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なんでだよ

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 重い扉が開く音、閉まる音。
 そして鍵がかかる音がする。

 頭を抑えていた手がなくなり、ディランはようやく羽織から顔を出すことができた。
 ずっと影千代の匂いに包まれていたせいで、頭がくらりとする気がした。

 予想通りの空間が目に入ってくる。
 部屋には白い大理石のローテーブルと、それに似合う大きな白いソファが置かれていた。

 上品な雰囲気のこじんまりとした部屋で、使用人に声をかければ長方形のテーブルの上に軽食を用意してくれる。
 それを口にしながら優雅にゆったりと語らい合うのが、この部屋の正しい使い方だ。

 もちろん今は、そんな余裕は全くない。

 ディランは白地に白色の糸で刺繍の施された羽織を、紺色の絨毯の上へ乱雑に投げ捨てた。

「お前な! 急になんなんだ!」
「そんな顔を他の者に見られたらことだ」

 熱の篭る羽織の中で更に紅潮したディランの頬に、影千代は優しく触れてくる。
 今まで温かいと感じていた手が、冷たく心地よい温度に感じる。

 だが、ディランは一歩下がって手を払い除けた。

「はぁ? 俺の顔になんの文句があんだよ」
「文句なんて、あるわけがない。ただ、今のお前はあまりにも……堪らない顔をしている」

 棘のある態度にも関わらず、影千代はディランが退がった分だけ詰めてくる。
 その瞳はディランを包み込むようないつもの色ではなく、切なくも燃えるような色をたたえていた。

 汗ばんで張り付いてくる髪を払い除け、ディランの金茶色の瞳は怯まずにその青を睨み付ける。

「意味が分かんねぇ」
「私以外に、そんな可愛い顔を見せないでくれ」

 迫ってくる影千代から逃げてジリジリと後ずさるが、ソファに踵が当たって行き止まりだ。
 ディランはそのままソファに腰を沈めた。
 追い詰められたのではなく、初めからそうしようとしていたのだという顔をして影千代を見上げる。

「知るか。なんの権利があってそんな」
「お前の伴侶だ」
「形式上はな」

 影千代の気持ちを察していながら、残酷なことを言ってる自覚はあった。
 だが売り言葉に買い言葉ではなく、ディランは本当に影千代の気持ちが分からなかった。

 誰かを独り占めにしたいなどと、感じたことがなかったのだ。
 気軽な付き合いばかりしていたディランにとって、嫉妬は無縁のものだった。
 まだ受け入れることが出来ないとはいえ、影千代への恋心を自覚した今でも、それは変わらない。

 ディランとの感覚の差に気がついたのだろう。
 真剣ではあるものの声は冷静だった影千代が、苦しそうに眉を顰めた。

「ディラン、もうやめてくれ」

 懇願の声にディランの胸はざわめく。
 影千代はソファの背に手をつき、顔がぼやけないギリギリの距離で言葉を紡いだ。

「私は、お前が好きだ」

 ついに、本人から告げられた。

「……好き……」

 まるで今初めて知ったかのように復唱してしまう。

 心が、体が、嬉しいと叫ぶ。
 乾いた唇にも朱に染まった頬にも逞しい肢体にも、今すぐにでも触れられる距離だ。

 だが、ディランは手を強く握り締める。
 尾が立ちそうになるのを背中でグッとソファに押さえつけた。

「なんだお前、俺に抱かれたいのか?」

 広い肩を押し退け、目線を部屋のテーブルにやりながら嘲笑するように言う。
 素直に体を離した影千代に安堵すると共に物足りなさも感じるという矛盾を抱えつつ、ディランはダークブロンドの毛先を指で弄び始めた。

「そういう話では」

 突然、温度が下がったディランの態度に影千代は戸惑いを見せる。
 そこに早口で畳み掛けた。
 心が見えないように、冷たく低い声を心掛けて。

「じゃあ抱きたい? 論外だ。他を当たれ」
「ディラン! 私がお前を慕う気持ちは、何もそういったことばかりを言っているんじゃない!」

 部屋で反響するほどの音量が影千代から発せられた。
 ディランは体を硬直させて、視線を上げる。
 燃えたぎるような青色が、ディランの気を引こうと必死の表情で見下ろしていた。

 この二ヶ月で、影千代が声を荒げたのは初めてだ。
 盗賊相手でさえ、唸り声で威嚇するタイプの雄だった。

「誤魔化さないで、真っ直ぐ私の目を見て答えてくれ」

 昂る感情を沈めた重い声が迫る。
 頭を両手で掴まれ、別のところを向けないようにされた。
 痛みを感じれば跳ね除ける口実が出来るのに、その手はいつも通り優しい。

 ディランはどうしたらいいのか分からないまま、唇を震わせた。

「なん、でだよ。俺、お前に良いとこ一回も見せてねぇだろ。」

 改めて、言葉にしてから気がついた。
 影千代を好きになったと言ったところで、誰も不思議に思いはしないだろう。
 そのくらい、影千代は優秀な雄だ。
 ディラン自身も、何もおかしなことだと思わない。

 だが、逆はどうだ。

 まず初夜で大失敗しているのだ。
 そこから無様な姿しか見せられていない。
 ライオン族の雄らしく強く逞しく、他と一線を画す容姿で人気を集める第六皇子ディランの姿は影千代は知らないはずだ。

 理由が分からないから納得できない。
 今までは好かれて当然だと思っていたのに、一度揺らいだ自信は簡単には立て直せなかった。

「それともお前、顔が良けりゃなんでもいいのか?」

 自分で言っていて、勝手に目頭が熱くなってきた。
 今まではその容姿を利用して好きにしてきたのに、影千代にそこだけを評価されるのは嫌だと胸が軋む。

 影千代は忙しく表情の変わるディランの髪を撫でて、真面目な表情で口を開く。

「お前は、自分の魅力はその美しい容姿と雄らしく強いところだと思っているかもしれない。実際、その面にも惹かれるが」
「自分の方が全部上だって言いてぇんだろ」
「ディラン?」

 自分でも驚くほど掠れた弱々しい声で、影千代の言葉を遮った。
 最後まで聞くことが出来ないほど、頭の中は熱くごちゃごちゃとしている。

「実際そうだよな。お前には助けられてばっかだし、雌も雄もお前に夢中だし剣術でも勝てないし。こないだは毒矢なんて受けちまって大迷惑かけたし」
「ディ……」
「お前と居るとプライドが傷付くばっかりなんだよ!」

 ディランは影千代の胸ぐらを掴んだ。
 叫んだ拍子に右目から涙がこぼれ落ちる。
 もう黙れと冷静な自分が止めるのに、逆上している面が表に出てしまい、口が止まらなかった。

「俺は! 出来れば顔も見たくねぇ!」

 はっきりと言い放った言葉は、影千代とディラン本人の胸を刺し貫く。

 ずっと何か言おうとしてくれていた影千代は顔の色を無くし、口を閉じてしまう。

 ディランが掴んだ胸ぐらを力一杯押せば、影千代は耐えようともせず紺色の絨毯に尻もちをついた。
 縞模様の立派な尾も、耳も。完全に力を失っている。

(違う。最後のは違うって言わないと……)

 立ち上がったディランは、手を伸ばしかける。

「……すまなかった。もう、出来るだけお前の目に触れないようにしよう」

 顔も見ずに床に落とされた低い声からは、いつもの慈しみを感じない。
 ディランは行き場を失った手で乱暴に涙を拭う。
 だが拭っても拭っても、頬は濡れたまま乾かない。

 ディランはどうすることも出来ないまま、部屋から走り去るしかなかった。
 
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