上 下
22 / 38
メモリー1「傷ついたんだ」

21「青色を求めて」

しおりを挟む
 夜明けが、来る。
 歩道橋の真下、揺れる足先にあるコンクリートが照らされるのを見て、それを知る。おもむろに顔を上げれば、ブラックホールの中からでも一筋の光が見える。それがこの街に今日が来たことを囁いていた。
 夜明けが来る。残酷な夏の世界にも、今日は来る。

 ――ここまで変わり果てても、なお。

 視界の端に黒い塊が映った。ゆるりと振り向けば、黒い大蛇が宙に浮かんでいた。もやをくねらせて足元にすいっと入ってくると、電灯のような双眼でこちらを窺った、ように見えた。こうやって見るとなかなか可愛いものだと、くすっと息で笑う。

「バグ霊、って呼んでいたかな。誰が考えたんだろう。......案外、彼かもね」

 すとっとその背に降り立つと、横向きに座る。黒い砂粒の背を撫でて、パーカーの下から向かうべき先を見据えた。

「行こうか」

 大蛇が動く。一人と一匹が明けの彼方へと去っていった。




「なんでだよ! この距離だぞ!? 車で行った方が絶対いい!」
「こんぐらい徒歩でもいけますし車だと目立つでしょうがッ!!」

 そんな梓の一喝が響いた朝、行動範囲を広げる目的も含め、地図の端にある場所――青い丸で「空と雲の絵」と書かれていた中学校へ向かうことになった。
 ......が、この日、恒輔は何度か自分が幻覚を見ていることを疑った。

「雨宮さんって、ニャー太を肩に乗せていて重くないんですか?」
「なんかもう慣れたし、むしろこっちの方が落ち着く。......陽介くん、今日はなんかやたら俺に話しかけてくるね?」
「えっ、あ、いや、そうですかね......?」
「......チッ」
「あれ、おまえ今舌打ち」
「してないです。工藤さんの気のせいでは?」
「お、おう......」
「......」

 ――なんや、これ。お天道様が暑さで化かしに来よるんか?

 それほどまでに、三人の様子は昨日と打って変わっていた。
 陽介は自分たちに、特に怜に突然歩み寄りを見せるようになった。対して林太郎は怜と陽介が話しているのを見ては面白くない顔を見せ、こちらとの会話も最小限にしようとしている。桜子は一見特に変わっていないように見えるが、ときどき二人を見ては肩身狭そうにしているのが見える。
 一目瞭然の違和感。そして何より一等気味が悪いことに、今日は互いの隣に互いがいるところを見ていない。いつもの三人を知っている分、その異常さはありありと映し出されていた。
 だが異常ではあるが原因はわかっている。わかっているからこそ自分と空は無関心を決め込んでいるし、梓は訊きたそうにうずうずしているが我慢している。怜も何かを察しているのか、珍しくそれぞれの背中を眺めるだけだ。
 恒輔もなんとなくその様子を眺めているうちに、その横顔が急にこちらを向いた。

「ところで恒輔くんはもう大丈夫なの? まだ顔色悪そうに見えるけど」

 固まる直前に咄嗟に笑みを完成させた。

「平気や平気。昨日は心配かけたな。助けてくれてありがとうな」
「俺は運んだだけだよ。でも、どうしてお風呂で倒れていたの?」
「......疲れて長風呂していたらのぼせただけや。次からは気をつける。......そういや、風呂は綺麗やったか?」
「綺麗って? 汚れている様子はなかったよ」
「......そう、か。すまんな、変なこと聞いて」
「......うん」

 怜はそれ以上何も聞いてこなかった。その方がありがたかった。黒のストローハットを目深に被って周囲を遮断し、昨日のことを思い返した。
 開く傷口と流れる血、なぜか覚えがあった。こっそりとリストバンドをずらし、下を見る。何もない。左だけのリストバンド、――昨日の傷はちょうどその位置と重なっていた。

『恒輔、ごめんね』

 傷は蜃気楼か、声は幻聴か。耳を撫でるような優しさは、聞き覚えがあるのにそれが誰の声なのか微塵も思い出せない。本当に、どれも自分の記憶なのか。影を落とした顔から汗が流れ落ちる。じりじりと暑さが肌に焦げついた。
 昨日より随分と歩き続け、やっと中学校に着いた。そっと陰から梓が玄関や校舎の様子を窺う。その上に恒輔、怜、空の順で頭を重ねて顔を出す。

「見る限りは......誰もいねえな」
「みたいですね......」
「どうや、怜? 何か感じるか?」
「今のところは、何も」
「......それ、当たり前のように聞いているが、普通はそんなのわかったらおかしいからな」

 とりあえずの安全を確認した一行は、さっと正面玄関へと駆けていった。
 門の隣、彫られた文字。依然として固有名はわからないが、そこにはたしかに「中学校」と記されていた。




「今は午前十時。午前中にここで欠片を回収して、ついでに図書室の探索、それからここを出て午後に図書館で探索、で、大丈夫だな?」
「そうですね。ここはともかく、図書館で何か良い情報が見つかるといいんですけど......」
「それは行ってみなわからんからな。まずはここで欠片をゲットやで」

 話し合いを終えた怜たちは、正面玄関から移動して職員室へ向かった。気配に敏感な怜が先頭を歩き、最後尾に空が背後を確認して進む。職員室にはすぐに辿り着いた。職員室の扉にそっと耳を当て、扉に手をかけて開くことを確認し、空に向かって頷けば「入れ」と合図が返される。できるだけ音を立てないように扉を開け、中を見回してから恒輔たちを先に入らせた。
 最後に空が入って怜も入ったとき、陽介が「あの」と空に声をかけた。

「最後尾、俺が代わりましょうか? 知っての通り、俺は空手をやっているので、いざというときの対処も心得ていますし」
「え......あ、いや、ば、馬鹿野郎。いくら面倒臭がりでも、年下に危険を背負わせたら顔が立たねえだろうが。気にしなくていい、おまえはいざというときの援護を頼むよ」
「は、はい。ありがとうございます!」

 陽介は少し顔を綻ばせると恒輔たちの後を追った。
 ふと怜が視線を感じて振り向けば、林太郎がそんな陽介を平淡な目で睨んでいた。空ではなく、陽介を、だ。普通なら「陽介を危険な目に遭わせるつもりですか」と空に食ってかかっている。そんな林太郎を見た桜子が、ギュウッと口を引き結んで目を伏せた。

「あったあった、これが美術室の鍵やな。あと美術室は別棟の四階らしいですわ」

 恒輔が目的のものを見つけ、ついでに目的地も確認して、その場を離れることになった。
 別棟は自分たちがいる校舎の正反対にあり、各階に渡り廊下が設けられているようだ。校舎と校舎の間には、ベンチまで備えつけられた小綺麗な中庭があった。

「まあ、絵といえばパッと思いつくのは美術室だよな」
「多分そうだと思いますけど、ちゃんと隠してある場所まで書いてほしかったですよね」

 空と梓が三人を挟んで会話をする。梓は、相変わらず無言で互いに目を合わせようとしない三人の方を何度か見やったが、すぐに顔を戻していた。
 遠いように思われた目的地は会話が少ないおかげか、存外早くに着きそうだった。四階まで階段を上り、そのまま渡り廊下で別棟へ移る。まっすぐ進み、正面に窓が見えたとき――怜は、思わず足を止めた。

「怜? どうしたんや?」
「雨宮さん?」

 恒輔と陽介がそれぞれ両側から覗き込んでみるも、怜の視線は揺らがない。目の前の、窓の外に見える景色に心ごと奪われたまま、スッと、指を差して。
 初めて、本心からその単語を呟いた。

「きれい」

 怜の示した先を、首を傾げた二人は視線を寄越して――息を呑む。訝しげに彼らの横に並んで外を見た残りの三人にも、きっと、その青は映っただろう。
 学校の敷地内のすぐ外に広がっていたのは、果てしない大海だった。すぐ間近で、慈愛に満ちた青が、蒼が、碧が、煌めいて。幻聴まで聞こえる波は水平線の向こうからやってきていて、彼らは、たしかにその先に心を奪われていた。

「......海、初めて、見た」

 このときになって桜子が口を開いた。その言葉を笑う者は誰もいなかった。

「せやなあ。オレは何回か見に行ったことあるはずなんやけど......」
「ああ、なぜか初めて見たときみたいに......心が、震えますね」
「......海って、こんなに綺麗だったんだな」

 彼らの言葉を聞きながら、怜はじっと海を見つめた。瞳の中で波が揺れる。「ゥニャーン」と白猫が波に反応して一声鳴いた。水平線の果てまで、その先まで海は続く。変わらない姿、ああそうだ。

「あの頃も、こんな海だった」

 「あれ」と口に出してから気づく。今、俺は何て言った?
 くるっと後ろを向けば、全員が怜を凝視していた。

「あの頃って......まさか、新たな記憶が!?」
「すごい......海、すごい......」

 興奮した梓が訊いてきて、桜子も感動して海を称えた。何か思い出したわけではない。そう言おうにも、「海!? 海が見えたんか、怜!?」と恒輔に肩を掴まれて揺さぶられ、怜は何も言えなくなってしまった。

「海ってことは、海に面した場所に住んでいたってことか......?」
「あ、そうなるか!」
「海以外に何か思い出したことはありますか?」

 林太郎の考察を受けた空がポンと手を叩く。陽介に問われて、怜は再びを背後の海を見た。とはいえ、単に口が勝手に動いただけで、海そのものに何の記憶も呼び起こせていない。何気なく空を見上げる。そこであることを思いついて「あ」と声をこぼした。全員がずいっと怜に顔を寄せた。

「な、何か思い出したか?」

 怜は振り返って告げた。

「空と雲、この窓からだとよく見えるね」

 キョトンとなる一同、ややあって恒輔が呆れたように溜息を吐いた。

「たしかに、この空をモデルにしたのかもしれへんな。ほな早く探しに行こか」

 頷き、窓から離れて目と鼻の先にある美術室へ、恒輔と肩を並べて向かう。
 恒輔の台詞で真意に気づいた面子も、やれやれと首を振ったり肩を竦めたりとしつつも後に続いた。
 その三十分後のことだった。

「なかったんですけど!!」

 歯をギリギリ鳴らしながら壁を拳でドンする梓。地味に壁からパラリと屑が落ちたのを見た空が、「ヒョエッ」と奇怪な声を漏らす。

「絵はたしかにたくさんありました、ありましたけど、空と雲の絵が一枚も見当たらない! なんで!? あんなありきたりな絵一枚ぐらいあるでしょ!!」
「けれど見つからんかった。それが全てや。振り出しに戻ってもたなあ......」

 恒輔が顎に手を当て次を思案する。

「別の場所を探すか、諦めてここを出るか......」
「えー、オレちょっと諦めきれないですよ! 欠片は多ければ多い方がいいじゃないですか! 誰もいないみたいですし、手分けして探しましょうよ!」

 そこで、それまで誰ともろくに会話していなかった林太郎が声を上げた。

「待ってくださいよ、ここどんだけ部屋数あると思ってるんですか。公民館とはわけが違うんですよ。絵もどんな場所に隠されているかわからない。机の中に隠されていたら一個一個中を見ていくんですか? 時間の無駄ですよ」
「そ、それはまあ、言うとおりだけど仕方ないだろ。今までが優しかったんだよ。今回は頑張るしかないって」
「なら二つに分かれて片方が欠片探し、もう片方が図書館へ向かうか?」
「あんま互いの距離が離れすぎるのも得策やないですよ」

 「とにかく」と林太郎がはっきり物を言う。

「オレは図書館へ行った方が妥当だと思いますね。オレたちの目的はここから脱出すること。欠片はあくまでそれまでに身を守るための手段。どっちを優先すべきかは自明の理でしょ」
「だけど道中でバグ霊に遭遇しねえとは限らねえし、あんま考えたくないけど、図書館も本当に何か情報が手に入るかわからねえんだよ! ここでやっていくためにも欠片は必要だって!」
「ならオレは一人で図書館行きます」
「許すわけないだろ! いいから折れろよわからず屋!」
「こっちの台詞だよ頭ン中パンケーキか!」
「それオレの見た目とかけたか!? かけたな!! オレはDKであってJKじゃねえ!!」

 梓と林太郎は毛を逆立てた猫よろしく睨み合い、言い合い出す。

「ああもう梓くん落ち着きや。こんなところで意見のぶつけ合いしても進まへんって」
「林太郎も、おまえの言っていることは最もだけど言い方ってものがあるだろ」

 恒輔と陽介が止めに入るが、二人はなかなか黙らない。怜も落ち着かせようと口を開いた――その刹那。
 ピリッと刺さる感覚、勝手にキュルッと瞳孔が細くなる。

「みんな、ちょっと静かにして」
「いや、自分も止めるの助けて――」
いる・・。――狙われている」

 その一言でピタリと全員が黙る。

「ね、狙われているって......?」

 おそるおそる訊いてきた梓の問いには答えず、意識を集中させて気配を数える。

「一人、二人、三人......十人」
「は......?」
「十一......十五......二十」
「おいおいおいおい......」
「二十一、二十二......三十」

 そこまで数えた瞬間、バンと近くの教室が開く音がした。怜以外が肩を跳ねさせて咄嗟に振り向けば。何人かが目の前の光景に動揺して後ずさった。
 近くの教室、その中から謎の男たちが怒涛の勢いで出てきた。さらにその奥の教室からも同じように男たちが出てくる。上から足音が聞こえて見上げれば、また別の集団が階段を駆け下りてくるところだった。何が何だか理解できないうちに、いつのまにか怜たちは集団によって退路を塞がれていた。
 現われた連中は全員チンピラの風貌をしており、手には各々刃物やスタンガン、金属バットなどの殴打できるもの、中には長物の先端に刃物をつけたりしたものやロープといった変わり種まで携えている者もいた。何にしろニヤニヤと下卑た笑みで見てくる彼らが、お助けキャラではないのは明らかだった。
 警戒心を解かぬまま、怜は低い声で尋ねた。

「......誰? 何が目的?」

 先頭の耳に大量のピアスをつけて茶髪を逆立てた男が、一際歪に笑った。

「わかりやすい質問ありがとよ、兄ちゃん。だけど、俺らに答える義理はねぇんだわ。ただ、あんたらは俺らにとっての極上のカモ。てなわけで、何も言わずに――殺されてくれや」

しおりを挟む

処理中です...