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メモリー1「傷ついたんだ」

28「それぞれー2」

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「おい待てゴルァ! 逃げるな!」
「止まらねえと殺すぞオルァ!」

 待てや止まれや言われて素直に従う人間がいたら見てみてえよ、クソ。大体あんたら、どのみちオレたちを殺すつもりだろうが。
 林太郎は内心で毒づいて、正面玄関から中へ逃げ込んだ。「ああ!」と後ろから悔しげな声が上がる。

「野郎、中へッ......!」
「おい待て、追いかけようとすんなって。オレたちは見回り担当だ。中のやつらにメッセージだけ送って後は任せようぜ」
「チッ......覚えてろよあのガキ」

 そう吐き捨ててから、その集団は玄関から離れていった。中へ逃げるフリをして下駄箱の陰に隠れていた林太郎は、その会話を聞いていた。

 ――やっぱりな。あいつらはそれぞれ配置が決められていて、連絡を取り合っている。あのグループは外が担当だから中までは追ってこねえ。見た限り、正門と裏門にそれぞれ十人ほどのグループが配置、外の見回りに五人で一グループ配置されている。と、なると五人で二、三グループぐらいが中の担当か。

 乱れた髪を括り直し、さらに思考を進める。

 ――オレが玄関から中に入ったことは伝わっている。そうすりゃ連中は居場所がはっきりしているやつの方へ目がいく。オレがやつらを引きつけたら、あの二人には......。

 そこまで考え、林太郎はピタリと動きを止めて首を振った。
 そうだ、もうあの二人は自分とは関係ない。赤の他人だ。今この学校にいる全員、赤の他人、なのだ。助ける義理なんてない。もう縁を切ったのだから。

「......ハァァーー......」

 深く重い溜め息を絞り出し、重い足でその場を離れる。
 わかっている。本当はあんなの本心じゃなかった。手を差し伸べられて嬉しかった、掴みたかった、救われたかった。あの人たちになら――自分の心を預けてもいい。そう思えるほど、自分はいつのまにか彼らに心を許していた。本当はもう彼らが今までのやつらとは違う、信じられる人間だとわかっていたのだ。

 ――だけどオレは臆病だった。それで救われるかどうか見えなくて、また裏切られるかもしれないことが怖くて。そんなオレはこうして自ら居場所を壊して、一生誰も信じられず、救われることもない。

 ハッと苦しげな笑い一つ、林太郎はそのまま姿を消した。




 自分の周りには常に人がいた。その顔ぶれは変わることも多かった。

「おい、何でだよ宇佐美! 俺が何をしたって言うんだよ!!」

 放課後の教室、一人の生徒が尻餅をついたまま、こちらを見上げて怯えた表情をさらす。彼は追放者だった。傀儡かいらいからの解放、つまりは自分の近くにいることを許されなくなった人物だ。
 他の傀儡を傍に控えさせ、ただ一人椅子に座った状態で哀れな人形を見下ろした恒輔は、笑みを浮かべたまま、教え聞かせるように彼に語りかける。

「校区外やからバレへんと思った?」
「......はっ?」
「残念。たとえ校区外でのことでも怪しい動きがあったら気になるわな。最近妙にケータイ気にしとること多かったやろ? それが目についてな、念のため思うて自分と交友関係ある人つついてみたねん」
「だからっ、何のこと言ってんのか――」
「自分、校区外の不良連中とつるんでカツアゲしとるやろ」

 一枚の写真を彼の前に投げ出す。その写真を目にした彼の表情が、みるみるうちに青ざめていく。

「宇佐美くんの指示を受けてな、オレたちはおまえの後をついてたんだよ」
「まさかンなことやってたなんてな。見損なったぜ」
「警察に通報してないのは恒輔くんの恩情だから。ほんと恒輔くんが優しい人でよかったね。感謝しなよ、ゴミ」

 「オレまで巻き込まれるんが面倒なだけやったけどな」とは言わないでおく。
 取り巻きのせせら笑いに囲まれてどんどん青ざめていった彼だが、不意に四つん這いで進んできて恒輔の足に縋りついてきた。

「頼むッ! 頼むよッ!! しがない俺が誰にも目をつけられずにやってこれたのは、おまえの傍にいたことが大きいんだ!! もうあそことは縁を切るから!! 余計なことしねえって約束するから!! なあ頼むよ宇佐美ッ!!」
「往生際悪いんだよおまえ!!」

 すぐ近くにいた取り巻きの女子が、上靴の底で思いきり彼の顔面を蹴り飛ばした。強烈な痛みに悲鳴を上げて倒れ込む彼に舌打ちを浴びせ、「きたねっ」と吐き捨てる様は女子とは思えない。

「こらこら、女の子がそないな言葉遣いしたらあかんで。せっかく可愛いルックスしとるのに、台無しになるで」
「いーの! 恒輔くんが可愛いって思ってくれているだけでじゅーぶんっ!」

 そう言ってすり寄ってくる女子に対して「暑苦しいな」と思いつつ、恒輔はカバンの中から封筒を取り出し、それを彼の前に放った。痛みから復活した彼が、訝しげながらも拾って中身を見た後、驚いた顔で中身と恒輔の顔を交互に見た。

「今までごくろーさん。それあげるわな。今後は目も合わせてくるなや。......約束、ちゃあんと守ってな?」

 薄目を開いて告げれば、彼は真っ青を通り越して真っ白になった顔でコクコクと頷き、荷物と封筒を手にして教室から飛び出していった。

「あいつ、宇佐美に助けてもらっといて礼も言わずに逃げやがった」
「結局宇佐美の金が目的だったんだろうよ。サイテーなやつ」
「どうする? やっぱあいつ、ケーサツに教えとく?」
「ええよええよ、もう他人も同然や。金が目的ならさっきあげたし、関わってくることもこの先あらへんやろ」
「相変わらず心が広いなあ、宇佐美くんは。......ところで、さっきの中身ってどんくらい入ってたの?」

 そう訊かれたので、恒輔はさらりと答えた。それを聞いた取り巻きたちが一斉に唾を呑む。それはそうだろう、高校生にとってその数字はあまりに魅力的だった。

 ――もしかしたら、このアホどもの中に金目当てでやらかすやつが出てくるかもな。そんときは大幅に減らして希望を潰しとこう。頻繁に顔ぶれが変わっても覚えるのがめんどいしな。

 そう考えていることはおくびにも出さず、「帰ろか」と声をかけて教室を出る。その一声で傀儡たちは空気を弛緩させ、ふざけあいつつカバンを引っ掴んで廊下に出る。
 最後に教室を出ようとした恒輔の耳元に、ずっと隣にいた女子が話しかけてくる。

「恒輔くん、その......今夜、いいかな?」

 顔を赤らめて、上目遣いで必死に可愛い子ぶろうとする女子生徒。浅ましく思うが顔には出さず、代わりににっこりと笑って「駅前集合な」と甘い声で囁き返す。喜色ばんだ女子は恒輔の腕に自分の腕を絡め、上機嫌に鼻歌を歌いだす。
 自分の周りには常に人がいた。顔ぶれが変わることも多かったけれど、決して一人になることはなかった。突っかかってくるやつは自分の手を汚さず排除され、自分から求めなくても相手から求められ、それはまさしく勝ち組と呼べる日々だと言えた。

 ――それやのに、なかに巣食うこの穴は何なんやろ。

 その答えを数年先に得られることを、当時の彼はまだ知らなかった。




 見つからないよう壁に身を隠し、そっと窓の外を盗み見る。
 裏門にはやはりと言うべきか、チンピラたちが周囲に目を光らせて立っていた。とても逃げ出せる様子ではなかった。

 ――何人かで固めてグループをつくり、それぞれの位置に配置させてその役割だけに従事させる。あの偏差値低そうな連中にしては機能的な方法やな。いや、というかあいつらは上手く扱われとる感じがする。だとするとそれは......。

 そこまで考え、関係のないところまで思考が及びそうになっていたことに気づき、すぐに軌道修正する。いけない、そこのところはどうだっていいのだ。要はどうやってここから脱出するかだ。

 ――やっぱ誰か一人を引き込むしかあらへんか。連中を引きつけられそうなやつは? 桜子ちゃんがええかな、いや、あれは足が速すぎて連中が追いかけるのを諦めてしまうレベルやな。なら陽介くんか。割とオレらに友好的やったし、説得して騙せば簡単に囮になってくれるかも。

 最低な考えだったが、恒輔にとってはもう誰も彼もがどうでもよくなっていた。どうでもいいやつらなら、利用したって心が痛まない。

『君が俺を傍にと願うなら、俺は君の心に触れざるを得ない。一人でうずくまっている君を放っておけるような心を、俺はもう持ち合わせていない』

 怜も、変わってしまった。
 視線を戻し、帽子を目深に被る。

 ――最初からわかっとった。あいつらは金で釣っただけの人形。そんなやつらにオレの孤独を埋められるわけがない。オレは人形を並べて夢を見とっただけ。そしてそれ以上に、その人形にオレの心が寄り添ってなかったから、オレは孤独のままやった。

 遊ばれたうえでチェックメイトに追い込まれた気分だった。何が孤独の終わりを迎えられるかもだ。自分の人生は最初から「クソゲー」だったのだ。
 でも、じゃあ、心を寄り添わせるとはどういうことなのだろう。自分は今まで誰かの心に寄り添ったことがあっただろうか。本当は孤独から救われたい。だけど――自分の傷まみれの心を寄り添わせて、綺麗な怜を穢したくない。
 黒のリストバンドが目に入る。昨日の夜の、風呂場での出来事が思い出された。

『恒輔、ごめんね』

 あの声の主もかつての傀儡だったのだろうか。もしかしたら記憶にないというのは、ただ単に彼女が覚えるに値しない有象無象の一人だったからではないのか。誰も彼も傀儡としか見ることができず、この先も孤独に生きていくのなら。
 今、ここで、死を。




 とりあえずは敵に見つからないよう注意して移動していた陽介だが、だんだん頬の痛みが気になり始め、とうとう保健室へ足を運ぶことにした。明日になれば治るとはいえ、痛いものは痛い。
 辺りを見回し、誰もいないことを確認してから扉をそっと開き、音もたてずに閉める。保健室の中にも誰もいないようで、ほっと安堵の息を吐いた。

「ようやく見つけられたよ。この学校案外広くて、みんなどこにいるのかわからないんだよね」

 訂正。気配がしなかっただけで先客がいたようだ。
 思わず一歩後ずさる。ベッドを囲むカーテンの陰から現れたのは、ニャー太を抱いた怜だった。

「雨宮さん......」
「頬の手当てをしにきたんだね。救急セットならそこの棚にあったよ。俺が誰か来ないか警戒しておくから、君は安心して手当てするといいよ」
「えっ? あ......ありがとう、ございます......」

 思っていた呼びかけとは違って戸惑ったが、何となく断りづらかったので大人しく手当てをすることにした。
 棚から救急セットを取り出し、近くの椅子に腰かけて処置に取りかかる。その間、怜が話しかけてくることはなかった。
 一通り処置を済ました後、ガーゼを張りつつ怜の方を横目で見れば、彼はどこか影のある表情でぼんやりと虚空を見つめていた。気まずさを感じながらもどうにか手当てを終える。

「......終わりました。ありがとうございます。ではそれだけの用事でしたので、俺はこれで――」
「陽介くん、俺と一緒に行動しない?」

 やはりそうきたか。
 陽介は冷静に返した。

「雨宮さん、多分ここに来たのが俺じゃなくても同じことを言っていたんでしょうね。でしたらすみません、俺は無理です。全員のよりを戻すと言うのなら、俺にはとても林太郎を受け入れられる気にはなれません」
「それと、俺への負い目もあるから?」
「......それもあります。その節はすみませんでした。けれど正直に言うと、今もまだいろんな感情が湧いて心の整理ができていなくて。......あのとき言ったこと、完全に否定できないです」
「大丈夫だよ、気にしない。みんなが俺のことをずるいと思うのも仕方がない。......実際、俺もまだ怪物のままだってわかったから」

 そう言ってまた彼の面持ちに影が差した。どうしたというのだろう、自分が去った後に何かあったのだろうか。
 だがそれを気にする心はもうすでになく、陽介は「そうですか」と返すだけだった。

「それでも俺はみんなと一緒にいたいと思う。みんなが言ったことは感情に任せて言っただけ。本心じゃないはずなんだ。君だってそうでしょ、陽介くん」

 本心じゃない......どうだろうか。わからない。考えるのも疲れてしまった。

「すみません、もう何も考えたくないんです。俺、完全に糸が切れちゃったんですよ」
「陽介くん......」
「わけがわからないんです。今を変えようとして頑張って一歩を踏み出したら、どうしてか全部失う羽目になっていて。何なんですか、そんなのどうやって生きていけばいいんですか。きっともう、俺は誰かに見放されているんですよ。じゃなきゃ、いつも傷ついて苦しんでばかりの日々なんて送っていない!」

 疲れた。もう嫌だ。生きたくない。わけがわからない。
 そんな言葉を繰り返す。元の世界から堪えていた弱音が溢れ出して止まらない。怜が狼狽えていることが気配でわかった。ああそうか、この人はまだ他人を慰める言葉を持たないのか。いや、心の底から慰めようとしているからこそ何も言えないのか。
 そう思うと余計に自分は惨めで哀れに思えて、これ以上この場にいることもつらかった。

「......すみません、見苦しい姿を見せてしまいました。もう行きますね」
「待って、陽介くん」
「雨宮さんはお元気で。もうこんなどうしようもない人間に関わらない方が、あなたのためだと思うので」

 それだけ告げて立ち上がり、急いで廊下へ出ると扉を閉めて怜を拒絶した。
 閉じた世界の向こう側から、猫の鳴き声が聞こえた。
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