世界は、君を愛したくて創られた

六紫

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第5章 壊れゆく関係と自覚

第5章 第6話 揺れる(Sideカイゼル)

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sideカイゼル

最初はほんの些細なことだった。

…手を繋がれた。

リィナを訓練場に連れていく道すがら、突然にリィナの小さな手が俺の右手に触れて、そっと指先を握られた。

ーーどうした?…急に?

咄嗟に周囲を警戒して、結界を確認するが、特に異常はなかった。

後ろを振り返れば、リィナは俺を真っ直ぐ見てイタズラが成功した時のような顔をして、ふふふと嬉しそうに笑った。

ーー…何だ?

その久しぶりに見る屈託のない笑顔が眩しく、胸の奥が柄にもなく心臓が一つだけ高く波打った。青い結界がほんの少し揺らいで、周囲の景色も揺らいだ気がした。
ーー錯覚だったか…?

次は珈琲だった。

夜、リィナの部屋を訪れてミルクティーを淹れてやる。その後、リィナは「いつものお礼」と言って、珈琲を準備して、少し恥ずかしそうに顔を伏せて、俺の前に置いた。

ーー俺の…ため、か?いや…向こうにいた時だって、たまに淹れてはくれたが…

その日の珈琲は、砂糖も入れてないはずなのに…喉を通り過ぎる度に、甘い…後味が胸に溜まっていくようだった。俺はそれを飲み込んで、気付かないふりをした。

珈琲のゆらゆらとした湯気の向こうで、リィナの笑顔がおぼろげにも見えた。

その後は焼き菓子だった。

久しぶりに俺の好物を焼いてみたといって、ナッツの入ったクッキーが渡された。

一口かじれば、ザクザクとした歯ごたえがして、素朴な甘さがした。

ーー俺好みの味だ…懐かしいな。

ふと、家の神社裏で二人で並んでたべていた時の…あの土臭い緑の風が鼻を掠めていった気がした。自分がどこにいるのか…分からない…そんな浮遊感に襲われた。

そして、一枚平らげれば、また胸焼けのような、甘くて苦いものが身体に残った。

…そして、リィナは前よりもずっと俺の話を聞きたがった。

俺がその日何をしていたのか、何を思ったのか。何を…好ましいと感じたのか…

そして、リィナから差し出される好意を、都度どう感じたのか。そんなことを聞いては、嬉しそうに笑った。

花が開いたかのように。
その艶やかさに、何度も目を奪われ、息を呑む。

その笑みにつられて、俺の口元も綻んでしまい、それを見つけたリィナはさらに嬉しそうに笑みを深める。

それだけのことに俺の体は隅々まで、喜びに満たされて、胸の奥にも温かな灯火が宿る。

そんな時間を「幸せ」だと感じてしまう…

そして、リィナは静穏な紫の瞳で俺を見つめて、魔素の交換をねだるのだ。

俺にはそれを拒めない。 
        …拒めるはずがない。

手を繋ぐと、とろとろと皮膚奥を溶かすようにリィナの魔素が流れこむ。

今までよりも骨の髄まで痺れるよう熱を持って。あまりの熱に酔いしれて、このまま我を失ってしまいたいという望みすら湧く。

ーーただの儀式のための行為ではなくなってきているだろう…

そして、それが俺の理性を溶かしにかかる。蕩けるような恍惚に浮かされて、俺は何度とリィナを押し倒してしまいたくなった。あの柔らかな唇に口づけて、吐き出される甘い吐息を余すことなく味わいたい。

今のリィナとの魔素の交換はただの愉悦ではなく、胸の奥から打ち震えるような多幸が湧き出して、祝福のごとく魂を包み込む。

ーー自分を見失いそうだ…
俺は今「護衛」の仮面を被れているのだろうか?

腹の奥に溜まり始めた熱を静かに吐き出して、目の前の茶色く変色した髪の束に意識を戻す。

ーー最近のリィナのことは…考えるな。今は早く契約の方法を探さなくてはならない…

一枚、また一枚と巡る。自身の内に湧きあがる欲に、諸手を挙げてしまう前に。

だが、俺の目的とする情報は未だ見つけらない。
いくら調べても、今までと違う方法で護衛契約を結んだという前例はなかった。

窓の外、斜向かいの部屋の灯りが消えるのが見える。リィナは床についたようだ。


さっき取り込んだ紫の熱が俺の青と混じり合って、身体中を巡っている。鎮めたはずの熱は再び腹の奥で燃え始めたようだ。


『…いっそ一度だけでも余す所なく味わってしまえばいい。』

抑え込んでいた欲望がぞっとするほど甘美な声で囁く。

リィナが俺への接し方を変えてから、巫女としては安定した。祈りの光は眩く訓練場の外まで漏れ出し、オーロラの彩りで王宮をも照らす。

それに比例して、不気味な空の赤黒さはどんどん色濃く広がり、各地での不穏な出来事や予兆の報告書が、俺の机の上にもうず高く積まれていく。

オーロラの光を目にした人々からは、巫女の祈りを求める声が勢いと切実さを増している。

…儀式のためだと、嘯いてしまえばいい。

欲望の甘い囁きが俺のなけなしの良心を唆し始める。

『一度で満足するはずがないだろう』

欲望よりもっと奥、腹の底、骨の奥、魂とも言える、もっともっと奥深い所から、どろりと青黒いものが流れ落ち始める。

ーーこれは、俺の本能…いや、本性の声だな…

『一度でもこの腕にかき抱いたなら、リィナの全てを貪り尽くしても、その渇望が止まるはずがない。』

ーーああ、分かってるさ。だから、距離を置いたんだ。

そっと立ち上がって、窓を開けば、堪えきれないとばかりにマグマのような青黒い魔素がゆっくりと地を伝い、リィナの部屋に向かう。

ーー見ろ。これが俺だ。『義兄』だ『護衛』だと取り繕ったって、結局はこのざまだ。里菜を求めることを止められないしない…

どんどんリィナの部屋の窓が青黒い靄で覆われていく。中に入ろうとしているのか…それとも他者を排除して隠そうとしているのか…俺にすら判別はつかない。

ーーいや、全てだな。

『お前は俺だけのものだ。』

自分でも背筋が凍りつくような声が脳内に響き渡る。

窓辺に置いた花から、音もなくフリルのような花弁が一枚床に散り落ちた。

…リィナからもらった花だ。

俺の感情を唯一掻き立てる存在だ。


ーー失ってはならない。…穢してはならない。
             …互いのためにも

湿気を含んだ闇の匂いに紛れて、かすかに優美な香りが混じり、僅かばかりの理性を呼び覚ます。

ーーそうだ。思い出せ。俺は『義兄』でなくてはならない。自分の欲に溺れる訳にはいかない。その先にある…のは…何だ?

ぐっと歯を食いしばり、己への戒めの記憶を引きずり出す。

「私も好きだよ。陸人。」

ぎゅっとみぞおちを握られて、ひどい吐き気に襲われる。俺の世界が揺らぎ…瓦解した記憶だ。

それはいつでも、『義兄』としての一線を越えそうになる俺を正気に戻す劇薬。

ーーそうだ…そうだった。

俺は陸人が里菜に思いを告げ、それを受け入れる里菜の声を、たしかに俺は聞いたんだった。

俺は聞いたはずなんだ。

ーー忘れるな、里菜の側にいたければ執着も願いも捨てろ…


青黒い魔素が白い花の花瓶を倒して、俺の元に戻り、ゆっくりと足元から這い上がり始める。
絶望が繭のように織り上げられ、俺を閉じ込める。

巻き込まれ白い花弁が俺の目の前をひらりと舞い落ちた。

ーー里菜…俺はお前から離れるつもりはない。どんな形であっても、だ。

青黒い繭はどんどん強固になり、視界はどんどん暗く、息苦しくなっていく。なのに、俺の心はどんどん安寧に変わっていく。

ーー俺の気持ちをお前に拒絶されたら…俺は生きてはいけないだろうな…

俺は俺の本性が何よりも恐ろしい。

ーー期待して…愛されていないと「また」絶望するのが恐ろしい…そして、お前を傷つけてしまうのが…たまらなく恐ろしいんだ。

目を閉じて繭に寄りかかれば、俺の中の紫の温もりがとくんと脈を打った。
それはゆっくりと身体を流れ、強張る臓腑を温めていく。

それが何を意味するのか…俺は…考えることも放棄した。

ーーリィナ…俺から役割を取り上げようとしないでくれ…仮面を外せば…自分でも何をしでかすか分からないんだ…

また、みぞおちから強い吐き気がこみ上げ、視界を揺らす。

俺の現実も、今、心許なく揺れている。

ーー俺は、今までと変わる訳には行かない。

俺は両手で己の顔を抑えて、…壊れ落ちないように耐えた。

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