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第3章 静かに開く距離
第3章 第2話 揺らぐ
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まず、朝起きてテーブルを見ても、あのレポートが置かれていなくなった。
何度見ても、大理石の硬質なマーブル模様だけが、冷ややかにそこに空白を主張する。
今日もそれを確認すると、ため息がこぼれた。
ーー無いなら、無いで…物足りないな
随分と現金な自分の心変わりに、小さく苦笑が漏れる。
窓の外からは朝を告げる新鮮な光が部屋の中に注がれ、王宮を行き交い始めた人々のざわめきも聞こえてくる。
ーー義兄さんは、もう仕事始めてるのかな?
耳に馴染んだ、あの低い囁きが聞こえてきやしないかと、耳を澄ますけれど、流れ行く声の波の中からは何も聞こえてこなかった。
それから…ただ義務のように体を動かして、朝の支度をして、朝食を摂って、迎えが来るのを待つ。
焦れたように時が過ぎて、やっと誰かがドアをノックした。
その叩き方でもう気付く…
ーー今日も義兄さんは来ないんだ。
「はい」と返事をしながらも、目線はテーブルの上の空白を確かめる。
その空白の上を一抹の寂しさが通り抜けていく。
開いたドアから姿を見せたのは、シエナさんだった。
「本日もよろしくお願いします」
できる限り口角をあげて、めいいっぱい明るい声で挨拶をする。
ーーぎこちなくはなってない?
そんな私をシエナさんは一瞬だけ眉をひそめて、じっと見つめてから、
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
と挨拶を返す。そして、おもむろに手首を返しながら、私の目の前に拳を差し出し、ぱっと開いた。
突如として、1輪の白い薔薇が何もない空間から現れた。
「麗しき我らが巫女様へ、その御心の潤いになればと」
わざと芝居がかった言い方で、いたずら気に目を細めて笑う。
「これは、義兄さんが??」
貼り付けていた笑顔を消して、情けなく聞いてしまった私に、困ったように眉尻を下げてシエナさんが答えた。
「いえ。これは私が。先日、カイゼル隊長と薔薇園に行かれたと聞いて、お好きなのかと思いましたが…」
ーーあ、勘違い…なんか、恥ずかしい。
自分の早とちりに思わず下を向いてしまう。
「え、あ、いや。違うんです。薔薇が好きじゃないってことはないんです…薔薇は好きなんです。本当に。」
勝手に義兄さんからの何かのメッセージかと深読みしてしまった。
ーーシエナさんは私を喜ばそうとしてくれたのに。
どうして…こんなに私は何もうまくできないんだろうなあ…
心が萎んでしまわないように、落ち込んでいると見せないようにと、必死でシエナさんに言い訳を並べていく。
「私達の家は神社で…あ、神社って言っても分かんないか…とにかく、家に薔薇が咲くような庭はなくて…でも、家の隣に大きな公園があって…よく義兄さんに連れて行ってもらいました。迷路があって…かくれんぼしたり…ピクニックみたいにベンチでご飯食べたり…」
話しながら、瞼の裏には淡い青色が浮かびあがってきては、儚く消えていく。
私はどんどん声が小さくなって、結局何も言えなくなった。肩が窄まっているのが、自分でも分かる。
ーーあの薔薇園に行ったあの日から、義兄さんは私の前に姿を見せなくなった…
ーーどうして…?
「巫女様」
気遣わし気な声と共に、遠慮がち瞬く銀色の光に包まれた。驚きにきゅっと一瞬目をつぶって、開けてみれば、薔薇の代わりにキャラメルがあった。
「我らが巫女様には、花よりこちらでしたね」
とくすりと笑った。
そして「失礼いたします」と言って、薄っすらと開いていた私の口の中にキャラメルを押し込んだ。
ちょっとだけ苦みを含んだ甘さが口の中に広がって、心も解けていく。
「美味しい…」
もぐもぐと口を動かす私の様子を見て、ほっと息をついたシエナさんは、私の前で今度は手を差し出して、凛々しく笑う。
「では、この私に巫女様をエスコートする栄誉をお与えくださいませ」
どこまでも私を和ませてくれようとする彼女の姿に、私は本当に頬を緩めて笑ってしまう。
「こちらこそ、とても、光栄です。」
差し出されたその手を取って、私達はそのまま訓練所に向かった。
何度見ても、大理石の硬質なマーブル模様だけが、冷ややかにそこに空白を主張する。
今日もそれを確認すると、ため息がこぼれた。
ーー無いなら、無いで…物足りないな
随分と現金な自分の心変わりに、小さく苦笑が漏れる。
窓の外からは朝を告げる新鮮な光が部屋の中に注がれ、王宮を行き交い始めた人々のざわめきも聞こえてくる。
ーー義兄さんは、もう仕事始めてるのかな?
耳に馴染んだ、あの低い囁きが聞こえてきやしないかと、耳を澄ますけれど、流れ行く声の波の中からは何も聞こえてこなかった。
それから…ただ義務のように体を動かして、朝の支度をして、朝食を摂って、迎えが来るのを待つ。
焦れたように時が過ぎて、やっと誰かがドアをノックした。
その叩き方でもう気付く…
ーー今日も義兄さんは来ないんだ。
「はい」と返事をしながらも、目線はテーブルの上の空白を確かめる。
その空白の上を一抹の寂しさが通り抜けていく。
開いたドアから姿を見せたのは、シエナさんだった。
「本日もよろしくお願いします」
できる限り口角をあげて、めいいっぱい明るい声で挨拶をする。
ーーぎこちなくはなってない?
そんな私をシエナさんは一瞬だけ眉をひそめて、じっと見つめてから、
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
と挨拶を返す。そして、おもむろに手首を返しながら、私の目の前に拳を差し出し、ぱっと開いた。
突如として、1輪の白い薔薇が何もない空間から現れた。
「麗しき我らが巫女様へ、その御心の潤いになればと」
わざと芝居がかった言い方で、いたずら気に目を細めて笑う。
「これは、義兄さんが??」
貼り付けていた笑顔を消して、情けなく聞いてしまった私に、困ったように眉尻を下げてシエナさんが答えた。
「いえ。これは私が。先日、カイゼル隊長と薔薇園に行かれたと聞いて、お好きなのかと思いましたが…」
ーーあ、勘違い…なんか、恥ずかしい。
自分の早とちりに思わず下を向いてしまう。
「え、あ、いや。違うんです。薔薇が好きじゃないってことはないんです…薔薇は好きなんです。本当に。」
勝手に義兄さんからの何かのメッセージかと深読みしてしまった。
ーーシエナさんは私を喜ばそうとしてくれたのに。
どうして…こんなに私は何もうまくできないんだろうなあ…
心が萎んでしまわないように、落ち込んでいると見せないようにと、必死でシエナさんに言い訳を並べていく。
「私達の家は神社で…あ、神社って言っても分かんないか…とにかく、家に薔薇が咲くような庭はなくて…でも、家の隣に大きな公園があって…よく義兄さんに連れて行ってもらいました。迷路があって…かくれんぼしたり…ピクニックみたいにベンチでご飯食べたり…」
話しながら、瞼の裏には淡い青色が浮かびあがってきては、儚く消えていく。
私はどんどん声が小さくなって、結局何も言えなくなった。肩が窄まっているのが、自分でも分かる。
ーーあの薔薇園に行ったあの日から、義兄さんは私の前に姿を見せなくなった…
ーーどうして…?
「巫女様」
気遣わし気な声と共に、遠慮がち瞬く銀色の光に包まれた。驚きにきゅっと一瞬目をつぶって、開けてみれば、薔薇の代わりにキャラメルがあった。
「我らが巫女様には、花よりこちらでしたね」
とくすりと笑った。
そして「失礼いたします」と言って、薄っすらと開いていた私の口の中にキャラメルを押し込んだ。
ちょっとだけ苦みを含んだ甘さが口の中に広がって、心も解けていく。
「美味しい…」
もぐもぐと口を動かす私の様子を見て、ほっと息をついたシエナさんは、私の前で今度は手を差し出して、凛々しく笑う。
「では、この私に巫女様をエスコートする栄誉をお与えくださいませ」
どこまでも私を和ませてくれようとする彼女の姿に、私は本当に頬を緩めて笑ってしまう。
「こちらこそ、とても、光栄です。」
差し出されたその手を取って、私達はそのまま訓練所に向かった。
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