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時価マイナス1000万
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歩くうちに最初の勢いは霧散し、指定された部屋に着く頃にはすっかり威勢をなくしていた。ノックをしようと右手を持ち上げて、下げるを繰り返すこと実に3回。4回目、ようやく腹を括った。
目の前の扉を睨みながらノックをする。それはそれとして逃げたい気持ちは変わらないので返事がないことに最後の望みを懸け、控え目にノックをしてみたが普通に「どうぞ」と返ってきた。アオイは半泣きになりながらドアを開けた。
そろりと部屋の中に足を踏み入れたアオイは、失礼にならない程度にぐるっと辺りを見渡した。
光源が月明かりと間接照明しかない薄暗い部屋だ。大きな窓の傍に、これみよがしに大きなベッドが置かれている。剥き出しの純白のシーツはこれからすることを否応なく想起させて、アオイは慌てて目を逸らした。目を逸らしたので、当然、別のものが目に入る。男だ。アオイの初めての客である。
部屋の中心に置かれたソファに、アオイの“初めての人”は座っていた。薄暗い部屋では顔の造形までは分からない。ぼんやりと光って見えるのは男の着ている服が白一色だからだろう。アオイはなるべく静かに男の斜め前に移動すると、ゆっくりと頭を下げた。
「はじめまして、アオイと申します」
「はじめまして、アオイ」
続けられた「顔を上げてください」という穏やかな声に、アオイは目を丸くした。敬語だったからだ。
幸か不幸か、アオイが拾われた娼館はそこら辺にある娼館ではなく高級娼館だった。一見さんはお断り、肌を重ねるどころか足を踏み入れるだけでバカみたいに金がかかるような場所に通うトンチキ、間違えた、御方は、皆身分が高く、そしてかなりの金持ちだ。教育係のノヴァが初めてアオイに教えたことは「何があっても、絶対に、粗相だけはするな」である。うっかりすると文字通り首が飛ぶこともあるらしい。治外法権か?とアオイは思っている。
しかしなかなかどうして、アオイは残りの1割を引いたようだった。偉いのに偉そうじゃないのか、偉くないので偉そうじゃないのか、それが問題だ。男の顔を見ながら、アオイはそんな事を考えていた。
「……名前を名乗るのは控えさせて貰っても?」
男が申し訳なさそうに眉を下げたのを見て、アオイは慌てて頷いた。素性を明かしたくない客も多い、とは事前に聞いていたことだ。クソ、失敗した。アオイは悔しさに唇を噛んだ。
アオイは仕切り直すようにもう一度お辞儀をし笑顔を作ると、この3ヶ月の間でみっちり叩き込まれた口上を口にした。
「今夜は僕を選んでくださって、ありがとうございます。拙いところもあると思いますが、精一杯ご奉仕させて頂きます」
「よろしく、アオイ。名を名乗らない無礼をお許しください。……実は、君の事はロージーから聞いていたんです。綺麗な子だと。……失礼ですが、想像以上に綺麗で驚きました」
ロージー、とは不朽の魔女の愛称である。あの、客を金としか認識していない守銭奴ババアがいったい何のつもりで、何を吹き込んだんだ?
アオイの戸惑いはそのまま声に現れた。
「……ありがとうございます」
「本当ですよ?」
「いえ、貴方様を疑っている訳じゃないんですけど……」
信じられないのは魔女の方である。まさか好きにしていいとか、言われてないだろうな。
アオイは顔を上げ、改めて男の顔を見た。
男は恐ろしいほど完璧な美しさを備えた美男子だった。月光を反射しキラキラと光る白髪に、金色の瞳、スッと通った鼻筋に薄い唇。アオイは男を人形のようだと思った。表情がないからだ。彫刻のように整った顔が、じっとアオイの顔を覗き込んでいる。かつて芸能界で数多の美しい男を見てきたアオイが一瞬怯むほど、男は精緻な造形をしていた。
アオイはごくんとつばを飲み込んだ。
――まずい。
「アオイ?」
「い、いえ……。ごめんなさい、初めてで緊張しているんです。……その、旦那様とお呼びしても?」
頬を染め恥じらうように目を伏せると、男は「構いませんよ」と目を細めた。
――本当に、まずい。
冷や汗が背中を伝う。
コイツ僕に一切興味がない!
目の前の扉を睨みながらノックをする。それはそれとして逃げたい気持ちは変わらないので返事がないことに最後の望みを懸け、控え目にノックをしてみたが普通に「どうぞ」と返ってきた。アオイは半泣きになりながらドアを開けた。
そろりと部屋の中に足を踏み入れたアオイは、失礼にならない程度にぐるっと辺りを見渡した。
光源が月明かりと間接照明しかない薄暗い部屋だ。大きな窓の傍に、これみよがしに大きなベッドが置かれている。剥き出しの純白のシーツはこれからすることを否応なく想起させて、アオイは慌てて目を逸らした。目を逸らしたので、当然、別のものが目に入る。男だ。アオイの初めての客である。
部屋の中心に置かれたソファに、アオイの“初めての人”は座っていた。薄暗い部屋では顔の造形までは分からない。ぼんやりと光って見えるのは男の着ている服が白一色だからだろう。アオイはなるべく静かに男の斜め前に移動すると、ゆっくりと頭を下げた。
「はじめまして、アオイと申します」
「はじめまして、アオイ」
続けられた「顔を上げてください」という穏やかな声に、アオイは目を丸くした。敬語だったからだ。
幸か不幸か、アオイが拾われた娼館はそこら辺にある娼館ではなく高級娼館だった。一見さんはお断り、肌を重ねるどころか足を踏み入れるだけでバカみたいに金がかかるような場所に通うトンチキ、間違えた、御方は、皆身分が高く、そしてかなりの金持ちだ。教育係のノヴァが初めてアオイに教えたことは「何があっても、絶対に、粗相だけはするな」である。うっかりすると文字通り首が飛ぶこともあるらしい。治外法権か?とアオイは思っている。
しかしなかなかどうして、アオイは残りの1割を引いたようだった。偉いのに偉そうじゃないのか、偉くないので偉そうじゃないのか、それが問題だ。男の顔を見ながら、アオイはそんな事を考えていた。
「……名前を名乗るのは控えさせて貰っても?」
男が申し訳なさそうに眉を下げたのを見て、アオイは慌てて頷いた。素性を明かしたくない客も多い、とは事前に聞いていたことだ。クソ、失敗した。アオイは悔しさに唇を噛んだ。
アオイは仕切り直すようにもう一度お辞儀をし笑顔を作ると、この3ヶ月の間でみっちり叩き込まれた口上を口にした。
「今夜は僕を選んでくださって、ありがとうございます。拙いところもあると思いますが、精一杯ご奉仕させて頂きます」
「よろしく、アオイ。名を名乗らない無礼をお許しください。……実は、君の事はロージーから聞いていたんです。綺麗な子だと。……失礼ですが、想像以上に綺麗で驚きました」
ロージー、とは不朽の魔女の愛称である。あの、客を金としか認識していない守銭奴ババアがいったい何のつもりで、何を吹き込んだんだ?
アオイの戸惑いはそのまま声に現れた。
「……ありがとうございます」
「本当ですよ?」
「いえ、貴方様を疑っている訳じゃないんですけど……」
信じられないのは魔女の方である。まさか好きにしていいとか、言われてないだろうな。
アオイは顔を上げ、改めて男の顔を見た。
男は恐ろしいほど完璧な美しさを備えた美男子だった。月光を反射しキラキラと光る白髪に、金色の瞳、スッと通った鼻筋に薄い唇。アオイは男を人形のようだと思った。表情がないからだ。彫刻のように整った顔が、じっとアオイの顔を覗き込んでいる。かつて芸能界で数多の美しい男を見てきたアオイが一瞬怯むほど、男は精緻な造形をしていた。
アオイはごくんとつばを飲み込んだ。
――まずい。
「アオイ?」
「い、いえ……。ごめんなさい、初めてで緊張しているんです。……その、旦那様とお呼びしても?」
頬を染め恥じらうように目を伏せると、男は「構いませんよ」と目を細めた。
――本当に、まずい。
冷や汗が背中を伝う。
コイツ僕に一切興味がない!
応援ありがとうございます!
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