雨の図書室

東雲 斎

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雨の図書室

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 水は迫る。長年に渡り育っていった木も草もまるで最初から無かったもののように一瞬で薙ぎ倒していく。

 ……その日は豪雨だった。

 肌に当たれば痛いほどたたきつけてくる雨に、心まで潰されそうになる。いや、潰れきってしまっていたのかもしれない。

 鬱蒼とした森の中、荒れ狂う水の音、レインコートに反射する赤いサイレンの光、大人たちの怒号。

 最初に報せを聞いた時は何も考えられなかった。急いで家から飛び出した時に、レインコートだけはなんとか引っ掴んだものの、水たまりがたくさんできているというのに長靴ではなく普段から履きなれているスニーカーを履いてきてしまった。

 そして、心の中にぼんやりとした黒いもやのようなものが浮かび、走っていくうちにそれは次第に輪郭を現す。見えるのは不安や恐怖をまとった黒い塊だけである。きっとそれは死神か悪魔の形だ。

 僕がここに駆けつけて何時間経っただろう。

 ――――悔しかった。

 僕は橋の上で欄干を震えるほど強い力で握りしめる。

 自分も川に近づいて探したかった。けれど足手纏いになるのは目に見えていて、自分の無力さを痛感する。

 いつもは澄んでいて川底が見える小川の水面は土砂が混ざり、荒れ狂った水がときおり岩にぶつかっては猛々たけだけしく飛沫しぶきを散らす。すべてを呑みこんでいくその様をどれくらいの間見ていただろう。

 そんなことを考えていると、川の下方から近所に住むおじさんの声が響いた。

「律くん、見つかったぞ!」

 それは絶望の言葉。僕は両手で顔を覆い、橋の上でうずくまる。

 なんとなくわかっていた。見慣れた靴の片方が、小川の隅の茂みに引っかかっていたから。


 *


 数か月前のこと。この自然が溢れる田舎町に、とある一家が都会から引っ越してきた。

 西山春樹は木の優しい匂いに溢れたログハウスの二階にある自室の窓を開けて、朝の新鮮で心地いい空気を吸いながら大きく伸びをした。

 元々都会に住んでいた頃から父は田舎暮らしが夢だったらしく、何十年も勤め上げていたサラリーマンを退職した後にその退職金を使ってこの家を建てたのだった。

 そういうこともあり、ほぼ父の勝手で高校三年生という春樹の大事な時期にわざわざ引っ越しをした。

 しかし春樹も独特な子で、誰とでもすぐ仲良くなれるがどこかのんびりしている。そんなわけで大学受験を控えている身だというのに田舎のスローライフについては大賛成だった。

 都会での人づきあいに疲れていたというのも一理ある。皆がまるで仮面をつけたかのように単一な表情に見え、模試の数字に操られては友達にさえ憎い感情を抱き、密かに敵視したり。周りの笑顔さえも偽物に見える。

 春樹はそんな毎日が嫌だった。自分の周りにいた友達でさえ、『友達』という仮面をつけているように見え、その心の奥では自分に対しどんな感情を向けられているかわからない。都合のいい時だけ集まっては傷の舐めあいをしているようにも感じる。

 果たしてそんな奴らのことを本当の友達だと言い切れるのだろうか。だからこそ、この田舎暮らしは春樹にとってのリスタート。本当の意味での友達を作るための一念発起でもあった。

 *

 自室の近くにある階段を下りていくと香ばしいコーヒーの香りが漂っていた。毎朝母がコーヒーを淹れてくれるのだ。

 そして一階に近づく度に明瞭に聞こえてくるのはクラシック曲。父はクラシックとジャズを好んでよく聞いており、毎朝自分の好きな曲をチョイスしては自由に流している。春樹は邦楽を好んで聞くが、幼い時から父がこうしていたので別になんとも思わなかった。そうして自分の普段の性格に似合わない上品な空気に包まれたまま朝食をとるのだ。

「おはよう。今日から新しい学校だな。緊張するか?」

 新聞を読みながら父が春樹に聞く。しかし春樹は特に何とも思ってないためトーストを口元に運びながら首を横に振った。

「いや、別に」

 その様子に母は笑う。

「春樹は昔から緊張しないものね」

「んー……、俺でも緊張することあると思うけど」

 とは言ってみたものの、確かに母の言う通り記憶を探ってみても緊張なんてしたことはなかった。

「やっぱりないかも」

「そうでしょ?」

 母は自分の記憶が正しいことに喜んだのか楽しそうに笑った。

 父が新聞を読み終わり、「それじゃあ春樹が帰ってきたらチェロの練習をしよう」と言い出す。またこれだ。と春樹はげんなりとした。

 父は弦楽器が好きで、中でも特にチェロを好んだ。最初はその音色を聞くだけで満足していたのだが、気持ちが抑えられなくなったのか今度はチェロを弾きたくなって習い始めた。その後、春樹が小学生の頃に興味本位でチェロを弾かせてみたところ、父曰く『天性の素質があった』らしい。

 それからこうしてたまに父は自分が学んできたレッスンの内容を春樹にも教えだした。しかし春樹自身は乗り気でない。最初弾いたときはきっと偶然にいい音を出せただけであって、チェロに興味は特になかったし、弦を抑える際に指が痛くなるし、やる気のない春樹にとってみれば苦痛だった。父の事は大抵好きだが唯一これだけは嫌いな面だと言える。

 だがこんなに自由人な父の子どもである春樹もまた自由人で、わざと遅くまで学校に居残ったり遊んだりして時間をつぶし、少し遅めに家に帰るようにしていた。そうすれば大抵、チェロを少し触ったくらいで母の「夕飯ができたわよ」の声がかかり、レッスンは早く終わるのだ。

 *

 学校へ行く準備をして両親に「行ってくる」とだけ告げて春樹が家を出ると家を大きく囲う木々の木漏れ日がゆらゆらと影を揺らしている。そしてその奥にはきらきらと光を反射している海が見えた。

 春樹はこの景色をすぐに気に入り、再び大きく伸びをした。やっぱりあの街に住み続けなくてよかった。こんな景色はきっと見られなかっただろう。

 肌をなでる風は強く、向かい風であったが春樹の心を奮い立たせてくれた。

「よし」

 そう言いながら拳で胸を力強く叩いてみる。そのままなだらかに下っていく整備された道を下り始めた。

 春樹を包むのは不安や心配ではなく、希望だ。「新しい学校で友達を作れば、さらに友達が増える」というそんな前向きな気持ちを抱いて。

 もちろん、本当に気を許せる間柄の友達を作ることは忘れていない。きっといるはずだ。この街に『親友』と呼べる人間が。

 *

「はい、では自己紹介をしてくれるか」

 おそらく六十代ほどである、やや白髪頭の担任が皆の前に立つ春樹に促した。

 春樹は自然体のまま皆の姿を見回して続ける。

「西山春樹です。んー……と、水泳部に入りたくて、もし入ったらまったり気ままに泳ぎたいです」

 そこまで言うと教室の中に笑いが小さくこぼれた。

 担任もうんうんとうなずき、

「それならうちの高校はうってつけだぞ。生徒も先生方もみんな適当だからなぁ」

 なんだか自虐ともとれる言葉にさすがの春樹も苦笑する。

 もちろん春樹はそこら辺の情報を踏まえてこの高校を選んだのだ。水泳強豪校も偏差値のそこそこ高い高校もあったが、なんといってもスローライフを満喫したい。そこで、偏差値も割と下で緩そうなこの学校を選んだ。

 ……ただし、大学受験の勉強はしっかり自分の力でやること、が条件。春樹はめずらしく真剣な目つきでそう告げた父の顔をなんとなく思い出していた。

 そんなことを考えていると、担任が春樹の席を案内する。

 後ろであるのは嬉しかったが、やや廊下側なのが少しがっかりだった。この町の景色を堪能したかったのに。海もここからじゃ少ししか見えない。

 そうして席に着こうとしたとき、「あんまり都会から来たように見えないな」などと言われてるのが耳に入る。しかし春樹は気にしない。そうつぶやいた誰かも、自分の友達にすればいいだけなのだから。

 色々と都会の学校でとんでもないいさかいに何度も巻き込まれていたお陰で、メンタルが割と丈夫な春樹は案外このクラスの中で最強だったのかもしれない。

 *

 朝のホームルームが終わり、休み時間がやってきた。

 すると目の前のマッシュ頭の男子が春樹の方を振り返り、食いつくような……いや、キラキラとした瞳で春樹を見つめる。

「あのさ、水泳部希望だったよね!?」

 勢いというか、熱量がすごい。

「んー、まぁ」

 春樹がぼんやりと返すとさらにその男子は顔を近づけてきた。

「僕、水泳部部長の生田いくた健です! ぜひ入部してください!」

 その一生懸命さに春樹は少し笑って見せる。

「わかったからさ、敬語やめようよ。同じ学年なんだし」

「あ、あぁ……そうだよね! ごめんね、僕なんというか人との距離感が上手くつかめなくて……」

「別にいいよ。よろしく、部長」

 春樹が生田に片手を伸ばすと、心底嬉しそうにその手を握り返した生田は「うん!」と笑ってみせた。

「あ、じゃあ後で入部届持ってくるね。だから、んーと……西山くんは明日から正式な部員かな」

「わかった」

「あと、さっき担任も言ってたんだけどさ、この部活も結構やる気ないんだ……。基本晴れてる日しか部活なくて、晴れてても顧問の先生がいないときは部として活動できなくって。あ、でも晴れてさえいれば自由に泳げるから、そこは安心して!」

「顧問いないのに泳いで大丈夫なの?」

「んー……本当はダメなんだけど、僕たち三年生は夏が終われば引退だから、それを見越して先生がこっそり許可をくれてて」

「ふーん」

 春樹の反応を何度か見つつ生田は頭を下げた。

「本当にやる気のない部活でごめん! 大会に出るわけでもないし、趣味で泳いでるだけなんだ! でもみんないい人たちだし、西山くんにも自由に泳いでもらいたい!」

 その言葉は教室一体に響く。生田は遅れてそのことに気づいて赤面し、周りをきょろきょろと見回した。しかし、春樹はその言葉が嬉しくて、生田の両肩にポンと手を置く。

「ありがと、部長。結構かっこいいとこあるじゃん」

「か、かっこいい……? そんなこと言われたことないよ、気遣わなくて大丈夫だし……」

「いや、本気で水泳部のこと好きなんだなって思ったし、ちゃんと俺の心には響いたから」

「え……、ほんと?」

「うん。……ってところで悪いんだけどさ」

「?」

「次の授業の先生、もう来てる」

 春樹がシャーペンで前の方を指すと、生田は再び赤面した。


 *


 昼休みになると春樹は生田と昼食のパンを買いに購買に向かっていた。

「ここのパン、結構おいしいって評判だったから楽しみだったんだよなー」

「そうなんだよ! しかも出来立てほやほやでさ……あ」

「ん?」

 生田が歩いていた足を止めて硬直する。

 その方を見ると背も高く横幅も広い大柄な男子がいた。

 生田は小声で春樹に耳打ちする。

「あいつ、ヤバイやつだから気を付けて。広野永次ながつぐっていうんだけど、いわゆる……ガキ大将みたいなやつで」

「ジャイアンみたいな?」

「そうそう、だから西山くんも……って、え!?」

 生田の助言を受けておきながら春樹は一人でその方に向かっていく。

 そして広野の前に立った。広野はギロッとした目つきで春樹を睨みつける。……威嚇だ。

 大抵の者はその視線を受けただけで怯えてしまうのだが、春樹は違った。

 なんでもないという様に片手を差し出す。

「あぁ?」

 広野は不機嫌そうな顔を春樹に向けた。しかし春樹の表情は変わらない。

「改めて、転校生の西山春樹だ。同じクラスだろ? よろしく」

「……その手はなんだ」

「握手の手。ほどほどでいいから、仲良くしよう」

 春樹が無理やり広野のパンを持ってない方の手を引っ張って自分の手と握手させる。

 その行動に一瞬あっけにとられた広野は我に返り、「あぁ、そうだな」と言いながらわざと握手している手に強烈な力をこめた。

 それが目に見えた生田は恐怖を顔に張り付かせ、「西山くん……!」と言ったその時。

 苦痛に顔を歪めたのは広野の方だった。

「……ってめぇ……」

 握る両者の手はわずかに震えており、春樹の方が強い力で広野の手を握りしめていた。

「よーし、これで仲良し。改めてよろしく」

 そうして手を離すと、広野は握られていた手をぶんぶんと何かを払うような手つきをして、無言で春樹の横を通り過ぎる。

「そんじゃ、行こっか」

 と言いながら背後の生田を見たら、またキラキラとした目で見つめられた。

「すごい……すごいよ西山くん! ケンカ強いんだね!」

「いや……ケンカじゃなくて握手しただけで……」

 何か勘違いされてるな、と春樹は内心ため息をつく。

「でも気を付けてね、あいつに目をつけられたら色々と酷いことされるかもしれないから……」

「んー、まぁその時は止めに入ってね、生田」

「えっ僕!?」

「……冗談」

 半分は本心なんだけど、と心の中でつけたし、春樹は生田に微笑んで見せた。

 *

「疲れた……」

 春樹が廊下で一人、とぼとぼと歩いていた。

 昼間の広野に立ち向かった話は一気にあらゆるところで噂となり、帰る時間になっても周りからの質問攻めにあっていたのだ。

 それを「トイレに行くから」と嘘をついてその場をなんとか離れてこのまま帰ってしまおうと昇降口で外靴を手に取ったとき、クラスメイトがここに来る気配があったため、結局外靴を持ったまま廊下に戻ってきてしまった。

 どこか、逃げる場所はないものか。いや、外靴はあるからどっかの窓から出ればいいんだけど。

 その時、階段の方から声が聞こえてくる。

「おい、もしかして西山、学校内で迷子になってるんじゃね!?」

 その言葉と同時に聞こえる慌てた足音。

「……やば」

 春樹はどうにか逃げようと自分のすぐ隣にあった図書室に入った。

 すると。

 開け放たれた窓から吹く風でカーテンは大きくなびき、桜のはなびらを乗せて。

 夕暮れの光を受けて綺麗に輝く髪を持った少年が正面のカウンター席に座っていて、読みかけていた本に栞を挟んで顔を上げた。

「こんにちは」

 優しい声だと春樹は思った。優しくて、儚くて、なぜか切なくなる声だ。こんな気持ちになったのは、きっと初めて。

「あ……うん、こんにちは」

 見とれてしまった自分に若干の動揺を覚えるが、走ってくる廊下の音にハッとする。

 *

 春樹のクラスメイトたちは図書室の扉を開けた。

「おい、遠野! 俺たちのクラスに来た転校生の西山ってやつ来てないか?」

 すると、遠野は首をかしげる。

「西山くん……? ごめん、誰も来てないけど……」

「そっか、わかった!」

「もしかしたらもう帰ったかもしれないよ? 疲れてただろうし」

「それもそうか……。わかった、とりあえずありがとな!」

 そしてバタンと勢いよく図書室のドアは閉められた。「ここにもいなかったぞ!」とクラスメイトの騒がしい余韻が響き、図書室からの風で廊下の床に流れ着いた桜の花びらがひらりと舞う。

 その音をしばらく聞いていた『遠野』と呼ばれた少年は頃合いを見て、自分のカウンター席の下の方に微笑みを向けた。

「……もう大丈夫そうだよ、西山くん」

「……行った?」

「うん」

 優しい笑みを見て、カウンター席の下に潜り込んでいた春樹はするりと抜け出して立ち上がり、ため息をつく。

「疲れた……」

「すごい人気者になっちゃったね。僕も自分のクラスで噂になってるのを聞いたよ」

「正直なところ、あんまり嬉しくないんだけどねー……」

 のんびりと答えると遠野はくすりと笑って見せた。

「なに?」

「あ、ごめん。広野に立ち向かうくらいだからもっと血気盛けっきさかんなのかと思ったんだけど、違ったみたいだね」

「それって褒めてる? けなしてる?」

「褒めるもけなすもないよ。僕の感想。……良い意味のね」

「ふーん。それならいいか」

 春樹はカウンター席に軽く座って話を聞いていたが、風に乗ってさらりと揺れる遠野の髪の綺麗さにやはり見とれてしまう。色素が薄いからだろうか、儚く見えてしまうのは。

 そして、無意識に手がその髪にのびる。さわり心地も見た目同様で、さらりと手から砂のように零れ落ちた。

「どうしたの?」

 見上げてくる瞳にまたもやドキリとした。さっきは追われていて遠野の顔をよく見ていなかったが、身近で見るとすごく綺麗だったから。春樹は少し心がもやもやする。なにせ語彙力が足りない。この綺麗さを、儚さを、上手く体現する言葉が見つからないからだ。

「あ、いや……髪が、綺麗だなって。特に深い意味はないけど」

『深い意味』と言ってから春樹は後悔する。なんだか恋愛的な意味で意識しているようにかえって聞こえないだろうかと。

 そこで遠野の反応を見る前に話題をそらそうと、片手を遠野にのばす。

「そうだ。改めて、俺は西山春樹。よろしくな」

 その言葉と差し伸ばされた手を見た遠野は柔らかな動作で握手をした。

「……遠野 りつです。よろしく」

 声も手もその微笑みも柔らかい。少なくとも、春樹が生きてきた中で初めて見る人種だった。そして同時に、もっと仲良くなりたいと思った。細かい理由など、どうでもいい。本能的にそう思ったのだ。

「いつもここにいるの? 図書委員とか?」

 そう聞きながら暮れなずむ夕陽を恨めし気に見た。この心地いい時間が止まればいいのに。夕陽よ、暮れるな。

「あぁ……うん、そうだよ。図書委員は他にも一応いるんだけどね、みんなそこまでやる気がなくて。だから、全部僕が受け持つことにしたんだ。本が好きだし、ここが落ち着くから」

「へぇ……。またここに来てもいいかな」

 なんとなく出た春樹の言葉に、遠野は目を見開いてから嬉しそうな顔をする。

「もちろん、大歓迎だよ。普段、ここに本を読みに来る人もいないんだ。だからいつも一人だった。西山くんが来てくれるなら、さみしくなくなるね。今日もよければゆっくりしていって」

「あー、えっと、本読むために来なくてもいい?」

「えっと……? というと?」

「ここ、なんか落ち着くから。気に入っちゃって」

「そっか。それでも嬉しいよ」

「うん」

 何度も見せてくれる遠野の優しい笑顔に、春樹の心は満たされていく。

 もしかしたら、遠野こそが自分が探していた『親友』なのかもしれない。いや、そうであってほしい。

 そう思いながら春樹は荷物を床に置き、L字型になっているカウンター席で遠野が座っている席の斜めの位置に腰を下ろした。

 そしてそのまま突っ伏し、疲れを抜いていく。遠野の、再び始めた読書の紙をめくる音が心地いい。春樹は次こそは遠野の横に座ろうと夢見て、眠りに落ちた。


 *


 しばらくして優しく揺り起こされる。

「西山くん、起きて」

 背中の方をぽんぽんと柔らかく叩かれたことでぼーっとしていた視界がクリアになった。

「ん……?」

 目の前に遠野の顔があり、少し驚くが春樹は緩慢な動作で起き上がる。

 その様子にくすりと笑った遠野は壁時計を指さした。

「そろそろ下校時間だから、帰らないと」

 春樹がその方を見ると時計は十九時を指そうとしている。

「あれ、ほんとだ」

 それでも急ごうとせず、のんびりと荷物を持って歩きだす春樹に遠野は後ろからついていき、「のんびり屋さんだなぁ」と笑った。

 *

 二人が校庭を出た後。

 空はもう暗くなっており、一番星よりも細かな星まで綺麗に見えた。

 春樹は道を歩きながら「綺麗だよな」とつぶやく。遠野は横に並んで、「そうだね」といつもの優しいトーンでかえした。

 都会は空を見上げても何かしらのビルや明かりが視界に入り込んで星がこんなに見えることはない。

 空には満天の星、頬を撫でる風は涼しく、隣には親友になれそうな優しいやつ。まさに、春樹の求めていた環境そのものだった。

「ねぇ、西山くん」

「ん?」

「肝心なことに気づいたんだけど家はどこら辺なの?」

 心配そうに聞く遠野に対し、春樹は山の方に灯る明かりを指さした。

「あの坂、見える?」

「うん」

「あれを上った先にあるログハウス。今はちょっと手前に木があって見づらいかもしれないけど」

「あ、あの屋根の家? すごいね、二階からならこの辺一帯を見渡せるんじゃない?」

「うん。なかなか気に入ってる。今度遊びに来いよ」

「いいの!?」

 少し声に勢いがついた遠野に春樹は首をかしげる。

「うん。いつでもどうぞ。ってかそんなに食いつくような話?」

 そう聞くと遠野は少し恥ずかしそうに顔を下に向けながらうなずいた。

「誰かの家に呼ばれるのなんて、いつ以来かな……、小学生以来かも」

「へぇ。まぁ、気軽においでよ。うちの母さん掃除好きだからたぶんいつでも人呼べるし」

「そうなんだ……。ちょっとうらやましいかも」

 遠野は少し寂しそうに笑う。

「?」

「あぁ、気にしないで。こっちの話」

 あまり踏み込んではいけない話なのかなとぼんやり思った春樹は、話題をそらした。

「で、遠野の家はどこにあるんだ?」

「僕の家? んーと、海の近くなんだけど、ここからじゃ見えないや」

「じゃあ送ってく」

「え? いいよいいよ、僕いつも一人で帰ってるし」

「ここら辺暗いだろ? 夜道は危ないし、誰か襲ってきたらどうすんだよ」

 周囲に注意を向けながら遠野の家の方面へ歩き出す春樹に、遠野は面白そうに笑う。

「大げさだよ。ここら辺は治安悪くないし、僕男だよ?」

「今は男でも襲われる時代だし、もし襲ってこられたら遠野、応戦できないだろ」

「応戦って……」

「それに」

「?」

「……なんか、海が見たい気分なんだよ」

 なんとか理由をこじつけて遠野を危険から守ろうとしているのがバレバレな春樹に、遠野は少し照れながら「ありがとう」と言って春樹の後に続いた。


 *


 暗い夜道を歩きながら春樹は空を見上げ、何やらぶつぶつと呟いていた。

「遠野律……りつまる……リッツ……り、りー……」

 その言葉に遠野は顔を若干引きつらせて聞く。

「あの……さっきから何考えてるの?」

 すると春樹はその質問を待ってましたと言わんばかりに自信を持って答える。

「あだ名。『遠野』って呼んだら他人行儀っぽいだろ? 俺、遠野ともっと仲良くなりたいからさー。ちなみに一番いいかなって候補が『りつまる』」

「り、りつまる……」

「どう?」

 そのニックネームのセンスの無さに、さすがの遠野も遠慮した。

「ごめん、普通に『律』がいいかな……」

「そっか。まぁそれでもいいや。じゃあ俺は『律』って呼ぶから、律も俺のこと『春樹』って呼んでな」

「え、いきなり……!?」

「嫌だった?」

 自分で聞いておきながら、さすがに「重いか」と自問自答する。なんとなく朝の生田の言葉を思い出していた。確かに自分も、人との距離をとるのが苦手なのかもしれない。でもなんだろう、何か違うような。他の人とは上手くやれてたはず。律だけが違うんだ。やっぱり『親友になってほしい』という気持ちが強く出過ぎたのか?

 すると律はなんとなく春樹の心境を読んだのか慌てる素振りをする。

「えっと、嫌ではないけど驚いてる」

 律の言葉に春樹は当然だろうなと思った。むしろドン引きされていないことが奇跡なくらい。

「まぁ、会ってまだ数時間しか経ってないし当たり前かー」

 すると律は口元に人差し指を軽く曲げて当てながら上品に微笑む。

「それもそうだけど、僕、こうやって人に好かれたことなかったから。名前で呼ばれることも少なかったし、『家にきてもいいよ』って言われることも少なかったし。……すごいな、こんな気持ちになるんだ。嬉しくてたまらないな……」

 言葉の最後の方を、嬉しさを噛みしめるように話す律。

 その姿を見て安心する。

 そしてなんだかあまり特別な『親友』がいないような口ぶりを聞いて、もっと色々なことをして楽しませたくなった。……もっと早くに出会いたかったとさえ思う。俺たちはあと一年もせずに卒業だから。

 やがて、下り坂のカーブを降りていくと辺り一面に紺色に輝く海が広がる。海には上って間もない月の光が真っすぐに伸び、光の道ができていた。

 春樹は海が見れたことと律という大切な友人を得ることができたのが相まって嬉しくなり、両手を気持ちよさそうに上げる。

 そして全力で叫んだ。

「海だー!」

 突然の春樹の大声に驚いた律は「西山くん、ここら辺住宅あるから……!」と声を抑えようと近づくと、春樹は律の口元を指さした。

「名前。『西山くん』じゃないだろ?」

 そこでハッと気づいた律はまた人差し指を曲げて軽く口元に当て、照れたように視線を背ける。きっとその指を口元に当てるのは律のクセなんだろうなと春樹は思った。

 それにしても、照れてなかなか『春樹』と呼べない律がなんだか可愛く見えてきて、さらに催促したくなる。

「ほら、呼んでみ? 『春樹』って」

「せ、急かさないでよ。人を名前で呼び捨てしたことないんだから」

「後にすればするほど言えなくなるぞー。……言ってみて。せーのっ」

「は、……はる、き……」

 目をギュッとつぶって声を振り絞った律に春樹は笑った。

「ぎこちねぇな」

「ちょっと! 笑わないでよ、頑張ったんだから」

「明日からちゃんと学校で呼べよ!」

「えぇ、僕にはハードル高いよ……」

 こんな名前の呼び方ひとつの話題なのに、心地よかった。笑ったり困ったり、春樹と律の表情は違ったがやがて二人は波がおさまっていく様に穏やかに微笑みあう。

 くだらないことで笑いあえるのって、こんなに楽しかったっけ。このままずっと話していたい。

 春樹は坂を下りていく一歩一歩を名残惜しく感じた。律は、同じことを思ってくれているだろうか。自分の独りよがりではないだろうか。

 なんだか心臓が嫌なほどドクドクと動いてる気がする。あと、よく分からないけれど手汗も。こんなこと今までなかった。

 ……あれ?

 もしかして、これが『緊張』ってやつ?

 でもそんな不安や緊張も律はその繊細な心で春樹の心を読み取っているのか、すぐに安心させる言葉を紡ぐ。

「なんだか、ずっと話していたいな。人と話してこんなに笑ったのって、久しぶりだから」

「俺もそれ思った」

 そう言いながら安心して胸を撫でおろしている自分がいるのは、少し恥ずかしかったけど。


 *


 坂を下りてすぐの所で律は一軒の二階がある一戸建てを指さして、「あれが僕の家。本当に海が近いんだ」と言った。

 確かに家のすぐ後ろには堤防があり、さらに後ろにはテトラポッドが置いてある。さらにその先はもちろん海だった。

 しかし春樹は少しいぶかしげな表情をする。

「本当に?」

「あ、僕がにしや……えっと……春樹に遠慮してこれ以上家まで送らせないようにしてるんじゃ……とか考えてるでしょ」

 その通りだった。嘘の家を教えて、これ以上ボディーガードまがいのことをやらせなくてもいいようにしてるんじゃないかと思ってしまった。

 あまりに図星過ぎてため息が出る。

「なんでそこまでわかるんだよ……」

「きっと、僕も春樹と仲良くしたいと思ってるからかな。なんとなく思ってることがわかるんだ。春樹だったらどう考えるかなって」

 律が嬉しそうに笑ってる姿を見ると、春樹も心が温かくなった。

 律はその家の方に歩きながら話を続ける。

「でもここが僕の家なのは本当だよ。ほら、表札見て」

 玄関に春樹が近づくと、古い木の表札にきちんと『遠野』と書かれてあった。

「ほんとだ」

 すると、玄関のりガラスから暖色の光がパッと差し込み影が揺らいで、中からエプロンをした少年が出てくる。

「兄貴、やっと帰ってきたか……って、誰?」

 律より少し背が低く髪は反して黒め、律と同じように体の線は細いようだが、しっかりしているのは顔つきで春樹もすぐにわかった。そして口調と言葉ですぐに「弟か」と察する。

 律は嬉しそうに「ただいま」と言って、弟の肩に手を乗っけた。

「これが僕の弟。りくだよ。すごい自慢の弟で、料理がすごい上手いし、気も遣えるし、頭もすごい良い子なんだ」

 すると陸也はべた褒めする兄を「やめとけよ、はずかしい。しかも『すごい』を連発しすぎ」と抑え込んで腕組みをしながら春樹の前に立つ。そしてじっと春樹を見つめた。

「兄貴とはどんな関係ですか? 図書委員か何かですか」

 これは完全に警戒されてるなと春樹は思ったが、頭を掻くくらいで特に気を張ることもなく片手を差し出し、

「俺、転校生の西山春樹。律と親友になりたいと思っててさー」

「……『律』? …………親友!?」

「親友!?」

 兄弟が二人してこちらを驚いたように見る。

 その様子を見て特に驚くこともなく春樹は当然のように「うん」と返した。

 陸也はすぐに律に詰め寄る。

「ホントかよ兄貴!」

 そうして詰め寄られた律もなぜか顔を赤くして「えっ、えっ!?」と動揺している。

「あー、ごめん迷惑? ってか手下ろした方がいい?」

 春樹のフラットな声を聞いて冷静さを若干取り戻した陸也は、下ろされかけた春樹の手を慎重に握り返した。

「……変に警戒するような態度をしてすみません。兄貴……その、特に仲良い友達がいないから、近づいてくる人には何か裏があるんじゃないかと疑ってしまう癖があって」

「へぇ」

 まぁそう疑ってしまってもしょうがないか、と軽く納得していると陸也は本当に申し訳なさそうに春樹を見る。

「俺のせいで、兄貴のこと……嫌いになりましたか?」

 その言葉は春樹に一瞬で一蹴される。

「いや、別に。それよりさ」

「はい……?」

 春樹はぐっと陸也に顔を近づけて未だ握られている握手した手に少しだけ力をこめた。

「俺も君のこと『陸也』って呼びたい」

「は?」

 そこでパッと春樹は握手していた手を離す。

「いや馴れ馴れしいのは自覚あるし悪いんだけどさー、俺、律と親友になりたいって言ったじゃん? ってことはやっぱり弟とも仲良くしたいんだよ。だめ?」

「ちょっ……いや、俺はいいけど……兄貴、本当にこの人と友達とか大丈夫か!?」

 陸也の必死の問いかけに律は腹を軽く抱えながらくすくすと笑っていた。

「面白い人でしょ。のんびり屋さんだし、一緒に話してたら楽しくって……」

 その一言を聞いた陸也は驚いた表情をしてから少し微笑みを見せる。そして春樹の方を向いた。

「わかったよ。陸也って呼んでいい。その代わり、敬語はやめるからな」

「もちろん。あ、それと……」

「まだ何か?」

「俺のこと、なんて呼びたい?」

「また名前の呼び方かよ……。あんた、変なとこにこだわるんだな」

 呆れられたような反応だが春樹は引かない。

「呼び方って案外大事だぞ? ほら、候補は」

「候補……まぁ普通は『西山さん』だろ?」

「だめだ、他人行儀すぎる」

「普通だろ!」

「じゃあそうだな……陸也は律のこと『兄貴』って呼んでるみたいだし……『春にい』だな」

「え、ちょ……決まったの?」

「あぁ、決まった」

 腕組みをしてうなずく春樹を見て、再び陸也は兄を見た。

「ちょっと! マジでこの人が友達とか大丈夫か!?」

「うん、大丈夫大丈夫……ふふふ」

「いや、ちょっと待って、二回も言われるとさすがの俺も傷つくんだけど」

 その時、カタカタカタカタッと小刻みな音が聞こえ、

「あっ、ヤベ……鍋に火通したままなの忘れてた!」

 と言って一度陸也が家の中へ入っていき、コンロの火を止めたのかすぐ戻って来る。

「……今日はミネストローネとサラダ。あんた……じゃなかった、……は、はるにいも食ってくか?」

 兄弟そろって春樹の呼び名が上手く言えないのが面白くて春樹は「やっぱぎこちねぇ」と笑っていると。

「ちょっと待って、さすがにこんな時間だし春樹も家に帰らないと親御さんが心配するよ! それに、母さんは……?」

「寝てる。ってか寝かした。人を呼び込むなら今しかねぇだろ? ……兄貴の『親友』なら、兄貴だって本当は家に呼びたいだろうし……」

「陸也……」

 するとタイミングよく春樹のスマホが鳴った。

「あ、母さんからだ」

 そして電話に出ると開口一番に心配そうな母の声が聞こえてくる。

「春樹、今どこにいるの? なかなか帰ってこないから心配になったじゃない……ほら、お父さんも」

 母の声の後にすぐ父の声が聞こえる。

「おう春樹、なかなかチェロの練習できなくてお父さんは寂しかったぞ! 今どこにいるんだ?」

「今、親友になりたいやつの家の前。夕飯に誘ってもらってるとこ」

「親友!? お前転校して一日で……なかなかやるな! よーし、それじゃあゆっくりしてこい! 帰りはお父さんが近くまで迎えに行ってやる」

「んー、よろしく」

「ちょっとあなた……」と電話の向こうからまったく春樹のことを心配しない父をとがめる母の声が聞こえたが、春樹は無視して電話を切った。そして親指をグッと立てて陸也に向ける。

「時間のことは気にするな、お言葉に甘えて夕飯食ってく」

 それを見て陸也も親指を立てて春樹に向けた。

「おう」

 そうして遠慮なく家に入っていく春樹を茫然と見ながら律はポツンとその場に残され、「えー……?」と一人頼りない声を出していた。


 *


 陸也の作ったミネストローネはとても美味しかった。

 三人はダイニングテーブルであと少し残っている夕飯を食べているところだ。

「うん、本当に美味いな。正直、律のべた褒めは過大評価かと思った」

「え、酷いよ! 嘘なんてつくわけないじゃん! その……親友になってくれる人に」

 律は『親友』という言葉を言う際に少しもごもごとした口調になり、照れた顔をしていた。そんな二人の様子を見ていた陸也は綺麗に平らげられた皿を見て、

「はーい片付け片付けー」

 と棒読みしてなんだか甘くなりつつある空気を打ち消し、皿をシンクへと片付け始める。

「おお、さすがだな。出来る弟だ、気が利くし」

「そうでしょ? 僕は嘘ついてないよ」

「兄貴は俺のこと褒めすぎ」

 そう言って陸也はテキパキと皿を洗い始めた。

「他、洗うものは?」

「あー。コップ」

「春にい早く持ってきて」

 春樹はコップに入った水を飲みほして、台所のシンクに持っていく。そして陸也の横顔をじっと見た。

「陸也さー、毎日こんな感じなの?」

「こんな感じって?」

「いや、料理作って兄貴が帰ってくるの待って、洗い物して……疲れない?」

「慣れてるから別に。それに……」

 陸也はちらっと律の方を見てから洗い物へと向き直る。

「兄貴のことは、俺が支えないとダメだろ? まぁ春にいって存在ができたから少しはマシになるけど……」

 少し言葉の端が小さくなったため、春樹は笑いながら陸也の頬に人差し指を軽く突き立てた。

「あー、今少し俺に嫉妬しただろ」

 すると陸也は肩でどうにかその指を払い、

「うるせーな! ほんっとに馴れ馴れしいぞ! 向こうで座って兄貴と喋ってろよ!」

 そう大声で言うと、律はまったりと微笑みながら「すごいね陸也。もう春樹とそんなに仲良くなったの?」と言うものだから。

「そうそう」

「仲良くねーよ!」

 同時に春樹と陸也が答え、正反対の答えに律は再びくすくすと笑った。

「ほんと、仲良いね」

 その顔を見てまた洗い物に向き直る陸也は少し微笑み、そしてつぶやく。

「……それに、兄貴のああやって笑ってる顔見たら頑張ろうって思えるだろ」

「それはまぁ……、確かに」

 同意した春樹は、律のもとに向かった。律はなにやら鞄からプリントを取り出している。宿題だ。

「あー、そういえば俺も宿題出てたな」

「あ、じゃあせっかくだし一緒にやろうよ。僕途中までやったんだけど、分からないところが出てきて……」

「どこ?」

「数学のこのとい四。何回考えても分からないんだよね」

「あー、それは……」

「え、わかるの!?」

 教えようとテーブルに身を乗り出した春樹を見て律はすごく驚いた顔をしていた。春樹はややムッとした顔を向ける。

「……もしかして俺のこと、勉強できないバカだと思ってた?」

「う、ううん、そ、そんなことない!」

「思いっきりバレる嘘つくのやめてくれる……?」

 春樹はまた何か勘違いされてるなぁと内心ため息をついて、律に問題の解法を教え始めた。律はそれを聞き、驚きで目を見開きながらうんうんと相槌を打つ。

「……どう、わかった?」

 教え終わり、春樹が席に背を預けると律は感動した様子で何度もうなずいた。

「すっごくわかりやすくてビックリしたよ……。たぶん、先生よりわかりやすい説明だと思う」

「そっか。まぁ俺一応教師志望だしさ」

「え、そうだったの!?」

 そう、周りからよく驚かれるが春樹は教師志望だった。教科までは決めてないが中学でなんとなく好意を持った、自分に似たのんびりした先生を見てたら教師も悪くないかもと思ったのだ。

 それに、人に何かを教えるのが好きだったというのも理由のひとつである。

「へぇ、意外だな」

 そう言いながら皿を洗い終えた陸也が律の隣に座って、同じように宿題を始めた。

 どうやら陸也も英語の宿題を途中まではやっていたらしい。

 ……が。

「あ、陸也それ文法間違ってる」

「え!?」

 春樹に瞬時に間違いを見つけられた陸也も驚いた顔をした。

「んー、この問題ならこう答えるのもありかな」

 春樹がサラサラと英文を書いていくと、陸也は首をかしげる。

「え……? いや、ちょっと待った。俺こんな文法知らねぇし、単語も知らない」

 その言葉を聞いて春樹は数秒固まってから「あー」と納得してうなずいた。

「陸也って今何年生?」

「中二」

「じゃあそのレベルに合わせないとダメか。だったら……」

 そう言って別の英文を書こうとする春樹に陸也は人差し指を向けて糾弾する。

「おい……まさか自分の頭の良さを見せびらかしてわざと書いたわけじゃないだろうな……! しかも何気に字綺麗だからムカつく!」

「こーら、せっかく教えてもらってるんだからそういうこと言っちゃダメだろ?」

 律の言葉に「う……」と陸也は言葉を詰まらせ押し黙った。

「とりあえず正解っぽいの書いといていい?」

 春樹の問いに渋々うなずく陸也に、律がフォローを入れる。

「でもね、春樹。こう見えて陸也は毎回テストで学年三位以内に入るくらい頭がいいんだよ」

 春樹は英文を書きながら「……ん、わかってる。この問題の間違いも惜しかったからなー」とのんびり答えると陸也は照れたようにそっぽを向いた。

「あんたって……人たらしなとこあるよな」

「そう?」

「無意識かよ……」

「ね? 春樹もいい人でしょ」

 陸也と春樹の間で嬉しそうに笑う律。しかしその和やかな空気は泡のごとくすぐに消えた。

 ミシッ……と畳を踏む音が聞こえ、突然ふすまが開く。

 その瞬間律と陸也が恐怖をにじませて硬直するのを春樹は肌で感じた。

 そこから出てきたのはやせ細った長めな黒髪の女性。おそらく二人の母親だと春樹は判断した。……そして、様子も普通と違う。

「あなた……誰?」

 まるで幽霊が話しているような、か細い声。か細いはずなのにその言葉に圧を感じる。

 その場は異様な雰囲気に包まれたが、臆せず春樹は椅子から立ち上がって軽く一礼する。

「西山春樹です。今日転校してきました。律くんと仲良くさせてもらってます」

 その最後のフレーズを言った瞬間、ガタンと陸也が青ざめて立ち上がり、「春にい、離れろ!」と叫んだ。

 すると女性は律を忌々しく見て、両手で頭を抱える。

「律……? あぁ、あぁ……その髪の色はあの人と同じ……! 私の前に姿を現さないでって何度言ったらわかるの!?」

 女性はすぐ近くにあったクッションを律の方に投げつけた。

 律はかわすことをせずぐっと目を閉じて耐えようとしたが、衝撃が来ない。

 不思議に思って目を開けると、クッションを春樹が受け止めていた。

「春樹……!」

 律が目を見開いていると陸也が律を無理やり立たせて、春樹には律と春樹の鞄を手渡す。

「春にい、兄貴を連れて逃げろ!」

 春樹は律を玄関へと押し出しながら「陸也ひとりで大丈夫か!?」と聞くと、

「俺らの母さんだ、俺がなんとかしないとならないだろ!」と、半狂乱で奇声を上げながら暴れる母親を必死で押さえつけていた。

 最後に、「兄貴から俺のLINE聞いて! あとで連絡くれ」と陸也が簡潔に話し、春樹も「わかった」とだけ言って律を連れて外に出ていく。


 *


 バタンと勢いよく玄関の戸を閉めて春樹は律の様子を見ると、律は青ざめた表情のままその場に座り込んでしまった。そして震える片手で前髪をくしゃっと握りしめる。

「ごめんね、春樹……。ビックリさせたよね」

 その声も震えていた。

「あれが、家に人を呼べない理由?」

 単刀直入に春樹が聞くとうなずきが返ってくる。するとだいぶ参っているのか律が壊れかけた笑顔を見せた。

「不思議だね。春樹の方が気丈で、僕の方がボロボロだ」

 春樹は返答に困り、とりあえず律に手を差し出す。

 律は目を丸くしてからそっとその手を握ろうとしてふと思い留まるが、中途半端に伸ばされた手を春樹が引いて立ち上がらせた。

「とりあえず今はここから離れた方がいいんじゃないの。どっか行くとこないか?」

 そう言って周りを見渡す春樹に、律はうつむきながら「……ある」とポツリと言葉をこぼす。

 春樹が顔を向けると律は視線を合わせて、

「……あるよ。僕だけの図書室」

 その瞳が不安げに揺れていた。


 *


 二人で無言のまま、海沿いの緩やかなカーブを歩く。

 海は穏やかで月も高くのぼり、心地よい波音と光が二人を包んでいた。

 春樹は住宅がまったくない道を何も言わずに歩き続けている律に不安を微かに感じ、

「この先にあるのか? 図書館」

 と聞くと、気持ちが落ち着いてきたのか律は穏やかな表情で、

「『図書館』じゃないよ、『図書室』」

 とだけ答えて、前方の一点を指さす。

 ……カーブの先に見えたその『図書室』は、少し不思議な形をしていた。

 堤防をまたぐように建てられたその小さな建物は、水色の円柱と立方体が合わさった胴体に青い円錐の屋根がくっついていて、潮風で所々錆びた鉄の階段が歩道の方に伸びている。

「え、これ?」

 近くまで来て建物を見上げた春樹は不思議なものを見る目で言った。

 律はうなずいて、

「そう。これが僕の図書室であり、秘密基地。本当は、もっと仲良くなってから春樹を招待しようと思ってたんだけど……」

 そこまで言ってから、慌てて訂正する。

「あ、春樹を信頼してないとか、そういうのじゃないからね!」

「いや、気遣わなくていい。秘密基地に今日会った人間を連れてくるなんてことの方が普通ないし。ってか、こんなとこに気になる建物あったらヤンキーみたいのが中を占領してるんじゃないの?」

「ううん、大丈夫。確かに一時期階段に怖そうな人達がたむろしてたけど、鍵がかかってるし頑丈なドアだから中には入れなかったみたいなんだ」

「ほう」

 すると律は鞄から一つのカギを取り出して春樹に見せた。

「これがここの鍵。実は数年前に亡くなった叔父さんから譲り受けた場所なんだ。叔父さんも読書好きな人でね」

 そう言って階段を上り、鍵を『図書室』の扉に差し込む。

「あ」

「なに?」

「えっと……この建物のことは誰にも言わないでくれる? 陸也以外には伝えてないんだ」

「あー、了解。言ったらバレるもんな、秘密基地。他に注意事項ある?」

「え? んーと、多少掃除はしてるけど土足で出入りしてるからあまり綺麗じゃない」

「了解。……他は?」

「んー……あ、ガラスの窓が一部割れてるんだ。だから破片に気を付けて」

「わかった。他」

「もうないよ、とりあえず入ろうか」

 言葉の最後に律は笑ったようだった。少しでも笑顔になってくれたことで、春樹は安堵の息をつく。


 *


 ――ギィッ……

 古めかしい音を鳴らしながら扉が開かれると、そこは青の空間が広がっていた。

 両脇には木製の大きな本棚があり、右の本棚には本がびっしりと入っている。外から見たときの円柱状の部分には五つの縦長のガラス窓。中央の窓は割れていて月と夜がちょうど顔を出している。その両脇の窓は水色と無色の正四角形のガラスを交互に並べたステンドグラスになっていた。

 そして割れた窓の前に無造作に置かれた木の椅子がひとつ。

 律がその椅子を春樹に渡そうと持ち上げたとき、春樹は「なんだ、綺麗じゃん」とつぶやいていきなり床に大の字に寝転がったため、律は春樹の行動にえらく驚いた。

「え!? いや、あの……椅子貸すよ……?」

「いいのいいの。俺のことは気にすんな。はー、床のタイルが冷たくて気持ちいー……」

 なんだかそのまま寝てしまいそうだ。

 その様子を見てくすりと笑いながら律は窓辺に椅子を置き、月が照らす海辺を茫然と眺めた。

「……聞かないんだね、何も」

 律はうつむく。春樹がなんと答えるか分からない。知りたくないけれど、理由を聞かれないその理由を聞きたかった。

 すると春樹は普段の口調と変わらない様子で答える。

「いやー……律と親友になりたいって言って、陸也とも仲良くなれたし夕飯も食べさせておいてもらってさ、それだけでちょっと心の距離っていうの? 少し近づいたと思うんだよ」

「うん」

「でも律の家族の問題にまで気になるからって質問したら、さすがの俺も踏み込み過ぎじゃね? って思うんだよね。俺は律とも陸也とももっと仲良くなりたいし、話したくなった時にそっちから言ってくれるだろうって信じてるから。だから俺からは聞かない」

「ふふ……。春樹って、のんびり屋さんなのは変わらないけどたまにカッコいい言動するよね」

「え、そう? しまったな、録音して名言残しておけばよかった」

「大丈夫だよ、春樹の名言は僕の中に残しておくから。僕ら、親友なんでしょ?」

 春樹は一瞬、目を大きく見開いた後に少しだけほっとしたように笑った。

「……それもそっか」

 正直なところ、律の口から『親友』という言葉がハッキリ出てきたことが一番嬉しかったのだ。

 ひとつ会話が終わり、無言になる。

 しばらくして少し、強めの潮風が律の髪を揺らした。

「……連れ子なんだ」

 律の言葉を聞いて、春樹は仰向けだった体を半ば起こしてうつぶせになり両肘をつく格好になる。律は目線をやや下に向けたまま、春樹の方には向けなかった。

「僕が父さんの連れ子で、陸也が父さんと母さんの子ども。そして父さんは母さんと僕らを置いて出ていった。……毎月、お金は送られてくるんだけどね」

「……」

「母さんは父さんを恨んでる。だから僕を見るのが嫌なんだ。僕のこの髪が、父さんを思い出させるんだって。だからいつも髪の色が父さんと違うし、ちゃんと母さんの血も受け継いでる陸也がああやって母さんを抑えてくれてるんだ」

「へぇ……」

 律は自分に嘲笑を向ける。そして自分の髪の一束を指ですくった。その髪は月の光を受けて綺麗に輝く。

「本当に陸也にはいつも助けてもらってる。情けないよ、何もできない自分が。この髪……母さんと同じ色に染めちゃえばいいのかな……」

 心の闇を浮かべたその暗い笑みを、春樹は凛とした声で制した。

「だめだ、それだけは」

「……え?」

 そうして立ち上がり、律の傍らに立って同じように律の髪を一束すくう。律は、突然のキッパリとした春樹の声に驚いているようで、髪を触られていることについては何も言わなかった。

「いや、だめかどうかは俺が決めることじゃないけど……でも、こんなに綺麗な髪なんだ。染めるなんてもったいないと俺は思う」

 春樹の言葉を聞いて律は綺麗に笑う。

「ふふふ……春樹は意外と酷なこと言うね。染めないでいたら僕はずっと母さんにああいう態度を取られるのに」

「……。でも、染めたとして血のつながってない律のこと、お前の母さんは好きになってくれるのか?」

 その言葉に、一瞬律の呼吸が止まった。

「春樹は……本当に酷なこと言うね……。僕の最後の希望まで正論でつぶしてしまうんだから……」

 実際、髪を染めたらどうなるかなんて分からなかった。これが正論かもわからない。

 けれど春樹は律が目をそらしておきたかった部分に真っ向から光を当てる。

 律はうつむいたままだったが、ぽつりぽつりと握りしめる拳に雨を降らせた。

 それを見て春樹は戸惑いながらそっと律を抱きしめる。

「……ごめん、言いすぎた」

 戸惑ってしまったのは、今日出会った親友に対してこういう言動をしていいのか分からなかったからだ。そもそも、『親友』ってなんだっけ。春樹の中ではもう答えが見えなくなっていた。

 しかし律はそう言った疑問を持っていないのか、少し春樹に寄りかかりながら無理に笑う。

「正直に言ってくれたのは僕のため、でしょ?」

「んー、どうだろ……俺のためかも」

「春樹のため? どうして」

「いや……初めて会った時、素直に髪が綺麗だと思ったから」

 そんな春樹の言葉に、

「うーん……男だから綺麗って言われ慣れてないけど、なんだか照れちゃうな。でもそこは嘘でも『律のためだよ』って言ってよ……」

 律は泣き笑いの表情でコツン、と春樹の胸のあたりを拳で軽く叩いた。

 *

 律が泣き止み、気持ちが落ち着くまで春樹は色々な話をした。

「それじゃあ、次は何の話しようかな……あー、卒業したら進路どうすんの?」

「うーん……僕の家はあまりお金ないし、僕自身もそこまで頭は良くないから大学は行けないだろうな。でも、何か本に関わる仕事がしたいかなって思ってる」

「やっぱり本か。そう言うと思った」

「そう? でね、それでお金を貯めて陸也を大学に行かせてあげたいな。甘い考えなのはわかってるけど、夢見るくらいなら……いいよね」

 まるで同意を求めているような問いかけの口調をするものだから、春樹は力強くその背中に手を置く。

「当たり前だろ。将来の夢なんて何時いつ、誰が持っててもいいんだよ。歳とってても夢を追いかける人だっているんだから。それに、お前の夢は叶えられる範囲じゃん。大丈夫」

 そこまで春樹が一気に言うと、律は人差し指を曲げて口元にあてながら笑った。

「春樹って本当に不思議な人だね。なんだか春樹の言葉を聞いたら叶えられそうな気がしてきた。さすが、学校中探し回られるほどの人気者」

「えー……、なにそれ。今日はたまたま転校してきた初日だから物珍しかったんじゃない?」

「それは一理あるけど、きっとそれだけじゃないよ。……僕を親友に選んでくれて、ありがとう」

 突然の感謝の言葉と律の綺麗な微笑みに不意打ちを食らった春樹は、数秒見とれてから少し視線をはずしてぶっきらぼうに、

「あぁ、うん」

 とだけ答える。でもなんだか歯切れが悪く、無理やり話題を変えた。

「あ、そういえば陸也のLINE聞くんだった。律のと、陸也のやつ教えて」

「そうだったね。わかった」

 そうして連絡先を交換した春樹は、さっそく陸也にメッセージを送る。

『律からLINE聞いたよ。今、海沿いの図書室に来てる。そっちは収まった?』

 すると間もなくして陸也から返事があった。

『あそこか。知り合ってたった一日のあんたを兄貴がそこに連れてくのはすごいことなんだぞ。だからって浮かれてないで秘密は守れよ。母さんの方はなんとか落ち着いたから、もう帰ってきて大丈夫だ』

『了解』

 すばやく陸也に返信した春樹は律にメッセージの内容を伝える。

「陸也が、もう家に帰ってきて大丈夫だって。もう少しここに居たかったけど……帰ろっか」

「うん、そうだね」

 だるそうに鞄を持って先に歩き出した春樹を見て、律は小走りで後を追った。


 *


 律の家の前で春樹は父に迎えに来てもらうように連絡を入れ、わざわざ出てきた陸也に夕飯のお礼を言った。

「夕飯うまかったよ、ありがとな。あと一人で、その……お前らの母さん止めたんだろ。大丈夫だったか?」

 すると陸也はなんでもないというようにサラッと答える。

「いつものことだからな。別に平気だよ」

 そう言いつつ、陸也の左腕がピクっと反応したのを春樹は見逃さなかった。

 すかさず無言でその左腕を持ち上げる。驚いた陸也は「急になんだよ!」と言いながら春樹の手から逃れようとするが、その力はやはり強くて敵わない。

 そして遠野家の玄関の光でじっと陸也の腕を見つめると、じんわりと血がにじんでいるひっかき傷が残っていた。

「これ……」

 春樹の真剣なトーンの声を聞いて律も覗き込むと。

「その傷……。また母さんがやったんだね」

 陸也は何も言わないが、それは肯定の意味だろう。

 しかし春樹はなんて言葉をかければいいのか分からず、黙り込むしかない。

 その時、春樹と律が学校帰りに通った坂道から車のエンジン音が聞こえた。

 春樹は父が来たことを察して陸也の傷の処置を律に任せる。

「それじゃあ律……また明日、学校でな。陸也も、また遊びに来るよ。料理楽しみにしておく」

「うん、また明日」

「次も美味いもの作るから……教えてくれよ、勉強」

「わかった」

 春樹は二人に軽く手を振って、近くに停まった車に乗り込んだ。


 *


 随分と長い一日だった。

 この一日が濃密すぎて、明日以降は早く一日が終わるんじゃないだろうか。

 そんなこともちらっと考えたが座り慣れてる父の車のシートに乗って、心地よい車の振動に身を任せていると次第に眠くなってくる。

「随分遅かったなぁ。さっきの家の前にいた子が親友で、背が低い方はその弟か」

「んー、うん……」

「そうだろう。父さんの勘は当たるんだ。それで、学校はどうだ?」

「……」

「春樹?」

 父の言葉にツッコミもなく、何も返答しない春樹の方を父が横目で見れば、春樹は腕を組んだまま眠っていた。父は苦笑する。

「まぁ、そりゃあ疲れるか」

 そうして車はゆっくりとカーブのある坂道を上っていった。


 *


 翌日。

 気持ちがいいほど今日も空は快晴だった。

 今日は合同体育があり、授業内容はバスケ。

 男子たちはそれぞれジャージが入った鞄を持って男子更衣室を目指す。

 その時春樹は廊下で見慣れた背中を見つけて声をかけた。

「……おはよ、律。俺ら合同体育で一緒なんだってなー」

 その瞬間周りからざわめきが起こる。それに目を向けず、律は少し困り顔で笑った。

「おはよう、春樹。……やっぱり学校で人気者に声をかけられるのはちょっと緊張するね」

 律の返答に一層ざわめく男子たち。

 近くを歩いていた生田は目を丸くして、春樹と律を交互に見やった。

「えっ……遠野くんって西山くんの知り合いか何か?」

 その言葉に律は柔らかく首を横に振る。

「ううん、違うよ。昨日会ったばかり」

「えぇっ!? それでもう名前で呼び合う仲なの……? 何があったか分からないけど、ちょっとうらやましい……」

「え、なんか言った?」

 ぼんやりとしか聞いてなかった春樹が聞き返すと、生田はぶんぶんと顔を横に振って「な、なんでもない!」と慌てて言った。

 春樹と律が互いに名前で呼び合う仲になっていることに周りはざわついて生田の質問に耳をすませていたが、こうして生田が踏み込めなかったことで残念そうな空気になる。

 はたから見れば、転校初日に不良である広野に立ち向かった男子とずっと図書室にいるような男子が急に仲良くなっているのだ。あまり接点がないため、周囲は余計に不思議がる。

 そんなざわざわとした雰囲気の中で、一人だけ面白くなさそうな顔をしている男がいた。


 *


 体育館に着き、ジャージに着替えて準備運動を終えた生徒たちはクラスごとのチームに分かれてバスケの試合を始める。

 生田と春樹はステージの上に座って、体育館内を走る律のチームを見ていた。

 そこで、春樹は生田に気になっていたことを聞く。

「生田」

「ん、なに?」

「律ってさ、確かにずっと図書室にいるような変わったやつだけど顔とかすごい綺麗じゃん?」

「そうだね。僕もそう思う」

「なのに、なんで友達とかいないの? あとモテるって話も聞かないし」

「あー……それはね……」

 生田は何かを言い淀んでいた。その様子を見て春樹はさらにもう一歩踏み込んでみる。

「知りたいんだよ、あいつのこと」

 すると、春樹の言葉に促されて生田はポツリと話し始めた。

「たぶん、広野のせいだよ」

「広野?」

「クラス替えがあったから今はこうして何もないけど、前のクラスの時に広野は遠野くんをイジメの対象にしてたんだ。なんでそうなったかは分からないけど……。だからみんな、広野が怖くて遠野くんにあまり関われないんだと思う」

「……へぇ」

 少し低い声音になった春樹は微かに視線を彷徨さまよわせて、遠くに座る広野を見る。広野もどうやら律の方を見ているようだった。

 ……なんだか少し、気にくわなかった。


 *


 律たちのクラスの試合が終わり、交代で今度は春樹たちのクラスの試合が始まる。

 交代の際に汗をかきながらステージ側に移動してくる律と目が合い、春樹は軽く片手をあげた。

「お疲れ」

「あ……うん、春樹も次頑張ってね」

「おう」

 そのあげられた手の意味が分かった律が嬉しそうに春樹とハイタッチする。

 すると律の周りに数人が駆け寄り、「どうやって西山と仲良くなったんだよ」と声をかけていた。しかし律は「なんでだろうね」と、昨日一日のことを隠して微笑んでいる。

 どうやら春樹に関する話題で少し周りと打ち解けているようだった。

 春樹と違うチームになり、未だ控えていた生田はその様子を見て「遠野くんが笑ってるところ、久しぶりに見たな……」とひとりごとをつぶやく。

 そして、なんの因果だろうか。

 春樹は広野と同じチームになっていた。春樹は先ほどの声のトーンとは違い、いつも通りの口調で広野に「よろしく」と声をかける。すると広野はこちらを見ずに「あぁ」とだけ返した。

 周囲は転校生の身体能力はいかなるものかと注目している。その雰囲気を察して「なんか、かなりやりづらいんだけど」と春樹の口から本音がこぼれると隣の広野は、

「周りなんか気にすんな。俺は勝たねぇと気がすまねぇ。足引っ張るなよ」

 そう言ってギロリと春樹を睨んで威嚇した。しかし、やはりその威嚇は春樹に通じず「んー……勝ち負けはどうでもいいけど、そこそこ頑張るよ」とのんびり答えが返ってくる。

 広野は春樹の様子になんだか調子を狂わせられているようだった。

 そして試合開始のホイッスルが鳴る。

 大柄の広野はやはり、易々やすやすと最初のボールを叩き落とした。

 そしてその先にはまるでそれを見越したかのように春樹がいて、ボールをキャッチしてから慣れた手つきで素早いドリブルをかます。そのまま相手をかわしつつ一気にゴール下に潜り込み……楽々とゴールを決めた。

 周りは驚嘆きょうたんし、歓声が沸き起こる。

 広野は自分の近くに春樹が来ると声をかけた。

「周りに注目されてんのは気にくわねぇが……やるじゃねーか」

「ん、ありがとう。……次パス回すから受け取って」

「……!」

 平然と返されたその言葉に広野は目を見開く。

 今まで人を突き放すような言動をしていた広野には、誰もが恐れて『連携』なんてできる人間はいなかった。

 でも春樹は違う。実力を兼ね備えても驕り高ぶることはなく、そして分け隔てなく人と接していた。

 今、広野と対等な立場で立っているのは春樹しかいないだろう。そのことに広野は今まで感じたことのない安心感を得る。

 再び試合が始まると真っ先にボールを取りに行く春樹。あの普段ののんびりした動作からは想像もつかない速さだ。

 そして受け取ったボールを広野に向けてロングパスをする。

「広野!」

 春樹から飛んできたボールを受け取った広野は豪快にドリブルを繰り広げ、先ほどの春樹と同様にゴール下からシュートを決めた。

 ――……楽しい。

 広野は、純粋にバスケを楽しんでいた。もしかしたらこの感覚は初めてかもしれない。

 少し息切れした春樹が広野に近づき、「やるじゃん」と言って片手を上げた。

 広野は春樹に初めて悪意のない笑みを見せ、思い切りハイタッチする。

 その様子を見ていた試合に参加していない男子たちは首をかしげた。

「あれ、あいつらって……」

「仲悪いわけじゃなかったの?」

 ……おそらく昨日の春樹が広野と無理やり握手した件の噂が、広まるたびに尾ひれがついて二人は対峙している、ということになっていたのだろう。

 その後、広野と春樹は凄まじい連携を見せてどんどんと点をとり、チームの主戦力になっていた。

 もはや他のチームメンバーは機能していないに等しい。

 ゴールを決めた後に互いに笑いながらハイタッチする春樹と広野の様子を見ていた律は、最初は春樹の活躍に微笑みを見せていたものの、だんだんと笑えなくなっていった。

 そして胸元に手をあてる。

 どうしてだろう。胸が、心が痛い。素直に喜べない。悔しい。

 自分の醜い心情に、目を塞ぎたくなった。

 *

 春樹と広野の活躍でその試合は圧勝だった。ステージ側に戻ってきた春樹に律は表面だけの笑顔を向ける。

「お疲れさま、春樹。運動もできるんだね。すごいかっこよかったよ」

「おー、ありがと」

 ……本当は心からの笑みを見せたかった。でも、なぜかそれができない。

 春樹はそんな律の心情に気づくことが出来ずいつもののんびりした様子で、当たり前のように律の隣に座って生田に声援を送った。

「がんばれよー、部長」

「うー……こんな時に限って『部長』とか言わないでよ……あんなスーパープレイ見せられた後に試合なんてやりづらいんだから!」

 そう言いながら生田は心底嫌そうにコートに向かっていく。

 そして試合が始まるものの、比較的背の低い生田はぴょんぴょんと跳ねるもボールを取ることさえできずにいた。

 春樹はその懸命な姿を見て微笑ましく笑っている。

「頑張ってんなー」

「そうだね」

 律は春樹の言葉に同意しつつも、やはりぎこちない笑みだった。

 きっと、これは嫉妬なのかもしれない。律は純粋な笑みを見せた広野を思い出す。

 あの広野が心を許している。それは春樹が同等の位置に立っているからだ。僕はきっとそれがうらやましいんだろう。

 隣に座る西山春樹という男子は自分の想像の上を行くすごい人なんだ。そんな春樹の親友として、自分は果たして釣り合うのか?

 律の心を得体のしれない何かが侵食していく。

 *

「もう! せっかく僕頑張ってたのに二人ともずっと笑ってたでしょ!」

 生田は春樹と律が笑っていたことに気づいていたらしく、しばらくむくれていた。

「ごめんね、笑い者にしていたつもりはないんだけど、可愛くて……」

「男子に『可愛さ』なんて要らないよ!」

「んー……でも昔からよく言うよな。『女は度胸、男は愛嬌』……」

「それ逆でしょ!? ぜんぜんフォローになってないから!」

 体育の授業が終わり、後片付けをしている時にそれは突然起こった。

 春樹は律と生田と共にボールの後片付けをしていたところ、突然律の背にボールが思い切り当たったのだ。反動で律はボール入れに体を打ち付ける。

「うっ!」

「遠野くん、大丈夫!? あ……」

 生田と春樹がボールを飛んできた方を見ると、そこには広野が取り巻きを連れて立っていた。

「あー悪ぃ。ボール当たっちまったわ」

 広野の言葉に、律はかがみながら無言で唇をかみしめる。その様子を見た春樹は広野側の取り巻きの人数に動じず、広野へと歩を進めていった。

 そしてさっきと同様にいつものトーンで聞く。

「広野、今のわざと?」

 真っ向から向かってきた春樹に悪びれもしない様子で広野は「さぁ、知らねぇな」と答え、その様子を見た春樹は目つきを鋭いものに変えた。同時に声のトーンも低くなる。

「わざとだよな。そうだろ? ……律に謝れ」

 いつもののんびりした春樹のイメージが覆され、広野はその圧力に息をのむ。その瞬間、初めて握手したときのとてつもない握力とそれに合わない涼やかな表情を思い出して背が凍った気がした。

 本能でわかる。『負ける』と。

 すると体育担当の教師が近づいてくる。

「おい、お前ら何してる!」

 その言葉を聞いた広野は取り巻きを連れて早々と体育館を後にした。

 体育教師は困った顔で春樹の方を向く。

「あいつらに一人で立ち向かうのはすごいと思うけどな、あまり面倒ごとは起こさないでくれよ」

「いや、親友が傷つけられたから居てもたってもいられなくて。すみません」

 一応形式通りの謝罪をするが、春樹の頭の中では今でも律の件がこびりついていた。おそらく、生田から聞いた前のクラスの時もこんな感じで……いや、今よりももっと酷いことを律はされたのだろう。

「遠野くん、もう大丈夫なの?」

「うん、大丈夫だよ。心配かけてしまってごめんね」

「いや、僕は何も……。あ、後は僕やっておくから遠野くんと西山くんは着替えてていいよ!」

 春樹はその会話を聞いて急いで律のもとに戻る。

「律……大丈夫か?」

 その心配そうな声音を聞いて、律は微笑した。

「うん、大丈夫だよ。ごめんね、僕のせいで着替えるのも遅くなっちゃった。もう他の人は着替え終わっただろうな」

「いや、それは別にいいけど」

 男子更衣室のドアを開けてみたら律の言葉の通り、見事に誰一人もいない。

「それにしても驚いたな……。あの怖そうな取り巻きがいるのに、春樹は一人で立ち向かっちゃうんだもん。ビックリしたけど……本当に嬉しかった。ありがとう」

「それに関しては気にするな。俺が勝手にやったことだし」

「ふふ……本当に春樹はかっこいいな。憧れるよ」

「それよりさ、さっきボール当たったところ大丈夫か? ちょっと見せてみろ」

「あ、それはちょっと……って、うわっ」

 春樹は律の制する手をかわしてその背中の素肌を半ば無理やりに見た。そこには。

「……!」

 ボールが当たったところにある青あざよりも目に入った、白い肌に映える幾筋もの赤い軌道。

 これはいったい何でつけられた傷? いったい誰が? 広野か? あの母親か?

「だから……見られたくなかったんだけどな……」

 言葉を失った春樹を見た律は陰のある苦笑を見せてゆっくりとその素肌を服で隠していく。

「……なに、今の」

「なんだろうね」

「ごまかすな」

「さっきから怖いよ、春樹……」

 困ったように笑う顔さえ、鬱陶しく感じた。

「俺のことなんて、どう言われてもいい。何、今の傷」

 服装を正した律はピタリとその動きを止める。

「しつけの一環、だったのかなぁ……」

「……! ……あの母さんか」

 春樹はそっと服の上から律の背中に手を当てた。ただそれだけなのに、痛みが伝わってくるようで苦しくなった。

 律は背からじんわりと伝わる春樹の熱で、若干幼かった時のあの痛みを思い出す。

 *

「ごめんなさい、母さん……。ごめんなさい」

 その日はちょうど、陸也がいない日だった。

 居なくてよかったかもしれないという気持ちと、すがりたいという相反した気持ちで心は混乱している。

「あの人が……私の人生をめちゃくちゃにしたの……わかるわね、律?」

「ひっ……!」

 上半身を裸に剥かれ、テーブルにしがみつく律の背を震えたナイフの先がゆっくりと走った。

 痛い。母さんの気が済んだ時、果たして自分は生きているんだろうか。刺されて死んでいるのかもしれない。でも、僕が陸也を守らなきゃ……。

 ナイフは次々と白い肌を赤い線で彩っていく。

 つらい、苦しい、怖い。最初はそう思っていた。

 しかし時間が経つにつれ、自分はおかしくなっていたのだろう。

 そのナイフの震えに優しさを見出したのだ。

 母さんは望んでこんなことをしているんじゃない。自分の中で苦しんだ結果がこれなんだ。それなら僕は生きていることを謝るしかない。

「ごめんなさい、母さん。ごめんなさい。生きててごめんなさい。大人になったら出ていくから……」

 するとナイフの動きが一度止まった。

「それって……いつ?」

 自分の母の冷たい声音に背が震える。そして気づいた。母さんは僕の歳さえ、もう覚えていないのだと。

 そしてナイフが今までより深く線を引く。

「あッ……!」

「ねぇそれはいつなの? いつなの? いつなの?」

「母さん、やめて……! 痛いっ……」

 ……生き地獄の中に、優しさなどないと知った日だった。

 *

「もしかしてさっきのあと……ナイフ?」

 律は春樹の言葉にビクッとする。

「どうなんだよ。それなら、いっそのこと警察に……!」

 律が逃げられないように春樹は両手で律の両側を塞いだ。しかし律はその囲いの中で春樹の方を振り返り、その名を呼ぶ。

「春樹」

「……なに?」

 そして律は綺麗な儚い笑みを浮かべながら人差し指を自分の唇の前で立てた。

「これは、僕が話したくなった時に話すよ。……春樹からは聞かないって、あの図書室で言ってくれたよね?」

 春樹の言葉は、律の笑みに吸い取られるように消えた。

 *

 生田が男子更衣室に向かったとき、走りながら更衣室を出ていく律とすれ違った。

「あ、生田くん後片付けしてくれてありがとう! それじゃあね!」

「う、うん!」

 そして更衣室に入ると未だに服を着替えている春樹の姿がある。その表情はいつになく真面目だ。

「ねぇ、西山くん。いま遠野くん走って更衣室から出ていったけどなんかあったの?」

「……ん、あぁ、次の授業で日直担当は先生の手伝いをしなきゃならないんだって」

「あぁ、それでか! ……他に、何かあった?」

「え、なんで?」

「なんかすごく……真面目すぎるというか、怖い顔してるから……」

 それを聞いた春樹は更衣室の鏡で自分の顔を見る。

「それが疑問なんだよなー……。俺そんなに怖い顔してる? 表情筋は動いてるはずなんだけど」

「表情筋って……。ははっ、西山くんってやっぱり面白いよね」

「そうかな。自覚が一切ないんだけど」

 春樹の様子を見ていつも通りに戻ったと判断した生田は着替えはじめた。

「それにしても驚いたなぁ。広野とバスケしてる時は息ピッタリだったのに、さっきは一触即発みたいな雰囲気出てたから……。結局のところ西山くんって広野と仲いいの? 悪いの?」

「さぁねぇ……」

 さも興味がなさそうに春樹が答えるものだから、「もう、無頓着すぎ!」と生田は再びむくれる。

 すると春樹はおもむろに壁時計を指さした。

「それよりも生田、時間大丈夫?」

 そして生田は時計を思わず二度見して……女子のような悲鳴をあげた。

「ヤバいよ! 全然大丈夫じゃない! 西山くん、ほら行くよ!」

 生田が春樹を後ろから押していく。

「えー……走りたくないよ」

「バスケでは走ってたでしょ! ほら……っ早く! 重い!」

「生田、先行ってていいよ。俺は後から行くから」

 すると生田は春樹を押すことは止めて、面と向かって立ちはだかった。

「部長は部員を置いてくなんてできないの! 見捨てるなんて絶対しない!」

「……! ……すみません」

 生田の目は真剣だった。次の授業に遅れるというだけでも『部長』という立ち位置を捨てることはなく、こうやって部員を説得している。

「ほら、走って!」

 春樹はいい部長を持ったな、と思いながら浅くうなずいた。

「わかったよ……」

 そして全力疾走で教室へ向かって走り始めると、すんなりと生田を追い抜いていく。すると必死に走ってる生田は「ちょ、ちょっと待ってぇ~!」と遠くなっていく春樹の背に言葉を投げかけた。もっとも、春樹にはわずかにしか聞き取れなかったのだが。

 春樹はようやく自分の表情が柔らかくなったことを自覚する。

 ……部長、やっぱかっこいいじゃん。

 *

 その日の放課後、春樹はプールサイドで水泳部員たちを前に生田から紹介されていた。

「新しい新入部員で、僕と同じクラスの西山春樹くんです。みんな、西山くんが分からないことがあったら教えてあげてね。西山くん、何か一言どうぞ!」

 そう言われて一歩前へと背を押される。

 春樹は少し考える動作をしてから、「……あぁ」と何か思いついたのか部員たちを見ながら、

「特にないです。よろしく」

 と潔く言うものだから生田は「えぇぇ!?」と叫ぶとともに部員たちのにぎやかな笑いが沸き起こった。

 春樹は軽く頭を掻く。べつに笑いをとるつもりはなかったんだけど。

 そして水泳部らしく生田が先頭に立って準備運動を全員で行う。

「こういうところは部活っぽいよなー……」

 春樹のつぶやきに、隣の女子部員はくすりと笑って「一応部ですし、部員に怪我があったら困りますからね」と返してくれる。

「……確かに」

 そうぼんやりと返しながら、その笑い方を律と重ねて見ていた。

 *

 準備運動が終わると、しょっちゅう放課後に学校を抜け出すことで有名な顧問が部員たちの指揮をとる。

「よーし、じゃあ新入部員が入ったことだし、久々にタイムでも計るか!」

 その言葉に部員たちは「えー」とブーイングするが、生田は前向きだった。

「確かに西山くんの泳ぎ見てみたいし、タイムも知っておきたいな」

「えー……別に俺はいいよ。まったり泳いでるだけでいい」

「まぁそう言わず一回だけ! ね?」

 生田には先ほどの借りがあるため、それ以上拒むことはできなかった。

 しかし。

「え、ちょっと待って。俺だけしか泳がないの?」

 いざタイムを計るとなると部員は誰一人泳がず、プールサイドで談笑しながら春樹を見ている。

 生田は胸の前で手を合わせて「ごめん」のポーズをしてみせた。春樹はため息をつく。

「わかったよ……」

 そうして飛び込み台に上った時ちらりと誰のものかは分からないが白い背中を見た。その瞬間、息が詰まる。

 律の背中が頭をよぎった。白くて細いあの背中に、幾筋もの古傷になりつつある赤い痕。春樹は固く目をつぶってその映像を振り払おうとしたが、できない。

「西山、大丈夫か?」

「あぁ、はい……」

 顧問の声でハッとした春樹はホイッスルの音と同時に水に飛び込む。プールの冷たい水が日差しで火照った春樹の体を鎮めていった。

 しかし頭の中ではずっと律のことが気がかりでしょうがない。

 あの母親にどのようにして体を傷つけられたかはわからない。でも脳が勝手に色々な可能性を見せていく。そしてその度に架空の痛みが春樹を襲った。

 初めて律に出会った時、綺麗だと思った。

 髪だけではなかったのかもしれない。きっと律の存在が綺麗だと思ったんだろう。

 でもその時にはすでに律の記憶の中にはいじめられていた記憶はあったし、その背中には傷が隠されていた。

 そう思うと、昨日一日でたくさん見せてくれた律の笑顔はなんだったのだろうと考えてしまう。

 つらい過去を隠すため? それともそのつらい思い出を乗り越えたから?

 ……あの笑顔は、心からの笑顔だったのか?

 そこまで考えが行きついたとき、律の微笑みとともに言葉がよみがえった。

『僕、こうやって人に好かれたことなかったから。名前で呼ばれることも少なかったし、『家にきてもいいよ』って言われることも少なかったし。……すごいな、こんな気持ちになるんだ。嬉しくてたまらないな……』

 あぁ、何を疑っていたんだ。

 少なくともあの言葉に嘘はなかった。それだけで、いいじゃないか。

 そのまま最後の力を振り絞るようにして水を薙いでいく。

「ゴール!」

 プールの壁に手が触れて生田の声が聞こえた。春樹は水泳キャップとゴーグルを取って、鬱陶しく肌につく前髪を掻き上げた。

 するとプールサイドでどよめきがあがる。

「副部長、タイムは!?」

「に、二十三秒……市の記録だけじゃなく県の記録も超えてます!」

「ウソ……! すごい、すごいよ西山くん!」

 そこに顧問も笑顔で拍手をしながら近づいた。

「すごいじゃないか! 西山、大会とか目指さないか? お前の力量だったら軽く優勝は狙えるぞ!」

 しかし、春樹はそんなことなどどうでもよかった。

「あ、いや……別に優勝とか速さとかどうでもいいんで……」

 春樹の言葉に部員たちが再びどよめく。

「えぇっ!? もったいないよ、こんなに素質あるのに」

「それよりもさ、部長」

「え、なに?」

「まったり泳いでいい? 全力で泳ぐのは疲れたから」

 春樹の言葉に、「うん……」と生田はさも残念そうにうなだれた。しかしいつまでもそうしていられないと思ったのか、パシッと両頬を叩いて頭を切り替える。

「……よし。じゃあ、ここからはいつもの通りに自由時間! みんな好きに泳いで!」

 その言葉をきっかけに部員たちは自由に好きなレーンで泳ぎ始めた。こっちの方が活気があっていい。みんながいかに水泳を楽しんでいるか知ることができる。

 春樹は空を見ながらゆったりと水に浮いていた。

 律の背中の傷は、もう起きてしまったことだからどうしようもない。広野からの悪質ないじめも、今日までのものはすべて起こってしまったことだからしょうがない。

 だったら俺ができることは、もうわかっている。

 なるべく律が母親に暴力を振るわれるのを避けるために外に連れ出し、学校では広野からのいじめがないように広野をさりげなく監視する。もしかしたらもっと仲良くなれば止めてくれるかもしれないし。そうしたら各々のことは未然に防ぐことはできないだろうか。

 あぁ、こうしている間にも律は背と心に傷を負いながら誰も来ない図書室で一人本を読んでいるのだろう。そうして、誰か稀に利用者が来たらあの柔らかい笑みを見せて……。

 そこまで考えたら、なんか心がモヤモヤとした。俺、どうしたんだろう。

 春樹は手を日差しにかざす。手についていた水がぽたぽたと優しく春樹に雨を降らした。

「はやく……雨降らないかなぁ」

 ついポロッと口に出してしまってから自分のすぐ横を見ると、口をポカンと開けた生田がいて。

「あ」

 ヤバいと思った直後に生田が「辞めないでぇぇぇ!」と泣きついてきたのは言うまでもない。

 *

「辞めないでぇぇぇ!」

 図書室の窓の外から生田の叫びを聞いた律は、読んでいた本に栞を挟んで立ち上がった。

 窓の外を見れば体育館の奥にプールが半分ほど見える。ちょうどそこに見慣れた二人らしき人物を見た。

「春樹……?」

 生田は春樹の腕にしがみつき、必死に振り払われないようにしていて周りの部員たちは笑っている。

 笑顔の中心にいる春樹は困った様子ではあるものの、様になっていた。

 律はその様子を、窓に頬杖をついて悲しげに笑って見つめる。

「かっこいいな……。それに比べて僕は……」

 どこまでも陰気だと思った。あんなに輝いている場所に、自分はあまりに似合わない。

 これだから、広野にいじめられていたのだろうか。

 そう思うと、今まで起こってきた嫌なことはすべて自分のせいだったのかもしれないと錯覚する。

「つらいな」

 律はそうつぶやいて、窓辺から目を背けた。


 *


 時計が午後七時を指す頃、外は土砂降りになっていた。

 律は一人図書室の中で雨音を聞き、その時間にハッとする。

 すでに校庭には誰の姿もない。もちろん、春樹も。

 自分でも自覚がないうちに、ずっと色んなことを考えていたようだった。その証拠に、本は栞を挟んだところから一行程度しか読めていない。

 いや。

「もしかしたら、期待してたのかな。春樹が来てくれるかもって」

 帰る用意をしながら嘲笑する。自分は春樹に甘えすぎだと。

 早く帰ろう。傘は持っている。多少濡れるけど大丈夫。大丈夫だ。

 ……それなのに。


 *


 ――ガラガラガラッ

 陸也が玄関の磨りガラスをいつものように開けた。

「おかえり、兄貴。って……え?」

「え……?」

 そこに不思議そうな顔でこちらを見つめて茫然と立つ律の姿がある。……傘を持っているのに、ずぶ濡れの恰好で。

「おい、なにやってんだよ……傘持ってんのに」

「あれ……本当だ。どうしたんだろう、せっかく持ってったのに意味なかったね」

 そう気丈にふるまって傘を差そうとして、

 ――バシャッ!

 傘を閉じた状態で雨水が中に溜まっていたらしく、傘を開いた瞬間に律はまたびしょ濡れになった。

「あ、あはは……どうしたんだろ、僕……」

 陸也はその顔を見てハッとする。泣いているように見えたのだ。そしてすぐ家の中に引き入れる。

「春にいと、何かあったのか」

 そう聞いた瞬間、一瞬だけ律は目を見開いてからすぐ笑顔で動揺を隠した。

「……何もない」

「嘘だ」

「本当にないよ……。ただ、僕が勝手に勘違いしただけで」

「勘違いって?」

「……春樹は僕だけの友達じゃない。今日色んな人の笑顔に囲まれてる春樹を見てそう思った。春樹が僕のこと親友だって特別扱いしてくれてるの、本当に嬉しかったのに……僕が『釣り合わないんじゃないか』って勝手に思って落ち込んでたんだ」

「……」

 陸也はじっと律の言葉を聞いていた。確かに嘘は言ってない。でも律の心の傷が他にもあるように思えた。

「そっか……。とりあえずタオル持ってくる。風呂沸いてるからある程度拭いたら入って」

「はは、陸也は本当にいい弟だなぁ」

「はいはい。風邪ひくなよ」

 タオルを持って軽く律の背を叩いた陸也は、律が脱衣所に入るまでを見届けてスマホを握る。

 そしてLINEを開き、『春にい』の項目をタッチした。


 *


 風呂上りの春樹はまだ乾ききっていない頭にタオルを乗せて自室に戻る。するとタイミングよくスマホが鳴った。

 名前を見てハッとする。陸也だ。陸也から連絡があるということは律に何かあったんじゃないかと思い、素早く電話に出る。

「春にい、いま大丈夫?」

「あぁ、大丈夫」

「今日さ、……兄貴と何かあった?」

 そう聞かれて春樹は真っ先に律の背中の傷を思い出した。

「いや、何もないならいいんだけど。でも、兄貴変だったから……」

「変って?」

「外、いま土砂降りだろ。それで傘持ってったのに、傘ささないで帰ってきて、ずぶ濡れで……。何かぼーっとしてる感じだったんだけど」

 そこで春樹は背中の傷について話してみる。

「……律の背中の傷を見たからかもしれない」

「背中? 傷? なんのことだよ」

 ……え?

 春樹は瞠目どうもくした。陸也は知らないのか?

「おい、春にい。詳しく話せ、俺はそんなこと知らない」

 春樹は、しまったと思った。もしかしたらこれは、律にとって他の人に知られたくなかったことなのかもしれないからだ。

「春にい、頼む。教えてくれ」

 電話口から聞こえる陸也の声に、春樹はため息をついた。

「……俺の方こそ頼む、これを聞いても律の前では聞かなかったことにしてくれ」

「どういうことだよ」

「たぶんこれは……他の誰にも知られたくなかったことだ」

 そうして春樹は今日あったことと律の背中の傷、そして律が言っていた言葉を順を追って陸也に話した。

 それを聞いて陸也は息を詰まらせる。

「なんだよ、それ……。母さんが、そんなこと……」

「くれぐれも律に気づかれるなよ。俺は陸也に何も言ってない。陸也も、今のことは俺から聞いてない」

「……わかった」

 そして会話が自然と止まった。しばらく無言が続く。そして陸也が口を開いた。

「兄貴、泣いてたみたいなんだ」

「泣いてた?」

「あと、春にいに自分は釣り合わないんじゃないかとか言ってた」

「……なんだよ、それ」

「だからさ、後で少しでいいから兄貴に電話してみてくれないか? ……これも、俺が言ってたってことは秘密にして」

「わかった」

 そして二言、三言話して電話を切る。春樹はベッドに体を横たえながら自分の額に拳を当てた。

「『釣り合わない』って、なんだよ……」


 ***


 律は風呂から上がり、脱衣所から母の姿がリビングにないか確認して二階の自室に入る。

 ずぶ濡れになってしまった鞄はそのままに、ベッドの脇で両膝を折って座った。

 ……もう、何もできそうになかった。鞄から覗く雨に濡れた教科書を見ては、同じくらいに心がぐしゃぐしゃになる。

 こんな弱い自分に再び涙がこみあげて、律は着ている部屋着の袖で涙をぬぐった。

 そのとき。

「……!」

 スマホが鳴った。……春樹からだった。

「どうしよう……」

 泣いてることがバレないだろうか。あぁ、でも春樹の声が聞きたい。

 律はしばらく心の中で葛藤した後、着信音が切れる寸前で電話に出た。

「こんばんは。どうしたの、春樹」

「……こんばんは」

 そのたった一言を聞くだけで律は安心して再びベッド脇に腰を下ろす。安心して、また泣きそうだった。自然と声が震える。

「突然電話が来たからビックリしちゃったよ」

 ……だめだ。電話を切らないと。春樹に泣きそうになってるのがバレてしまう。

「今日は悪かった。律が知られたくなかったこと、問い詰めたりして」

「ううん、気にしないで! 本当に大丈夫だから……僕の方こそ、心配してくれたのにごめんね」

「……律、泣いてる?」

 春樹の一言で言葉が紡げなくなった。

 これ以上聞かないで。こみあげてくる涙を止められそうにない。

 そう心の中で懇願する律の瞳から涙がこぼれる。

 切らなきゃ、この電話を。

 なのにその唇は裏腹に、律の本当の気持ちを紡いだ。

「――……会いたい……」

 無意識に口から漏れ出る、絞り出したような言葉に一番驚いたのは律自身だ。

 涙がこぼれるまま、目を見開く。そして動揺して髪をくしゃっと握った。

「あ、あれ、なんだろう。ごめん春樹、電話切るね。今のは聞かなかったことに……」

「……会いに行く」

「え……?」

「今から行くから、玄関の鍵開けといて。チャイム鳴らしたらお前の母さんに俺が来た事、気づかれるかもしれないから」

「ま、待って。もう九時近いし、しかもこんな土砂降りの中……だめだよ!」

「会いに行くって俺が決めた。俺って諦めが悪いからさぁ、律も俺を引き留めることはもう諦めろ。それじゃ、後でな」

「春樹っ……!」

 律の呼びかけに、反応はなかった。


 *


 茫然と階段を降りてくる律に、ちょうどリビングから出てきた陸也はハッとする。律が泣いていたからだ。

「兄貴……どうした?」

 もしや春樹と電話越しにケンカになったのではと、内心ヒヤヒヤする。しかし、涙を隠すことさえ忘れているらしい律はつぶやいた。

「どうしよう……」

「え?」

「春樹が、今から会いに来るって……」

「は!?」

 律はぼーっとしながらぺたぺたと陸也の横を通り過ぎて、たくさんのタオルを抱えたまま戻ってきた。そして玄関の鍵を開けてから大量のタオルを胸に抱きこんだまま玄関にぺたんと正座で座り込み。

「どうしよう……」

 また同じことをつぶやいた。陸也は言葉を失う。

(だいぶ重症じゃん……! ってか今からこんな雨の中来るって春にい頭大丈夫か!?)

 そう思ったがすぐに頭を切り替えた。

「とりあえず、風邪ひかないように風呂追い炊きしてくる」

「うん、ありがとう……」

 だいぶ頭が重症な兄たちに振り回される弟であった。


 *


 やがて磨りガラスの向こうに人の影が動いた。

 ――ガラガラガラ。

「お邪魔しまー……」

 春樹は雨でびっしょりと濡れた姿で、家に入る寸前にピタリとその動きを止める。

 なぜなら目の前にはどういうわけか玄関で正座をしながら、一人では使いきれないほどのタオルを持った律がいたからだ。顔までタオルで埋まりそうである。しかも未だ乾いていない涙の跡がその頬にあった。

「えーっと、予想の斜め上を行く出迎えで言葉が出ないんだけど」

「春樹……、僕のせいで本当にごめん……」

 そう言いながら律は自分が持ってる大量のタオルの中から一枚取り出して、自分の涙をぬぐった。そしてそれを冷静にツッコむ春樹。

「あ、それ俺にじゃなくて自分で使う用?」

 そこに陸也がリビングから新聞紙を持って現れる。

「よう、春にい。早く入れよ、こっちまで寒いだろ」

「あぁ……。いや、予想外の光景が目の前にあるもんだからつい……。あらためて、お邪魔します」

 そう言いながら春樹は律を指さし、開け放たれたままの玄関の戸を閉めた。

「俺だって予想外すぎる状況に頭ついていかなかったっつーの。ほら、新聞紙床に敷くからこの上に立って。ほら兄貴も、いつまでも正座してないで立てよ」

「うん……」

 そうして靴を脱いだ春樹が新聞紙の上に立つと、目の前に立った律がタオルの山からまた新たに一枚取り出して、タオルの山をどうしようかとキョロキョロとした。

「あー、はいはい。俺が持つから」

「あ、ごめんね。ありがとう」

 するとタオルの山を春樹に持たせた律はタオルで春樹の髪を拭き始める。それを見た陸也は「客に物持たせるなよ」とその山を春樹から受け取って、しまいに行った。

「あのさ、律」

「なに?」

「髪拭くくらいなら俺も自分でできるけど……」

「ごめん、でもこれは僕にやらせてほしいんだ。これくらいしないと、申し訳ないから」

 わしゃわしゃとされてる間に春樹は目のやり場に少々困ったが、あえて律をじっと見つめてみる。律は春樹からしたら美形で、しかも自分の髪を拭いてくれているその一生懸命なところが思いのほか可愛かった。

「……律、可愛いな」

「え?」

 特に何を考えるわけでもなく春樹は律を抱きしめてみる。イメージとしてはテーマパークのキャラクターに抱き着くような感覚。

 さすがに律もドキッとしたのか両手をわたわたと動かした。

「あ、あの、春樹、顔近いよ!」

「うん」

 律からすれば春樹はかっこよくて憧れで、テーマパークのキャラクターになど感じられるはずがない。そんな人物に抱きしめられてるこの時間が信じられなかった。

「おいこら春にい」

 そこにリビングから戻ってきた陸也は冷めた目で抱き合う兄たちを見る。

「なに男二人して抱き合ってんだよ、ビックリしたじゃねーか」

 すると陸也を見ながら春樹は何度か律を強く抱きしめてみた。

「陸也、お前の兄貴って抱き心地いいんだな。こう……ちょうど身体にフィットするというか……」

「は、はははは春樹が近いっ……」

 そこでパニックになったのか律はわけもわからずガバッと春樹を抱きしめ返す。

「お、もっとフィットした」

 そう言いながらちょっと離れてる律の頭を春樹は片手で自分の胸元にピタリと引き寄せた。

「は、ぅ……」

 春樹、と言おうとした律だったが、その温かでたくましさを感じる体温に触れて言葉が溶ける。

 陸也は顔が赤くなっている兄を見て自分まで顔が赤くなりそうになっていた。

(おい、兄貴……! なにマジな顔になってんだよ、二人きりの時にやれよ、そういうのは!)

 純情な兄弟がどんどん顔を赤くしていくことに気づいていないのか、春樹は心地よさそうにため息をつく。

「はー、落ち着く……」

 そのまま数秒が経った後、沈黙を破ったのは陸也だった。

「と、とにかくだな! 風呂入れる状態だから春にいは風呂入ってこい! 風邪ひくだろ!」

「あ、風呂入ってもいいの? 助かるー。着替え持ってきて正解だった」

「わかったなら兄貴を離せ!」

 そう言いながら抱き合う春樹と律を引き離す。すると律は少し切なさをにじませた悲しそうな顔をした。

「あ……」

「『あ……』じゃねぇよ……。なんだか悪いことしたみたいじゃねーか……」

 ……やっぱり兄たちに振り回される弟だった。


 *


 律が自室で春樹を待っていると、部屋のドアを軽くノックする音が聞こえる。

「あ、はい。どうぞ」

 すると風呂上がりの春樹が二つのドライヤーを持って入ってきた。

「ドライヤー……?」

「あー、めちゃくちゃ濡れてそうだな」

 なんのことかと春樹の視線の先を目で追うと、自分の足元に置かれたスクールバッグのことだったらしい。

 ……そうだ、すっかり忘れていた。

 学校で春樹に背中の傷を見られたこと。

 他の人たちの笑顔に囲まれている春樹を見てしまったこと。

 そして自分はそんな春樹に「釣り合わない」と思って落ち込んだこと。

 そのことばかりが頭を埋め尽くし、傘を持っていることを忘れて土砂降りの中帰ってきたこと。

 さっきまでのぼろぼろの自分を、開けっぱなしたスクールバッグから覗く教科書が必死に伝えていた。

 ……なんだ、僕。春樹のことしか頭にないじゃないか。

 春樹は小さな声で「お邪魔します」と言って律の部屋に入ってきて、片方のドライヤーを渡す。

「えっと……」

 そう言いながら壁にあるコンセントを繋げる春樹につられるまま、ドライヤーをつけた。

 春樹は律の正面の床に座って、その鞄から教科書を取り出す。そして慎重に表紙をめくってドライヤーで乾かし始めた。あぁ、そういうことかと律は自分が持つドライヤーの意味に気づく。

 やがて春樹は口を開いた。

「こういうさ」

「ん?」

「こういう……例えば自分の教科書とかさ。自分の持ち物がびしょびしょになったり、ぼろぼろになったりしてるのを見ると、割と心が傷つくよな」

 そう言った春樹の言葉を聞いて、さっきまでの自分は確かにこの教科書を見てはさらに気分が落ち込んで泣いていたのを思い出す。

「ほら、手が動いてないぞー。律もやれよ」

「あ、うん。ごめん」

「これから一ページずつこれやるんだから気合入れていくぞ」

「い、一ページずつ!? いいよ、そんな頑張ってくれなくて……」

「何言ってんだ。これはさっきまでの律かもしれないんだぞ。たまには自分を労われよ」

 なんか哲学的なことを交えてきたなと律は思ったが、春樹がこうして自分を心配してくれているのは嬉しかった。

 なんだろう。春樹が僕の前に現れてから、ずっと僕は春樹のことで一喜一憂しているなと律は苦笑いをする。

 一喜一憂だけじゃない。すっかり脆くなった。

 どんなに広野からイジメを受けても何も感じなくなっていたのに、今は広野と春樹が笑っているところを見ただけで心が崩れそうになるし、広野を殺したいほど憎く思うようになってしまった。

 たった一日で、これなんだ。

 これから卒業するまでこんな日々が続いたら、僕はどうなってしまうのだろう。

「はい、次のページ。このペースなら『朝までコース』か。まだまだ夜は長いぞー」

「うん……、そうだね」

「なに、どうした?」

「え?」

 春樹の言葉の意味がわからずにいると、春樹に腕を引かれて立ち上がるように促される。

 そうしてわけもわからず立ち上がった律の目元をするりと春樹の親指が撫でていった。

「また泣いてる」

 そう告げられ、また抱きしめられる。

 あぁ、これは、ヤバい。

 律はぎゅっと春樹にすがるように抱きしめ返す。

 涙や、赤くなった顔を隠すのに精一杯だ。


 ――……これからこんな日々が続いていくとして。

 卒業した後、僕はどうなってしまうのだろう。

 僕と春樹はきっと別々の道を歩む。

 その時、僕は春樹がいない場所でちゃんと生きていけるのだろうか。


 ふと、春樹が少し体を離す。

 物足りなさに律が顔を上げると、心配そうな表情の春樹がこちらを見つめていた。

「……大丈夫か? もしかして放課後何かあったのか?」

「え……?」

 春樹は言いづらそうに頭を掻いている。

「いや、今日の体育とか色々あったから」

 あぁ、広野のことか。

 そう感づいた律は作り笑いを浮かべた。

「ううん、広野とは放課後何もなかったよ。それより体育の時、ほんと春樹はかっこよかったな。あの広野と連携してる人なんて見たことなかったしね。それに広野にボール当てられた時も……」

 その瞬間。

「んっ……!?」

 突然のことで、何が起きているのか律は一瞬わからなかった。

 目のピントが合わないほど近づいた春樹の顔と、唇で感じるその体温、両肩を掴んでくる力強い手。

 まるで、時が止まったかのようだった。

 数秒そのまま二人は動かず、唇が離れたときに初めて律は今のがキスだったことに気づく。

「え……っと、え?」

 律が自分の唇をそっと人差し指でなぞった。

 手が震える。恐れや怖さでは、ない。

 心臓が、頭の中が、死んでしまうのではないかというほどすごく脈動していた。

 なんだろう、だめだ。春樹を正面から見れない。でも、どんな顔をしているのか気になる。

 律は羽織っている長袖の服の袖で口元を隠しながら、そっと春樹を見つめた。

 すると、意外なことに基本たいして何にも動じない春樹が、驚いた顔をして固まっている。

 そして律に見つめられたのに気づいたのか、春樹は目線を斜め下へと落とした。

「……悪かった。律の口から他の男の名前聞きたくなかったっていうか……いや、いくら律でも他のやつの名前くらい出すよな……。……俺、どうかしてるみたいだ。一発、陸也に殴ってきてもらう」

 そう言って踵を返して部屋を出ていこうとする春樹を見て、律は衝動的に手を伸ばしていた。

「あ……待って、春樹!」

 その必死さに春樹が目を見開く。

「律……。嫌じゃ、ないの?」

 ストレートに聞いてくるその問いかけに、律は目を合わせられないままうなずいた。

 そのまま春樹の腕を引っ張ってベッドに腰掛けさせ、隣に律が座って。

 何も言えずにそっと甘えるように頭を春樹の肩に預けた。

 ……これだけで、自分の想いが春樹に伝わればいいのに。

 そんな叶わない願いを律は抱いていた。


 ――よく、『初恋は実らない』と聞く。

 誰が最初に言ったのかはわからない。

 そしてもしそれが神様のいたずらのせいであるならば。


 ……神様、どうか僕たちのことを見つけないで。


 *


 ……春樹はまだ動揺していた。


 律の頭が自分の肩にあって、さらりとした髪が首元に微かに当たっている。

 いや、そんなことよりも自分はとんでもないことをしたんじゃないだろうか。

 なんで『親友』にキスなんてした?

 ……それは律の口から広野の名前が出るのが嫌だったからだ。

 でもだからって、止め方なんて他にもたくさんあっただろう……!

「……春樹?」

 律の言葉にハッとした春樹はその顔を見つめる。

 その表情は不安げで、でも少しの期待のようなものも含まれているのがわずかに赤くなっている顔からわかった。

 そして春樹は直感的に勘づく。

 律から他の男の名前を聞きたくなかったのは確かだ。でもそれだけでなく、――――誰かに律を奪われるのが心の底から許せなかった。

 それは覚えてはいけない独占欲。

 律から感じる自分への柔らかな愛情と、自分の中に秘められていた獰猛な感情に未だ戸惑う自分。

 このまま本能に流されてはいけないとわかっている。

 わかっているんだ。

 それなのに。

「……律」

 春樹は自分の腕に絡まれていた律の腕を優しくほどき、そっとベッドに押し倒す。

「はる、き……」

 律の声が震え、連動するように胸元に添えた手も小刻みに震えだした。

 春樹はその手をしっかりと握り返し、律の上へと体を乗り出す。

 律の手の震えが止まったのを感じた春樹の片手はそのまま律の顔の輪郭をなぞり、首元にするりと落ちて。

「んっ……」

 聞いたことのない律の甘い声と、恍惚としたその表情に春樹は深みへと溺れていく。


 その時。


「兄貴と春にい、まだ起きてるかー?」

 部屋の向こうから何も知らない陸也の声が聞こえた瞬間、二人は脳の奥が凍ったように一度ピタリと動きを止めて。

 すぐさま春樹は体を起こし、律は乱れかけた服を急いで直しながらベッドに座り直した。

「お、起きてるよ! どうしたの?」

 律の声が少し裏返る。

 あぁ、どうか陸也に気づかれませんように。

 そう思ってか、律は無意識に服の胸元を握りしめていた。

 ドアの向こうからは声のトーンを変えない陸也が言葉を返す。

「いや、どうってこともないけど。俺そろそろ寝るから。おやすみ」

「う、うん! おやすみ!」

 律の言葉を聞いて春樹はフッと笑いながら、

「おやすみー」

 とドアの向こうへと同じく言葉を返した。

 しばらく二人は黙って耳をすましていると、パタンと隣の部屋のドアが閉まる音が聞こえる。

 ……と、同時に二人はため息をついた。

「焦ったー」

 春樹はいつもの調子に戻ってそう一言を発すると、律はさっきよりも赤くなった顔で春樹を悔しそうに睨んだ。

「ちょっと……なんでさっき笑ったの」

 その言葉を聞いて、春樹は思い出し笑いをする。

「律が、嘘ついて平然としたフリするのが下手だから」

「なっ……!」

 春樹の言葉に律は目を見開いて反論しようとするがその言葉が出てこなかったようで、口をはくはくと動かした。

 ……その様子も、可愛い。

 春樹は律の表情を見て先ほどの緊張感も戸惑いも薄れ、ベッドから立ち上がる。

「よし。教科書乾かすの、一気にやってくか」

 そう言って再び床に腰を下ろした。

 律は春樹の一連の動きを目で追いつつ、何か言いかけたが言葉を飲み込んで作り笑いを浮かべる。

「そ、そうだね……」


 ……こんなこと、言えるわけがない。


『さっきの続き、しないの?』だなんて。


 *


 いつの間にか雨は止み、綺麗な満月が海を照らしていた。

「あー、やっと終わった!」

 途中から半ば適当になり始めていたが、なんとか律の持ち物の大半は乾かすことができた。

 春樹はふやけたようになった教科書をつまみながら、「アイロンでやった方が綺麗にのびたかな」と言い出すため、「いいよ、これで十分」と律は笑う。

 二人して隣の部屋の陸也を起こさないようにとくすくす笑い、律は部屋の電気を消した。

 角部屋である律の部屋は窓が二つ付いており、カーテンを開けっぱなしにしているからか月明かりが部屋の中を照らして物を見ることにまったく不自由することがなかった。

 その窓から、今まで特に気にしていなかった海のさざ波の音が優しく聞こえる。

 ふと春樹が真面目な口調になった。

「律」

「なに?」

 律は特に何を考えることもなく春樹の言葉を待っていると、春樹は言いづらそうな表情で頭を掻く。

「あのさ……律にとって俺って、安心できる存在?」

 律はその問いにキョトンとして、不思議そうに思いつつ笑いながら敷布団を出そうと押し入れの方に向かう。

「もちろんだよ。突然どうし……」

 そこまで言葉が発せられたとき、優しくドンと押し入れの扉を押さえるように背後から春樹の腕が伸びた。

 ドクッ……と律の中で再び心臓が跳ねる。

 背後にいた春樹は後ろから律を抱きしめた。

 春樹の呼吸が左耳あたりの髪にあたる。

「その……さ、……一緒に寝ませんか」

 その言葉を聞くなり、律は後ろを振り向くことができなくなった。

 こんな赤く火照った顔なんて見せられない。

 そもそも、どんな顔をして春樹を見ればいい……?

 その答えが出てこなくて、でも春樹の問いには答えたくて、律はそのままの状態で緊張しているようにうなずいた。

 しかしうなずいたものの律のなかでは様々な憶測が飛び交う。


『一緒に寝る』ってどういう意味?

 もしかしてさっきの続きみたいになって、ゆくゆくは……?


 律は、我ながらひどい妄想だと思い、ぶんぶんと首を横に振って妄想を退けた。

 その様子を見ていた春樹は「あぁ、いや。本当に寝るだけだから」と本人としては安心させる言葉を紡いだつもりだが、律はそれを聞いて「それってだからどういう意味……!?」と言葉に出さずともさらに混乱する。

 春樹はそんな律の心中を察して微笑ましく笑い。

「だーいじょぶだから。律を抱きしめるだけ。他は何もしない」

 そう言って律の手を引いてベッドへと向かった。

 律は手を引かれながら月光を受けて逆光になっている春樹をまぶしそうに見つめる。

 ……でも思うのは、よこしまなこと。


 どうしてを、してくれないの……?


 *


 まるで自分のもののように春樹は律のベッドの掛け布団をめくりあげ、その中に入り込んでから律の手をそっと引いて律も布団に引き入れる。

 律はドキドキとしながら狭いシングルベッドの中で春樹の横に寝転がると、春樹に抱きしめられた。

 だいぶ前に春樹は律を抱きしめながら「フィットする」と言っていたがその通りで、まるでパズルのピースが埋まるように……そして元から互いがひとつのものであるかのように重なりあう。

 そのことに律は安心感を覚え、キュッと春樹を抱きしめた。

 春樹も心地よく呼吸をし、「海の音が心地いいな。律にも癒されるし……」とそこまで言って、何も言わなくなった。

 律も、「春樹、ありがとう」と呟いて幸せな気持ちのまま眠りに入る。


 ……午前三時。

 二人分の寝息と月明かりが部屋を満たしていた。

 そして短くなってしまった夜が、明けていく。


 *


 早朝。

 この家の誰よりも早く起きたのは意外にも春樹だった。

 自分の隣を見ると、綺麗な寝顔の律がいる。

「やっぱり美形だよな……」

 律をまじまじと見つめてそうつぶやくと、

「ん……」

 と言いながら律が幸せそうな表情をして寝返りを打った。

「やば……」

 春樹は微かに発せられた律の声を官能的に……いや、端的に言えばエロく受け取ってしまう。

 すると連鎖的に昨日のキスまで思い起こされて、改めて自分の行動と思考に頭を押さえた。

 ……どうしようもできない、男子高校生のさがである。

 でもまぁ、いつまで考えていてもしょうがない。


「……陸也、起きてるかな」

 春樹は律を起こさないようにベッドから立ち上がり、ソッと掛布団をかけ直してやる。そして見収めるように律の表情を見て微笑んだ。

 次に自分の持ってきた鞄に丁寧に入れてきた制服に着替えて部屋を出ていく。

 リビングにでも行けば陸也がいるだろうか。

 律の部屋を出てすぐにある階段を降りてリビングに向かう。……が、まだ誰もいなかった。

「俺が一番乗り、ねぇ……」

 春樹は「うーん」と思考を巡らせた結果。

「朝食でも勝手に作るか」

 なにせ、春樹は自由人である。多少の常識があるとはいえこういう所があり、人の家の冷蔵庫を勝手に開けて再び思考を巡らせる。

「これとこれとこれがあるから……これが作れるか」

 なにやら自分にしか分からない言葉をぶつぶつと呟き、朝食作りに取り掛かった。

 そして一番最初に作ったのは……律と陸也の母の分だった。

 春樹は覚悟を決めて朝食をトレイに乗せ、閉まり切った和室の部屋の前まで向かう。

 寝てたら困るかと思って小さく横開き式の扉を二回叩いた。

「おはようございます。この前もお邪魔していた西山春樹です」

 次の言葉を話そうとすると、扉の内側から物音がする。

 そして、この家の兄弟を恐れさせるあの声がした。

「……また、あなたなの?」

 しかし、不機嫌な要素は声に含まれていない。どちらかと言えば呆れに近いだろう。

 春樹は会話ができたことにホッとして、頭を掻きながら話を続ける。

「まぁ……はい。度々すみません」

 すると部屋の中から声が近づいてくる。

「……用件はなに?」

「朝食を作りました。口に合うかはわかりませんが、温かいうちに食べてもらいたくて」

 その春樹の言葉のあと、突然扉が開いた。

「この突然来る感じが怖いんだよなー……」と春樹は真っ先に思ったが、もちろん口にはしない。

 彼女はひどく憔悴しているような表情だったが、近くで見ると化粧をしていなくても美しい顔立ちをしていることが間近で見てわかった。

「……あなたが作ったの?」

「はい。一口だけでも、食べてみてください」

 そうして箸を渡すと、煮物をそっとした手つきで食べる。

「どうですか?」

「……おいしい」

「それならこの食事、どうぞ食べてください」

 春樹はそう言って食事が乗ったトレイを彼女に手渡した。

 彼女はやはりリビングで食事をすることはなく、自分の部屋へと戻って扉を閉め始めるが、

「……ありがとう」

 微かに聞こえた、声。

 リビングに残された春樹を前向きにさせてくれる、朝の光が静かに部屋を包んでいた。


 *


「春樹っ!」


 春樹が自分や律、陸也の分の食事を作っていると律が慌てた様子でリビングに駆け込んできた。制服を着ているものの、ネクタイがしめられていないし、ボタンもきっちり留められてない。

 おそらく春樹と母が偶然会うかもしれないという一体どうなるかわからない事態を想像して、ここに駆け込んできたと思われる。

「えっと……朝ごはん、作ってくれてるの……?」

「ん、ごめん。冷蔵庫の中身、勝手に拝借した」

「それはいいんだけど、その……」

「あぁ、律の母さんの分も作って渡しといた。これとは別メニュー」

「へっ!?」

 想定外の出来事に驚愕する律に、春樹はフライパンで炒め物をしながらのんびりと笑った。

「……大丈夫。律からしたら怖いかもしれないけど、同じ人間なことに変わりはないから」

 その言葉を聞いて律は若干取り乱していた自分が可笑しく思えて、微笑む。


 ……そうだった。春樹は、すごい人なんだ。

 すっかりそのことを忘れていた。


「そっか、ありがとう。料理、僕も何か」

『手伝うよ』

 と律が言いかけた瞬間。

「……ッ」

 包丁を扱っていた春樹が息を詰めた。

 指を切ったらしく、鮮やかな血がわずかに春樹の左手の人差し指をじんわりと染めていく。

 春樹はのんびりと自分の手を見て、「あー、切っちゃったか」と言っていると、その瞬間。

「あ……、はぁっ……は……!」

 律のおかしな呼吸音が聞こえた。

 見れば、律が首から胸元までを押さえて、目を見開きながら苦しそうに呼吸をしている。


 その時春樹は一瞬で理解した。

 いつも陸也が料理を作って、その洗い物さえしない律。

 少しキッチンから遠いダイニングテーブルからそんな陸也を優しく見守っている律。

 そしてそういった自分諸々が『情けない』と泣きそうな声で言った律。


 その理由は『包丁』だ。

 そしてすべての元凶は……母親にナイフでつけられた、背中の傷。


 春樹は軽く自分の指の血を吸い、律のもとへ向かう。

「あー、よしよし。大丈夫。大丈夫だから」

 そう言いながら律を近くのソファまで背中を押して誘導し、律を座らせてからその頭を包み込むように優しく抱きしめた。

「ごめんな、嫌なこと思い出させて。でももう大丈夫だから。な?」

 律はその言葉を聞きながら春樹の胸の中で呼吸を整えていく。やがて、きつくすがりつくように掴んでいた春樹の制服の裾から指をゆっくりほどいていった。

 その感触と静かになった呼吸音に、「もう大丈夫かな」と体を離そうとすると律は「行かないで」と言いたげに春樹の片腕を少し強めに引く。

「わっ」

 春樹は律とともにソファの上に倒れこんだ。

 すると横向きに寝転がった律の目の前に再び血のにじむ春樹の指がたまたま置かれ、春樹が「ヤバい」と思った瞬間。

 律は春樹の左手を両手で包み込み、少し震えた赤い舌をちろりと出して春樹の傷口を一度舐め、春樹を誘惑するような流し目で見つめつつ……まるでキスでもするかのように指先の傷口の血を「ちゅ」と吸い取った。

「……!」

 春樹はその様子に息をのむ。

 まるで今ほどかれたようなネクタイ、乱れた制服のシャツ、きちんとしめられていないボタンの所から見える白い素肌、鎖骨、首筋。

 そして何より自分の指先を舐めてキスするその動き、律の中の上品さとそこから覗き見える『欲』の姿。

 なんだか律が春樹の所有物であるかのようにさえ錯覚する。

 ……いや、所有したい。

 春樹は律の誘惑に負け、指で律のあごをくいっと持ち上げて、上から逃げないように覆いかぶさってキスを落とした。


 *


 キスの味は、少し血の味がした。


 春樹は煽情せんじょう的な律の動きや姿に取り込まれようとしている。

 もはやそこに『親友』という肩書きはなかった。

 ただひたすら、自分の中からあふれ出る本能的な欲に流されそうになっている。そしてそれは固く閉じていたはずの春樹の口から漏れ出した。

「……律を、俺のものにしたい」

 自分が何を言っているのか、わからない。

 しかし気だるげに体を起こし、シャツから覗いていた肩口をどこか色気のある仕草で隠した律は妖艶に笑って春樹を見つめた。

「いいよ。春樹が僕を見つめていてくれるなら」

 その目を見て春樹は思う。


 ――――あぁ、溺れていく。


 *


「やべぇ、寝過ごした!」


 そう言いながら陸也がさっきの律以上の慌てようでリビングに入ってきた。

 しかしキッチンに立つ春樹とダイニングテーブルに腰を下ろす律はその様子を見て面白そうに笑う。

 律は、二人の様子を見てポカンとする陸也に声をかけた。

「大丈夫だよ、陸也。春樹が朝ごはん作っててくれたんだ」

「は?」

 陸也の目が春樹を捕らえ、そしてその左手の指元に貼られた絆創膏を見て、さらにその脇に置かれた包丁を見て、また春樹の指元に目が戻る。

 途端に急いで春樹に駆け寄り、律に聞こえないほどの小声で指の絆創膏について問おうと口を開いた。

「え、おい……」

 しかし春樹は真顔のままグッと親指を立てる。

「大丈夫。なんとかなった」

「『なんとかなった』って、兄貴はその傷見たんだろ……!?」

「うん。でも大丈夫、落ち着かせたから」

「まじかよ……」

 陸也はそれとなく律を見れば、律は動揺していた気配も見せず、静かにリビングの大きな窓から見える朝の海を見つめていた。

 そこで陸也はハッとして春樹に向き直る。

「そうだ、母さん……! 俺、母さんの分の朝食作らないと……!」

 しかし春樹は慌てる素振りもなくウィンナーを焼きながら、

「それも大丈夫。このメニューとは違うちょっと手の込んだ別メニューを渡しといたから」

「へっ!?」

 ……律とまったく変わらない驚き方をする陸也を微笑ましく思いながら笑った。

「陸也はさー」

「なんだよ」

「しょうがないこととは言え、毎日気を遣いすぎてるんだと思う。律のことと、母さんのこと。自分のことでさえ悩む時期なのにさ」

「……」

「だから」

 黙り込む陸也を春樹はまっすぐに見つめる。

「俺がいるときは、休んでていいよ。律のことも母さんのことも、たぶんなんとかできる。なんなら陸也のことで相談も乗る。……もっと俺を頼れよ」

「……!」

 いつもより真面目でたくましく、頼り甲斐のある春樹の言葉に陸也は希望が差したように瞳を揺らし、目を見開いて聞いていた。

 その様子を見てから春樹は再び手元のフライパンの方を見て朝食づくりを進め、のんびりと付け加える。

「まぁ、親しくなって間もない他人なんだけどなー」

 陸也はいつもの口調に戻った春樹を数秒ぼーっと眺めた後、我に返ったのか少し目線をそらして「……ありがと」と嬉しさをにじませながら呟いたのだった。


 *


「……うん、すごくおいしい!」

 朝食を食べ始めてすぐ、そんな律の言葉に春樹は「いやいや」と首を横に振る。

「これ、ただ焼いたり切ったりしただけだから。俺らの分は手抜きしてるし、どうせなら腕によりをかけた料理で言ってほしい」

 春樹の言葉に律はまったりといつものように優しく笑った。

「きっとそれも美味しいよね」

 陸也は「ぐぬぬ……」とポトフのスープを飲みながら悔しそうに口を開く。

「俺よりも品数が多い……! くそ……」

「こら。そんなことで張り合わなくていいんだよ? 陸也の作ったご飯も美味しいんだし、僕は感謝してるよ」

 律がなだめるが、陸也は未だ悔しそうにしていた。

「おい、料理も作れて勉強もできて……春にいは一体なにが出来ないんだよ! ってか、母さんにどうやって朝食渡したんだよ、一体何作ったんだよ!」

 その言葉に春樹は平然とした顔のまま一瞬固まり、

「……質問が支離滅裂」

「答えろー!!」

 悔しそうな陸也の叫びがむなしく轟く。


 *


 にぎやかで楽しかった遠野家での生活が終わり、春樹と律は学校へ続く長い坂を上っていた。

「さすがに寝不足かも……」

 若干げっそりしている春樹の隣を歩きながら律は申し訳なさそうに笑う。

「色々とありがとね、春樹。楽しかったし、……嬉しかった」

「……おう」

 すると「おーい!」と聞きなれた声が後ろから聞こえた。

 二人は振り返る。

「あれ」

「生田くんだ」

 少し後方から嬉しそうに手を振って生田が坂を駆けあがってきた。

「おはよう、生田くん」

「おはよー……」

「おはよう、遠野くんに西山くん! ……って、西山くんなんかやけに荷物多くない?」

「あー、律の所に泊まってたから。要するに、朝帰り」

 そう言いながら眠そうな目を擦りつつとぼとぼと歩く春樹と、「ん?」となって足を止めた律と生田。

 そして数秒後。


「あっ……朝帰りぃぃーーー!?」


 大音量で叫ぶ生田と、

「ち、ちがっ……いや、違わないんだけど、違うっていうか、一緒に寝ただけっていうか……あ、えっと、んーとそうでもなくて」

 それを抑えようとして、

「『一緒に寝た』!?」

 かえって墓穴を掘って生田に問い詰められる律。

 騒がしくなった後方を春樹は苦い表情で振り返る。

「あー……ちょっといい? もう学校近くなもんだから色んなヤツらから変な噂たてられてんだけど……」

「春樹のせいでしょ!」

「一緒に寝たってどういうこと!?」


 ……今日もまた、楽しい一日になりそうである。


 ***


「隣のクラスの遠野と西山、一緒に寝たんだってよ」


 そんな噂で持ち切りのクラスの中、春樹は未だ眠そうに次の授業の予習をしている。

 いくら周りがその噂で爆笑していても、その声は届いていないようだ。

 そこにクラスの男子数人が春樹のもとへ集まった。

「え、西山さぁ本当に遠野と寝たの?」

 男子たちの顔は好奇心と欲しい答えを乞う期待の笑みでにんまりとしている。

 春樹はその方を見向きもせず、眠そうに目頭を押さえながら面倒そうに「んー、そうそう」と答えた。

「ははははっ! マジかよー!」

 期待通りの答えが春樹本人から返ってきたことで男子たちのテンションは一層高くなる。

 目の前の席の生田はその様子を困り顔で見て、こそこそっと春樹に告げた。

「さっきは騒いでごめんね。だけど適当に答えすぎだよ……」

「んー……」

「西山くん、起きて~……」

 生田の困りながら脱力した声が細々と紡がれる。

 そんな時。

「ちょ、ちょっと春樹……!」

 春樹はその声だけを確実に聞き取り、目をきちんと開いた。

「お、噂をすれば!」

「例のやつがやってきたぞー!」

 おだてる男子たちを相手にせず、春樹はクラスの入口で慌てた様子の律のもとへ向かう。

 そうしてその肩に手を回しながら教室を後にすると、一層騒がしい歓声が上がった。

「お幸せに~!」

 ……そんな声が、聞こえた気がする。


 *


 廊下に出た二人は教室を離れてすぐに向き合った。

「ちょっと春樹、あの噂にいったいどんな説明してるの……!?」

 そんな律は恥ずかしさで顔を真っ赤にしていて、春樹は慌てることも悪びれた様子もなく単純に「こういう律も可愛いな」と一人で感心していた。

「そういう律は、どんな説明してるの?」

「僕は……その、『同じ部屋で寝ただけだよ』って……」

「あー、なるほど」

「で、春樹は一体なんて話してるの……!? 確かに口滑っちゃったのは僕のせいだけど、僕のクラスでは別の説まで出てきて大変なんだから!」

「“別の説”ねぇ……」

 そう言いながらあくびをする春樹に律は何か言いたげな表情をしながらさらに詰め寄ると、春樹は眠気の混じった余裕ある笑みを見せる。

「それって、『遠野と西山が一緒のベッドで寝た』とか『二人はデキてる』とか?」

 その言葉を聞いて律の顔がより真っ赤に染まった。図星だ。

「……そうだけど」

「俺は『付き合ってる』とは言ってないよ。ただ周りが『一緒に寝たのか?』って聞くから、同意してるだけ」

 その言葉に律はため息をつきながらガックリと肩を落とす。

「それが問題なんだよ……」

 その様子を見た春樹は宙を見て「んー……」と何か考えた後、まっすぐに律を見据えた。

「でもさ」

「?」

「確かに最初は俺もその噂に迷惑してたんだけど、途中からそれでもいいかなって思って」

「どういうこと……?」

 まったく意味がわからず首をかしげるそんな律の耳元に、春樹は口を寄せて低く囁く。

「律は俺のもの、だから」

「!!」

 その瞬間、律は耳元に触れる春樹の吐息と言葉の意味の両方でビクッと少し飛び上がり、これ以上ないほどに顔を赤くして片耳を押さえた。

 春樹はその様子を見て怪しく微笑み、言葉を続ける。

「これで律に悪い虫がつかなくて済むだろ」

 律が思うに、春樹は普段のんびりしているけれど眠気が混じった途端に色気を放つ男らしい。現に律は言葉の意味にも、そして春樹のその気だるげな笑みにも見惚れて心臓が早鐘を打ち始めた。

 その時廊下を一人のお調子者な男子が走ってきて、

「よっ、おしどり夫婦!」

 と声をかけるものだから春樹が律を軽く引き寄せて、いつものフラットな口調で答えた。

「そうだよ。夫婦の会話の邪魔しないでもらえる?」

 その言葉に「!?」と律が目と鼻の先にある春樹の顔を見上げる。

 するとお調子者の男子は嬉しそうに、

「くーっ、熱いねぇ! お幸せにー!」と走ってトイレへと消えた。

 それを見て、ふ、と笑った春樹は再び律に微笑みかける。

「ね?」

 律はその顔を見て何も言わずに照れながら顔をそらした。

 春樹の言葉はもっともで、律にとってみても同じだ。この噂のお陰で春樹にも悪い虫がつかない。すっかり人気者になった春樹の周りには、当たり前のようにその存在を気になり始めている女子の影が存在している。でもこの噂が自然と消えるまでは春樹に近づく子はいない……かもしれないのだ。

 律がそんなことを考えていると春樹は首をかしげる。

「ところでさ」

「なに?」

「『夫婦』って言われたけど……どっちが妻だろう」

「そこはどうでもいいから!」


 さすがの律も、ツッコまずにはいられなかったようだ。


 *


 春樹と律の噂は根強く語り継がれ、昼食の時間になってもそれは続いていた。

「こんなに続かなくてもいいのになー」と春樹は遠野家から持ってきた麦茶を水筒で飲んでいたが、その噂を鬱陶しく聞く人物がもう一人。

 ……広野だ。

 広野は機嫌が悪そうに舌打ちをひとつして立ち上がり、窓側にある自分の席から春樹の席の方へ向かって。

「おい」

 かけられた声に春樹が振り返る。同時に春樹の方を見ていた生田は「ひっ」と呼吸を止めた。

「広野。どうした?」

 やはり春樹はいつもの口調。

 さすがに広野は春樹の反応に慣れたのか威嚇が効かないことには触れず、廊下へと歩きながら言葉を続けた。

「……もう昼休みだろ。バスケやるから外にお前も来い」

 そしてそのまま教室を出ていく。

 春樹はその方をぼーっと見つめてぽつりと言った。

「あー……俺に拒否権はないの?」

 すると広野が遠くに行ったのを見計らって生田が机に身を乗り出してくる。

「なに呑気なこと言ってんの! あれはきっとガラの悪いやつらを集めて待ち構えてるに違いないよ、ボコボコにされちゃう!」

「いや、だってバスケだって言ってたし……」

「もうちょっと危機感持とうよ、西山くん~」

 そのままと芯が曲がったように生田は春樹の机に倒れこむが、春樹は広野が去った廊下の方を見ていた。

「俺には、広野が嘘ついてるようには見えなかったんだけどな」


 *


 春樹が校舎の外にあるらしいバスケットコートを探していると、校舎の渡り廊下の下の空間にひとつのバスケットゴールが置かれている場所を見つけた。

 よく見るとバスケットボールを持った広野が一人、校舎に背を預けて座っている。

「おまたせ」

「来たか。お前もビビッて来ないかと思ってた」

 そう吐き捨てるように言って苦笑する広野を見て、春樹はなんとなく広野が今まで仲良くしたいヤツをバスケに誘っても実際来てくれる人間がいなかったのではと察した。

 もしかしたら広野は孤独を抱えているのかもしれない。

 そう思った春樹は広野の隣に座った。

「ちゃんと来たよ。広野が嘘ついてるように見えなかったから」

「そーかよ」

 広野はどこか嬉しそうだ。

 そして数分、お互い何も言わずそよそよと草花が揺れる音と風を感じていた。

「お前さ」

 切り出したのは広野だ。

「なに?」

「遠野との噂、どこまでほんとなんだよ」

「あー、あれねー……」

 ふと、春樹の中に律の顔が浮かんだ。きっと広野に本当のことを告げるのはよくないだろう。

 だから。

 春樹は広野が片手でもてあそんでいたボールを持って立ち上がる。

「俺から一点取ったら教えてやる。それでどう?」

 すると、一瞬目を見開いて口をポカンと開けた広野は闘志を徐々にその目に宿らせ、にやりと好戦的に笑った。

「面白いじゃねーか。いいぜ」

 そのまま二人は勢いよく踏み込んだ足音を境にドリブルをしながらボールを奪い合う。まるで子どもに返ったようだった。否、まだ大人にもなりきれていないのだが。

 春樹と広野は接戦で、二人の汗を日差しが輝かせる。

 そして。

「ッしゃあ!!」

 しばらくの攻防の後、そんな雄叫びをあげたのは広野だった。

 トントントン……とゴールを抜けた後の力なく跳ねるボールの音が残る。

 春樹はふぅ、と一息吐いて頭を軽く掻いた。

「あーあ、俺の負け」

 そのまま二人は元に座ってた場所に戻る。

「で、なんだ。あの噂は本当か?」

 春樹はまるで呼吸でもするかのように自然体で嘘をついた。

「別に面白くもなんともない話だよ。律の家に行って泊まっただけ」

 すると広野はどういうわけか険しい顔つきになる。

「……それだけか」

「うん。なに、なんかあった?」

「あそこには、あのババアがいるだろ」

 ……反射的に、律の母のことだとわかった。

「あぁ、律の母さんね」

「本当に何もなかったのか」

「なかったけど」

 互いに何かを探り合うような会話を淡々と続ける。

 だが、そこでタイミングが悪いのか学校のチャイムが鳴った。

「あ、チャイムだ。広野、教室戻ろう」

 春樹が立ち上がると、広野は軽く手を横に一度振る。

「……いい。サボる」

「あぁ、そう」

 そうして二人はばらばらの方向へ足を踏み出した。

 春樹は教室の方へ向かおうと校舎の角を曲がると誰かにぶつかる。

「わっ」

「あ」

 そこには、カメラと自在ぼうきを両手に持って構えた生田がいた。

「生田。……何してるの?」

 率直に春樹が思った疑問を口にすると、生田は少し震えながらぎゅっと自在ぼうきを握りしめる。

「ぼ、僕は部長なんだから、部員に何かあったら困ると思って……!」

 そうか、助けに来てくれたのか。

 そう思った春樹は軽く笑って生田の背を押した。

「大丈夫だよ、何もなかった。……ありがとう、部長」

「ううん。何もなかったならいいんだ、僕は」

 そして自分たちの後についてこない広野の存在に気づいた生田はふと足を止める。

 その時、広野のとある一言を聞いた。


 *


 サボると言ってその場に残った広野はしばらく黙って突っ立っていたが、何かの拍子に校舎の壁を思いっきり蹴り上げた。

 そんな広野の表情は悔しさとも怒りともつかない表情で。

「くそ……なんで遠野なんかと一緒にいるんだ」

 一人、むなしく言葉が宙に消える。


 ***


「それはまさしく三角関係ね」


 そう女子に言い切られたのは掃除の時間。

 ショートヘアーの女子は教壇の上で仁王立ちをしている。そしてその横で、「三次元は取り扱い注意なんだからやめなよ~!」といかにも漫画が好きそうなおさげで眼鏡をした女子が止めにかかっていた。

 生田がその様子を苦笑いしている横で春樹はモップの柄に体重を預けながら「ほう」と興味深げにうなずく。その様子を見たおさげの女子は「えっ!?」と困惑と期待が入り混じった反応を見せた。

「ちょっとその説、詳しく俺に聞かせて」

 そう言いながら春樹はモップを生田に預けて教壇の上にあがった。ショートヘアーの女子はうんうんとうなずいて得意げにチョークを使って黒板に関係図を描く。

 そしてあっという間に春樹らしい似顔絵と、同じように律、広野が描かれた。

「……上手いな」

「ありがと。じゃ、説明始めるわよ」

「うん」

 そしてその関係図に矢印が足されていく。

「まず、西山は遠野と仲がすごく良い」

「そうだな」

「けど……生田、西山が広野とバスケやったのはこの前の体育?」

「えっ! ……あ、うん。そうだね、息ピッタリだった」

「……ということは、西山と広野はここで友人のような関係ということになる。遠野ほどではなくてもね」

「あー、そうなるか」

 そこでショートヘアーの女子は人差し指を立てて真面目な顔つきになった。

「でも次が問題なのよ。……遠野も広野も、あんたが来るまで孤独だった」

 その言葉を聞いた瞬間、春樹は昼休みの広野の姿を思い出す。この女子は洞察力が高いのかもしれない。

「だから私ね、思うのよ。遠野も広野も、あんたが欲しいんじゃないかって」

「広野も?」

「そうよ。だって生田がさっきあんたに言ってたじゃない。『なんで遠野なんかと一緒にいるんだ』って言ってたって。それはあんたに一目置いてるからよ」

 そこで関係図にピンクのチョークで律から春樹に、そして広野からも春樹へと矢印が引かれる。

「ついでに言うと、遠野と広野はお互いのことを良く思ってない。ここの関係はギクシャクしている」

 女子は今度は青いチョークでギザギザの矢印を律と広野の間に引いた。

「ね? これは三角関係になるでしょ。さっきも似たこと言ったけど、結局は遠野と広野があんたを取り合おうとしてるってことね」

「なるほど。……写真撮っておこう」

 そう言ってすかさず春樹がスマホでその関係図を撮るものだから、生田とおさげの女子は「あ、撮るんだ」と声をそろえる。

 関係図を見ながら腕を組んだショートヘアーの女子は、広野と律の似顔絵を交互に見た。

「これは……いつかよくないことが起こるかもね……」

「というと?」

 その問いに、女子は凛とした目で春樹を見据える。

「――修羅場よ」


 *


 春樹は先ほどの女子の言葉を思い出しながら、律を思い浮かべていた。


 ……律に会いたい。


 雨が降ればいい。

 そうすれば部活は無くなって、律の待つ図書室に行ける。

 その時。

 ポツリと雨が窓を叩く音。

 春樹は目を少し見開いて自分がよりかかっていた窓辺から背を離して振り返れば、いつの間にか現れた大きな灰色の雲たちが青空を押しのけていた。

 そこにバタバタと生田が教室に駆け込んでくる。

「おまたせ、西山くん! 部活行こっか!」

 しかし春樹は首を横に振った。

「残念だったな、部長」

「え?」

 キョトンとする生田に春樹は少し微笑みながら窓の外を軽く指さす。

「雨、降ってきた」


 *


 ――――パタン。


 律は図書室の扉が閉まる音で目線を本から上へとあげた。

 そこには朝見たようにいつもより多くの荷物を持った春樹がいる。

 律は背後を振り返るといつの間にか外は曇り空で覆われていた。同時に、春樹の部活が無くなったことを察する。

 そして顔を正面に戻しながら微笑み、

「もう、今日はあの噂で本当に大変だっ……」

『た』と言おうとしながら春樹を見たとき。


 ……それは、刹那の瞬間。


 顔に手を添えられ、まるで風が過ぎたかのように唇を奪われる。

 二人の顔が離れていくとき、春樹はなぜか少し切なげな表情で、

「……会いたかった」

 と一言。

 でもそのたった一言で、律の頭の中の言葉はすべて霧がかかったかのように消失する。

 律は口元を手首で覆い、ただただ顔を赤らめたのだった。


 ***


 その日の夜、下校時間が迫った雨上がりの図書室で春樹は口を開く。

「律、今夜の九時頃って空いてる? あと二時間くらいだけど」

 その言葉に律は目を丸くして首をかしげた。

「え? うん、空いてるけど……何かあったかな」

 すると春樹は含みのあるように笑って、

「……いけないこと、しよっか」

 その言葉に律は何を想像しただろう。本日何度目かの赤面した顔を見せたのだった。


 *


 そして、約束の九時頃。

「ちょ……、ちょっと待って、『いけないこと』ってこういうこと!? ……うわっ」

 律は春樹に促されるままに、閉じられた校門をなんとかよじのぼっているところだった。

 春樹は難なく軽々と校門を飛び越えたが、律はそうはいかない。校門の端にある草が生い茂った坂を使ってどうにか夜の学校の敷地内に忍び込む。

「ちょっと……僕こんなことしたことないんだけど……」

 そんなことを言いながら先に歩き始めるリュックを背負った春樹の後を追いかけた。そして不安そうに辺りをキョロキョロと見る律に春樹は自信満々で、

「大丈夫。俺もしたことない」

 と、全然当てにならない言葉をかける。

 律はそれを聞いてため息をつく。

「本当に大丈夫なの……?」

「なんとかなるんじゃないかな。昼間も雨は少ししか降らなかったから足跡も残らない。いざって時は謝ればいいし」

「それって『なんとかなる』に入らないじゃん……」

 そんな二人は校舎の裏へ向かっていた。

 最初は目的も分からず不安ばかりを口にする律だったが、夜の学校を堂々と歩く春樹の背中は不思議と律を本当になんとかなるのではないかと思わせてくれる。

 そして校舎の角を曲がったその時、――――……一陣の風がいで春樹を包むように桜の花びらが舞った。

「……!」

 律は目を見開く。

 そこにはすっかり存在さえ忘れていた古い大きな桜の木が一本、月明かりに照らされて綺麗に咲き誇っていた。

 足を止めた律は茫然と桜の木を見上げる。

「春樹、もしかして……」

「そう、これを二人で見たかった」

 そしてリュックの中をがさごそと手で探し、クーラーバッグからキンキンと冷えた缶ジュースを二つ取り出して春樹は笑う。それを見て律もつられるように笑った。


 *


 夜桜の下、二人はお菓子の袋をひとつ広げてジュースを飲みながらとりとめのない話をしていた。

 ふと桜を見上げた春樹は静かに、切なげに笑う。

「昼間さ、律をここに誘おうって決めたときに思ったことなんだけど」

「うん」

「この桜が散って、そして次に花が咲く時には俺らはもう一緒にいないんだって思ってさ」

「……」

 それは、律の恐れていた未来だった。

 考えたくもなかった。

 聞きたくも、なかった。

 それは確実に訪れる別れの時。

「……いやだよ、そんなこと考えたくもない」

 律は突然こみあげてきた涙を押し込めて、桜から目をそらす。

 でも春樹は大人びた表情をしながら話を続けた。

「うん、俺もいやだ。でも、だからこそこの桜を一緒に見れた今この時を大切に過ごそうって思えた」

「……!」

 春樹のその言葉に律が口を開きかけた、その時。


 ――――ざく、ざく。


 規則的に砂を踏みしめる音と、不規則に揺れるライトの光が見えた。

「!!」

「あー……やっば、見回りだ」

「『あー……』じゃないでしょ! どうするの!?」

 小声だが焦りながら言葉をまくしたてる律に、お菓子の袋を素早く片付けた春樹は律の手を引いて桜の木の片隅にあった廃材置き場へ向かう。

 そしてそこにあったシートがかけられた一角に身を潜めた。

「ついでにこれ被って」

 そうしてリュックから取り出されたブルーシートを二人で被る。

 そんな用意周到な春樹だが、隣で律は小声で不安そうに、

「ほんとに大丈夫、これ!?」

 と言うと、春樹は安心させるように律を抱きしめてさらに体を寄せた。

「シー……」

 人差し指を立てた春樹の顔が近い。律はそんな春樹とこの状況に早鐘を打っていた。

 しかし、それも最初だけ。

 足音が近づいてくるたび、『音を立ててはいけない』と思えば思うほど笑いがこみあげてくる。

 二人して小刻みに震えながら笑いをこらえていると、ライトの光が廃材置き場を照らした。

 ブルーシート越しに見える光に律がビクッと反応したその時。

「……!?」

 春樹は自然な動きで律の唇を奪った。

 そのまま、耳の奥でどこか遠く響く現実感の無くなった足音を聞いている。それよりも、自分の中の心臓の音の方がうるさかった。

 しばらくして足音が聞こえなくなった頃。

「……んっ」

 ようやく春樹の唇が離れる。そのままそっと春樹はブルーシートから顔を出して辺りを見回し、やがてシートを取り払った。

「あー、楽しかった」

 そんなことを呑気に言ってる横で律は顔を赤くさせながら怒る。

「ちょっと! なんであのタイミングでキスなんてしてきたの!? ビックリしたよ!」

「いや、あのままだと律が笑いだすと思って、口を塞いでみた」

「はぁ!?」

 そこまで言って数秒後、二人して笑いだした。

「もう……、心臓がおかしくなるかと思った!」

「そうだな。笑っちゃいけないって思うほど笑いが……くくっ」

 しばらく笑った後、廃材置き場から離れて桜の木の下に戻る。

「ありがとう、春樹。楽しかった。今日の日を、忘れないよ」

 そうして振り返った律は儚げな笑みを見せた。

 ……なぜだろう。

 春樹は律の色んな表情を思い出していた。

 泣いてたり、笑ったり、おっちょこちょいだったり。すごく人間らしい律を見ていたはずなのに、ふとその姿が消えてしまいそうなほど儚く見える時がある。

 それを綺麗だと最初は思っていた。いや、今も思っている。でも……ひどく不安にもなった。

 春樹はもう一度桜の舞う中で律を強く抱きしめる。消えないでと、ありもしないような願いを込めて。

「? ……どうしたの、春樹」

「律……もう一度、キスしていい?」

 その言葉を聞いて律は照れたようにうなずく。

 ……そうして桜色の中、二人はもう一度キスを交わした。


 *


 その数日後、強い風とともに桜の花びらはあっけなく散ってしまった。

 巡り到来する次の季節は、梅雨。


 ***


「もー! いやだいやだいやだー!」

 雨の日、放課後の教室では生田が机に突っ伏しながらどうしようもない理由で駄々をこねていた。

 その後ろで春樹は全く声をかけることもなく、いつも通りのんびりと教科書やノートを鞄に入れている。

 そして生田は悲愴な面持ちでガバッと顔を上げて叫んだ。

「なんで梅雨なんて来るの!? これじゃあプールで泳げないじゃないかぁぁぁ!」

 ……そう、これはテレビで梅雨入りが発表された翌日のこと。

 だが春樹は生田に申し訳ないと思いつつ、この季節を密やかに喜んでいた。

 元々季節の折々を楽しめる人間であるというのももちろんあるが、別の真っ当な理由がある。

 雨の日は、律に会えるのだ。


 *


 物静かな廊下からまるで秘め事の逢瀬の場となる雨の図書室へ。

 ドアを開ければ「親友」となるはずだった愛しき者がいる。

 今日の律はめずらしく、ミュージックプレイヤーで何か音楽を聴きながらしとしとと降る雨を静かに眺めていた。

 ふと、律が春樹の気配に気づいて片方のイヤホンを外すと、すかさず春樹がその片方のイヤホンをつける。

「何聴いてたの」

 そう言いながら聞こえてくる音楽に耳を集中させた。……聞いたことのある柔らかなピアノの旋律だった。

 律は急に縮まった春樹との距離に少し顔を赤らめながら伏し目がちに答える。

「……サティのジムノペディ。昔少しの間だけどピアノを習っていたことがあるんだ。その時に弾いてた曲を何曲かミュージックプレイヤーに入れてる」

「へぇ……」

 まるで光の射す古い部屋で男がじっくりと思考にふけるような曲だと春樹は感じた。そして彼の出す何らかの答えは、きっと悲しい選択。最後の音色でそう感じた。

「不思議な曲だよな。明るく終わるのかと思ったら最後はなんか悲しい感じ」

 春樹がイヤホンをはずしてそう言うと、律はいつも通り人差し指を曲げて口元にあて、上品に笑う。

「そうだね、でもきっとこれが彼の出した答えだから」

 その言葉に春樹は微かに目を見開いた。自分のイメージがまるで伝わったかのようで。いや、作曲者のことかもしれないけれど。

「……この曲がお気に入り?」

「うん、僕は好きだよ。あ……でも一番好きなのはこれかな。ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。残念ながら伴奏しか弾けないけどね」

「そうなんだ」

 そう言って春樹は図書室の一角に向かう。すっかり埃をかぶっていて気づかなかったが、そこにあったのは少し大きめなCDコンポだった。

「んーと、クラシック……ピアノ……これかな」

 春樹はそう言いながら慣れたように一つのCDケースを見つける。

 その様子を見て律は微妙な笑みを浮かべた。

「春樹……なんでここに長くいる僕よりこの図書室のことわかってるの……」

 春樹は目線をCDケースの裏面に目を通しながらなんでもないように答える。

「たまたまだよ、たまたま。……あ、『ピアノコレクション』ってCDに、『亡き王女のためのパヴァーヌ』は無かったけど、『ジムノペディ』が入ってる。流しとくか」

 そうして雨の図書室に悩まし気な旋律がゆったりと流れだした。

 律はミュージックプレイヤーを鞄にしまい、本を取りに席を立つ。流れる旋律と雨の音は心地よく混ざり合い、心にしみた。やがて自然と微笑を浮かべる。

「律」

 ふと後ろから春樹の声が聞こえ、律が「なに?」と言いながら振り向くと。

「……ん」

 図書室の棚の側面に体を預けるようにトンと胸を押された律に、春樹が斜め上から覆いかぶさって口づける。唇が触れ合うだけのわずかなキスだった。

 パタンと音がして律が手にしていた本が床に落ち、自然とその空いた両手は春樹の首元に回される。

 そしてもう一度口づけを。

 そんな二人の関係を知るのは優しい雨と校庭に植えられた紫陽花のみ。


 *


「あの……私、ずっと先輩のこと好きでした……」


 それは緑が強く薫る雨の日のこと。

 いつものように図書室のカウンターに座る律の元に下の学年の女子が一人、勇気をふるって言葉を紡いでいた。

 たまたま席をはずして本棚の影に居た春樹は、いつになく険しい顔で腕を組み、じっとその会話を聞いている。

 図書室での律はいつも春樹に見せている顔は見せない。

 あの初めて会った日のような儚い雰囲気を醸し出すのだ。そして伏し目がちだった目は真っすぐにその女子をとらえる。

「……ごめんね。僕には大切な人がいるんだ」

 すると泣きそうになった女子は必死で食い下がった。

「……もしかして、一時期噂になってたあの西山先輩……ですか」

 律は困ったように微笑を浮かべたまま何も言わない。

 すると彼女はそれが答えなのだと悟り、言葉を畳みかけた。

「そんなの、報われないじゃないですか。だって……だって男同士ですよ!? 周りからどんな目で見られるかなんて予想できるじゃないですか! 話に聞いただけですけど、また広野先輩に何されるか……」

 そのとき。

「はい、ストップ」

 本を持ちながらいつの間にか近くに来ていた春樹が女子の言葉を遮る。

「……ッ西山先輩……」

「盗み聞きする気はなかったんだけど、ごめんね。ところで君、律に告白しに来たんじゃないの? それとも男同士の恋愛に口出したかっただけ?」

「お、男同士の恋愛なんて……気持ち悪がられるだけですよ……」

 少し後ずさる女子に、春樹は毅然とした態度で答えた。

「そうかもね。君の言ってることはあながち間違いじゃない。……でも、悪いけどこっちも本気なんだ。俺は絶対に律を幸せにするよ」

 そう言いながら、会話を聞いてた律を立ち上がらせる。そして春樹はその腰に手を回して密着した。

「は、春樹……!?」

 目を見開く律と、スッと目を細めた春樹。その二つの唇がギリギリまで近づいたところで春樹は笑って女子に見せつけた。

「この続き、見る?」

 その瞬間、女子の顔は真っ赤に染まり、何も言えずに走って図書室を出ていった。

 バタンとひと際強い音を残してドアが閉まったのを見届けた春樹は、パッと律を解放して図書室のドアへと向かう。

 その背中に律はさすがに強気な表情をした。

「ちょっと……さすがにあそこまでする必要なかったんじゃないの」

 すると春樹は図書室の鍵を内側から閉めて、振り向く。

 それは、律が凍り付くほどの冷たい表情。

「……!」

 いつもの春樹と、違う。

 律は動けなくなった。正直に言えば、怖かった。

 その間に春樹は次々と図書室のカーテンを閉めていき、雨さえも二人の姿が見れないよう目隠しをする。

 外の雨の音だけがむなしく響いていた。律の凍り付いた心臓の音もぽたぽたと落ちる雨のしずくに呼応した。

 そんな灰色の空間に春樹は律の手を引いて、本棚と本棚の間の床にやや乱暴に押し倒す。

「ちょっ……春樹、痛い! 何するの……」

 すると春樹は律の襟元を引っ掴んで持ち上げ、乱暴で荒々しく口づけをした。

 しばらくして息苦しさでようやく離れた唇から逃れた律は口元を片手でおさえながら肩で大きく息をする。

「もしかして春樹……さっきの子に嫉妬したの……?」

「……」

「ねぇ、そうなの? でも僕はちゃんと答えたよ、大切な人がいるって!」

 すると春樹は険しい表情のまま視線をそらす。

「……わかってる」

「じゃあなんでそんなに必死なの!? なんで怒ってるの!? 僕の言葉が……信じられないの……?」

「……あの子の言ってることが、本当だったから」

「え……? わ!!」

 突如、春樹の手が律の静止を振り切ってそのワイシャツのボタンにせまり、開いていく。律は必死に抵抗した。……涙を、浮かべながら。

「やだっ……やだ、春樹、なんで!?」

 そのまま春樹は何も答えず露わになった律の首筋や胸元にキスを落としていく。――止められなかった。


 *


 その数十分後。

 一部だけ開かれたカーテンと、片膝を立てて床に座ってうつむく春樹。

 そして……その横ではワイシャツをはだけさせられたまま、首や胸元に多くの鬱血の跡を咲かせた律が力なく寝そべっていた。

 春樹はポツリと口を開く。

「……悪かった」

「…………」

 律は目線だけを春樹に向けた。

「『男同士の恋愛は、気持ち悪がられる』」

 そのフレーズを言って春樹は窓の外を見上げる。

「その通りなんだよな。俺は、律のこと『親友』だとか勝手に言って近づいておきながら、それ以上に踏み込んだ。……律に何かあったら、俺が悪い」

 そう言って立ち上がろうとする春樹の腕を律がそっと無言で引き留めた。

「なんで引き留めんの? ひどいことしたのに」

「……いかないで」

 律の弱々しくなってしまった言葉に春樹は自分に嘲笑を向けながら言葉を吐き捨てる。

「律。俺はお前を傷つけ……」

「……僕のこと、幸せにしてくれるんでしょ……?」

「……!」

 律は少し痛そうに上半身を起こし、春樹を後ろからわずかに残された力で抱きしめた。

「それなら、責任取って傍にいて……。僕は春樹のものなんだから」


 ……降り続く雨の音が、苦しかった。


 ***


 とある晴れた金曜日の下校時間。久々の綺麗な夕暮れ空が帰宅し始める水泳部員たちの上に広がっていた。

「やっと泳げた……けど、このじめじめする熱さが気持ち悪いよ……」

 生田はワイシャツの胸元をぱたぱたと力なく扇ぎ、げっそりとしながら校門に向かっている。

 その横で、春樹はその熱さに苦しそうな表情は見せてはいなかったものの、別の件で眉間にしわをよせていた。

 ……そう、あの雨の図書室で律を押し倒した日のこと。

 あの時、力なく座る律の服を春樹が着させている間、律はうつむいたままだった。だが、最後のボタンを閉め終わった後にそっと甘えるように春樹に身を寄せて。

 下校時間が近づくまで、互いにそのまま動かないで雨の音を聞いていた。

 そのまま学校を出るまで言葉を交わさず、帰路で別れるときに「また、明日ね」と律は春樹に声をかける。

「……あぁ」

 春樹はその目を見れなかった。

 一般的に祝福される、律と異性のカップルになれるあの女子に嫉妬して。律が自分のものだという確証が欲しくて無理やり唇を奪い、身体に跡を残した。

 ……最低だ、最低すぎる。

 そしてそれから一週間、気まずさで春樹は律を避けるようになってしまった。

 でも、このままじゃいけない。

 そう決意して、春樹はLINEを律に送った。


 *


 一方、律はその日、放課後の図書委員の仕事を後輩に任せて家のベッドで眠っていた。

 スマホを握りしめ、「春樹……、春樹……」と何度も名前をつぶやきながら。

 これが病的だと思われても構わない。だって自分はそれほどに春樹に心酔してしまっているのだから。

 ふと、胸元を少し覗いて消えかかっている春樹につけられた跡を見て微笑んだ。

 この跡こそ、自分が春樹のものである証のように感じたからだ。

 ……壊れている。自分は、壊れてしまった。

 でもそれでいい。

 この一週間、春樹に避けられていたのは本当に苦しかった。広野にいじめられた時の苦しみよりもはるかにきつかった。

 あぁ、乱暴にされてもいい。だからもう一度、僕に振り向いて。


 その時、スマホの通知が鳴った。


 *


「春樹っ……」


 それはその日の午後十時のこと。

 学校の締め切った門の前で待ち合わせをして、律はようやく春樹に出会えた。

「……よう」

 そう一言だけ言った春樹はいつもののんびりさを醸し出しながらも言葉の端に緊張感が見て取れる。

 そして、なんだかいつもより大きめなリュックを背負っていた。

「えっと……今日は何するの?」

「……仲直り」

「……え?」

「とりあえずここ、飛び越えて」

 そう言って春樹はまた、あの春の夜のように校門を軽く飛び越える。

「えっ、ちょっ……また!?」

 律は「仲直り」という単語に胸を躍らせながらも、慌ててなんとか校門を越えた。

「だ、大丈夫かな……この前だって見回りの人来たし……」

 そう言って怯えながら春樹の服の裾を握りながら辺りを見回す律。

 しかし春樹は表情を変えないまま親指をグッと立てて、

「大丈夫、見回りの人がここ出てったの見てたから」

「見張ってたの!?」

「……ん。木の上であんパンと牛乳飲みながら」

「すごい……刑事の定番だね」

 そう言いつつ、自然と春樹と話せていることに律は幸せを感じていた。

 ……と思っていると、なんだか春樹は誰も人が来なさそうな、まるでけもの道のような所に足を進めていく。

「ちょ、ちょっと……え、どこ行くの?」

「まぁ、来てみればわかるって」

 そう言いながらどんどんと暗がりへ進んでいく春樹。

 でも怖いはずなのに律は不思議とワクワクしていた。春樹はいつも、僕を綺麗なところに連れて行ってくれる。そんな気がしたから。

 そう言ってたどり着いたのは、学校のプールサイドの金網。

 まさか。

 律がそう思うと、春樹は微笑んでうなずいた。

「そこの木に足かけると上りやすいよ。怪我しないように注意して」

「うん……、……!」

 言われた通り近くの低い木の枝に足をかけてプールサイドの金網を越えたとき、そこには高く上った月を照らしたプールに出る。たまに風に揺れてキラキラと輝く水辺はとても綺麗だった。

 春樹も後から金網を越えてプールサイドの脇に荷物を置いた。

「律、スマホとか濡れるものはこっちにおいといて」

「あ、うん」

「どう? 夜のプールも悪くないでしょ」

「うん、こんなに綺麗だなんて、思わなかった……」

 そうして二人はプールサイドに並んで立つ。すると春樹は律の肩を持って向き合うようにした。

「春樹?」

「よーく息吸って」

「?」

「よーく吐いて」

「……? うん」

「もう一回よーく息吸って」

 そう言われるがままに息を吸ったとき。

「……んっ!?」

 突然唇を奪われ、春樹とともに体が傾いて。


 ――――バシャン!


 口づけを交わしながら、月が浮かぶプールに堕ちていった。

 水中で律が春樹の体を強く抱きしめれば、春樹もまた律を強く掻き抱く。

 そうして息が持たない頃にプールの底に足がついて、二人とも立ち上がった。

「ちょ、ちょっと……! びっくりしたよ、突然、その……キスしてプールに落ちるんだもん!」

 すると春樹は無邪気に笑った。

「サプライズ成功。……わ!」

 にやりと笑った直後、水しぶきが春樹にかかる。律が向けたものだった。

 これは負けてられない。

 春樹も律に水をかけて、律に応戦する。

 二人とも濡れた制服が肌に突っ張っても気にせず、光を反射させたきらきらとした水を宙に散らし続けた。


 *


「……あのさ」

「なに?」

 二人はプールのレーンロープにつかまって浮いている。

 春樹は真面目な顔つきだった。

「この間は、ほんとに悪かった。ここ一週間避けてたのも、悪かった」

「……うん」

 ほんの少し律の胸がちくりと痛むが、それでも嬉しいことに変わりはなかった。

「俺、正直こんなに焦ったり戸惑ったりすること今までなかったから、自分の感情をどうしていいかわからなかったんだ。律があの子と付き合えば、将来的に幸せになれる確率は高い。でも俺と一緒にいれば、その未来は約束されない。むしろ悪い運命が待ってるかもしれない。でも俺は律と一緒にいたくて、幸せにしたくて……」

 そこまで言って春樹の言葉が詰まる。他に何をどう言えばいいか、本人が困っているようだった。

 律はその様子を見て、優しく抱きしめる。

「……ありがとう、春樹。でも、僕あの時も言ったじゃない。『責任取って傍にいて』って……。僕は春樹の傍を離れるつもりはないよ」

 そうして二人は再び、どちらからともなくキスを交わした。

「ねぇ、これが『仲直り』なんでしょ? もう少しで夏休みだけど、また図書室に来てくれる?」

「あぁ……。わかった」

 春樹のうなずきに、律は月光に照らされて綺麗に笑った。


 ***


 夏休み前の、最後の一日。


 すっかり仲が戻った二人は図書室にいた。

 律はいつものように本を読み、春樹はその隣で疲れがでているのかぐったりと机に突っ伏している。

「なぁ」

「なに?」

「律ってよくその本読んでるよな。面白い?」

「僕は好きだよ?」

「なんてやつ?」

「萩原朔太郎の『月に吠える』」

「……犬か何かの話?」

 春樹の言葉に律は笑った。

「それは読んでからのお楽しみ。今度気になったら読んでみて」

「おー」

 そう言いながら、春樹は目をつぶる。

 そんな春樹の様子を見て、律は幸せそうに笑った。そして春樹が寝ている間にささやかな独り言を言う。

「……春樹が来てから、色んなものが綺麗に見えるようになったよ。すごく大切な思い出ばかり。ありがとね」

 そのとき、図書室の扉が開いて図書室担当の教師が顔を出す。

「お、遠野。いつも図書室任せて悪いな」

「いえ」

「今日職員会議あるから、いつもよりちょっと早く図書室閉めてくれるか」

「はい、わかりました」

 にこりと笑顔を返した律を見て教師もひとつうなずき、その場を後にする。


 しかし。


 扉が閉まる、そのわずかな間に。

 ……律と、偶然通りかかった広野の目があった。

 律はハッとして自分の隣で寝ている春樹を見る。

 春樹と一緒にいるのを、見られた……!?

 律は、恐怖で一瞬固まる。

 たった数秒目があっただけだ。だけど……自分たちの関係を、なんだか知られた気がする。

 律は震える手で本の表紙を撫でた。

「春樹……卒業するときに僕の大好きな本に栞を挟んでおくよ。覚えてたら……見てね」

 春樹には届かない言葉。でもそれでいい。そうじゃないと、ダメなんだ。

 律の視線は未だ閉められたドアに向けられている。

 春樹はそれをそっと目を開けて見つめていた。


 ***


 梅雨が明け、夏休みが始まった。


 そのとある日は春樹にとって、そして律にとっても特別な夜になる。

 春樹と律と陸也はその夜、まだ群青色が薄い空の下、退屈そうに遠野家の前で座り込んでいた。

 すると。

「ごめーん! 遅くなっちゃった!」

 生田が盛大な息切れをしながら学校方面からの坂を走って降りてくる。

「遅いぞー。ニ十分遅れ」

 春樹が自分の腕時計を見ながら声のトーンを低くして言う。

 すると生田はさらに苦い顔をした。

「いや、その……みんなにひとつずつ好きなもの奢るよ……」

 それを聞いて律はあわあわとしながら生田の背に手を置く。

「え、あの、冗談だよ!? 春樹の顔見て? 笑ってるから!」

 春樹は顔をそらしているが確実に笑っていた。見ただけでわかる。肩まで震えているのだから。

 そんな兄貴たちの方を見てから陸也はじとーっとした目を春樹に向けた。

「趣味悪いぞ、春にい」

「生田はほんと弄り甲斐があっていい」

「そういうとこだっつの」

 その会話を聞いて生田は陸也を見つめる。

「あ、君が遠野くんの弟さん……だよね?」

 それを聞いて玄関の前に座っていた陸也は立ち上がり、生田の前に立った。

「……遠野 陸也です。兄貴がいつも世話になってます」

 その様子を見て生田は感嘆の言葉を漏らす。

「しっかりしてるなぁ」

「兄貴がこれなんで自然とそうなります」

 その会話を聞いて今度は律が苦い顔をした。

「あの……それ僕の扱い酷くない……?」

 すると突然春樹は海の図書室がある方とは真逆の住宅街の方に歩き出して、

「よーし祭りの屋台巡るぞー」

「だーから春にいはマイペース過ぎだっつの!」

 その横で陸也が文句を言いながらついていく。そう、今日は花火大会がある夏祭りの日なのだ。

 二人の様子を後ろで見ていた律は微笑ましく二人を見つめていた。そして隣にいる生田に言う。

「生田くん、さっき陸也、普通に挨拶したでしょ」

「ん? うん、そうだね」

「陸也が変わったのは春樹のお陰なんだ。前は僕のために色んな人を警戒してたんだけど、それがなくなったし前よりも笑うようになった。春樹はほんと、すごいよね」

「そうだったんだ……。学校ではのんびりしてるけど頭いいし、運動もできるし、水泳部では悔しいけどトップの速さなんだ。あの広野と対等に接してるし……」

「料理も上手い」

 すばやく挟まれた律の言葉に生田は目を丸くした。

「えっ、料理もできるの!? えぇぇ……そんなになんでもできる人初めて見たよ! 一体何ができないんだろう……」

 すると律は口元に人差し指を曲げてあて、くすりと笑う。

「陸也も同じこと言ってた。でもね、この前ついにわかったんだよ」

「え!? ……なになに?」

 律はめずらしくニヤリと笑ってスマホの画面を見せると生田は盛大に吹き出した。

 そこには鉛筆で描かれた何の物体かも想像がつかない、左向きで四本足の何かがいたのだ。

 生田はツボに入ったらしく笑いをこらえることができない。

 すると前を歩いていた春樹と陸也が振り返った。

「え、なに笑ってんの……?」

 そう言いながら近づき、その間に春樹は律が生田に何を見せたのか感づいて恨みがましい目を向ける。

「りーつー……あの絵見せたんだろ」

「ごめん、つい面白くて……」

「もう、もう最高だよ西山くん! あ、あれ描いて『ダチョウ』!」

「ダチョウ……?」

 首をかしげる春樹にこういう時でも手際がいい陸也はスマホのお絵かきアプリをすぐさま取り出して渡した。

 春樹は真顔でサササッと手早くダチョウらしき何かを描くが、向かう先から聞こえてきた祭囃子に顔を上げてスマホを陸也に託し、走り出す。

 そのスマホを渡された陸也と律と生田は同時に声を揃えて叫んだ。

「……これフラミンゴじゃん!」


 *


 祭囃子を聞きながら春樹は腕時計を見た。

 大丈夫、まだ間に合う。

 そして後ろの三人に声をかけた。

「はやく屋台巡るぞー。花火の時間に遅れるから急げー」

 祭囃子があいまってか、心が少し躍っている気がする。

 でもたまにはいいだろう。

 都会にいるときはあまり味わえなかった空気感なのだから。

 道のわきを浴衣を着た少女と男の子が綿あめを持って走っていく。

 目線を上にあげれば射的をしている人や、いちご飴や果物を使った飴がまるで宝石のように綺麗に飾ってあった。

 そして道の向こうからは町の衆が運んでくるお神輿みこしが。この出店が並ぶ通りの一番向こうには少し山を登った先に神社があり、そこからまっすぐ運ばれてきたのだろう。

 春樹は自然と目を輝かせ、そのお神輿が過ぎるのを間近で見つめる。たくさんついているお神輿の鈴に自分の顔が映った。それに赤と白の縁起のよさそうな飾りと古いしめ縄のようなものがくっついている。

「こういうの、はじめて?」

 ふと、いつの間にか自分の隣に立っていた律が春樹に聞く。

 春樹は「んー……」と考えたあと、

「祭りに行ったことがないわけではないんだけど、人が多すぎて屋台のものは全然買えないし、お神輿もでかすぎてこんなに間近で見れることはなかったな」

 そう話す春樹はとても楽しそうで、律もつられて笑った。

「都会のお祭りとこのお祭り、どっちが好き?」

「もちろんこっちだな」

「そっか」

 律と春樹は盆提灯が飾られた灯りある道を過ぎゆくお神輿を見届ける。

 そこにようやく陸也と生田も合流した。

「よし、屋台のものどんどん買うぞ。たこ焼きにお好み焼きに焼き鳥、たい焼きとか……」

「えっ西山くんそんなに買うの!?」

「春にい、俺……甘いの食べたい」

 普段自分の欲しいものを口にしない陸也がそう言ったことに、律は驚く。

 そしてそれを察した春樹は笑った。

「よし、じゃあクレープとかき氷追加な。俺が買ってやる」

 そこに律が何か言おうとするが、春樹はそっと手を出して律の言葉を遮り、「やった!」と子どもらしく笑う陸也を微笑ましく見つめる。

 すると生田は腕時計を見て「わっ」と声を出した。

「西山くん、時間ヤバいかも!」

「よーし、みんな散らばって色々買ってくるぞー」

 その春樹の言葉を機に、一斉に散らばって屋台がある住宅街に繰り出す。

 そして約三十分後。

「西山くん……もう無理だよ、脚が限界……」

「ほら、いつも通ってる道なんだから頑張れ」

「でも春にいの家、確か高校よりさらに上なんだろ……?」

「さすがに、きついね……」

 大量の屋台で買った食べ物を手に、学校へ続く道をぜぇぜぇと息を吐きながら登る四人がいた。

 そして約十五分後。

「着いたああああああああ!」

 春樹の家の前まで来た四人は一斉に叫ぶ。

「あらあら、いらっしゃい、みんな」

 叫ぶ声を聞いたのか、春樹の母が出てきてみんなを出迎えた。春樹は一応買っておいた屋台のお土産を母に手渡す。

「買ってきてくれたの? ありがとう。楽しんでね」

「おう」

 そう話していると、陸也が春樹に声をかけた。

「春にい、もうすぐ花火始まるぞ!」

「今行く!」

 そうして春樹はブルーシートを自宅の坂の上に敷いて、みんながその上に座る。さりげなく、春樹は律の隣に腰掛けた。律はそっと微笑み、春樹も他に気づかれないように微笑み返す。

「とりあえず、食うか」

 その春樹の一言に、みんなで焼きそばやお好み焼きを頬張っていると。

 ヒュルルルと音がして三発ほど小さい火の玉が上がる。花火大会開始の合図だ。

「始まった!」

 陸也の嬉しそうな声に律も笑ってうなずく。

 春樹の家の前の坂は花火大会を見るには最適な場所で、花火が海に反射するところまでもが見える。『特等席』と言っても過言ではなかった。

「海から見るのも迫力あっていいけど、遠くから全景見渡せるのもいいもんだね!」

 そんな生田の言葉に、春樹は、

「あー、じゃあ来年は海からも見てみるか」

 と何もよく考えずに発してからハッとする。

 ……来年は、きっと自分たちはいない。

 そのことに全員が感づくが、律は微笑みを取り繕う。

「いいじゃない、いつかまた集まって見れば」

「そ、そうだよね! 夏休みなら、僕こっちに帰省してるかもしれないし!」

「あ、このお好み焼きめっちゃ美味い」

「空気読めよ、春にい……」

 春樹が空気を読まないのは、わざとだった。

 そんな気まずいような、何とも言えない空気になってしまった四人の奥で花火がまた上がる。


 *


 花火大会が終盤に差し掛かった頃、春樹は皆にバレないように脱いだ上着の下で律と指を絡ませた。

 突然のことに律は驚いた顔を見せるが、春樹の顔を見るなり、照れたように笑ってギュッと手を握り返す。

 花火大会のフィナーレは黄金色。ひと際派手に黄金の花火がどんどん打ちあがった。

「おおー」

 なんとなく歓声をあげてしまうほど、田舎の祭りにしては力が入っている。

 連発して打ちあがった花火は金色の滝となってこの町の海に降り注ぎ、サラサラと火の粉に変わって消えていった。

 そうして。

 ――――パンパンパンッ

 しん、と辺りが静寂に包まれた後、花火大会の閉幕を伝える小さな花火が上がった。名残惜しそうに春樹と律は互いの指をほどく。

「あーあ、終わっちゃった」

 またひとつ、夏の終わりに近づいたことに陸也が残念そうにしていると。

「実はまだ終わってないんだな」

 と、春樹はニヤリと笑ってみせる。

 すると、「行くよ~!」と背後から生田の声がした後に小さな打ち上げ花火が西山家の前に打ちあがった。

「……!」

 どうやらその打ち上げ花火はパラシュートが落ちてくるやつだったのか、パラシュートをキャッチした陸也は目を輝かせて春樹を見る。

「もうちょっと、遊んでいこう」

 そうして見せてきたのは手持ち花火一式だった。


 *


「わっ、陸也、危ないって!」

 陸也は楽しそうに火のついた手持ち花火を振り回す。その度、宙には色のある光の残影が弧を描いた。

 そのあどけない様子に春樹は笑みを浮かべて、自分の持つ手持ち花火を火種につける。

 一方、律と生田はしゃがんで線香花火をほのぼのと楽しんでいた。

「遠野くんは手持ち花火より線香花火が好きなの?」

 生田のそんな問いに律は苦笑する。そして線香花火のパチパチと瞬間的に放たれる火花を覗き込んだ。

「ふふ、そうかもしれないね。こうやってパチパチするのを見てると、なんだか昔の映写機を使った映画を見てるようで楽しいし」

 すると、ぽとりと生田の線香花火の火の玉が地面に落ちる。

「あ、落ちちゃった。……遠野くんって他の人にはない独特なセンスを持ってるんだなぁ。線香花火ってすぐ終わっちゃうから悲しくない?」

 そう生田が聞いていると律の火の玉も落ちた。律はその名残を見てから微笑んで生田を見る。

「確かに悲しいけど、僕にはお似合いだと思うんだ」

 その言葉に生田は何と声をかけていいかわからず、数秒黙り込んだ。そして、助けを乞うような目で春樹の方を見る。春樹なら、こういう時なんと答えるだろう。

 すると生田の視線に春樹は気づいて、なんとなく状況を察したのか手持ち花火を数本取り出してこちらに持ってきた。

「なーに楽しいことやってんの」

「春樹」

「何って、線香花火してただけだよ、西山くん」

 二人の答えを聞いて「ふーん」と適当に返事をした春樹はバッと両手にいっぱいの手持ち花火を広げる。

「線香花火は花火の締めにやる方がおもむきあっていいんじゃない? ……ほら、どれがいい?」

 いつも通りのんびりと、だけどほんの少し明るめな春樹の声が暗くなりがちだった律に光を与えた。その様子を見て、生田はさすがだと目を見張る。

 本当に春樹は不思議な人間だった。

 なんでも出来るが人から妬まれることがない。生田から見れば、今の所そう見える。

 そして特にとても明るいお調子者のような性格でもないのに、こうして人を元気づけたり明るくさせることができるのだ。

 春樹が来て始まった高校三年生の日々は、律だけでなく生田やその周りの人間もどういうわけか明るく毎日を送っている気がする。

 あの広野でさえ、心を許しているのだからその器量はすさまじい。

 生田がそんなことを思いながらぼーっとしていると、とある手持ち花火を春樹から握らされる。

「?」

「生田はこれがいいんじゃない。めちゃくちゃ火花がでるやつ。ヤケドに気をつけろよー」

「……ってちょっと! なんで危ないやつを僕に渡すの!?」

 そのやりとりを見て、律は笑う。それを目の端で捉えて、良かったと生田は素直にそう思った。


 *


「手持ち花火も、打ち上げ花火も、なんかあっという間だったな」

 ぽつりと一言、残念そうに陸也はつぶやいた。

「そうだなー。でもそれもまた一興ってやつじゃないの?」

 そう春樹はいつもの口調で答える。四人は西山家の玄関前の階段に、少し狭いが並んで座って線香花火をしていた。

 ふと、思い出したように生田は切ない表情をする。

「あっという間か……僕の水泳部としての生活もあっという間だったなぁ」

 その言葉を聞いて、春樹は少し押し黙った。

 そう、夏休みに入る前に生田率いる三年生は水泳部を引退したのだ。大会に出ることもなく、ただ日常から一つ何かがスルッと抜け落ちるように終わった。

 春樹にとってそれは律のもとに行ける良い機会であったものの、生田からしてみれば生きがいのようなものが抜け落ちたのかもしれない。

「生田はさ、将来何になりたい? まだ水泳でやっていけるかもしれないじゃん」

 生田は春樹の言葉を聞いて、目線を空へと移した。夢を見せてくれる、虚空の闇とそこに散らばる星々。生田は目を輝かせているように見えた。

「僕は……そうだなぁ。親はできるだけ良い大学に入って、良い仕事に就けって言うけど……。ホントは、本当は……どんな形でもいい。市営のプールとかで働きたいって思ってる」

 その言葉を聞いた春樹は目を伏せて笑う。

「いいじゃん。正直な話、親の言葉に囚われる必要はないと思う。『良い大学に入って、良い仕事に』ってよく聞くけど、そもそも具体的ではないしただの理想論だと思うから。親はきっと自分と同じ苦しい目に合わないように、とか考えて言ってるのかもしれないけど、たぶん……俺が思うに、どの道選んだって苦労や悩みは出てくる。それなら後悔はない方がいい。生田は生田の思う道に進めよ」

 めずらしく少し饒舌じょうぜつになった春樹を見て生田は素直に驚いているようだった。そして再び、今度は明確な意思を持った目で空を見つめる。

「そっか……。そうだよね。次の進路調査……思い切って変えてみようかな」

 生田の宣言を聞いて律もそっと微笑んだ。

「そうだ、西山くんの将来の夢は教師だよね。じゃあ遠野くんは? ……あ、律くんの方ね」

 律は突然話しかけられて驚いたのか、揺れた線香花火の火の玉が落ちる。そして「あ」と言いながら新しい線香花火に火をつけて穏やかに話し始めた。

「僕は……大学は行かないけど、本にまつわる仕事がしたいな」

「あ、なんかそれは分かるよ! 絶対似合ってると思うな」

 すると、今まで黙っていた陸也が口を開く。

「なぁ……将来の夢って、ないとダメ?」

 なんだか、不安そうな声だった。しかし春樹は首を横に振る。

「いや、別に今は無くていいと思う。俺たちの歳になっても将来が見えてない人なんてたくさんいるくらいなんだから」

 その答えづらい質問に案外早く春樹が答えたことで、陸也は微笑む。

「へぇ……そういうもんか」

 まるで足枷が外れたかのように表情が晴れやかになったのが見て取れた。

 そして、最後の線香花火の火の玉がぽとりと落ちる。


 *


「それじゃあ僕、そろそろ帰るよ! 西山くん、すごく楽しかった。呼んでくれてありがとね」

「じゃあ俺もそろそろ帰る。冷めちゃったけど、母さんに屋台のもの渡したいし。春にい……サンキュな」

「あ、それなら僕が送ってくね」

 今日の一日で距離が縮まったのか、生田と陸也は仲良さそうに二人して手を振って春樹と律に別れを告げた。

「さて、と」

 その姿を見送った後、春樹が立ち上がると律が少し体をこわばらせる。

 春樹はその様子を見て微笑み、立ち上がるように手を差し出した。律はそっと手をとって立ち上がり、春樹を見つめる。

「そんなに緊張しなくていいよ。泊まってくだろ?」

「う、うん……。お邪魔します」

「どうぞ」

 そうして律は西山家の中に導かれた。今日は、そう。春樹の家でのお泊り会の日だった。


 *


 西山家に入ると早速暖かな暖色の光が差し込む大きなリビングに入る。その二階建ての建物は吹き抜けで天井が高く、中央のダイニングテーブルには春樹の両親が座ってこちらを振り返った。

「お、いらっしゃい!」

「ゆっくりしていってね」

 その柔らかな声音に律は震える唇で言葉を発する。

「こんばんは、遠野 律です。今日はお世話になります」

 春樹はなんとなく律の心情を察してうつむいた。声が震えていたのはただの緊張だけではないだろう。ここに『家族の形』があったからだ。

 ここには暴力をふるう母親も、子どもたちを置いて出ていった父親もいない。

 あとは……そうだ、家に招かれることがなかったからかもしれない。

「俺の部屋は二階な。ついてきて」

「あ……うん」

 律は今度は緊張した面持ちで二、三歩と歩み始めたが、とある一角を見た瞬間まるで綺麗なものを見つけた子どものように目を瞬かせた。

 それは、ピアノと二台のチェロ。

 春樹はいつだったかの律との会話を思い出しながら一言。

「ピアノ、弾いてく?」

 するとハッと我に返った律はぶんぶんと首を横に振った。

「う、ううん! こんなに楽器があるなんてすごいなって思っただけだから!」

 すると言葉を聞いた春樹の父は嬉しそうに何かを語りだしそうな雰囲気を醸し始めたため、

「よし、じゃあ二階行こうな」

「そうよ、ごゆっくりね」

 ……すかさず春樹とその母は語り始めそうな父の長話をシャットアウトしたのだった。


 *


 柔らかな絨毯が敷かれた階段を上って左側に春樹の自室がある。

 その中は物自体が少ない律の部屋とは違って、興味を惹かれるもので溢れていた。

 例えば天体望遠鏡が窓辺に置かれていたり、天井からは木製の飛行機の模型が吊り下げられていたり。壁には英語で書かれた古い世界地図が貼られていたりもした。

 そして、春樹の机の上には大学の赤本が開かれた状態で置かれている。

 その時律の胸がズキンと痛んだ。

 大学に進学しない自分と、明確な夢を持って大学を目指す春樹。

 見たくもない、自分たちに迫ってくる別の未来。

 ……またしても春樹が遠い存在のように思えてしまった。

 すると、何気ない様子でパタンと春樹が開かれていた赤本を閉じる。

「……先のことなんて、今は考えなくていい」

 そう言ってポンと軽く律の肩を叩き、今度はテレビをつけた。

「お」

 すると明るかった自室の電気を春樹はのんびりとした動作で消す。

「? 突然どうし……」

『突然どうしたの』と言おうとした律はテレビを見て凍り付いた。

 そのテレビ番組のタイトルが『背筋も凍る! 戦慄の恐怖映像ベスト50』だったから。

「ちょ……春樹、まさか暗い中でこれ見るの……」

 表情が強張っている律の横で春樹は当然のように、

「うん。暗い中で見た方が面白そうじゃない? とりあえず、……はい、ここに座って」

 そう言いながらポンポンと自分が座るベッドを優しく叩く。

 律はその仕草に半分ドキッとしながらも、もう半分は恐怖でカチカチに体が固まり、ぎこちない様子で春樹の隣に座った。

「やっぱ夏と言えば怖い番組だよなー」

 そう平気な声で言う春樹を見て、律はさらに距離をつめて座る。

 その様子を見て春樹はようやく律の異変に気付いた。

「……え、もしかして怖いの苦手?」

 すると律は目をギュッとつぶりながら何度もコクコクと首を縦に振る。

「あー、そっか……」

 そして春樹がチャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばそうとした時。

「……ヒッ!」

 急に画面に映し出された日本人形を見て、律が小さく悲鳴を上げて春樹に抱き着いた。

 その様子に可愛さを見出してしまった春樹はリモコンに伸ばそうとしていた手を律の身体に回し、

「……大丈夫、俺がいるから」

 と、悪戯っぽく怪しい笑みを浮かべる。

 すると律は悔しそうに、それでいてはずかしそうな表情でキッと春樹を睨む。

「……これでトイレに行けなくなったら春樹のせいだから」

「いいよ、ついていってあげる」

「……!! やめてよ、はずかしい……!」

 そんな軽口をたたき合って、二人は笑った。


 *


 結局心霊番組を見ている間、終始律は春樹の半そでにひっついて離れず、驚かされる場面になる度にビクビクと体を震わせていた。

 その様子を見ながら春樹は「可愛いな」と思いつつ、安心させるようにしっかりと律の背中に手を回していたのだが。

「やっと終わったー……」

 気が付けば番組は終わりにさしかかり、それと同時に律は春樹の腕の中から飛び出して部屋の電気をつける。その姿は図書室で見せるあの儚さなど微塵もない、滑稽な男子高校生の姿であった。

 ……当の本人は、そんなことを考える余裕すらないようだが。

 律はそこで大きくため息をつきながら壁によりかかり、

「寿命縮んだかも……」

 そう言ってへなへなとしゃがみこんでいると、階下の方からハリのいい春樹の母の声が響く。

「春樹ー! 律くーん! お風呂沸いたから入りなさーい!」

 その声を聞いて春樹は自室のドアを少し開けて

「ん、分かったー」

 と返し、座り込む律に「先入ってきなよ。それとも俺もついてく?」と冗談めかして言うと、「……一人で入れるよ!」と可愛い反論が返ってきた。

 そこですかさず春樹は屈んで律の唇を奪い、そっと微笑む。

「風呂上がりは何が飲みたい? インスタントでよければ色々あるけど……まぁ、俺の部屋を出てすぐのところに飲料水出るところあるし、電気ケトルも置いておくから好きに飲んで。冷蔵庫も小さめだけど二階にあるし、そこから勝手にジュース持って行ってもいいから」

 春樹の優しい声音を聞いて、律は冷めていく唇の熱を指でたどりながら、「わ、わかった……」と顔を赤くして、あらかじめ春樹の部屋に運ばれてあった自分の荷物から風呂道具を取り出して階下へ降りていった。


 *


 春樹が声を失ったのはその数十分後。

 部屋に律が戻ってきてから春樹が今度は風呂に入り、戻ってきたとき。

 自室から話し声が聞こえてきた。

 ドアを開ければまったりとした笑顔の律がローテーブルに温かいお茶を自分と、その対面にもう一つ置いて喋っている。

「え、そんなことがあったんですか? 僕も見たかったなぁ。――――あ、春樹おかえり」

 律はまったりした笑顔のまま春樹に微笑み返した。春樹はそれとなく戸口に立って壁にもたれながら腕を組み、軽く脚を交差させるポーズで律の様子を見つめる。

「あ、もう行きますか? 階段のところは気をつけてくださいね」

 そうして名残惜しそうな律が戸口に目をやり、しばらくしてから人差し指を曲げて口元にあて、上品に笑った。

「春樹のおばあさんっていい人だね。はじめて会った僕に春樹の昔の時の話、たくさんしてくれたよ」

 そんな嬉しそうな律の声を聞いた春樹は「あー、そう」と言って、何気なく自室の扉を閉めて律の向かいに座り、若干ぬるくなっているお茶を飲み始める。すると律は驚いた顔をした。

「え、それおばあさんの分のお茶……」

「俺の昔話、ねぇ……。まぁ、俺が小さいときに亡くなったから当然か」

「ん?」

 その瞬間、春樹は頭の中にこの言葉しか浮かばなかった。


『ド天然?』


 *


 しばらく、ローテーブルの前に座り込んで夏休みの宿題にとりかかっていたところ、コンコンと軽く春樹の自室のドアをノックする音が聞こえた。

 その音に反応した春樹は急ぐことなくのんびりと戸口に向かってドアを開ける。そこには若干酒の匂いがする春樹の父が立っていた。

「……はい。どうしたの?」

「いやぁ、せっかくお客さんも来てることだし、母さんと演奏でもしたいなと思ってな。お前もどうだ?」

 なんとなく父の様子からこの言葉が出るであろうことをわかっていたらしい春樹は、小さくため息をついて首を横に振った。

「俺はいいよ、やめとく。それに今勉強中だし、いくら防音の部屋だからといって演奏は……」

 と言ったところで律を見ると、律は柔らかく笑う。

「僕は全然構わないよ。生の演奏を聞きながら宿題できる機会なんてそうそうないし」

 そこで春樹は軽く頭を掻き、父の方へ向き直った。

「……わかった。演奏楽しんできて」

「おぉ、そうか! わかったぞ!」

 そうして階下へ降りていく父の背中は、とても楽しそうだった。

 その様子を見て春樹はげんなりとし、対して律は和やかに笑う。

「……ふふ。自由で面白いお父さんだね。春樹が似ているのもよくわかる」

「え……それ本気で言ってる……? どこが似てるの」

「自由なところ」

「俺、あそこまで自由じゃないと思ってたんだけど……」

 そう言いながらドアを閉めようとする春樹に律は急いで手を伸ばした。

「待って、少しだけでも春樹のご両親の演奏、聞いていきたいな」

「そう? まぁいいけど」

 春樹がそう言って半開きの戸口から再びローテーブルに戻って宿題を再開すると、さっそくピアノの旋律が流れ出す。そして前奏が終わると、するりと溶け込むように深いチェロの旋律が交わっていった。

 律は充実した時間を送っていた。

 春樹の両親が演奏する曲はどれも自分の好みであったり、昔演奏したものばかりだったからだ。

 ふと思い出したのは数少ない、幸せだったはずの幼き頃の日々。それは走馬灯のように律の脳内をめぐっていった。

 そしてまた一つの曲が終わり次の曲が始まった瞬間、律は思わず手を止める。

「これは……『亡き王女のためのパヴァーヌ』……!」

 その様子を見た春樹は伏し目がちに微笑んで、「見に行く?」と聞くと、律はすぐさまうなずいて立ち上がった。

 そして二人は二階の廊下から一階で行われている演奏を見つめる。

「すごいなぁ……。もしかして春樹も弾けるの?」

「んー、この曲は少しだけ。というかそんなに俺上手くないよ」

「そうなの? ……でも聞いてみたいな、春樹の弾くこの曲」

 演奏に浸る律の横顔を数秒見つめた春樹は、ふ、と笑って両親の演奏へと向き直った。

「じゃあ、俺はチェロの練習するから律はピアノの練習な」

「え、僕も!?」

「俺だって律のピアノが聞きたいんだよ。それなら一緒に演奏した方が楽しいだろ?」

「ま、まぁ……そうだけど」


 そうして、ここにひとつの約束が交わされた。


 *


 ……真夜中。春樹の両親も眠りについた頃、電気を消した春樹の部屋で二人はベッドの上に座っていた。

 律は静かにベッドの縁に体を預けながら、脇にある出窓から外の景色を見つめている。遠くに見える海には三日月の光が降り注いでいた。

「そんなにめずらしい?」

 春樹は少し笑って、律の隣に座り直す。

 律は月明かりを見ながら「うん……」と心がここに無い様子で答えた。

 その様子を見て春樹は律の頬に手を当ててこちらに顔を向かせ、数秒間のキスをした。

「景色もいいけど、今は俺を見て」

「……っ」

 律は春樹の顔を見つめては、わずかに顔を赤くして視線を逸らす。その様子に少し不満げな顔をする春樹。

「嫌?」

「嫌じゃ、ないよ……。でもなんか今は気分がその……変っていうか」

 するとするりと春樹の手が律の着ているシャツの前に入り込んでボタンをはずし始めた。

 その行動に思わず目を見開いて再び春樹の方に目を向ける律。

「ちょっ……春樹」

「……だめ?」

 そう聞く春樹の目は完全に男の目をしている。自分も男なはずだけど、不思議と自分とは違う……まるで大人の男のような目だと律は本能で感じた。

 ――――これは、一線を超えようとしている。

 そのことに律はごくりと唾を飲み込んだ。

 こんなにも今までずっと夢見ていたことなのに、いざその場になると何故か胸の高鳴りや動揺が出てくる。

 そう思っている間に春樹は律のシャツのボタンをすべて外し終えていた。そしてそのままじっと律を見つめる。

 いつの日かの雨の図書室でのようなことはしない。いくら律のことが欲しくても律が自分を求めるまでは、これ以上何もしない。

 春樹の閉じた瞼の裏にあの時の怯えた律の表情が浮かぶ。もうあんな顔をさせてはいけない。幸せにすると、自分が言ったのだから。

「……春樹?」

 いつの間にか苦々しい顔をしていたのだろうか。律が不安そうな目でこちらを見ていることに気づくと、愛しさで目じりが少し下がった。

 そんな春樹の微笑みは、月明かりに浮かぶと何故か無性に胸が苦しくなるような……まるで切なさを彷彿させる。

 律はそれを先ほどの自分の態度のせいかと勘違いして焦って言葉を探した。

「違う……違うんだよ、春樹。僕は春樹とその……こういうことするの嫌なわけではなくて、でもなんだか今異常に胸がどきどきしてて……」

「わかってる」

 それでも春樹の表情は変わらなかった。

 律のなんとなく胸に居座る不安は拭いきれず大きくなって、どうすれば普段の春樹の表情に戻ってくれるか必死で考えた。

 そして。

「あ、あのっ……目、閉じて……?」

「ん? うん」

 律の両手が春樹の両肩を掴み、ほんのわずかに震えている律の唇が春樹の唇に重なる。

 律が自分を求めるまで、と思っていた春樹だが想像より上の律の愛情表現に驚いて目を見開いた。

 するとサッと身を引いた律は顔を真っ赤にしながら、それでも顔を見られないようにと月明かりからその表情を手で隠す。

 春樹は少し積極的だった律の行動に未だ驚いたまま、何も言わずにいると。

「背中は……見ないで」

 少し乱れているシャツから律の肩が、素肌が覗いた。そしてそう一言呟く律はやけに艶やかで色っぽかった。

 春樹はその姿に見とれてから少し遅れて言葉を返す。

「なんで?」

「こんな背中見たって、いい気持ちにならないでしょ?」

 律は表情に影を湛えて苦笑した。

 すると、春樹は真剣な顔つきで律のシャツを剥ぐように下ろして月明かりにその背中をさらけ出す。

「!? 春樹、いやっ……」

 春樹は改めてその白い背中に刻まれた幾筋もの生々しい傷跡を見て、辛そうな表情で唇を引き締めた後。

「そんなことない。俺は、この傷跡も含めて律が好きだから」

 そしてもうこれ以上癒えることのない傷跡に軽くキスを落とした。

「……!」

 律はその瞬間驚いたように目を開いて俯き、その瞳にじわりと涙が浮かぶ。

 わかっている。

 わかっているんだ。

 刃物が怖くて、切ってしまったところから血を見てしまうと呼吸がおかしくなるのも春樹は優しく受け入れてくれた。

 だからもしかしたら、この傷ごと自分を愛してくれるんじゃないかって。

 でも同時に怖かった。

 もし心のどこかで自分の傷跡を気持ち悪いと思っていたらと。

 その懸念は拭いきれぬまま、それは春樹を信じていないということにならないかと自分を何度も責めたこともある。

 だけど、そんな心配いらなかったんだ。

 それが嬉しくて、本当に嬉しくてどうしようもない。

 律は涙をこらえきれず目元を服の袖で覆った。

 すると春樹は驚いたようで律の顔を覗き込む。

「えっと……ごめん。そんなに嫌だった?」

 律はそんな春樹の様子を見て笑った。

「ううん、嬉しくて」

 そして儚げに笑ったかと思えば急に色気のある表情に変わり、二人は互いに唇を奪い合う。

 すると勢いのまま春樹は律をベッドに押し倒し、その体を組み敷いた。しかし、その瞬間。

「っあ、ちょっと待って!」

「!」

 叫ぶような律の震える声に、脳の芯が冷たく凍った。

 よく見れば、律のその指先は震えている。

 また俺は、同じ過ちを犯したのか?

「律……?」

「ごめん、なんでだろ……。こうされる事が夢だったはずなのに……。本当に自分がわからなくて……」

 ――――律は一線を超えるのを怖がっている。

 春樹は瞬間的にそう感じた。『こうされる事が夢だった』、その言葉が本当だとしても。

 それを察して、あの雨の図書室の二の舞にならぬようにとそっとその体を抱きしめる。壊れ物を扱うように、慈しむように。

 すると肩口で泣きながら震える声が聞こえた。

「春樹、こんな僕を嫌わないで……」

「……嫌わない。俺は大丈夫だよ」

 そうは言うが、内心律を抱けなかったことは残念だった。まるで、拒絶されたようで。律を自分のものに出来なかった気がして。

 それほどに、自分の独占欲は膨れ上がっているのか。

 ……そんな自分にも辟易した。

 こんな時はどうすればいい? 自分を鎮めて、律を安心させるには。

 目を閉じる。そして穏やかに笑った律の顔を思い出した。

 ……そうだ。

 春樹は震える律を安心させるようにその背中を優しくなでた。

「律、音楽の話でもしようか」

「音楽……?」

「家にもう弾かなくなったアップライトピアノがあるんだ。それをあの海辺の図書室……『海の図書室』でいいか。あそこに運ばないか?」

 そう言って目を輝かせながら律と少し体を離してその顔を見つめる。

 ……とんだ思い付きだった。でも、次第に目に光が灯っていく律の顔を見たら、間違いじゃないと思えた。

「え、ピアノ……なんで?」

「律だってピアノの練習しなきゃならないんだから、あそこの方がよくないか? 家には母さんいるんだし」

「あ、そうだよね。でもっ……」

「遠慮はいらない。あー、それともあの場所が知られるのが心配、かな」

 律の答えは遠慮と心配、そのどちらもだった。

「でも心配要らないと思うな。運んでもらうのを頼もうとしてるのは調律師の俺の叔父さんでここから隣の隣の隣の……隣? まぁそんくらいの街に住んでるし口が堅いからさ」

「そんなすごい人に頼むなんてなんだか申し訳ないよ」

「じゃあどうやって運ぶんだよ、あのピアノ」

「それは、うーん……それもそうだよね」

 そうして少ししてから急に律が口元に曲げた人差し指を当ててくすりと笑った。

「春樹は優しいね。僕を和ませようとしてくれたんでしょ」

 涙をぬぐいながら発せられるその言葉が図星で何も言えずに春樹は頭を掻く。

「さっきは本当にごめんね。正直言って怖くなったんだ。情けない僕を許して」

「『許す』とか『許さない』とかの問題じゃないだろ。俺がいきなり押し倒したのが悪い。謝るな」

 律の表情は泣き笑いのようだった。

「ん、ごめん」

「だからー」

「あ、じゃあその代わり……って言ったら変なんだけどちょっとやってみてほしいことがあって」

「なに?」

 すると律が顔を赤らめたのがわかる。月明かりが照らしてくれているからだ。

「腕枕……されてみたい」

 ぽつりと落ちた言葉。春樹は間の抜けたように少し驚く。

「え、それだけでいいの」

「うん……いい?」

 不安そうな瞳がこちらを向くものだから春樹は笑って、ベッドに寝そべって片腕を投げ出した。

 そしてできるだけ優しい声で言葉を発する。

「……おいで」

「……っうん」

 息を飲んだのがわかる律がおずおずと春樹の二の腕あたりに頭を置いた。

 春樹はそれを確かめて投げ出していた腕を曲げて律の頭をなでると、「もっと」とでも言うように心地よさそうに笑った律が体ごと春樹に寄せてくる。

 それが可愛くて春樹はつい、何度目かのキスをその唇に落としたのだった。


 *


「……ん」

 次の日、朝の光で春樹は目を覚ました。

 そして片腕にかかる重みを感じて、腕枕をして寝かせていた律の顔を見る。

 その顔は今まで見た中で一番幸せそうで自分までも幸せな表情になった。

 すると、「ん……春樹?」そう言いながら律も目覚める。

 春樹は柔らかい声音で「おはよう」と言うと、律は甘えるように春樹の胸に軽く頭を擦りつけながら。

「まだ、このままで居たいな……だめ?」

 と、可愛いわがままを言う。

「……いいよ」

 そうして春樹は律と共に暖かなまどろみの中にもう一度堕ちていく。

 これが律を抱けた日の朝ならよかったのにと、静かな欲の海に足を踏み入れながら。


 ***


 その日からの夏休みの日々は穏やかで幸せなものだった。


 *


 とある日、春樹は滝のような汗を流して遠野家の前に大きな荷物を運んできていた。

 玄関のチャイムを震える手で押す。すると数秒してから玄関の向こうに影が動いた。

「はい」

 律の声だった。春樹はその声に安堵を抱えつつ息も絶え絶えで「俺」とだけなんとか言うと素早く玄関の鍵が開く。

「春樹! って……チェロ持ってきたの!?」

「おう……悪いんだけどちょっと休ませて……」

 突然の訪問だった。


 *


「なんだよ春にい、バテてんのか?」

 リビングのソファに体を投げ出している春樹に陸也は冷えた麦茶を渡した。

「おー……。見ての通りだー」

 陸也は小さく「……ちぇっ」とうなだれる。

「春にいに勉強、教えてもらおうかと思ったのに」

 その言葉にピクリと春樹は反応した。

「勉強?」

「そ。夏休み明けに大事なテストがあんだよ。春にいが勉強教えてくれたら、学年一位とれるかなーって……」

 その瞬間にソファから飛び降りた春樹は陸也に詰め寄った。

「おい陸也、勉強やるぞ。教科書は、テキストは!?」

 その速さに若干引いてる陸也は押され気味の姿勢のままで、

「切り替え早っ! つーか、元々何しに来てたんだよあんた……」

「あ、そうだった」

 そこにちょうど律が楽譜を持って現れる。

「律、ごめん。連絡し忘れてたんだけど」

「ん、なに?」

「今夜、ピアノが『海の図書室』に来る」

「え!?」

「連絡しなくてごめんな。あとわざわざ夜なのは、その方が人目避けれていいかと思ったんだよ」

 申し訳なさそうに謝る春樹に律は首を横に振った。

「いいよ、もう謝らなくて。確かにビックリしたけど……これで練習ができるんだ。楽しみだな」

 嬉しそうな律の顔を見た陸也は両手を頭の後ろで組んで、楽しそうに言う。

「俺、兄貴たちの演奏聞きたい。練習頑張れよ。俺もテスト頑張る」

「うん!」

 すると何か思い出したように陸也が自室へと向かっていった。

 春樹と律は不思議に思いながらも目を合わせ、笑い合う。

「これで春樹と一緒に練習できるんだね。陸也に見せるって目標もできたし……僕、なんだかもうワクワクしてるみたい」

「俺も」

 そして、「春にい!」と戻ってきた陸也の手には一つの鍵があった。

 それを見て律は目を見開く。

「陸也、これって……!」

「あの海辺の図書室の鍵。俺あんまりあそこ行かなくなったからさ、春にいにやる。言っとくけど……信頼の証だから」

 そうして斜め下に視線を向ける陸也の顔は少し赤かった。

 春樹は大事そうにその鍵を受け取る。

「ありがとな。これは俺も本腰入れて勉強教えなくちゃ」

「頼むぞ、春にい。そして満点のテスト用紙見せてやるからな!」

「ハードル自分で上げるね、陸也……」

 律の苦笑に陸也は自信たっぷりと笑って見せた。


 *


 陸也の部屋で春樹は勉強を教え、律は扇風機を回したり飲み物を時折持ってくるなどサポートにまわり。

 春樹が思うに、律の言っていた通り陸也は頭がよく、読み込みが早く感じられた。これは、教え甲斐がある。

 そしてこれから夏休みが終わるまで午前中は勉強を教える約束を陸也と交わした時。

 突然、春樹のLINEが鳴った。


 *


 外に出れば軽トラにピアノを乗せた久々に見る叔父の顔。

「よぉ、春樹。大きくなったな」

「そんなに変わってないよ、叔父さん。今日はありがとな」

「いや、ちょうど姉貴たちの顔も見に来ようと思ってたところだったから。ちょうどよかったよ」

 そこに遅れて律も出てくる。

「こ、こんばんは。遠野 律といいます。なんとお礼を言ったらいいか……」

「そんなにかしこまらなくていいよ、律くん。このピアノも喜ぶさ」

「ありがとうございます!」

 布にくるまれてはいたが、厳重に運ばれてきたピアノを見て嬉しそうな表情をした。

 すると春樹は遠野家の玄関からチェロを持ってくる。

「あのさぁ……これも乗せてくれると助かるんだけど……」

 すると春樹の叔父は思わず笑った。

「こんなでかいのをあそこから運んできたのか!? なかなかやるな」

「そりゃどーも」

「うーん、この辺りなら乗せてもいいかな。どれ、貸してみろ」

 そうして軽トラにチェロも乗せられる。

「で、これをどこに持ってけばいいんだ? 聞いた話だと二人だけの秘密の場所だとか?」

「まぁそんなとこ。誰にも秘密な。叔父さんのこと信頼してんだから」

「わかったわかった。で、どうする?」

「ここから先の、堤防をまたぐように建てられた不思議な形をした建物。そこに持って行ってほしい」

「あぁ、そういえばここに来るとき見かけたような」

「俺たちも走って追い付くからさ、先行っててくれない?」

「わかった」


 *


 そうして軽トラは出発する。律が陸也に家を頼むと、春樹は律の手首を引いて体ごと引き寄せて笑った。

「行こう」

「……うん!」

 そうして二人は月の光が道を作る海沿いを笑顔で走り出す。絆が『音楽』というものでさらに結ばれていく、そんな気さえした。

 しばらく走っていくと『海の図書室』前に軽トラのランプがほのかに見えた。


 *


「さすがに……疲れた」

 どうにか男三人でアップライトピアノを階段上のこの『海の図書室』に運び込み、調律を終えて。叔父と別れた後に春樹はどかっと本棚の前に大の字で倒れこんだ。

 それを見た律も汗を拭いながらくすりと笑う。

「今日は家からチェロ持ってきた上に陸也の勉強まで見てくれたからね。それにこの重労働だもん、疲れるよ。でも……嬉しい、ありがとう」

 そう言って律も春樹の傍らに寝転んだ。

「あれ、ここの床汚いんじゃなかったっけ」

「日中、春樹が陸也に勉強を教えてくれてた間にモップとか使って綺麗にしておいたんだ。だって立派な楽器も来るし」

「そっか」

 そして春樹がごろんと横になって律の方を向き、キスをしかけて一度止まる。

「……鍵は?」

 すると律は思わせぶるような表情で妖艶に笑う。

「もうかけた」

 それを見て春樹も色気のある表情に変わり、キスを交わした。

「練習、明日からでもいいかな」

 キスの途中で春樹がそう遮ると、

「いいよ。だから今は僕を見て」

「……ん」

 ねだるように律からキスをする。

 それ以上のことは、この日もしなかった。


 *


 翌日。

 午後の『海の図書室』からは二つの音色が途切れ途切れに響いていた。

 ある程度ピアノの練習をした律はそっと背後にいる、初めて見るチェロを奏でる春樹を見つめた。

 深みのある良い音を奏でるその姿は見惚れるほどかっこよくて、その姿を独占しているのが自分だけだということに胸が高鳴る。

「……律」

「えっ」

 突然名前を呼ばれてビックリすると、真面目な顔つきの春樹が楽譜を指さしていた。

「途中まで合わせてみないか」

「あ、うん。そうだね。でもどうやって一緒のタイミングで入ろうか……。僕は背中を向けているから目は見合わせづらいし」

 その言葉に春樹は笑ったようだった。

「呼吸だよ。お互いの呼吸を合わせるんだ。まずは俺の呼吸を聞いて入ってみて」

「やってみる」

 正直律に自信はなかったが、自信のありそうな春樹の言葉に自分を叱咤する。

 そして静寂の中。

「……――――」

「……!」

 春樹の呼吸が聞こえ、静かなチェロの旋律とピアノの伴奏が同時に呼応した。

 律は初めての感覚とその心地よさ、衝撃に身を震わせるが、旋律は止まらない。音楽はとめどなく流れていく。律は置いてかれないように伴奏を続けた。

 しばらく演奏は続き、次に律がメインの旋律を弾く所で音の流れはスッと余韻を残して止まる。

 律は両手の指が震えていることに気づいた。

 春樹はそれに気づくことなく、「おー、なかなか初めてにしてはできたな」とのんびり言うが。

「春樹……、どうしよう」

 律の震えた声にすぐ視線を向ける。すると泣きそうな顔の律が胸の前で震える両手を握りしめていた。

「こんな感覚、初めてだ。呼吸があった時の瞬間とか、誰かと旋律が混ざり合う気持ちよさとか……こんな経験初めてで、全身の震えが止まらないんだ」

 すると春樹は一旦チェロを置き、律を抱きしめる。

「音楽って、楽しいんだな。俺は音楽を嫌になりかけてたけど、律がそんな俺に音楽の楽しさをまた教えてくれた。ありがとな」

 お礼を言うのは僕の方なのに、と言おうとした律だが言葉が喉につまって出なかった。ひたすら、涙が流れる。

「あり……がと」

 言えたのはそれだけだった。


 *


 夏休み中盤。陸也の勉強の出来はこの時点でかなり良かった。

「すげーじゃん。このページも全問正解」

「っしゃあ!」

「たまには休憩もしなよ、陸也」

 勉強する二人に麦茶を持ってきた律が陸也に言うと、陸也は宙を見ながら楽しそうに言う。

「前からそうだったって言えば間違いじゃねーんだけど、最近もっと勉強が楽しくてさ」

「そっか。陸也はやっぱりすごいね。春樹のおかげでもあるのかな」

「ま、まぁな」

 そして照れながらぶっきらぼうに言った陸也は真面目な顔つきになって春樹を見据えた。

「……あんた、絶対教師になれよ。こんなに教え方上手いんだ。本当に、俺の通ってる学校の先生よりわかりやすい。俺が保証する」

 その言葉に、春樹は腕を組みながら苦笑する。

「そうだなぁ。陸也の保証があるなら教師になる勉強もしないとなぁ」

「春にいも……頑張れ。俺も頑張るから」

「……おう」

 二人の会話を聞きながら律は微笑して、数秒後思い出したかのように手を叩いた。

「そうだ春樹! 今日から演奏の練習するとき、これ使わない?」

 そう言って持ってきたのは、かなり古い大きめなカセットレコーダーだった。

「……」

「これで練習を録音してくんだよ! どう?」

 陸也は顔を歪ませる。

「『どう』って……今どきカセットレコーダーなんて使う高校生、兄貴くらいじゃねーの」

「う、うるさいな! 父さんの部屋にあったんだよ! それに流行は巡り巡ってくるものなんだからいつかカセットレコーダーだって……」

「はいはい、わかったわかった。それ使おう。録音できるカセットはあるの?」

 春樹の問いかけに律は「あるよ!」と嬉しそうに言った。

 それから二人の演奏の様子は録音されていく。


 *


 夏休み最後の日。


「りーつー。いま間違っただろ」

「ははは、ごめん。つい」

 そんな会話までも録音されている環境の中、律のLINEに陸也からメッセージが来た。

『どう? 俺聞きに行っていい?』

 ……演奏の件だ。

「春樹、陸也が演奏聞きに行ってもいいかって……」

 律の言葉に春樹はチェロを抱えながら渋い顔をした。

「んー……まだしっかりした演奏ができた回数が安定してないからなぁ」

「そうだね……。じゃあ、明日! テストが終わった陸也に聞かせよう。その時には点数も出てるから……」

「え、その日に点数出るのか?」

「陸也が通ってるところは偏差値高めだけど生徒数が少ないんだ。だから希望さえすれば、ちょっと待つだけですぐに採点して返してもらうこともできるんだよ」

「へぇ……そんな学校もあるのか」

「きっとこの方がいいよ。点数がよければ陸也も気持ちよく聞けるし、点数が悪くてもその時は心の傷が少しでも癒えるかもしれない。LINE返すね」

「あぁ」


 そうして、夜更けになるまで練習が続行されたのだった。


 ***


 ……その日は豪雨だった。

 肌に当たれば痛いほどたたきつけてくる雨に、心まで潰されそうになる。いや、潰れきってしまっていたのかもしれない。

 鬱蒼とした森の中、荒れ狂う水の音、レインコートに反射する赤いサイレンの光、大人たちの怒号。

 最初に報せを聞いた時は何も考えられなかった。急いで家から飛び出した時に、レインコートだけはなんとか引っ掴んだものの、水たまりがたくさんできているというのに長靴ではなく普段から履きなれているスニーカーを履いてきてしまった。

 そして、心の中にぼんやりとした黒いもやのようなものが浮かび、走っていくうちにそれは次第に輪郭を現す。見えるのは不安や恐怖をまとった黒い塊だけである。きっとそれは死神か悪魔の形だ。

 僕がここに駆けつけて何時間経っただろう。

 ――悔しかった。

 僕は橋の上で欄干を震えるほど強い力で握りしめる。

 自分も川に近づいて探したかった。けれど足手纏いになるのは目に見えていて、自分の無力さを痛感する。

 いつもは澄んでいて川底が見える小川の水面は土砂が混ざり、荒れ狂った水がときおり岩にぶつかっては猛々たけだけしく飛沫しぶきを散らす。すべてを呑みこんでいくその様をどれくらいの間見ていただろう。

 そんなことを考えていると、川の下方から近所に住むおじさんの声が響いた。

「律くん、見つかったぞ!」

 それは絶望の言葉。僕は両手で顔を覆い、橋の上でうずくまる。

 なんとなくわかっていた。見慣れた靴の片方が、小川の隅の茂みに引っかかっていたから。……陸也の、靴が。


 *


『陸也が川で溺れた』

 その報せを聞いた春樹は傘をさすこともせず、ずぶ濡れのままで問題の川へ向かった。……その林道は陸也の学校帰りに通る道だったという。

 パトカーのサイレンの光、大人たちの必死の怒号が溢れ、……こんな雑音、聞きたくもない。

 たくさんいる大人たちの影の向こうで、橋の上で座り込む律の姿があった。

「律! 律!!」

 そう叫ぶと、一瞬ハッとした律がこちらを向いて何か口が動く。

『春樹』

 と、言ってる気がした。

 泣きそうな目ですがるようなその手が春樹の方へ差し出されるが、春樹もこちらへ近づけないと察したのか、次第にその手は視線と共に下がっていく。

「ダメだ律、諦めるな!」

 ……まるで陸也の命を諦めかけているように見えてそう叫んだ。

 しかしそれ以降律は再び視線を川の方へ向けたまま、座り込んで動かなくなった。

 居てもたってもいられなくなった春樹は周りの大人たちを掻き分けて進もうとするが、一人の男に突き返される。

 べしゃっと泥水が宙を舞った。

 男は、一瞬申し訳なさそうな顔をするが、すぐ顔をひきしめて橋の方を見つめる。

 春樹はそれでもと、その男にすがった。

「溺れてるのは俺の弟分なんだ! よけてくれ!」

 すると男は叱責する。

「……よそもんのガキが、余計な事するな!」

 その言葉に春樹の中で瞬発的に怒りが湧く。

「何も出来ずに見ているだけの大人こそ、口を挟むな!!」

 そうして川の下流の方へと走り出し、林道に入り込んだ。

 激流が林道を削るかのごとく流れていた。そして、川の上方には陸也が普段履いていた靴が引っかかっているのが見える。

 やっぱり報せは本当だった。溺れたのは、陸也だ。

 その事実に頭が働かなくなっていく。

 するとその時。

「陸也くん、しっかりするんだ!」

 そんな老人の声が聞こえ、その方を反射的に見た瞬間。

 ……思わず腰が抜けて、動けなくなった。

 目線の先には、複数の男たちに担がれてきた夏服を着た陸也がぐったりとしたまま目を開けず、春樹の目の前で担架から片腕をだらりと下げたのだ。

「りくや……、陸也! しっかりしろ! 絶対死ぬな!」

 そう叫ぶことしかできなかった。

 ……自分も何も出来なかったのだと、無力さを痛感した最悪の日々が始まった。


 ***


 あれから日々は変わり果てた。

 陸也は意識不明になり、隣町の病院に移されて。

 律はその精神的ショックから立ち直れず、学校に来なくなった。

 春樹も口数が減り、まるで無機質のようになってしまった。

 そしてそんな春樹に追い打ちをかけるように。

「この前ね、進路を水泳の方に変えてみたんだ。だけど……やっぱり大反対された。せっかく助言くれたのにごめんね、西山くん。……僕は別の大学を目指すよ」

 生田はなるべく暗くならないようにと無理に明るく言ったが、最後の一言はぽつりと泣きそうな声に聞こえた。

 春樹は机に座り視線を下げたまま、無気力な声音で返す。

「……悪かったな、生田。お前にまで迷惑かけて」

 そんな様子を遠くから、広野が複雑そうな表情で見ていた。


 *


 数日、律からの連絡を待った。が、三日経っても何も連絡は来なかった。

 春樹は帰宅後家の机に向かい、律の色んな表情を思い出して最後にあの橋の上での表情が浮かんだ。

 そうしたら、居てもたっても居られなかった。

 時刻は夜の八時。

 親の心配をよそに家を飛び出し、律の家へと走る。

 しばらく坂を下り続け、月の無い曇り空の下を息切れをしながら足を進めた。

 そうしてタイミングが良かったのか。

「……律!」

 食事を買ったのだろう。コンビニの袋をさげて、暑くないのか長袖の服を着てやつれた表情の律がちょうど遠野家の玄関の鍵を開けるところだった。

「春樹……? ――ッ」

 その瞬間左の手首を押さえた律を見たとき、嫌な予感が春樹の背を駆け抜ける。

「おい……まさかその手首」

「な、なにもない……」

「嘘だ!」

 ガサッと言って落ちたコンビニ袋の音がやけに生々しく聞こえた。

 春樹は律を玄関の戸に両手を縫い付けた状態にして、袖から見えた左手首をじっくり見たのだ。

 律は弱々しく抵抗しながら「やだ、やだ……」と子どものように泣き始める。

 春樹が押さえつけた律の手首には包帯が巻かれていて、じわりとまだ新しい血がにじんでいるのを見た。

「自分でやったのか」

「……だって」

 その一言で肯定だと捉えた春樹は律の両肩を力強く掴みかかる。

「なんで! なんでお前はただでさえ傷ついてんのに、さらに自分で傷つけるんだ! こんな……一生残る傷を作って……」

 すると、肩にかかる春樹の力が抜けたと同時に律はぺたんとその場に座り込んでしまう。

「こうでもしないと……生きていけなかったんだ」

「は……?」

 訳も分からないといった春樹の声音を聞いた律は皮肉めいた表情をした。

「春樹には……きっとわからない」

「!」

 結ばれていた絆が、分かたれた気がした。

 律はよろよろと立ち上がって、春樹を玄関の中へ招き入れる。

「見せたいものがあるんだ。でもその前にちょっと待って」

 そうして一度リビングに足を踏み入れ、持っていた食事の入ったコンビニの袋を母親の部屋の前に置いた。

「……夕食です」

 そのまま踵を返して玄関へと戻ってくる。

「二階に行こう、春樹」

 しかし、不審に思った春樹は律の腕を掴んだ。

「おい。……律の分は?」

「……僕は食べなくても平気だから」

 そうして二階の自室へと入ってしまう。

 春樹は苦し気な表情をしてその後を追った。


 *


 律の自室は、いつもと違って少し荒れていた。

 ベッドの上の布団は乱れたまま、スクールバッグはあの日雨に濡れたまま放り投げられて。

 そして机の上には……カッターナイフ。

 思わず目をそらしたくなったその時、律がしわしわになった複数の紙を見せてきた。

「この前陸也の学校の先生に会ったんだ。見て、春樹。全部満点。陸也、群を抜いて学年一位だったんだよ」

 そう言って歪な笑みを浮かべる律。

 ――――あぁ、壊れてしまった。

 そう思ってしまったと同時に春樹は気づかず涙を流していた。

 陸也が戻って来ない限り、律はきっと元に戻らない。

 それはいつになるか、そんな日が来るかもわからない。

 そして自分は、律の『光』にはなれない。

 春樹が涙を流していることに気づいた律は、目に光を無くしたままそっと自分の袖で春樹の涙をぬぐった。

「春樹は悪くない。悪いのは僕だよ。……陸也、あの日勉強のし過ぎで熱出てたんだ。なのに学校に行かせてしまった……。取り返しのつかないことをしたんだ」

 春樹の中で記憶が動き出す。

『頼むぞ、春にい。そして満点のテスト用紙見せてやるからな!』

 そう言っていた陸也の満面の笑みを思い出す。心が余計につらくなった。

 再び春樹が涙を流すと律はもう一度その涙をぬぐう。

 よく見れば、そんな律の頬にはぶたれた跡が。あの母親にやられたのだろう。

 生活と精神の基盤だった陸也を無くした律は、母親の暴力を受けながら陸也をあの日学校に行かせた罪悪感を背負って生きていた。

 おそらく、その生活が辛すぎたのだろう。そして、自傷して変わり果ててしまった。

 春樹は泣きながら律を抱きしめる。

 その体は以前に比べて痩せていた。


 ***


「……おい、いつまでしけたツラしてやがる」

 それは秋晴れの屋上でのこと。春樹は広野に呼び出されていた。

 春樹は壁によりかかり、あぐらをかいて視線を下げたままでいる。

「殴りたいなら、殴ればいい」

 その言葉に広野は一度ため息をつき、春樹の胸ぐらを掴んで立ち上がらせて詰め寄った。

「お前は『それでいい』と思ってやってきたんだろうけどな、その行いがすべて正しいってことはねぇし、ましてやそれが誰かを傷つけることがあるっていうことを知った方がいいんじゃねぇのか」

「……どういう意味だ」

「そのままの意味だ」

 春樹は胸の中で広野の言葉を反芻する。

 すると、生田のこと、陸也のこと、……律のことまでもが自分が悪い気がしてくる。そして広野の言葉の正当性に気づいてしまった。

 ……腹が立つ。なんで人をイジメてた奴に正当な事を言われなきゃならないんだ。

 春樹はうつむきながら最初は小さく、そして徐々に声を荒げて叫んだ。

「お前だって……」

「あ?」

「お前だって律をいじめてただろ!」

「っあれは……あいつがそれ相応のことをしたからだ」

「それ相応のことってなんだよ!?」

「あいつのせいで……おふくろが未だに意識不明のままだ」

「――……律の……せいで?」

 広野は壁によりかかり、空を仰いだ。秋風が二人の間を縫うように通り過ぎる。

「……あいつは俺の幼馴染だった。そしてある時俺のおふくろにこう頼んできた。『お母さんが病気になりました、少しでいいので面倒を見てくれませんか』……そりゃあ断れねぇよな。古い馴染みでこんな狭い田舎じゃ」

「それでどうなったんだ」

「俺のおふくろはどんどんあのババァのせいで病んでいったよ。そしてある時……何が気に食わなかったのか知らねぇが、俺のおふくろがあのババァを風呂で面倒見てる時に浴槽に頭を押さえつけられてな。暴れる音を聞きつけたあいつが止めに入った時にはおふくろはぐったりだ。すぐに病院に連れてかれたけど今も意識不明。……あいつさえあんなこと頼まなければ今頃おふくろは……」

 春樹は広野の過去の話を聞いてゾッとする。

 ひとつは律の母の凶暴性。そしてもうひとつは、陸也もこのまま意識不明のままになるのではという恐怖。

 広野は話を続ける。

「だからよかったよ、陸也が溺れて。あいつ馬鹿だよな、あんなの危ないに決まってんのにフラフラしながら沢に向かって……」

 そこまで話して広野は口が滑ったとハッとした。春樹は怒りの目つきで広野を見据える。

「おい……なんでそんな細かいことまで知ってる」

「……」

「話せ!」

 今度は春樹に胸ぐらを掴まれた広野が無理やり春樹の手を払いのけた。

「陸也を溺れさせる気は、なかったんだよ。ちょっとからかってやるつもりであいつの鞄を沢の方の枝に引っかけたんだ。そしたら枝が折れて……」

「取ろうとしたんだろ、陸也はその鞄を」

 広野は渋々うなずく。

 その鞄には、春樹に見せるためのテスト用紙が入っていたからだ。危ないと判断できなかったのは熱で判断が狂ったからか。

「……それは母さんの腹いせか?」

 その言葉を聞いて広野は怒鳴った。

「だから溺れさせる気はなかったっつってんだろ! すぐに通報もした!」

 春樹はできるだけ冷静になれるように息を吸い込んで、吐いた。

 確かに、その通報がなかったら完全に陸也の命はなかったかもしれない。

「そうかよ。……わかった」

 最後に広野は去り際に言った。

「お前さぁ、表面的な事しか見えてなかったんじゃねーの」

「!」

 そう残して、屋上のドアが閉まる。

「……」

 痛い所を突かれた気がした。今の春樹には、自信のあった選択肢さえ間違いだったように思えてしまう。

「俺は……何をしてたんだ……」


 ***


 そして律は来ないまま、

 ――――……俺たちは、卒業を迎えた。


 ***


 それから春樹は教員免許のとれる都会の大学に進んだ。

 女の子からも告白されたりしたが、ふと視線が行ったのはあの綺麗で儚い髪の色で。思い出されるのは人差し指を軽く曲げて口元にあて、笑うあの顔。

 ……結局断った。周りからの詮索がうるさかったので、遠距離の彼女がいるということにして大学生活を送った。

 ときおり、あの髪の色を思い出す。あの声を思い出す。あの仕草を思い出しては、表情を思い出して。ピアノとチェロの音を聞いては足を止めていた。

 でもそれも、いつか埋もれていくように消えていって。


 ***


 律のことを忘れかけていた春樹は国語の教師を志望し、教育実習をするためにあの街に戻ってきた。

 そこで感じる、律の存在の欠片。あれだけ大切だったことを忘れかけていたことさえ忘れていた自分を愚かだと感じ、胸がくすぶる。

「先生さぁー、絶対学生時代モテたでしょ!」

「モテないモテない。ほら、家に帰れー」

 生徒たちとの会話は思った以上に楽しかった。そして、生徒が誰も居なくなった放課後。

 春樹は校内を歩きながら学生生活を思い出していた。

 あの階段は確か、転校初日に同級生から逃げていた時のものだ。自然とくすりと笑ってしまう。

 そしてあの時は確か……図書室に逃げ込んだんだ。

 足は自然と図書室に向けられた。

 そうだ。扉を開けたらそこには綺麗な髪の律が儚げに立っていて。

 春樹は扉を開けるが、そこに律は居なかった。ただ寂しく、窓の外から古い桜の木と、遠くにプールが窓から見えた。

「律はいつもこの景色を見てたんだよなー」

 その時。

 ふいに窓から桜の花びらが風と共に舞い込んだ瞬間、思い出した。

『春樹……卒業するときに僕の大好きな本に栞を挟んでおくよ。覚えてたら……見てね』

 そうだ。あの本は……。

「萩原朔太郎の『月に吠える』……」

 その瞬間、春樹は本棚へ走り出していた。名目を目で追うは『月に吠える』。

 そしてその本は本棚の一番下の段にあり……栞が、挟まっていた。

『竹』という詩のページだった。

 これは勉強したことがある。確か萩原朔太郎が家庭との摩擦に苦しみながら自由を求めていた当人の心象風景じゃなかったか……?

 なんだか、律と重なる部分があった。詩の続きを読もうと反対側のページを読もうとしたとき、栞が床に落ちる。

 そして拾い上げたとき、春樹は息を止めた。

 その栞には……「ずっと好きだった」の一言が。この丁寧な字は……間違いない、律だ。

 その字を見た瞬間、春樹の目から涙がこぼれていた。そして本を置いて走り出す。

 校舎を抜けて、あの長い坂道へ。

 律……いつあの栞に書いたんだ。今何してる? 生きているのか?

 お前を忘れかけていた俺を許してほしい。できることなら、もう一度会って。

 遠野家の家の前で盛大な息切れをする。震える手でチャイムを押すが、……誰も出なかった。

 春樹は涙を拭って今度は『海の図書室』へと走る。

 足がおかしくなりそうだったが、今この足を止めてはならないと思った。

 ようやく見えてきたあの建物に息を呑む。そしてポケットからひとつ、鍵を出した。

 静かに鉄の階段を上っていく。すると。扉の向こうから音が聞こえた。

「これは……『亡き王女のためのパヴァーヌ』……!」

 ピアノとチェロの二重奏だった。しかし、言っていいものかわからないが、上手くはなかった。

 すると。

『りーつー。いま間違っただろ』

「……! 俺の、声……」

『ははは、ごめん。つい』

 明るく笑う律の声が聞こえた瞬間、ようやく気付いた。

 春樹は急いで鍵を開けて中に入る。

 そこには窓辺の椅子に座り、月の光を浴びながら古いカセットレコーダーで繰り返し演奏を聴く男の姿があった。

 髪は鎖骨のあたりまで伸びていた。

 ドアの音でゆっくり振り返り、「え……?」と言ったその顔は。

「……律」

 律だ。律がそこにいる。自然とまた涙が流れた。

「はる……き……?」

 その言葉を聞くか聞かないかの瞬間に春樹は律を抱きしめていた。

「春樹……!」

 最初は理解が追い付かなかった律も、春樹の体温を感じてようやく涙が流れた。

 つらかった。ずっと。春樹にすがりたくて何度もスマホを握ったが、結局何も出来ずに泣いていたこと。それらが一気に押し寄せていたようだった。

「キス、していい?」

 春樹の問いかけに、互いの指をからませながら律はうなずく。

 ……そうして二人は、結ばれた。


 ***


 とある休日のこと。春樹はワイシャツにスーツパンツを着て遠野家の前に居た。その気配を察したのか、律が出迎えてくれる。

 久々に春樹は緊張していた。というのも。

「律」

「なに?」

「俺と一緒に、住まないか」

「え……?」

「もう、律を手放したくない」

「春樹……。嬉しい、ありがとう。でも僕には母さんが……」

「それを今からケリつけてくる。この選択が正しいかは分からないけど、今は自分を信じたい。律は荷造りしといてくれ」

「えっ!? う、うん……。でも春樹、危険なことは……」

 心配そうな律の顔を振り返った春樹は、あの幸せだった日々の時のように自信に満ち溢れていた。


 *


 春樹は律の母の部屋をノックする。

 そしてしばらくするとガッと戸が開いて突然拳が振り下ろされてきた。

 春樹はその腕を力強く掴んで抑える。

「……!」

「お久しぶりです。西山春樹です」

「あなた……」

「律だと思って俺を殴ろうとしましたね? でも、もうこんなことはさせない」

「どういうこと」

「そんなに律を拒絶するなら、律をあなたから奪っていいですか」

「何言ってるの……?」

「いい加減律を自由にしてやってください。というか、……俺が律を幸せにします。あなたは、自立してください」

「ちょっと! 何言ってるの!?」

「強引ですみませんが、律さんは俺が貰いますので」

 そう言い残して、トンッと彼女の体を押して扉を閉めた。彼女は、しばらく出てくることは無かった。

 玄関に戻ってきた春樹を見て、律は荷造りした鞄を置いて駆け寄り、抱きしめた。

「春樹……! えっと……あの、後でこれは聞くよ。母さんは、大丈夫だった?」

 春樹は頭を掻きながら苦笑する。

「我ながら、少し強引だった」

 その言葉に律は人差し指を軽く曲げて口元にあて、微笑む。

「律、行こう」

「……うん!」


 *


 律が春樹に連れてこられたのはまだ新しいアパートの三階だった。

 新居を見て目を輝かせる律に春樹は「どう?」と聞くと。

 急に後ろから抱き着かれた。

「すごくいい……。ねぇ春樹、さっき聞こえたんだけど、……僕を幸せにしてくれるって、本当?」

 それを聞いて春樹は体を反転させて正面から律を抱きしめる。

「もちろん。そしてもう律は自由だ。何が来ても俺が守る。約束する」

 その言葉に律は涙を目に溜めた。

「春樹……! 僕も、春樹を幸せにするよ。ちょっと頼りないかもしれないけど」

 そうして笑った瞬間涙が零れた。

 その涙を止めようと、春樹が軽くキスをする。

 律はそれじゃあ足りないとキスをねだろうとした時。

 突然、律のスマホが鳴った。

 連絡先は……隣町の病院。

「……陸也のいる病院だ!」


 ――――良い報せは、すぐそこに。



 雨の図書室 -終-



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