切愛、あるいは独占 ~『不感症の神様』と呼ばれた42歳のエリート上司は、派遣の私にだけ42年分の「欲」と「愛」を溢れさせる~

結城ろか

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第1章【派遣社員の壁とシトラスの予感】

18 五千円のプライドと紺の袖口 | 理屈で奢るエリート上司【ゆこ】

「三井さん。今回のトラブルだが、君一人の『精神力』で解決しようとするのは非効率だ」

宇佐美さんは姿勢を正し、真顔で話を切り出した。

「組織における個人のリソースには限界がある。今回のような『システムの不備』、つまり理不尽な状況に直面したら、一人で抱え込まず速やかに周囲にアラートを出すべきだ」

(アラート……? ええと、警報だっけ?)

私はお肉を口に含んだまま、一生懸命脳内で翻訳を試みる。
けれど、宇佐美さんの言葉の奔流は止まらない。

「吉田さんや川口は、君をサポートするための権限と経験を有している。彼らを有効活用し、業務全体の最適化を図る。それが、プロとしての正しい振る舞いだ」

口の中に広がる最高のお肉の多幸感と、耳から次々に飛び込んでくる難解なビジネス用語。
そのすさまじいギャップに、私の処理能力は完全に限界を迎えようとしていた。

以前の私なら、ただ圧倒されて「怒られてるのかな」と縮こまっていたかもしれない。
けれど、今の私にはわかる。

(宇佐美さんは、私が無理をしないように一生懸命『守り方』を教えてくれてるんだ)

要するに「困ったら吉田さんたちに相談してね」と言ってくれている……はず。
ただ宇佐美さんの口を通すと、なんだかものすごく壮大なプロジェクトの指示を受けているような気分になる。

「はい。ありがとうございます。これからは、もっと周りを頼るように……ええと、アラートを出せるように頑張ります」

私が背筋を伸ばして答えると、宇佐美さんは満足そうに小さく頷いた。

「理解が早くて助かる。……付け加えるなら、君の自己犠牲的な傾向は、長期的な運用において……」

そこから先は、さらに専門的な「自己管理の重要性」についてのレクチャーが続いた。
正直、半分くらいは内容を理解できなかったけれど、時折グラスを傾けながら熱心に話す彼の瞳には会社で見せる冷徹な厳しさとは違う、どこか真っ直ぐな誠実さが宿っているように見えた。

楽しい……というよりは、何だかとても濃密で不思議な時間はあっという間に過ぎた。
会計のためレジに立つと、店員さんが「18,000円になります」と告げる。

(いっ、いちまんはっせんえん……!?)

驚きで声が出そうになるのを必死に堪える。
お肉が美味しいのはわかっていたけれど、今の私の生活費を考えるとそれはあまりにも重たい数字だった。

宇佐美さんが財布を取り出そうとした、その時。

私は無意識に、彼の左の袖口をぐいと引っ張っていた。
ダークネイビーのジャケットの、少し硬い質感。
指先に伝わる彼の体温。
驚いて振り返った宇佐美さんに、財布の中から迷わず抜き取った五千円札を差し出した。

「これ……私の分です」

(全然足りないけど、これ以上出したら今月の家計が立ち行かなくなる……でも、全部甘えるわけにはいかない!)

申し訳なさよりも、この「真っ直ぐで優しい人」と少しでも対等な場所にいたいという意地。
宇佐美さんを見上げると、なぜか困ったように目元を緩め、いつもとは違う穏やかな瞳で私を見た。

「不要だ。俺の誘いに君の貴重な時間を割いてもらった以上、対価として全額負担するのは当然の道理だろう」

私が差し出そうとしたお札を片手で制し、レジの店員さんに迷いのない手つきでカードを差し出した。

「こういう場面では、目上の厚意を享受しておくのが君にとって、もっとも合理的な選択だ」

「……ありがとうございます。ごちそうになります」

その「合理的」という言葉の中に、私に気を使わせまいとする彼の不器用な優しさが透けて見えて。
私は少しだけ顔を熱くしながら、差し出した手をゆっくりと引っ込めた。

***

店を出て夜の空気に触れた瞬間、頭の中がすっきりと整えられていくのを感じた。
宇佐美さんの言った「リセット」が、この冷たい風によって今ようやく完成したような気がする。

「ごちそうさまでした」
「構わない。……時間も遅いな。女性の独り歩きは安全性の観点から推奨されない。君が利用している交通機関の場所まで同行しよう」
「ありがとうございます。駅前のバス停までで大丈夫です」

宇佐美さんと、夜の街を二人で歩くなんて想像もしていなかった。
さっきまであんなに楽しく話せていたのに、いざ隣に並んで歩き出すと何を話していいのかわからない。

私と宇佐美さんの靴音、周囲から聞こえる騒がしい音だけが響く中。

「あのっ!」

思わず大きな声が出てしまい、宇佐美さんが目を丸くして立ち止まる。


「今日、ごちそうしていただいたので……次は私にごちそうさせてください!」


自分でも驚くほどの積極性だった。
宇佐美さんの負担にはなりたくない。
けれど、その思いと同じくらい、会社とは違う宇佐美さんをもっと知りたいと思ってしまった。

宇佐美さんは一瞬、驚いた顔をした後、今日一番の明るい声で笑った。

「……わかった。君の申し出を尊重しよう。貸し借りを作ったままにするのも、精神衛生上、非効率だからな」

そう言って一度言葉を切ると、夜の静寂を楽しむようにふっと穏やかな視線を夜道に向けた。

「次回の支払いは三井さんに一任する。……来週の金曜日、スケジュールに空きはあるだろうか?」

「はい、もちろんです! 貯金下ろしてきますね」

「フルコース? それだとあと4、5回は俺がごちそうしないと割に合わないな」

宇佐美さんの口からこんなセリフが出るなんて意外で、ちょっと驚いた。

「……貯金を下ろす必要はない店を選ぶから、安心していい」

軽口を叩き合い、夜の静寂に二人の笑い声が溶けていく。
バス停まで送ってもらい、彼に見守られながらバスに乗り込む。
子供じみてるかなと思いながらも窓越しに手を振ると、宇佐美さんも小さく手を振り返してくれた。

バスのエンジン音に揺られながら、ふと思った。
(宇佐美さん、何を考えていたのかな……)
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