世界は、君を愛したくて創られた

六紫

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第5章 壊れゆく関係と自覚

第5章 第10話 襲撃

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発作の名残で乱れた呼吸のまま、隠れるように足早に王宮の裏口から外に出る。

 一歩外に足を踏み出せば、その瞬間にむわんとした湿っぽく蒸した空気に迎えられる。

見上げた空には鈍色の雲が一面に垂れ込めて、その所々が赤黒く変色している。 薄紫の空にも亀裂が入ったかのような黒筋がいくつも流れている。

縺れるような足取りのまま、特にあてもなく王宮の庭の奥へ奥へと歩いていく。

時々、甘い花の香りがしたり、青臭い草の香りが届いてきて、目に映る景色もさみしいものへと変わっていった

ーー殿下には自分で選ぶなんて、偉そうに言っちゃったけど…。選ぶ前に振られちゃった。

不意に意味もなく胸の奥がきゅっと切なく締め付けられて、足が止まる。

ーー義兄さんは、一体誰のことを言ってるの?

なぜ、あんなに確信を持って言っていたのか、私にはまるで分からない。

さっきの執務室でのやり取りを思い返すと、さらに胸奥がぎゅっと軋んで、嗚咽のような、吐き気のようなものがこみ上げてきて、その場にしゃがみ込んでしまう。

うずくまる私の膝頭の前をゆっくりと青い蝶が飛んでいく。

空気中の魔素と戯れるように羽ばたいてる青い蝶を眺めていると、ふと何かが記憶の底から浮かび上がるような気がした。 

神社裏の湿った空気が立ち上ったような気がした。

ーーそう言えば…陸人とそんなやり取りしたことがあるような…

 もどかしさに胸は逸るのに、それ以上は何も思い出せない。

義兄さんの誤解を解きたいと記憶を掻き回せば回すほどに、その欠片はさらに奥底へと沈んでいく。

代わりに込み上げてくるのは、どうしようもない焦り。そして、涙に蝶の姿も滲んでくる。

頭を抱えて項垂れれば、その瞬間にざわりと空気が戦慄いた。 

一気に全身に鳥肌が立つ。

そして、急に鳥達が一斉にばさばさと飛び立って、木々を揺らす。

今は、葉のこすれる音以外しない。 

けれど…確実に何かが起きている。

私は恐る恐る気配を感じる方向を見ると…
『それ』はいた。 

木の葉の隙間から血走った瞳をギラつかせて、私を見下ろしている。

 目が合うと刺々しい黒い毛を逆立てて、歯茎を見せて『シャーーー』っと獰猛な唸り声を上げた。その響きは私の肌を撫でて、私の産毛も逆立てていく。

猿のようだけど、ずっと大きい。私の身長の倍はありそうだ。

ーー魔獣…?

明確な脅威に、バクバクと心音が耳奥で鳴り始めて、無意識に生唾をゴクリと飲み込む。

ーー 目を逸らせない。猿は…目を逸らしたら、襲ってくる…んだよね?

なけなしの知識から、なんとか自分を叱咤して見つめ合うけれど、体は強張ってガタガタと震え始めている。

じっと見つめ合いながらも、少しずつでも後退りしようと、足をほんの少し後ろに引いた。

その瞬間、魔獣がキーンと金切り声を上げて、こめかみがキリキリと痛んで、動きが止まる。

そのまま、魔獣は枝の上でジャンプを繰り返して、ゆさゆさと枝を揺らした。

その叫びに呼応するように、周囲の木々が揺れ始めて、黒い影が同じように叫びながら次々と現れる。

…群れだ。

『スタンピードの予兆』

という言葉が脳裏を過り、背筋から悪寒が走る。

『巫女は身を守る術がない』という事実もさらに私を追い詰め、背中を冷たい汗が伝う。

そして、 最初の一匹目がさらに甲高く叫んだ。

『絶対に逃がしはしないぞ』

周りの仲間と私にそう言っているようにも聞こえる。

その鋭い声が、ずきりと脳内に突き刺さり、思わずさらに顔を顰めてしまう。

もういっそ目を閉じてしまいたいのに、瞼は細かな痙攣を繰り返すだけで閉じることができない。 

怯える私に獲物を捕らえたと確信したような笑みを浮かべて、ゆっくりとその魔獣が空を跳び上がるのが見えた。 

黒い影が目前に迫った瞬間、オレンジの閃光が走って視界いっぱいに広がる。 

「おーーー、間一髪!!セーフっす!!」 

その声とともに、びしゃりと何かが潰れるような音がして、金臭い臭いが鼻をついた。

 「馬鹿者!!後ろにもいる!!群れだ!!」 オレンジの結界の向こう側で銀色のポニーテールを揺らしながら、次々と魔獣を切り裂くシエナさんの姿が見えた。

ーーえ?助かったの?

何が起きたのかも分からずにへなへなと座り込んで、オレンジの結界の向こうを窺い見れば、銀色とオレンジの光が飛び交っているのが見えた。

ぶんぶんと鋭い鉤爪を振り回す魔獣の懐に剣筋が、とんでもない速さで幾重にも銀色の弧を描いて飛び込んでいく。

その度に赤い飛沫が飛び散り、ひどく生臭い悪臭がどんどん強くなる。

ーーああ…もう嫌だ…なんでこんなことばっかり…

こんな時に弱音を吐いてしまうのは、周りの皆に申し訳ない。それは分かってるのに、疲弊した心と体はもう限界を迎えている。

ーー帰りたい…日本に。喚ばれる前に戻れるなら戻りたい。そしたら、義兄さんに振られることもなかったんだよ。

何もかもを放り出したくなって、何も考えられずに、私は深く膝を抱えて蹲った。

周囲の喧騒が少しだけ遠のく。

「分かってますって!!畜生!数が多くて結界まで魔素が回らねえ!」 

はっと顔を上げれば、オレンジ色のヴェールが少しずつ揺らいで薄くなっていた。

ーー何かいる!!

さらに光が弱まるとはっきりと同時に黒い影が目前に迫っていた。

間髪入れずにギラリと光る鉤爪が私の鼻先を掠めた。

その瞬間、紫の髪の毛がふわりと数本舞い上がる。

 鼻先まで近付いた目の前の魔獣とさらに目が合う。

震える指先が、背中を流れる冷や汗が、強く響く鼓動が、まだかろうじて私が生きてることを知らせてくれる。

再び魔獣が大きく腕を振りかぶり、その風圧を頬に感じた。


ーー もう次はない…義兄さん!!

一瞬で世界の音が消えて奈落に落ちる。

衝撃に耐えようとぎゅっと目を瞑って体を縮こめると、ガンっ!!!と大きな音が頭上で鳴り、目を閉じていても瞼の裏まで刺すような強い光に包まれたのが分かった。

 「巫女様!今のうち逃げるんだ!そのまま後ろに下がって!」 

その強い金光は、レオニス殿下の結界だった。

言われた通りにしたいのに、魔獣が狂ったように金色の壁を叩く音が結界内に響いて、私の足を絡め取る。

 焦って体を動かそうと闇雲に手足を動かそうとすると、どんどん肺が酸素を押し出して、喉奥が詰まっていく。

 指先から足先から恐怖とは違う震えが始まる。 

「巫女様?」

 私の様子に殿下の声がさらに固いものになる。 

「くそっ!発作が起きてるのか?!誰か!早くカイゼルをここに!」 

「殿下!すでに伝令は受理されております!」 

「隊長はこちらに向かわれております!」

 金色の壁の向こうに、黒い影とオレンジや銀色、金色や他の人影が入り乱れているのが遠く見える。

魔獣の叫び声やシエナさんや殿下の怒号…乱れた足音がどんどん小さくなり…

自分のはあはあとした荒い息しか聞こえなくなる。

暗くなる視界に必死に抗おうと、身の内を巡る温かな魔素を探す。

ーーやっぱり、まだ生きていたい…

ほんのりと残る微かな青い残滓をやっと見つけて、縋るように紫の魔素が向かっていくのが分かった。

ーー 海生…助けて。会いたい。もう少し…!!

 義兄さんの魔素を取り込もうとした瞬間に金色の光が消えて、周囲の様子が顕わになった。

靄がかかった私の視線の先には、さっきの猿のような魔獣ではない、鳥のような魔獣がレオニス殿下の肩を鋭い嘴で噛み付いていた。

殿下は右手で魔獣に応戦しながら、左手で傷口を押さえて片膝をつく。

殿下の白い詰め襟の袖口から、鮮血が流れ落ちる。

…ぽたりぽたりと一滴ずつ。

その鮮やかさだけが目について、周囲の喧騒が再び消える。

一気に私の中の時間は遡り、あの事故の記憶の檻へと引きずり込まれそうになった。

「殿下っっっ!」

誰かの声が遠くに聞こえるけれど、私は檻に捕らえられない様にと、抗うのに必死で呼吸を繰り返す。

「僕は大丈夫だ!早く巫女様に結界を!」

瞼の裏がチカチカし始める。視界が狭まって周りがよく見えない。

私は必死で身の内の紫を巡らせて、酸素を取り込もうと震える唇を押し開いて足掻く。

ぴくりと足が反応して、後退去ろうとした最中、嫌な臭いのする生暖かい息使いが耳元でした。

ーーまさか…?!

瞼を押し上げるとにやりと笑う魔獣と目があった。

そのまま、鋭く光る鉤爪が私に振り下ろされて…どすんと強い衝撃がお腹に走り、体は宙を舞っていた。

お腹から、ぬるりとした液体が滴り落ちるのを感じたけれど、私の世界は地に落ちる前に暗転してしまった。

「里菜!!」

青い光に包まれたような…義兄さんの声が聞こえた気もしたけれど、それも現実なのかよく分からない。
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