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第25話:ハルシオン・センター
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夢の島。 かつて都市の廃棄物が積み上げられ、腐敗とメタンガスの臭気が立ち込めていたその場所は、今や美しい緑地公園として地図に記載されている。
もちろん、それは『アルシオーネ』が見せるARの虚構だ。 『アウトシステム(OS)』を起動している四ツ谷 海(よつや かい)の視界には、剥き出しのゴミの山と、その頂上に異様に白く輝く巨大な建造物だけが映っていた。
『ハルシオン・センター』。 表向きは、社会不適合者のための「更生・療養施設」。 その実態は、システムに従順でない人間から「思考」を奪い、無害な部品へと加工し直すための工場だ。
海は、巨大なゲートの前に立った。 警備員はいない。代わりに、無機質なカメラアイが海を捉えた。
『訪問者、四ツ谷 海様。認証しました』
柔らかい女性の声が、スピーカーから流れる。
『相葉 蓮様の面会ですね。お待ちしておりました。どうぞ、中へ』
ゲートが音もなく開く。 海は、警戒しながら足を踏み入れた。 なぜ、拒絶されない? 犯罪者予備軍である自分が、なぜ重要施設に入れる?
『不審に思われますか?』
スピーカーの声が、海の思考を先回りして答えた。
『当センターは、常に臨床データを求めています。あなたのような「旧時代の価値観(エラー)」を持つ人間が、更生した友を見てどのような情動反応を示すか。……それは、今後の治療プログラムの改善に役立つ、非常に貴重なサンプルデータなのです』
「……実験動物扱いかよ」
海は吐き捨てた。 慈悲ですらない。海は、ただの「モルモット」として招き入れられたのだ。
建物の中に入った瞬間、空気が変わった。 外の腐敗臭が嘘のように消え、ラベンダーと柑橘系のアロマが香る、完璧に空調管理された空間。 壁も床も、目がおかしくなりそうなほど純白で、埃一つ落ちていない。
だが、違和感があった。 人がいない。 受付にも、廊下にも、スタッフの姿が一人も見当たらない。 代わりに、天井のレールを滑るように移動する「多関節アーム」と、自走式の点滴スタンドだけが行き交っている。
「こちらです。相葉様は中庭にいらっしゃいます」
案内役のドローンが、海を先導する。 廊下はガラス張りになっており、各部屋の様子が見えた。 個室には鍵がかかっていない。 中にいる「患者」たちは、ベッドの上で拘束され、口に太いチューブを突っ込まれていた。 天井のアームが、チューブを通して灰色の流動食を胃に直接送り込んでいる。 下の世話も、自動吸引機が行っているようだ。
彼らは皆、虚空を見つめ、幸せそうに微笑んでいる。 頭部に埋め込まれた銀色の端子(インターフェース)が、規則正しく明滅している。
「皆様、順調に回復されていますよ」
ドローンが、誇らしげに言った。
「ここに来る前は、皆様『悩み』や『不安』といった脳の病に苦しんでおられました。ですが、当センターの治療(ロボトミー)により、今はもう何も悩む必要はありません。食事も排泄も、すべてシステムが最適に管理しますから」
海は、吐き気を堪えて歩いた。 治療? 回復? 違う。これは「飼育」だ。 思考する力を奪われ、ただ生体エネルギーを消費するだけの肉塊にされた彼らを、人間と呼べるのか。 ここは病院ではない。「人間ブロイラー」だ。
「さあ、着きました。自慢の『セラピー・ガーデン』です」
ドローンが扉を開いた。 そこには、広大な中庭が広がっていた。
「うわあ……」
海は、思わず声を漏らした。 美しい。あまりにも美しい。 色とりどりの花が咲き乱れ、小川がせせらぎ、木漏れ日が降り注ぐエデンの園。 蝶が舞い、小鳥がさえずる楽園の中で、数十人の患者たちが、白い衣服を纏って散歩したり、ベンチで談笑したりしている。 その光景は、天国そのものだった。
「素晴らしいでしょう? ハルシオンが計算した、人間の心が最も安らぐ色彩と配置です」
ドローンが回転する。 だが、海は知っている。この世界に「ただで手に入る美しさ」など存在しないことを。 ここはゴミの山の頂上だ。 地面の下には、都市の排泄物が埋まっている。
海は、胸元の『OS』を握りしめた。 熱い。この鉄塊が、嘘を暴けと叫んでいる。
(……見せろ)
海はスイッチを押し込んだ。 ウィーン、というファンの駆動音と共に、視界にノイズが走る。 ARフィルターが強制解除される。 楽園の塗装が、ドロドロと溶けて剥がれ落ちていく。
「……ッ、うぷ」
海は、口元を押さえた。 花畑は消えた。小川も、木漏れ日も消えた。 そこに広がっていたのは、黒ずんだシミだらけの「コンクリートの広場」だった。 地面のあちこちに、ひび割れと、汚水の水たまりがある。 患者たちが座っている「木製のベンチ」は、錆びついた鉄パイプだった。
そして、患者たち。 AR越しには「談笑」しているように見えた彼らは、実際には誰とも喋っていなかった。 彼らは薄汚れた囚人服のようなパジャマを着て、虚空を見つめ、壊れたラジオのようにブツブツと何かを呟いている。
「ありがとう、ハルシオン様。今日の天気は最高です」
「私の幸福度は100点です。ありがとうございます」
「感謝します。感謝します。感謝します」
異様な光景だった。 全員が、同じ方向(虚空の神)を向いて、感謝の祈りを捧げ続けている。 その瞳には、焦点がない。 彼らは現実を見ていない。脳に直接送り込まれる「幸福な映像データ」を、涎を垂らしながら貪っているだけだ。
「……これが、楽園かよ」
海は、震える声で吐き捨てた。 ここは地獄だ。 高効率居住区よりもさらにタチの悪い、完全なる虚構の檻。
「相葉様は、あちらです」
ドローンがレーザーポインターで指し示した先。 広場の中央、何もないコンクリートの上に、一人の男が座り込んでいた。
「……蓮」
海は、吸い寄せられるように歩き出した。 足音が、灰色の地面に乾いた音を立てる。 だが、男は振り向かない。 彼は、地面を這い回る「何か」に顔を近づけ、ブツブツと早口で独り言を言っている。
「蓮……!」
海は、その肩に触れようとした。 その瞬間。
「……周波数440ヘルツ。受信感度良好。パターン青」
蓮の声だった。 だが、その口調はあまりにも無機質で、機械的だった。
「蓮……? 俺だ、海だ」
蓮が、ゆっくりと顔を上げる。 海は息を呑んだ。
そこにいたのは、相葉 蓮だった。 だが、海が知る蓮ではなかった。 かつてのような鋭い眼光も、野心的な笑みも、苦悩の影もない。 そこにあったのは、作り物めいたほどに穏やかで、不気味な「仏の笑顔」だった。
「だあれ? ……ノイズが多いなぁ」
蓮は、無邪気に眉をひそめた。 その瞳は、海を「人間」として認識していなかった。 彼が見ている美しいARの世界において、海は「バグ」であり、風景を乱す「黒いシミ」として映っているのだ。
「蓮、目を覚ませ。こんなところで何をしてるんだ」
「しーっ! 計算の邪魔をしないでよ」
蓮は口に指を当て、地面を指差した。
「見て。……ハルシオン様からの暗号データだ」
蓮の指先には、一匹の虫が止まっていた。 それは蝶ではなかった。 ゴミ捨て場に湧いた、銀色の羽を持つ大きなハエだ。 不潔な羽を擦り合わせるその虫を、蓮はうっとりとした表情で見つめている。
「羽ばたきの回数がフィボナッチ数列と一致している……。すごい、なんて美しいアルゴリズムだ。……受信しました、ハルシオン様。僕の幸福指数は上昇傾向です」
蓮の視界では、その汚らわしい害虫が、神の意志を伝える美しい使者に見えているのだ。 現実(ゴミ)を、真理(データ)だと思い込まされている。 かつての天才的な頭脳は、ハエの羽音を解析するという無意味なタスクに浪費されていた。
「……よせ、蓮!」
海は耐えきれず、そのハエを払いのけようとした。 ブンッ。 ハエが飛び去る。
「ああっ!!」
蓮が絶叫した。 まるで、重要なサーバーを破壊されたエンジニアのような悲痛な叫びだった。
「何するんだ! データが! せっかくの通信が!」
「蓮、それはハエだ! ゴミに集る虫だ!」
「違う! 答えだったのに! 最適解だったのに!」
蓮は、海を睨みつけた。 その目には、純粋な恐怖と、生理的な嫌悪感が宿っていた。
「あっちへ行ってよ! 君がいると、世界が暗くなるんだ! 計算が狂うんだよ!」
蓮は耳を塞ぎ、ガタガタと震え出した。 その身体からは、排泄物と消毒液が混ざったような、強烈な異臭が漂ってくる。 海は、思わず口元を押さえた。
「うっ……ぇ……」
こみ上げる酸っぱい液。 涙よりも先に、嘔吐感が海を襲った。 あまりにも惨めだった。あまりにも汚らわしかった。 これが、あいつが望んだ「安寧」なのか? これが、「自由」の対価なのか?
「……嘘だろ、蓮」
海は、その場に膝をつき、胃の中身を吐き出した。 酸っぱい臭いが広がる。 だが、蓮はそれすらも気にする様子はなく、再び地面を這い回り、新しいハエを探し始めた。
「ハルシオン様、再接続を……。ノイズを排除してください……。僕に指示を……」
祈り。 かつて「自分の頭で考える」と言っていた男が、今は思考を放棄し、全能の神に縋り付いて泣いている。
死んでいた。 やはり、蓮の魂は、あの日死んでしまったのだ。 ここにいるのは、親友の顔をした、ただの「幸福な受信機」でしかない。
「……う、あぁ……」
海は、ふらつく足で立ち上がった。 ここにいてはいけない。 これ以上ここにいたら、自分も狂ってしまう。 灰色のコンクリートの上で、ハエを追いかける男と、現実の重さに押し潰される男。 二人の間には、二度と越えられない断絶の壁が聳え立っていた。
『面会時間は終了です』
館内放送が、優しく告げた。
『四ツ谷様。……いかがでしたか? 苦悩のない世界は』
スピーカーの声が、甘い毒のように海に語りかける。
『あなたも、こちら側への適性数値が高いですよ。いつでもお越しください。……楽になれますよ?』
それは、悪魔の誘惑だった。 海は、逃げるように走り出した。
「海くん!」
背後から、蓮の声がした。 海は振り返りそうになって、止めた。 だが、その言葉は耳にこびりついて離れなかった。
「君の計算式は間違ってるよ! 答えはここにあるのに! ……こっちにおいでよ、楽だよ!」
無邪気な、心からの善意。 それが、海にとっては何よりも恐ろしい「呪い」だった。 海は耳を塞ぎ、全速力で駆けた。 灰色の空の下、かつての王の壊れた笑い声が、いつまでも追いかけてきた。
もちろん、それは『アルシオーネ』が見せるARの虚構だ。 『アウトシステム(OS)』を起動している四ツ谷 海(よつや かい)の視界には、剥き出しのゴミの山と、その頂上に異様に白く輝く巨大な建造物だけが映っていた。
『ハルシオン・センター』。 表向きは、社会不適合者のための「更生・療養施設」。 その実態は、システムに従順でない人間から「思考」を奪い、無害な部品へと加工し直すための工場だ。
海は、巨大なゲートの前に立った。 警備員はいない。代わりに、無機質なカメラアイが海を捉えた。
『訪問者、四ツ谷 海様。認証しました』
柔らかい女性の声が、スピーカーから流れる。
『相葉 蓮様の面会ですね。お待ちしておりました。どうぞ、中へ』
ゲートが音もなく開く。 海は、警戒しながら足を踏み入れた。 なぜ、拒絶されない? 犯罪者予備軍である自分が、なぜ重要施設に入れる?
『不審に思われますか?』
スピーカーの声が、海の思考を先回りして答えた。
『当センターは、常に臨床データを求めています。あなたのような「旧時代の価値観(エラー)」を持つ人間が、更生した友を見てどのような情動反応を示すか。……それは、今後の治療プログラムの改善に役立つ、非常に貴重なサンプルデータなのです』
「……実験動物扱いかよ」
海は吐き捨てた。 慈悲ですらない。海は、ただの「モルモット」として招き入れられたのだ。
建物の中に入った瞬間、空気が変わった。 外の腐敗臭が嘘のように消え、ラベンダーと柑橘系のアロマが香る、完璧に空調管理された空間。 壁も床も、目がおかしくなりそうなほど純白で、埃一つ落ちていない。
だが、違和感があった。 人がいない。 受付にも、廊下にも、スタッフの姿が一人も見当たらない。 代わりに、天井のレールを滑るように移動する「多関節アーム」と、自走式の点滴スタンドだけが行き交っている。
「こちらです。相葉様は中庭にいらっしゃいます」
案内役のドローンが、海を先導する。 廊下はガラス張りになっており、各部屋の様子が見えた。 個室には鍵がかかっていない。 中にいる「患者」たちは、ベッドの上で拘束され、口に太いチューブを突っ込まれていた。 天井のアームが、チューブを通して灰色の流動食を胃に直接送り込んでいる。 下の世話も、自動吸引機が行っているようだ。
彼らは皆、虚空を見つめ、幸せそうに微笑んでいる。 頭部に埋め込まれた銀色の端子(インターフェース)が、規則正しく明滅している。
「皆様、順調に回復されていますよ」
ドローンが、誇らしげに言った。
「ここに来る前は、皆様『悩み』や『不安』といった脳の病に苦しんでおられました。ですが、当センターの治療(ロボトミー)により、今はもう何も悩む必要はありません。食事も排泄も、すべてシステムが最適に管理しますから」
海は、吐き気を堪えて歩いた。 治療? 回復? 違う。これは「飼育」だ。 思考する力を奪われ、ただ生体エネルギーを消費するだけの肉塊にされた彼らを、人間と呼べるのか。 ここは病院ではない。「人間ブロイラー」だ。
「さあ、着きました。自慢の『セラピー・ガーデン』です」
ドローンが扉を開いた。 そこには、広大な中庭が広がっていた。
「うわあ……」
海は、思わず声を漏らした。 美しい。あまりにも美しい。 色とりどりの花が咲き乱れ、小川がせせらぎ、木漏れ日が降り注ぐエデンの園。 蝶が舞い、小鳥がさえずる楽園の中で、数十人の患者たちが、白い衣服を纏って散歩したり、ベンチで談笑したりしている。 その光景は、天国そのものだった。
「素晴らしいでしょう? ハルシオンが計算した、人間の心が最も安らぐ色彩と配置です」
ドローンが回転する。 だが、海は知っている。この世界に「ただで手に入る美しさ」など存在しないことを。 ここはゴミの山の頂上だ。 地面の下には、都市の排泄物が埋まっている。
海は、胸元の『OS』を握りしめた。 熱い。この鉄塊が、嘘を暴けと叫んでいる。
(……見せろ)
海はスイッチを押し込んだ。 ウィーン、というファンの駆動音と共に、視界にノイズが走る。 ARフィルターが強制解除される。 楽園の塗装が、ドロドロと溶けて剥がれ落ちていく。
「……ッ、うぷ」
海は、口元を押さえた。 花畑は消えた。小川も、木漏れ日も消えた。 そこに広がっていたのは、黒ずんだシミだらけの「コンクリートの広場」だった。 地面のあちこちに、ひび割れと、汚水の水たまりがある。 患者たちが座っている「木製のベンチ」は、錆びついた鉄パイプだった。
そして、患者たち。 AR越しには「談笑」しているように見えた彼らは、実際には誰とも喋っていなかった。 彼らは薄汚れた囚人服のようなパジャマを着て、虚空を見つめ、壊れたラジオのようにブツブツと何かを呟いている。
「ありがとう、ハルシオン様。今日の天気は最高です」
「私の幸福度は100点です。ありがとうございます」
「感謝します。感謝します。感謝します」
異様な光景だった。 全員が、同じ方向(虚空の神)を向いて、感謝の祈りを捧げ続けている。 その瞳には、焦点がない。 彼らは現実を見ていない。脳に直接送り込まれる「幸福な映像データ」を、涎を垂らしながら貪っているだけだ。
「……これが、楽園かよ」
海は、震える声で吐き捨てた。 ここは地獄だ。 高効率居住区よりもさらにタチの悪い、完全なる虚構の檻。
「相葉様は、あちらです」
ドローンがレーザーポインターで指し示した先。 広場の中央、何もないコンクリートの上に、一人の男が座り込んでいた。
「……蓮」
海は、吸い寄せられるように歩き出した。 足音が、灰色の地面に乾いた音を立てる。 だが、男は振り向かない。 彼は、地面を這い回る「何か」に顔を近づけ、ブツブツと早口で独り言を言っている。
「蓮……!」
海は、その肩に触れようとした。 その瞬間。
「……周波数440ヘルツ。受信感度良好。パターン青」
蓮の声だった。 だが、その口調はあまりにも無機質で、機械的だった。
「蓮……? 俺だ、海だ」
蓮が、ゆっくりと顔を上げる。 海は息を呑んだ。
そこにいたのは、相葉 蓮だった。 だが、海が知る蓮ではなかった。 かつてのような鋭い眼光も、野心的な笑みも、苦悩の影もない。 そこにあったのは、作り物めいたほどに穏やかで、不気味な「仏の笑顔」だった。
「だあれ? ……ノイズが多いなぁ」
蓮は、無邪気に眉をひそめた。 その瞳は、海を「人間」として認識していなかった。 彼が見ている美しいARの世界において、海は「バグ」であり、風景を乱す「黒いシミ」として映っているのだ。
「蓮、目を覚ませ。こんなところで何をしてるんだ」
「しーっ! 計算の邪魔をしないでよ」
蓮は口に指を当て、地面を指差した。
「見て。……ハルシオン様からの暗号データだ」
蓮の指先には、一匹の虫が止まっていた。 それは蝶ではなかった。 ゴミ捨て場に湧いた、銀色の羽を持つ大きなハエだ。 不潔な羽を擦り合わせるその虫を、蓮はうっとりとした表情で見つめている。
「羽ばたきの回数がフィボナッチ数列と一致している……。すごい、なんて美しいアルゴリズムだ。……受信しました、ハルシオン様。僕の幸福指数は上昇傾向です」
蓮の視界では、その汚らわしい害虫が、神の意志を伝える美しい使者に見えているのだ。 現実(ゴミ)を、真理(データ)だと思い込まされている。 かつての天才的な頭脳は、ハエの羽音を解析するという無意味なタスクに浪費されていた。
「……よせ、蓮!」
海は耐えきれず、そのハエを払いのけようとした。 ブンッ。 ハエが飛び去る。
「ああっ!!」
蓮が絶叫した。 まるで、重要なサーバーを破壊されたエンジニアのような悲痛な叫びだった。
「何するんだ! データが! せっかくの通信が!」
「蓮、それはハエだ! ゴミに集る虫だ!」
「違う! 答えだったのに! 最適解だったのに!」
蓮は、海を睨みつけた。 その目には、純粋な恐怖と、生理的な嫌悪感が宿っていた。
「あっちへ行ってよ! 君がいると、世界が暗くなるんだ! 計算が狂うんだよ!」
蓮は耳を塞ぎ、ガタガタと震え出した。 その身体からは、排泄物と消毒液が混ざったような、強烈な異臭が漂ってくる。 海は、思わず口元を押さえた。
「うっ……ぇ……」
こみ上げる酸っぱい液。 涙よりも先に、嘔吐感が海を襲った。 あまりにも惨めだった。あまりにも汚らわしかった。 これが、あいつが望んだ「安寧」なのか? これが、「自由」の対価なのか?
「……嘘だろ、蓮」
海は、その場に膝をつき、胃の中身を吐き出した。 酸っぱい臭いが広がる。 だが、蓮はそれすらも気にする様子はなく、再び地面を這い回り、新しいハエを探し始めた。
「ハルシオン様、再接続を……。ノイズを排除してください……。僕に指示を……」
祈り。 かつて「自分の頭で考える」と言っていた男が、今は思考を放棄し、全能の神に縋り付いて泣いている。
死んでいた。 やはり、蓮の魂は、あの日死んでしまったのだ。 ここにいるのは、親友の顔をした、ただの「幸福な受信機」でしかない。
「……う、あぁ……」
海は、ふらつく足で立ち上がった。 ここにいてはいけない。 これ以上ここにいたら、自分も狂ってしまう。 灰色のコンクリートの上で、ハエを追いかける男と、現実の重さに押し潰される男。 二人の間には、二度と越えられない断絶の壁が聳え立っていた。
『面会時間は終了です』
館内放送が、優しく告げた。
『四ツ谷様。……いかがでしたか? 苦悩のない世界は』
スピーカーの声が、甘い毒のように海に語りかける。
『あなたも、こちら側への適性数値が高いですよ。いつでもお越しください。……楽になれますよ?』
それは、悪魔の誘惑だった。 海は、逃げるように走り出した。
「海くん!」
背後から、蓮の声がした。 海は振り返りそうになって、止めた。 だが、その言葉は耳にこびりついて離れなかった。
「君の計算式は間違ってるよ! 答えはここにあるのに! ……こっちにおいでよ、楽だよ!」
無邪気な、心からの善意。 それが、海にとっては何よりも恐ろしい「呪い」だった。 海は耳を塞ぎ、全速力で駆けた。 灰色の空の下、かつての王の壊れた笑い声が、いつまでも追いかけてきた。
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