っていた)
ぎり、と桐子のバッグを持つ手に力が入る。
自分はなんて無力なのだろう……悪い男の女である事を選んだのに今は怖くて、あまりにも心細い。目の前にいる市原の裏切りについても胸がぎゅっと痛い程に締め付けられる。
「さあ、神崎さん。コーヒーを用意してるんで」
趣味嗜好を馬鹿にされているように感じた。桐子が本部に来てから花見川にお茶を淹れてやっているのは桐子で、どうやら以前は市原がよくやっていたような事を聞いている。
「こんなことをして……」
桐子の動揺を隠せないでいる目は市原の目を見ていた。
「だから?別に俺は稼げる所に移っただけですよ?合理主義の花見川なら褒めてくれますよ」
周りにいた黒服も鼻で笑っている。皆、それぞれに似たような感じで金本を中心に集められたのかもしれない。大陸マフィアと日本の極道を比べてしまえば資金力に差がついているのは明白。だが、それを随時運用しているのが花見川だ。カネの使い方がそもそも根本的に違う。
相手は話をするだけ、と言っているがもはやこの直接的な強請りは売却の一手しか桐子に選ばせない。
(ああ、何が話し合いだ。勝さんを出し抜こうなんてよくも)
桐子の心の中にある細い糸がぷつり、と切れる。
それと同時に背後でエレベーターが他の階から客が乗ったのか桐子たちのいる階で停止した。他の黒服がそちらに気を取られた瞬間だった。
花見川本人と包丁を前にして腹を括った女、神崎桐子の指先が部屋に入る寸前で竹原のネクタイに掛かった。
あまりにも咄嗟の出来事と桐子の渾身の力。長い睫毛に縁取られた惑う瞳にまだ光は微かにあったのに――途端に目が座った女の男に対する暴挙を竹原は「ぐっ」と唸っただけで叩き落とす事が出来ないでいた。
「私が、誰の女か分かってモノを言っている?」
絶対に離さないと言う意思。それどころかこれからは極道の頂点に近い存在になる事を示唆する瞳が更に強く、見開く。
「あーあ。竹原さん、私の飼い猫に手を出すと引っ掻かれるだけじゃ済まされませんよ」
別の黒服を従えてエレベーターから降りて来たのは桐子の凶暴な姿に満面の笑みを浮かべている花見川だった。
「市原ァ、御苦労様だねえ」
するとそのフロアの別の場所からも竹原や市原たちを挟み撃ちにするように花見川の持つ黒服の兵が一斉に取り囲んだ。
人の人数だったら花見川、双雲の方が圧倒的に有利。それに一応、桐子の細腕だとしても竹原の首を掴んでいる。
「私の桐子さんに首根っこを掴まれてマウントを取られてしまうようではアチラの界隈でしっかり稼げるかどうか」
ごつ、ごつ、と大理石張りの廊下に花見川を始めとした屈強な双雲会の構成員がじりじりと範囲を狭めながら取り囲む。
「桐子さんの獰猛さに気付けなかったのはあなた方の落ち度だ。彼女のそのダイヤの指輪でブン殴られなかっただけ良かったですね」
未だに竹原のネクタイを引っ掴んでいる桐子に視線をやる花見川は口元のにやけを隠さなかった。そして「おいで」と言って両腕を広げた花見川に桐子の表情は深く、渋さを極める。
「嫌です」
「えー!!」
フン、と打ち捨てるようにネクタイから手を離した桐子はカッと強くヒールを鳴らして顔見知りの黒服のそばに行く。彼女の目は既に花見川が手にしている見慣れないスマートフォンに気づいていたのだ。
「もう桐子さんったら……じゃなくて。あなた方の上席から連絡が来ているので」
その端末は双雲会の構成員の手から竹原へと移る。
双雲の兵隊に囲まれては従うしかなく、通話状態になっていた端末はハンズフリーになっており向こう側から「双雲会とは話がついた。この件から手を引けば双雲会との戦争は避けられる」との声がする。
近くに居た者たちもその声を耳にし、唖然として返答が出来ないでいる竹原の姿を皆が注視していた。
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