切愛、あるいは独占 ~『不感症の神様』と呼ばれた42歳のエリート上司は、派遣の私にだけ42年分の「欲」と「愛」を溢れさせる~

結城ろか

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第1章【派遣社員の壁とシトラスの予感】

01-12 三部の保険と完璧な一言

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「で、でも……部数が足りないのは事実じゃないですか!」

高山さんが最後の悪あがきのように言い放つ。
その声は、負けを認めたくない子供のように惨めに裏返っていた。


フロア中が何とも言えない沈黙で包まれる。


気がつくと、いつの間にか宇佐美さんの後ろに川口さんが立っていた。
彼は何かを差し出そうとするかのように、手に持ったクリアファイルを握りしめて一歩前へ出る。
宇佐美さんもそれに応じるように、わずかに顎を引いて合図を送ろうとしているように見えた。

(え……川口さん、何を持ってるの?まさか、契約終了の……?)

胸が苦しくなって、背中に嫌な汗が伝う。
その不吉な予感を振り払うように、私は急いで自分のデスクの引き出しを開けた。

誰かに引導を渡される前に。
私が私として、ここに存在した証明を差し出すために。
掌に伝わる、少し厚みのある紙の束。
その確かな重みが、今の私には何よりの拠り所だった。

***

私はこれまで依頼されると、必ず数部を多めにコピーするようにしていた。
大量の資料をコピーすると、たまにエラーで白紙が混ざることがある。
きちんと部数を揃えても、何かの拍子で汚れたり、破れたりすることだってある。

不測の事態に備えこっそりと余分にコピーするのが、私の生存本能に近い習慣になっていた。

以前、別の職場で予備を作っていることを報告すると、「コピー用紙もタダじゃないんだよ。まぁ、派遣さんに言ってもわかんないか」と嫌味を言われたことがあった。

それ以来、私は余分なコピーを「なかったこと」にして隠し持ち、使わなかった分は裏紙として再利用するようになった。

(無駄にしてない。誰にも迷惑はかけていないはず……)

そう自分に言い聞かせながら、孤独に積み上げてきた「予備」という名の自衛。

***

「正社員になりたいからって、勝手に判断して余計な真似はしないでよ」
午前中に投げつけられた冷酷な言葉が、今も耳の奥で生々しくよみがえる。

「23部」と言われたのに、自分の判断で部数を増やしたことがわかれば、それはまた『身の程をわきまえない、勝手な行動』として弾劾される。

かつての私なら、顔色を伺って差し出せなかっただろう。
その一言が新たな『生意気な派遣』というレッテルに変わることを、私は嫌というほど知っていたから。

けれど。
宇佐美さんが私の『記録』を、私の『自衛』を認めてくれた今なら。


「……予備があと3部あります」


私の声に、川口さんが「えっ」と声を漏らして硬直した。
川口さんへ何かを命じようとしていた宇佐美さんの動きも、ぴたりと止まる。
そして二人はなぜか顔を見合わせると、驚いたような顔で私を凝視した。

「用意していたのか? 誰の指示でもなく、君が自分で?」
宇佐美さんの問いに、私は小さくうなずいた。

「不測の事態のための、自衛です」
そう答えた私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

周囲の社員たちの視線が変わるのが分かった。
好奇や同情ではない。
軽んじていた「使えない派遣さん」が、その肩書の裏でどれほど必死に自衛を積み重ねてきたか。

自分を守るための『記録』という盾。
そして、不測の事態に備えた『予備』という保険。
予想もしていなかった事態に、誰も何も言えなくなっているみたいだった。

私は保険として作っていた『予備』を差し出すと、自分を守り抜いてくれた『業務記録』を、そっと閉じる。

差し出した予備の紙束を受け取ると、宇佐美さんは大切なものを触るかのように長く細い指先を滑らせ、短くけれど深く満足そうに呟いた。

「……完璧だな」

その一言が、かつてのトラウマを、そして私を縛っていた透明な鎖を、木っ端みじんに砕いてくれた。
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