切愛、あるいは独占 ~『不感症の神様』と呼ばれた42歳のエリート上司は、派遣の私にだけ42年分の「欲」と「愛」を溢れさせる~

結城ろか

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第1章【派遣社員の壁とシトラスの予感】

01-06 柔らかな鼻歌と朝のホワイトボード(宇佐美Side)

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3月。
窓の外には春を待つ柔らかな光が差し始めていたが、俺にはその平穏な光を楽しむ余裕など微塵もなかった。

その日、提出期限が目前に迫ったプロジェクト資料作成のため、会社で徹夜を敢行した。
明け方、ようやくモニターの青白い光から解放されたものの、自宅に帰る気力は1ミリも残っていない。

42歳での徹夜は、生物学的な限界を痛感せざるを得ない。
集中力の欠如、判断速度の低下。
脳が情報の処理を拒絶し、視界の端がチカチカと点滅している。
これ以上の活動はパフォーマンスを著しく損なうと判断し、俺は一時的なシステムダウン――つまり、仮眠を取ることにした。

ギシギシと軋む節々の痛みと、鉛を流しこまれたように重い瞼にため息をつく。
俺は3台の椅子を無理やり連結させると、ネクタイを緩め横たわった。
ジャケットを毛布代わりに被ると、すぐに夢路を辿り始めた。

……ガチャ。

遠くで響く開扉音で目が覚める。
腕時計を確認すると、午前8時。
フレックスタイム制のこのフロアで、こんな時間に出社する人間はほとんどいないはずだ。

再び目を閉じようとした時、今の俺の脳内ロジックには存在しないはずの、小さな鼻歌が聞こえてきた。

(……鼻歌!?)

耳を澄ませると、確かに柔らかなハミングが聞こえてくる。
早春の朝の空気に溶け込むような、ひどく無防備で穏やかな音律。
椅子から重い上体を起こして目を細めると、そこにはキュッ、キュッという音とともにホワイトボードを拭く背中があった。

三井ゆこ。
1か月前、俺の視界の端に「補充されたリソース」として滑り込んできた派遣社員だ。

「……三井さん」
掠れた声で名前を呼ぶと、雑巾を持った彼女が驚いた顔で振り返った。

「う、宇佐美さん? な、なんでここに……?」

「俺の仮眠を阻害するほどの音量で鼻歌を歌うとは、随分と余裕があるようだな。始業前に何をしている。俺の睡眠時間を削るだけの、正当な理由があるなら聞こう」

不機嫌さを隠そうともせず、俺は低く冷ややかな声で問いかけた。
マネージャーとして自己管理すら徹底できていない無防備な姿を、よりによってこの「最も要領の悪いリソース」に晒してしまった。
その不甲斐なさと気恥ずかしさが、言葉をさらに鋭くさせる。

「あ、ええと……」
彼女は逃げ場を失ったように、小さな声で言葉を紡ぐ。

「私、派遣ですがきちんとお給料いただいているのに、まだ皆さんの足元にも及ばない仕事しかできていなくて。だから、せめて掃除くらいは……何か自分にできることで穴埋めをしたいなと思って……」
「で、それが朝早く来て、ホワイトボードの掃除か?」
「皆さん、いつも熱心に議論されているから、ホワイトボードがすぐ真っ黒になっていて。綺麗になっていたほうが仕事、やりやすいかなって……。勝手なことして、すみませんでした」

契約以上の労働を無償で提供するなど、合理性の観点から言えば非効率の極みだ。
評価指標にも入らない、投資対効果を無視した無意味なコストでしかない。
だが、自身の労働価値の低さをこのホワイトボードを磨くことで必死に保とうとする彼女の純粋さに、俺は返す言葉が見つからなかった。

ガチャ。

再び入口のドアが開く。
ビルを掃除している年配の女性が大きなゴミ袋を持って現れた。

「あら、三井ちゃん、おはよう。今日も早いのね」

その女性は親しげに彼女へ目を細めたあと、俺の存在に気づくと、一転して居住まいを正したようなよそ行きの顔になった。

「あ……っと、今日は社員さんもいらしてたのね。おはようございます」
「あ、おはようございます……」

居心地の悪さを飲み込み、短く会釈を返す。
彼女に向けられた温かな響きと、俺に向けられた事務的な挨拶の落差が、妙に胸に刺さった。

「おばちゃん、おはようございます! ゴミ集めてきますね」
「三井ちゃんが手伝ってくれるおかげで、いつも助かるわぁ」

この自然なやり取りを見て、俺は悟った。
彼女のこの献身が今日、初めてではないことを。

恐らく、このフロアの誰も、彼女のこの姿を知らない。
この合理性の塊のようなオフィスで、彼女だけが、誰にも数値化されない温度を守っていたのか。

(要領が悪い、と思っていたが……)

三井ゆこ。
……ただの『便利なリソース』だと思っていた存在が、俺の計算にない動きをしている。
本来ならノイズとして処理すべき事象のはずなのに。
どういうわけか、徹夜明けの脳を蝕んでいた不快な頭痛が、彼女の足音と共に鎮静化していくのを感じた。

――不愉快だが、悪くない感覚だった。
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