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第2章 魔術師アレイスの望み
第66話 アレイスさんの訪問
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右腕を怪我した私は、自宅でしばらく静養することになった。怪我の程度は軽く、右手を動かすこともできるので生活に支障はない。ただ、右腕から肘にかけて大きな痣ができていた。動かすと痛みが走るので、重いものは持たないよう医師のレイチェルさんに言われている。
私の怪我を知った母は怒り、ギルドに抗議すると息巻いていて、なだめるのが大変だった。受付嬢を誰も守らないなんておかしい、と母は言う。でもあの時は不幸な偶然が重なったのだ。雨で受付に人がいなかったこと、そして乗り込んできたのが若い女性だったことで、そこまで警戒しなかった。侍女のマーニーさんも「暴力を振るうとは思わなかった」と言っていたし、育ちのいい令嬢がギルドで暴れるなんて想像もしなかったのだ。母の怒りは、アメリアさんが直接『伝話』で説明してくれたおかげで、なんとか収まった。
静養といっても体は元気なので、私は暇を持て余していた。母はいつものように仕事に行き、私は一人でのんびり過ごしている。仕事を休んでまだ二日目だけど、すでに退屈で仕方がない。母は薬師ギルドから効き目の強い塗り薬を持ってきてくれた。そのおかげか、傷の治りも早い気がする。もう仕事に行けそうだと思うけれど、母は「いい機会だからゆっくり休みなさい」と言う。アメリアさんも同じことを言っていた。そんなに私が仕事ばかりしているように見えるのだろうか。
リビングルームでくつろいでいたら、玄関の呼び鈴がカランカランと音を立てた。お客さんだ、誰だろう?
玄関ドアを開けると、そこに立っていたのはアレイスさんだった。
「アレイスさん!」
「やあ、エルナ。約束通り、お見舞いに来たよ」
アレイスさんは花束を抱えていて、私に差し出した。整った顔立ちの彼が花束を持っていると、まるで絵画から抜け出してきたみたいだ。
「わあ、綺麗ですね! 私、男の人にお花をもらったの初めてです! ありがとうございます」
それはオレンジ色のバラを束ねた花束だった。顔を近づけると、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。嬉しさと気恥ずかしさで思わず顔がほころぶ。アレイスさんがニコニコしながら私をじっと見ていることに気づき、私は我に返った。
「アレイスさん、どうぞ中に入ってください! 狭い家ですけど」
「ありがとう」
アレイスさんが来るとは思っていなかったので、私はすっぴんに適当な服装だ。髪もまとめずに下ろしたままだし、部屋着のワンピースはシワだらけでだいぶくたびれている。事前に分かっていれば、せめて着替えておけたのに。
リビングに案内すると、アレイスさんは物珍しそうに部屋の中を見回した。
「どうぞ、座ってください。今、飲み物を用意しますね」
「気を使わないで。君は怪我人なんだから」
「これくらいなら平気ですよ」
私は台所へ行き、保存庫から水入りのピッチャーを取り出した。中にはハーブティーを冷やしたものが入っている。すっきりとして香りがいいのがお気に入りだ。
リビングに戻ると、アレイスさんはチェストの上に飾ってある父の絵をじっと見ていた。
「ハーブティーです、どうぞ。よく冷やしてありますよ」
「ありがとう。エルナ、この人がひょっとして……?」
「はい、私の父です」
その絵は昔、私が描いた父の肖像だった。額縁の中で笑う父は我ながら特徴をよく捉えているし、母も気に入っている。
「目の色がエルナと同じオレンジ色だね」
「そうなんです。私は父と目が似ているんです」
「笑顔もエルナに似ているね。すごくいい絵だ」
絵をやけにじっくり眺めながら、アレイスさんは目を細めていた。ようやくソファに座ったアレイスさんは、ハーブティーを美味しそうに一口飲む。
「すっきりして美味しいね。喉が渇いていたからちょうど良かったよ」
「良かった。おかわりもあるので遠慮なく言ってくださいね」
「それより、怪我の具合はどう? 見た感じ元気そうだけど」
「見ての通り、元気ですよ。本当はもう仕事に戻ってもいいくらいなんですけど、母はもう少し休んだ方がいいって言うんです」
私は元気さを見せようと右腕を持ち上げてみせた。こうして動かしてみると、痛みがだいぶ引いてきているのが分かる。
「エルナはずっと働いているからね。いい機会だからゆっくり休むといいよ。支団長にもそう言われたでしょ?」
「確かに、そうですね……」
「僕も支団長からしばらくギルドに来るなと言われている。僕らはしばらくのあいだ、大人しくしていた方がよさそうだね」
アレイスさんは苦笑した。きっとギルド内はルシェラ嬢の話で持ちきりだろう。仕事に行ったら行ったで質問攻めになるに違いない。それはアレイスさんも同じだ。
「じゃあ、アレイスさんもギルドには行ってないんですね」
「そうだね。ちょうど杖の手入れを魔術ギルドにお願いしたところだから、それが終わるまではゆっくりしているよ。エルナは腕を怪我したから、絵を描くこともできないよね? 退屈でしょ」
「そうなんです。利き腕ですから……」
普段の生活はどうにかなるけど、さすがに絵を描くことはできない。利き腕を怪我すると、不便なことは多い。
「最近は何か描いてたの?」
「植物の絵とか描いてました」
「ああ、温室にたくさん植物があるもんね」
「そうなんですよ。描くものには困らないんです。あとで色をつけようと思ってて……」
そう答えながら、ふと気づく。あれ? 私、いつアレイスさんに温室の話をしたっけ? 前に空を飛んで家まで送ってもらったことはあったけど、その時に裏庭を見たのかな? それとも一緒にお酒を飲んでいるときにでも話したのかな?
「元気になったら、またアトリエにおいでよ」
「あ、はい……すみません。せっかく使っていいと言ってもらったのに、全然行けなくて」
アトリエをもらったのに、結局一度も行けていない。少し気まずい気持ちになる。アレイスさんは笑いながら「気にしなくていいよ」と言ったあと、急に思い出したようにズボンのポケットを探り始めた。
「忘れるところだった! エルナに渡すものがあったんだよ」
アレイスさんはポケットから何かを取り出し、私に手渡してきた。
「はい、新しいリボンだよ。これを君へのお見舞いに」
「これ……」
小さく折り畳まれたリボンは、深いオリーブ色で、光沢のある厚手の生地だった。すべすべして触り心地が良い。
「綺麗なリボン……いただいていいんですか?」
「もちろん。これも『お守り』だからね。外に出る時はちゃんとつけてね」
「はい! 大事にしますね」
私はリボンをぎゅっと胸に抱きしめた。アレイスさんは目尻を下げ、じっと私を見ている。
「今日は髪を下ろしているんだね。いつもと雰囲気が違う」
「家なので……すみません、こんな格好で」
急に恥ずかしくなって、私は髪を手で整えた。アレイスさんは微笑んだままで、私は彼の視線に居心地の悪さを覚える。
「……私、お花を花瓶に入れてきますね」
ソファから立ち上がろうとした私に、アレイスさんは「エルナ」と声をかけた。
「ルシェラ嬢のこと……君に迷惑をかけて本当にすまなかった。誰にも迷惑をかけたくないと思っていたのに、結局僕は多くの人を巻き込んでしまったんだ」
私はソファに座り直し、アレイスさんに向き直った。
「もう謝らないでください。すべて終わったんです。落ち着いたらまた、ギルドでお待ちしていますね」
アレイスさんは小さく頷き、私たちはお互いに笑い合った。
私の怪我を知った母は怒り、ギルドに抗議すると息巻いていて、なだめるのが大変だった。受付嬢を誰も守らないなんておかしい、と母は言う。でもあの時は不幸な偶然が重なったのだ。雨で受付に人がいなかったこと、そして乗り込んできたのが若い女性だったことで、そこまで警戒しなかった。侍女のマーニーさんも「暴力を振るうとは思わなかった」と言っていたし、育ちのいい令嬢がギルドで暴れるなんて想像もしなかったのだ。母の怒りは、アメリアさんが直接『伝話』で説明してくれたおかげで、なんとか収まった。
静養といっても体は元気なので、私は暇を持て余していた。母はいつものように仕事に行き、私は一人でのんびり過ごしている。仕事を休んでまだ二日目だけど、すでに退屈で仕方がない。母は薬師ギルドから効き目の強い塗り薬を持ってきてくれた。そのおかげか、傷の治りも早い気がする。もう仕事に行けそうだと思うけれど、母は「いい機会だからゆっくり休みなさい」と言う。アメリアさんも同じことを言っていた。そんなに私が仕事ばかりしているように見えるのだろうか。
リビングルームでくつろいでいたら、玄関の呼び鈴がカランカランと音を立てた。お客さんだ、誰だろう?
玄関ドアを開けると、そこに立っていたのはアレイスさんだった。
「アレイスさん!」
「やあ、エルナ。約束通り、お見舞いに来たよ」
アレイスさんは花束を抱えていて、私に差し出した。整った顔立ちの彼が花束を持っていると、まるで絵画から抜け出してきたみたいだ。
「わあ、綺麗ですね! 私、男の人にお花をもらったの初めてです! ありがとうございます」
それはオレンジ色のバラを束ねた花束だった。顔を近づけると、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。嬉しさと気恥ずかしさで思わず顔がほころぶ。アレイスさんがニコニコしながら私をじっと見ていることに気づき、私は我に返った。
「アレイスさん、どうぞ中に入ってください! 狭い家ですけど」
「ありがとう」
アレイスさんが来るとは思っていなかったので、私はすっぴんに適当な服装だ。髪もまとめずに下ろしたままだし、部屋着のワンピースはシワだらけでだいぶくたびれている。事前に分かっていれば、せめて着替えておけたのに。
リビングに案内すると、アレイスさんは物珍しそうに部屋の中を見回した。
「どうぞ、座ってください。今、飲み物を用意しますね」
「気を使わないで。君は怪我人なんだから」
「これくらいなら平気ですよ」
私は台所へ行き、保存庫から水入りのピッチャーを取り出した。中にはハーブティーを冷やしたものが入っている。すっきりとして香りがいいのがお気に入りだ。
リビングに戻ると、アレイスさんはチェストの上に飾ってある父の絵をじっと見ていた。
「ハーブティーです、どうぞ。よく冷やしてありますよ」
「ありがとう。エルナ、この人がひょっとして……?」
「はい、私の父です」
その絵は昔、私が描いた父の肖像だった。額縁の中で笑う父は我ながら特徴をよく捉えているし、母も気に入っている。
「目の色がエルナと同じオレンジ色だね」
「そうなんです。私は父と目が似ているんです」
「笑顔もエルナに似ているね。すごくいい絵だ」
絵をやけにじっくり眺めながら、アレイスさんは目を細めていた。ようやくソファに座ったアレイスさんは、ハーブティーを美味しそうに一口飲む。
「すっきりして美味しいね。喉が渇いていたからちょうど良かったよ」
「良かった。おかわりもあるので遠慮なく言ってくださいね」
「それより、怪我の具合はどう? 見た感じ元気そうだけど」
「見ての通り、元気ですよ。本当はもう仕事に戻ってもいいくらいなんですけど、母はもう少し休んだ方がいいって言うんです」
私は元気さを見せようと右腕を持ち上げてみせた。こうして動かしてみると、痛みがだいぶ引いてきているのが分かる。
「エルナはずっと働いているからね。いい機会だからゆっくり休むといいよ。支団長にもそう言われたでしょ?」
「確かに、そうですね……」
「僕も支団長からしばらくギルドに来るなと言われている。僕らはしばらくのあいだ、大人しくしていた方がよさそうだね」
アレイスさんは苦笑した。きっとギルド内はルシェラ嬢の話で持ちきりだろう。仕事に行ったら行ったで質問攻めになるに違いない。それはアレイスさんも同じだ。
「じゃあ、アレイスさんもギルドには行ってないんですね」
「そうだね。ちょうど杖の手入れを魔術ギルドにお願いしたところだから、それが終わるまではゆっくりしているよ。エルナは腕を怪我したから、絵を描くこともできないよね? 退屈でしょ」
「そうなんです。利き腕ですから……」
普段の生活はどうにかなるけど、さすがに絵を描くことはできない。利き腕を怪我すると、不便なことは多い。
「最近は何か描いてたの?」
「植物の絵とか描いてました」
「ああ、温室にたくさん植物があるもんね」
「そうなんですよ。描くものには困らないんです。あとで色をつけようと思ってて……」
そう答えながら、ふと気づく。あれ? 私、いつアレイスさんに温室の話をしたっけ? 前に空を飛んで家まで送ってもらったことはあったけど、その時に裏庭を見たのかな? それとも一緒にお酒を飲んでいるときにでも話したのかな?
「元気になったら、またアトリエにおいでよ」
「あ、はい……すみません。せっかく使っていいと言ってもらったのに、全然行けなくて」
アトリエをもらったのに、結局一度も行けていない。少し気まずい気持ちになる。アレイスさんは笑いながら「気にしなくていいよ」と言ったあと、急に思い出したようにズボンのポケットを探り始めた。
「忘れるところだった! エルナに渡すものがあったんだよ」
アレイスさんはポケットから何かを取り出し、私に手渡してきた。
「はい、新しいリボンだよ。これを君へのお見舞いに」
「これ……」
小さく折り畳まれたリボンは、深いオリーブ色で、光沢のある厚手の生地だった。すべすべして触り心地が良い。
「綺麗なリボン……いただいていいんですか?」
「もちろん。これも『お守り』だからね。外に出る時はちゃんとつけてね」
「はい! 大事にしますね」
私はリボンをぎゅっと胸に抱きしめた。アレイスさんは目尻を下げ、じっと私を見ている。
「今日は髪を下ろしているんだね。いつもと雰囲気が違う」
「家なので……すみません、こんな格好で」
急に恥ずかしくなって、私は髪を手で整えた。アレイスさんは微笑んだままで、私は彼の視線に居心地の悪さを覚える。
「……私、お花を花瓶に入れてきますね」
ソファから立ち上がろうとした私に、アレイスさんは「エルナ」と声をかけた。
「ルシェラ嬢のこと……君に迷惑をかけて本当にすまなかった。誰にも迷惑をかけたくないと思っていたのに、結局僕は多くの人を巻き込んでしまったんだ」
私はソファに座り直し、アレイスさんに向き直った。
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アレイスさんは小さく頷き、私たちはお互いに笑い合った。
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