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第1章【派遣社員の壁とシトラスの予感】
01-01 紺のジャケットと作り笑顔
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(ここには、私を歓迎する隙間なんてどこにもない)
部外者の侵入を一切拒むような、完成された景色の中に、私は紛れこんでしまった。
自分が場違いなことに気後れしながらも、足早に目的地へと向かう。
朝のオフィス街。
見上げるような高層ビルのエントランスは、出社を急ぐ人たちの熱気で充満していた。
受付で渡された味気ない臨時入館証。
ストラップの先にぶら下がったカードケースには『三井 ゆこ』という4文字が素っ気ないフォントで印字されている。
肺の空気をすべて入れ替えるように、深く息を吐き出した。
バッグの持ち手をぎゅっと握りしめる手に力が入りすぎて、指先が白く浮き上がっている。
緊張と期待が入り混じる、新しい派遣先に向かう初日。
(今度こそ不備のない完璧な仕事をして、認めてもらうんだ)
***
派遣先に行く当日の朝は、期待よりも不安のほうが大きい。
失敗すれば「正社員」という切符が目の前から消えてしまうから、抜かりなくすべてをこなす必要がある。
(大丈夫。昨日の夜、ネットで『派遣初日のマナー』と『仕事で成果を上げる方法』は隅々まで読み込んだはず。……あの記事通りにやれば、今度こそ大丈夫だから)
不安になると、すぐネットの検索窓に頼ってしまう。
それが私の悪い癖なのはわかっているけど、私にはそれしか方法がなかった。
実家を出て、深夜までバイトを掛け持ちして学費を稼いだ学生時代。
サークルや合コンに勤しむ同級生を横目に、私は移動中の電車でまとめサイトを貪り読むことでしか、外の世界を知る術がなかったから。
私にとって、インターネットの情報は、未知の社会を生き抜くための唯一の攻略本だった。
***
ようやく乗り込んだエレベーター。
隣り合わせた社員たちのウールコートから漂う、上品で清潔な香り。
軽やかなヒールの音と上質な革のバッグ。
わずかな乱れもないその洗練された佇まいが、よそ者の私を弾き飛ばすように鋭く刺さる。
対する私は、数年前にバイト代を切り詰めて買った、リクルートスーツ崩れの紺のジャケット。
歩くたびにポリエステル特有の「シャカシャカ」という安い擦れ音が耳について離れない。
ローヒールの靴と合皮のバッグは使い込まれていて真新しさを失い、この場所では酷く色褪せて見えた。
それでも私は、この出で立ちで戦場に立つしかない。
(大丈夫、清潔感さえあれば……)
そんな自分を誤魔化すように、口角を無理やり上げて営業用の笑顔を作ってみる。
エレベーターの鏡には絵に描いたように強張った私が映っていた。
***
目的の階に到着し、オフィスへと続くドアを押し開ける。
「おはようございます。今日からお世話になります、派遣の三井です」
やや上ずった声で挨拶すると、すぐに1人の男性が立ち上がった。
「三井さんですね。総務チーフの川口です」
川口さんに促され、フロアの隅にあるデスクへ案内される。
「面談でも伝えた通り、三井さんには営業や企画をサポートする総務の仕事をお願いします。仕事が多岐にわたるから大変だと思うけど、吉田さんに教えてもらいながら進めていってください」
席に着くと、隣の席の女性がにこやかな笑顔で声をかけてきた。
「よろしくね。吉田です」
50代くらいだろうか。
ふくよかで、見るからにベテランといった風情の女性。
「三井です。よろしくお願いします」
私が深く頭を下げると、吉田さんは周囲を気にするようにグッと顔を近づけ、声を潜めた。
「ここはホント、戦場よ。営業や企画の連中はプライド高くて大変だし……」
さらに声のトーンが一段下がる。
「正社員の女の子たちもねぇ……。彼女たち、悪い人ではないのよ。ただ、何ていうか、正社員以外の人たちを『便利なモノ』か何かだと思ってる」
「便利な……モノ、ですか?」
「そう。まるで家電か何かみたいに。そもそも人として扱ってもらえないから。動くのが当たり前で、感謝なんてされないし。それどころか、ちょっとでも『不具合』があれば共有チャットで晒されるのよ」
吉田さんは一度言葉を切ると、誰かに聞かれていないかを確認するように、周囲の「正社員」たちの背中を素早く一瞥した。
一段と声を低くして畳みかける。
「こういうのって悪意がないからこそ、余計堪えるよね……あ、私も契約社員なのよ」
吉田さんはそこで一度、安心させるように小さく微笑んだ。
そして、すぐに思い出したように人差し指を立てる。
「あと、企画の宇佐美さん。あの人は、日本語を喋ってるはずなのに辞書を引きたくなるようなことばっかり言うのよ。わからない時は、私か川口君に聞いてね」
***
私はずば抜けた容姿や学歴があるわけではない。
自慢出来るような特技もないし、要領も悪い。
そんな自分に残ったものは、真面目さだけだった。
一生懸命取り組めば、見てくれる人はいる。
そう信じて臨んだ就職活動――
なのに、内定通知が届くことは1度もなかった。
まずは経験を積んでから。
それからでも遅くない、そう自分に言い聞かせて踏み出した派遣の道。
けれど、正社員という安定のレールから1度外れると、そこには透明で決して壊せない厚い壁があった。
どこへ行っても「期限付きの部外者」として明確に区別される。
「慣れたら正社員への登用もあるから」
これまでに何度も聞いたこの言葉が実現することはなく、スキルアップの機会さえままならない。
(……やっぱり、ここも同じなのかな)
不安がよぎった私に、吉田さんが一粒の飴を差し出す。
「ま、手抜き出来るところは手を抜いて。私たちは仲良くやっていきましょ!」
少しベタついた琥珀色の飴。
口に放り込むと、懐かしい甘さが緊張で乾ききった喉にじんわりと染みた。
部外者の侵入を一切拒むような、完成された景色の中に、私は紛れこんでしまった。
自分が場違いなことに気後れしながらも、足早に目的地へと向かう。
朝のオフィス街。
見上げるような高層ビルのエントランスは、出社を急ぐ人たちの熱気で充満していた。
受付で渡された味気ない臨時入館証。
ストラップの先にぶら下がったカードケースには『三井 ゆこ』という4文字が素っ気ないフォントで印字されている。
肺の空気をすべて入れ替えるように、深く息を吐き出した。
バッグの持ち手をぎゅっと握りしめる手に力が入りすぎて、指先が白く浮き上がっている。
緊張と期待が入り混じる、新しい派遣先に向かう初日。
(今度こそ不備のない完璧な仕事をして、認めてもらうんだ)
***
派遣先に行く当日の朝は、期待よりも不安のほうが大きい。
失敗すれば「正社員」という切符が目の前から消えてしまうから、抜かりなくすべてをこなす必要がある。
(大丈夫。昨日の夜、ネットで『派遣初日のマナー』と『仕事で成果を上げる方法』は隅々まで読み込んだはず。……あの記事通りにやれば、今度こそ大丈夫だから)
不安になると、すぐネットの検索窓に頼ってしまう。
それが私の悪い癖なのはわかっているけど、私にはそれしか方法がなかった。
実家を出て、深夜までバイトを掛け持ちして学費を稼いだ学生時代。
サークルや合コンに勤しむ同級生を横目に、私は移動中の電車でまとめサイトを貪り読むことでしか、外の世界を知る術がなかったから。
私にとって、インターネットの情報は、未知の社会を生き抜くための唯一の攻略本だった。
***
ようやく乗り込んだエレベーター。
隣り合わせた社員たちのウールコートから漂う、上品で清潔な香り。
軽やかなヒールの音と上質な革のバッグ。
わずかな乱れもないその洗練された佇まいが、よそ者の私を弾き飛ばすように鋭く刺さる。
対する私は、数年前にバイト代を切り詰めて買った、リクルートスーツ崩れの紺のジャケット。
歩くたびにポリエステル特有の「シャカシャカ」という安い擦れ音が耳について離れない。
ローヒールの靴と合皮のバッグは使い込まれていて真新しさを失い、この場所では酷く色褪せて見えた。
それでも私は、この出で立ちで戦場に立つしかない。
(大丈夫、清潔感さえあれば……)
そんな自分を誤魔化すように、口角を無理やり上げて営業用の笑顔を作ってみる。
エレベーターの鏡には絵に描いたように強張った私が映っていた。
***
目的の階に到着し、オフィスへと続くドアを押し開ける。
「おはようございます。今日からお世話になります、派遣の三井です」
やや上ずった声で挨拶すると、すぐに1人の男性が立ち上がった。
「三井さんですね。総務チーフの川口です」
川口さんに促され、フロアの隅にあるデスクへ案内される。
「面談でも伝えた通り、三井さんには営業や企画をサポートする総務の仕事をお願いします。仕事が多岐にわたるから大変だと思うけど、吉田さんに教えてもらいながら進めていってください」
席に着くと、隣の席の女性がにこやかな笑顔で声をかけてきた。
「よろしくね。吉田です」
50代くらいだろうか。
ふくよかで、見るからにベテランといった風情の女性。
「三井です。よろしくお願いします」
私が深く頭を下げると、吉田さんは周囲を気にするようにグッと顔を近づけ、声を潜めた。
「ここはホント、戦場よ。営業や企画の連中はプライド高くて大変だし……」
さらに声のトーンが一段下がる。
「正社員の女の子たちもねぇ……。彼女たち、悪い人ではないのよ。ただ、何ていうか、正社員以外の人たちを『便利なモノ』か何かだと思ってる」
「便利な……モノ、ですか?」
「そう。まるで家電か何かみたいに。そもそも人として扱ってもらえないから。動くのが当たり前で、感謝なんてされないし。それどころか、ちょっとでも『不具合』があれば共有チャットで晒されるのよ」
吉田さんは一度言葉を切ると、誰かに聞かれていないかを確認するように、周囲の「正社員」たちの背中を素早く一瞥した。
一段と声を低くして畳みかける。
「こういうのって悪意がないからこそ、余計堪えるよね……あ、私も契約社員なのよ」
吉田さんはそこで一度、安心させるように小さく微笑んだ。
そして、すぐに思い出したように人差し指を立てる。
「あと、企画の宇佐美さん。あの人は、日本語を喋ってるはずなのに辞書を引きたくなるようなことばっかり言うのよ。わからない時は、私か川口君に聞いてね」
***
私はずば抜けた容姿や学歴があるわけではない。
自慢出来るような特技もないし、要領も悪い。
そんな自分に残ったものは、真面目さだけだった。
一生懸命取り組めば、見てくれる人はいる。
そう信じて臨んだ就職活動――
なのに、内定通知が届くことは1度もなかった。
まずは経験を積んでから。
それからでも遅くない、そう自分に言い聞かせて踏み出した派遣の道。
けれど、正社員という安定のレールから1度外れると、そこには透明で決して壊せない厚い壁があった。
どこへ行っても「期限付きの部外者」として明確に区別される。
「慣れたら正社員への登用もあるから」
これまでに何度も聞いたこの言葉が実現することはなく、スキルアップの機会さえままならない。
(……やっぱり、ここも同じなのかな)
不安がよぎった私に、吉田さんが一粒の飴を差し出す。
「ま、手抜き出来るところは手を抜いて。私たちは仲良くやっていきましょ!」
少しベタついた琥珀色の飴。
口に放り込むと、懐かしい甘さが緊張で乾ききった喉にじんわりと染みた。
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