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時価マイナス1000万
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歌が終わる。たっぷり3秒静止して、アオイは優雅に腰を折った。頬は紅潮しており、やりきった充足感でいっぱいだった。
男は拍手をしようと両手を持ち上げ、すぐに下ろした。無表情のまま、ゆっくりと瞬きを繰り返している。アオイは少し迷った末に、男の目の前の椅子に座った。男は何も言わなかった。
さてどうしよう。アオイはこっそり男の顔を盗み見た。男の瞳の奥は依然として冷たく光っている。よく見るとチリチリと瞳の奥が燃えている気がしたが、アオイの願望がそう見せているだけのようにも思えた。
うそだ、失敗した?
途端に暗澹たる気持ちがアオイを襲う。
あんなに達成感と自信に満ちていたのに、穴の空いた風船みたいにしゅるしゅると空気が抜けていく。悔しさで唇を噛み締めると、男の声が聞こえた。弾かれたように顔を上げる。
「……名前」
「え?」
「貴方の名前を、もう一度教えてくれませんか」
男は真っ直ぐアオイを見ていた。アオイは、この瞬間、初めて男と目が合ったような気がした。
男の言葉が一度右から左に流れていく。一拍おいて、気づいた。アオイは慌てて口を開いた。
「え、あ、アオイ、です」
「アオイ……」
男は噛み締めるように何度もアオイの名前を口の中で呟いた。青白い頬が徐々に色づいていく。美しい人形に生気が宿る瞬間に、アオイは微かに目を見開いた。
男は頬を紅潮させながらアオイの名前を呼んだ。そこに込められた熱につられてアオイの体温も上がる。キラキラと光る瞳は、アオイがよく知る煌めきだった。知らず知らずのうちに、アオイの胸は期待に膨らんでいた。
「実は、貴方のことはロージーから色々聞いていたんです」
男の瞳が悪戯っぽく細められる。これは絶対ろくでもないことだ。アオイは素早く男から目を逸らした。
「ひ、人違いなんじゃないかな……」
「あの手この手で水揚げを回避しようとする変わった少年がいるって」
「えっ少年? 美少年じゃなくて?」
「失礼しました。確かにそうですね。あの手この手で水揚げを回避しようとする変わった美少年、です」
この男、無表情のくせしてなんでこんなにノリがいいんだ。
「ああ……なんでもないんです……」
軽い気持ちでふざけるんじゃなかった、とアオイは呻いた。
「おや、そうですか? 間違いなく美少年だと思いますけど。……それで、そう、どうせ水揚げの日もゴネるし、客の不興を買っても面倒だからと大概のことは面白がれる私が紹介されたんです」
「…………」
これはどう受け止めればいいんだろう。迷った末にアオイは何も言わないことを選択した。男もアオイの相槌は求めていなかったらしく「それで」と無邪気に首を傾げた。
「何か、他に歌える歌はありますか?」
「そ、れは……」
「今の歌、本当に、とっても素晴らしかったです」
男の口調はどこかたどたどしく、瞳は先程までが嘘のように熱を持っていた。興奮を持て余しているようだ、と思った。アオイには男の期待が手に取るように分かった。もっと見せて! もっと楽しませて!
男は夢見るような顔で天井を見て、それからアオイに視線を戻した。
「私は貴方の一晩を買いました。一晩中私を魅せてくれるなら、私は貴方の体ではなく歌を買いましょう」
男の言葉に、アオイは体を強張らせた。男のそれは、人の上に立つことに何の躊躇いも疑問も抱いたことのない、生まれながらの支配者しか出せないような絶対的な響きを持っていた。男は品定めをするようにアオイを見ている。その時、そうか、とアオイは気がついた。
男はどちらでもいいのだ。楽しめるのなら、それで。
とりあえず何がこの男の興味を引いたんだろう。やっぱ顔か?
いや、そんなことは今はどうでもいい。アオイの頭は忙しなく回転していた。これまでの男の反応が目まぐるしく脳内を駆け巡っていく。アオイは唇を湿らせた。――今は、そう、自信たっぷりに笑うところだ。
アオイはわざとらしく眉を下げると「そうですか」と首を傾げた。
「残念です」
「残念?」
「旦那様は、今の歌に一晩の価値を感じてくれなかったんですか?」
「…………」
男は意外そうに眉を上げ、怪訝そうな顔でアオイを見た。
よし、これでいい。アオイは心の中でガッツポーズを決めた。意外性は何より大事だ。飽きられることが一番、よくない。
アオイは挑発するように脚を組んだ。スラリとした長い脚が惜しげもなく晒される。なのに男は一瞥もくれなかった。
ちぇ、こういうのは好きじゃないのか。
気を取り直して、アオイは自信たっぷりに言った。
「貴方が本当に見たいのは、歌じゃないでしょう?」
「……歌じゃない?」
「はい。貴方が見たいのは歌じゃなくて、僕だ。それなら歌う必要なんてないと思うんですけど、どうでしょう?」
「大した自信だ」
苦笑いする男に、アオイは「当たり前でしょ」と胸を張った。
「僕はソラハアオイですから」
男は拍手をしようと両手を持ち上げ、すぐに下ろした。無表情のまま、ゆっくりと瞬きを繰り返している。アオイは少し迷った末に、男の目の前の椅子に座った。男は何も言わなかった。
さてどうしよう。アオイはこっそり男の顔を盗み見た。男の瞳の奥は依然として冷たく光っている。よく見るとチリチリと瞳の奥が燃えている気がしたが、アオイの願望がそう見せているだけのようにも思えた。
うそだ、失敗した?
途端に暗澹たる気持ちがアオイを襲う。
あんなに達成感と自信に満ちていたのに、穴の空いた風船みたいにしゅるしゅると空気が抜けていく。悔しさで唇を噛み締めると、男の声が聞こえた。弾かれたように顔を上げる。
「……名前」
「え?」
「貴方の名前を、もう一度教えてくれませんか」
男は真っ直ぐアオイを見ていた。アオイは、この瞬間、初めて男と目が合ったような気がした。
男の言葉が一度右から左に流れていく。一拍おいて、気づいた。アオイは慌てて口を開いた。
「え、あ、アオイ、です」
「アオイ……」
男は噛み締めるように何度もアオイの名前を口の中で呟いた。青白い頬が徐々に色づいていく。美しい人形に生気が宿る瞬間に、アオイは微かに目を見開いた。
男は頬を紅潮させながらアオイの名前を呼んだ。そこに込められた熱につられてアオイの体温も上がる。キラキラと光る瞳は、アオイがよく知る煌めきだった。知らず知らずのうちに、アオイの胸は期待に膨らんでいた。
「実は、貴方のことはロージーから色々聞いていたんです」
男の瞳が悪戯っぽく細められる。これは絶対ろくでもないことだ。アオイは素早く男から目を逸らした。
「ひ、人違いなんじゃないかな……」
「あの手この手で水揚げを回避しようとする変わった少年がいるって」
「えっ少年? 美少年じゃなくて?」
「失礼しました。確かにそうですね。あの手この手で水揚げを回避しようとする変わった美少年、です」
この男、無表情のくせしてなんでこんなにノリがいいんだ。
「ああ……なんでもないんです……」
軽い気持ちでふざけるんじゃなかった、とアオイは呻いた。
「おや、そうですか? 間違いなく美少年だと思いますけど。……それで、そう、どうせ水揚げの日もゴネるし、客の不興を買っても面倒だからと大概のことは面白がれる私が紹介されたんです」
「…………」
これはどう受け止めればいいんだろう。迷った末にアオイは何も言わないことを選択した。男もアオイの相槌は求めていなかったらしく「それで」と無邪気に首を傾げた。
「何か、他に歌える歌はありますか?」
「そ、れは……」
「今の歌、本当に、とっても素晴らしかったです」
男の口調はどこかたどたどしく、瞳は先程までが嘘のように熱を持っていた。興奮を持て余しているようだ、と思った。アオイには男の期待が手に取るように分かった。もっと見せて! もっと楽しませて!
男は夢見るような顔で天井を見て、それからアオイに視線を戻した。
「私は貴方の一晩を買いました。一晩中私を魅せてくれるなら、私は貴方の体ではなく歌を買いましょう」
男の言葉に、アオイは体を強張らせた。男のそれは、人の上に立つことに何の躊躇いも疑問も抱いたことのない、生まれながらの支配者しか出せないような絶対的な響きを持っていた。男は品定めをするようにアオイを見ている。その時、そうか、とアオイは気がついた。
男はどちらでもいいのだ。楽しめるのなら、それで。
とりあえず何がこの男の興味を引いたんだろう。やっぱ顔か?
いや、そんなことは今はどうでもいい。アオイの頭は忙しなく回転していた。これまでの男の反応が目まぐるしく脳内を駆け巡っていく。アオイは唇を湿らせた。――今は、そう、自信たっぷりに笑うところだ。
アオイはわざとらしく眉を下げると「そうですか」と首を傾げた。
「残念です」
「残念?」
「旦那様は、今の歌に一晩の価値を感じてくれなかったんですか?」
「…………」
男は意外そうに眉を上げ、怪訝そうな顔でアオイを見た。
よし、これでいい。アオイは心の中でガッツポーズを決めた。意外性は何より大事だ。飽きられることが一番、よくない。
アオイは挑発するように脚を組んだ。スラリとした長い脚が惜しげもなく晒される。なのに男は一瞥もくれなかった。
ちぇ、こういうのは好きじゃないのか。
気を取り直して、アオイは自信たっぷりに言った。
「貴方が本当に見たいのは、歌じゃないでしょう?」
「……歌じゃない?」
「はい。貴方が見たいのは歌じゃなくて、僕だ。それなら歌う必要なんてないと思うんですけど、どうでしょう?」
「大した自信だ」
苦笑いする男に、アオイは「当たり前でしょ」と胸を張った。
「僕はソラハアオイですから」
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