10 / 81
第1章【派遣社員の壁とシトラスの予感】
10 「完璧な部品」の挫折と救いの足音 | 闇を切り裂く彼の言葉【ゆこ】
パチン。
静かなオフィスに乾いた音が響く。
高山さんが苛立ちを隠さず、私のデスクに資料を叩きつけた音だ。
周囲の社員たちが一斉に顔を上げ、好奇と同情が入り混じった視線をこちらに向ける。
でも誰も助け舟は出さない。
「高山さん、申し訳ありません」
反射的に頭を下げる。
視界の端で、佐藤さんと高山さんが顔を見合わせてため息をつくのが分かった。
二人の冷ややかな態度は、あの日、前の派遣先から届いた「契約終了」の通知画面を嫌でも思い出させた。
胃の奥が締め付けられ、血の気が引いていく。
***
正社員として採用されなかったという事実は、長い間、私の心を蝕んでいた。
自分は「代わりがいくらでもいる便利な部品」でしかない。
どこからも求められていないし、どこにも居場所がない。
そのたびに脳裏をよぎるのは、親しい友達にしか打ち明けていない過去だ。
何かの拍子に、自分が「欠陥品」であることが知られてしまい、拒絶されたのではないか。
守りたかったプライドと引き換えに、自分という存在をあまりにあっけなく投げ出そうとしたあの日の歪み。
それが気が付かないうちに、私の言葉の端々から漏れ出していたのではないか。
そんな根拠のない不安が、いつも私の足元を危うくさせる。
誰かのための「道具」ではなく、一人の人間として、自分の足で生きていきたかった。
それなのに、自由を求めてたどり着いたはずのこの場所でさえ、待っていたのは「私」という名前を消される現実だった。
***
派遣社員には、目に見えない分厚い「壁」がある。
名前ではなく「派遣さん」という記号で呼ばれることにも、いつしか慣れてしまった。
そんな不条理の中でも足掻き続けてきた私の心が、完全に折れてしまったのは――前の職場で起きた、あの日の出来事がきっかけだった。
午後1時から始まった商談。
指示役の社員は、確かに「3時から」と言った。
「私は、3時からと伺っていました!」
指示役の社員のミスに対して声を荒げた私に、返ってきたのは冷笑だった。
「俺は13時って言ったよ? ほら、ボードにも書いてある。それとも何、派遣さんが正しくて、俺が間違ってるってことにしたいわけ?」
その夜。
派遣会社の担当者に報告した私に突きつけられたのは、「教育」という名の宣告だった。
「三井さん。会社が求めているのは正論じゃないの。『周りと波風を立てずに合わせられるか』、それだけなのよ」
直後に届いた「契約終了」の通知メール。
スマホの画面に映る事務的な文字を見つめながら、私は夜通し声を殺して泣いた。
だから、私は決めたのだ。
自分の曖昧な『記憶』を信じるのをやめる代わりに、誰にも否定させない『記録』を積み上げよう、と。
それがこの理不尽な世界で私が生き残るための、たった一つの自衛手段だった。
***
目の前のモニターには、高山さんからの『23部』という指示が動かぬ証拠として映し出されている。
指先が震える。
あと一押しすれば、この『記録』が私の無実を証明してくれる。
なのに、過去のトラウマが私の喉を鉄の鎖で縛り上げる。
正論は人を救わない。
それは身をもって知っていることだった。
「……すみません。私の確認不足です」
私は、私という人間を殺し、ただの「使えない派遣さん」を演じるという「正解」を、今再び選ぼうとしていた。
そう割り切ろうとするほど、完璧でありたかったはずの自分が「使えない部品」として晒され、謝罪を口にするしかない現実が悔しくて、視界が滲む。
今、私にできるのは、こうして公開処刑されることだけなのだ。
ギュッと唇を噛み締め、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
「まったく! 派遣さんはこれだから困るわ。適当にやってる証拠よね」
高山さんが勝ち誇ったように声を張り上げる。
その時だった。
ざわめくフロアを切り裂くような、硬く、迷いのない足音が響いた。
会議室から現れた宇佐美さんは、真っ直ぐにこの混乱の中心へと歩を進めてくる。
高山さんは待ってましたと言わんばかりに宇佐美さんに駆け寄り、鼻にかかった甘えるような声を出す。
「宇佐美さん、聞いてくださいよー! 三井さんが部数を間違えて、会議に支障が出ちゃって……」
「……それは違うな」
耳元で響いたその理知的で冷徹な響きが、私の喉を縛っていた鉄の鎖を音を立てて鮮やかに断ち切った。
止まっていた呼吸が一気に肺へと流れ込み、私はゆっくりと顔を上げた。
静かなオフィスに乾いた音が響く。
高山さんが苛立ちを隠さず、私のデスクに資料を叩きつけた音だ。
周囲の社員たちが一斉に顔を上げ、好奇と同情が入り混じった視線をこちらに向ける。
でも誰も助け舟は出さない。
「高山さん、申し訳ありません」
反射的に頭を下げる。
視界の端で、佐藤さんと高山さんが顔を見合わせてため息をつくのが分かった。
二人の冷ややかな態度は、あの日、前の派遣先から届いた「契約終了」の通知画面を嫌でも思い出させた。
胃の奥が締め付けられ、血の気が引いていく。
***
正社員として採用されなかったという事実は、長い間、私の心を蝕んでいた。
自分は「代わりがいくらでもいる便利な部品」でしかない。
どこからも求められていないし、どこにも居場所がない。
そのたびに脳裏をよぎるのは、親しい友達にしか打ち明けていない過去だ。
何かの拍子に、自分が「欠陥品」であることが知られてしまい、拒絶されたのではないか。
守りたかったプライドと引き換えに、自分という存在をあまりにあっけなく投げ出そうとしたあの日の歪み。
それが気が付かないうちに、私の言葉の端々から漏れ出していたのではないか。
そんな根拠のない不安が、いつも私の足元を危うくさせる。
誰かのための「道具」ではなく、一人の人間として、自分の足で生きていきたかった。
それなのに、自由を求めてたどり着いたはずのこの場所でさえ、待っていたのは「私」という名前を消される現実だった。
***
派遣社員には、目に見えない分厚い「壁」がある。
名前ではなく「派遣さん」という記号で呼ばれることにも、いつしか慣れてしまった。
そんな不条理の中でも足掻き続けてきた私の心が、完全に折れてしまったのは――前の職場で起きた、あの日の出来事がきっかけだった。
午後1時から始まった商談。
指示役の社員は、確かに「3時から」と言った。
「私は、3時からと伺っていました!」
指示役の社員のミスに対して声を荒げた私に、返ってきたのは冷笑だった。
「俺は13時って言ったよ? ほら、ボードにも書いてある。それとも何、派遣さんが正しくて、俺が間違ってるってことにしたいわけ?」
その夜。
派遣会社の担当者に報告した私に突きつけられたのは、「教育」という名の宣告だった。
「三井さん。会社が求めているのは正論じゃないの。『周りと波風を立てずに合わせられるか』、それだけなのよ」
直後に届いた「契約終了」の通知メール。
スマホの画面に映る事務的な文字を見つめながら、私は夜通し声を殺して泣いた。
だから、私は決めたのだ。
自分の曖昧な『記憶』を信じるのをやめる代わりに、誰にも否定させない『記録』を積み上げよう、と。
それがこの理不尽な世界で私が生き残るための、たった一つの自衛手段だった。
***
目の前のモニターには、高山さんからの『23部』という指示が動かぬ証拠として映し出されている。
指先が震える。
あと一押しすれば、この『記録』が私の無実を証明してくれる。
なのに、過去のトラウマが私の喉を鉄の鎖で縛り上げる。
正論は人を救わない。
それは身をもって知っていることだった。
「……すみません。私の確認不足です」
私は、私という人間を殺し、ただの「使えない派遣さん」を演じるという「正解」を、今再び選ぼうとしていた。
そう割り切ろうとするほど、完璧でありたかったはずの自分が「使えない部品」として晒され、謝罪を口にするしかない現実が悔しくて、視界が滲む。
今、私にできるのは、こうして公開処刑されることだけなのだ。
ギュッと唇を噛み締め、嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
「まったく! 派遣さんはこれだから困るわ。適当にやってる証拠よね」
高山さんが勝ち誇ったように声を張り上げる。
その時だった。
ざわめくフロアを切り裂くような、硬く、迷いのない足音が響いた。
会議室から現れた宇佐美さんは、真っ直ぐにこの混乱の中心へと歩を進めてくる。
高山さんは待ってましたと言わんばかりに宇佐美さんに駆け寄り、鼻にかかった甘えるような声を出す。
「宇佐美さん、聞いてくださいよー! 三井さんが部数を間違えて、会議に支障が出ちゃって……」
「……それは違うな」
耳元で響いたその理知的で冷徹な響きが、私の喉を縛っていた鉄の鎖を音を立てて鮮やかに断ち切った。
止まっていた呼吸が一気に肺へと流れ込み、私はゆっくりと顔を上げた。
あなたにおすすめの小説
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
ワケあり上司とヒミツの共有
咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。
でも、社内で有名な津田部長。
ハンサム&クールな出で立ちが、
女子社員のハートを鷲掴みにしている。
接点なんて、何もない。
社内の廊下で、2、3度すれ違った位。
だから、
私が津田部長のヒミツを知ったのは、
偶然。
社内の誰も気が付いていないヒミツを
私は知ってしまった。
「どどど、どうしよう……!!」
私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?
(第一章完結)ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
藤白ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です!
https://estar.jp/novels/26513389