切愛、あるいは独占 ~『不感症の神様』と呼ばれた42歳のエリート上司は、派遣の私にだけ42年分の「欲」と「愛」を溢れさせる~

結城ろか

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第1章【派遣社員の壁とシトラスの予感】

16 夜のエレベーターと不器用な招待状 | 耳を赤くした合理的誘惑【ゆこ】

(いろんなことがあった1日だったな……)

佐藤さんから渡された見積書が違っていたこと。
高山さんから依頼されたコピー部数が違っていたこと。
みんなのいる前で責められて晒されていた私に、宇佐美さんが助け舟を出してくれたこと。

たった1日なのに、たくさんのことがありすぎて心がパンパンに膨れ上がってしまったみたい。
こんな日は、コンビニで少し高い新作スイーツを買って自分を甘やかしたい。
家でのんびりお茶を淹れて、一口ずつ大事に食べて。

……けど、それ以外に帰ってからすることなんて、何もない。


この会社で仕事をするようになって、もうすぐ1か月。
働いていれば楽しいことばかりではなく、嫌なことだって当たり前にある。
そのたびに立ち止まっていたら、きっと明日が来なくなってしまう。

(よし! この資料さえ終わらせたら、今日はもう帰ろう)

自分を奮い立たせるように心の中で言い聞かせ、最後の一踏ん張りでキーボードを叩く。
残っている仕事はまだ山ほどあるけれど、今の自分にできるのはここまでだ。

***

ようやく資料作成を切り上げた時に、時計の針はすでに夜9時を回っていた。
静まり返ったオフィスの片隅では、宇佐美さんと川口さんが何かを話し、シュレッダーの唸る音が響いているのが見えた。

(帰る前に、ちゃんとお詫びとお礼を言わないと……)

二人の会話が途切れたタイミングを見計らって近づく。


「あの……宇佐美さん、川口さん。お先に失礼します」
唐突な私の声に驚いた顔で二人が振り返る。

「宇佐美さん、今日は……本当に、ありがとうございました。それから川口さん、お騒がせしてしまって……すみませんでした」

宇佐美さんは少しだけ視線を泳がせ、一言「お疲れ様」とだけ短く返してくれた。
私は最後に頭を下げて、会社を後にする。

(やっぱり、出来ない派遣だと思われたんだろうな……)

***

分厚い扉が閉まる音を背中で聞きながら、ふっと溜め息をつく。
エレベーターホールへと向かう廊下はひどく遠く感じられ、すり減ったパンプスの音だけが虚ろに響いていた。

その時だった。

「三井さん」

背後から響いたのは、聞き慣れた、けれどいつもより少しだけ硬く、余裕のない低い声だった。

「あっ、宇佐美さん。……お疲れ様です」

深々と頭を下げ、もう一度ちゃんとお礼とお詫びを伝えようと言葉を繋ぐ。

「今日は本当に色々とご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
「君が謝ることなどない」

宇佐美さんは一つ咳払いをして、まっすぐに私を見据えた。

「組織における正確性とは、身分に関わらず遵守されるべき絶対的な指標だ」

その声は教壇に立つ教師のような厳格さを帯びて、淀みなく続く。

「たとえ派遣という立場であっても、事実の捏造に対して声を上げるのは、正当な『システムの保守』に過ぎない。……それをワガママや反抗だと混同して、自分を削る必要はない」

「……システムの、保守、ですか?」


あまりに宇佐美さんらしい、なんだか難しい説明書を読み上げているみたいな言い回し。
一瞬呆気に取られてしまったけれど、彼が言いたいことは、なんとなく伝わってきた。

間違っていることを「間違っている」と言うのは、悪いことじゃない。
多分……そういうことなのだと思う。

「ありがとうございます。でも私みたいな派遣が間違いを指摘したら、すぐに弾き出されそうで……」

私は俯き、パンプスの先で影をなぞるように視線を落とした。

「今はまだ、怖がらずに声を上げる勇気は持てそうにないんです。すみません、せっかくのアドバイスを無駄にするようなことを言って」

自嘲気味に笑うと、宇佐美さんは何かを言いかけわずかに眉を寄せた。
いつもならスマートに立ち去るはずの彼が、なぜかその場に立ち止まりじっと私を見つめている。
(……何か変なこと言ったかな?)

***

到着したエレベーターに乗り込む。
わずか数平方メートルの密室。
彼の纏うシトラスの香りと仕事終わりのわずかな体温が混ざり合い、下降する振動が私の耳の奥で騒がしく響く。

ふと横を見上げると、宇佐美さんがいつもより緊張した面持ちで正面のドアを凝視していた。
一度、喉を鳴らすように強く飲み込む。
その横顔には、仕事中には見たこともないような、ひどく焦っているような色が滲んでいる。


「三井さん……」


地上階に到着する直前、宇佐美さんが絞り出すような硬い声を出した。

「今日のような不規則で高負荷な1日を、低質な食事で締めくくるのは非効率だ。蓄積したストレスは、週末の休息を阻害する要因になりかねない」

彼は正面の階数表示を凝視したまま、まるで重要なプロジェクトの進捗報告でもするかのような硬い口調で言った。

「……近くに、良質なタンパク質と旬の食材を最適に調理して出す店がある。心身のコンディションを速やかにリセットするためにも、そこで夕食を摂るのが合理的だ」

「……はあ、そうなんですね」

私は完全に呆気に取られてしまった。
(……コンディションのリセット? 最新の栄養学とか……人間ドックの勧誘?)

仕事終わりの疲れ切った脳で、まさか上司から健康管理のレクチャーを受けるとは思わなかったのだ。
ポカーンとしている私を見た宇佐美さんは、逃げ道を塞ぐようにあからさまに一歩、踏み込んでくる。



「……俺も今からそこへ行く。一人で食べるより、二人で食べたほうが注文のバリエーションが増え、栄養バランスの最適化につながる。……行くぞ」



驚いて顔を上げると、彼と目が合った。
宇佐美さんの耳の付け根が、隠しようもないくらい真っ赤に染まっているのが見えた。

(……え、恥ずかしがってる?)
――まさか、あの冷静な宇佐美さんに限って、そんなことはないのだけれど。

きっと、ボロボロだった私を可哀想に思ったのか、あるいはただ単に一人で食事をするのが嫌だっただけかもしれない。
けれど、今はその不器用な優しさが、冷え切った心にじわりと染み込んでいく。

「……いいんですか? 嬉しいです」

私の返事を聞いた瞬間、宇佐美さんは一瞬だけ目を見開き、それから堪えていた息を吐き出すように、深くホッとした顔をした。


「……そうか。なら、良かった。駅の近くに良い店があるんだ。行こうか」
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