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第2章【三日月が満ちるまで】
35 三日月の約束と、誠実の証 | オールグリーン、狂喜乱舞【宇佐美】
三井さんのまっすぐな瞳が、逃げ場を塞ぐように俺を捕らえ続けている。
遠回しな表現では意味がない。
はっきりさせるべきだと自分に言い聞かせ、ビールをぐっと流し込むと意を決して尋ねた。
「……三井さんの、現在の。その……プライベートにおける、か、稼働状況……。つまり、端的に言えば。……特定の、交際相手は存在するのか?」
ストレートに、けれど声が震えないよう細心の注意を払って問いかける。
彼女はまばたきを1回すると、時間が止まったかのように静止した。
やがてその表情がゆっくりと崩れ、耐えきれないといった風に噴き出す。
「……えっ? いないですよ、そんな人」
三井さんはおかしそうに、けれどきっぱりと首を振った。
「もし私に大切な人がいたら、こうして宇佐美さんと二人でごはんを食べに来たりしません。そんなの、宇佐美さんにもその人にも、嘘をつくことになっちゃいますから」
「嘘、か」
彼女にとって、不誠実であることは「嘘」と同義なのだ。
その真っ直ぐな倫理観に俺は救われるような思いがした。
……いや、救われたなどという生易しいものではない。
脳内の全システムが、数年ぶりに『オールグリーン』の信号を点灯させ、狂喜乱舞のスタンディングオベーションを送っている。
あまりの安堵に、自制心がわずかに緩んだらしい。
自分でも驚くほど、滑らかに、そして余計なことまで言葉を紡ぎ始めていた。
「……いや、正直に言えばホッとした。最近はパートナーの有無が行動を制限しない……なんていうのが、トレンドというか、一つのスタンダードだという話も耳にするからな」
一度緩んだ弁は、俺の制御を超えてさらに開いていく。
「俺の感覚がアップデートできていないだけなのか、あるいは、君を誘うこと自体が誰かに対して不利益を生じさせている……つまり、俺が『略奪』という不名誉なカテゴリーに分類されているのではないかと、少し判断に迷っていたんだ」
カラカラになった喉をビールで潤す。
「おかげで、俺の懸念事項は完全に払拭された」
「不利益……? それって、私が『彼氏がいても他の人とデートするタイプ』かもしれないって心配してたんですか?」
三井さんは呆れたように、けれどどこか楽しそうに目を細めた。
「それ、どこ情報ですか? ネットの記事か何か? そんな極端な話を真に受けるなんて、宇佐美さんって案外ピュアなんですね」
「……不名誉な評価ではあるが、否定はできそうにないな。身近に、実体験を装った信憑性の低い情報を吹き込む者がいるんだ」
俺はしたり顔で「今のスタンダード」を語っていた川口の顔を思い浮かべ、小さく溜息をついた。
「それでもその真偽がどうあれ、俺の独りよがりな誘いで君を不快な状況に置くことだけは、どうしても避けたかったんだ」
「じゃあ、逆に聞きますけど。宇佐美さんは、彼女いるんですか?」
「俺か? 心外だな、いるわけがない。もし特定のパートナーが存在するなら、そもそも君を食事に誘うような……そんな、不誠実な真似は絶対にしない。それは俺のプライドが許さないし、何より、君に対して失礼だろう?」
「私も全く同じ考えです」
彼女は、はっきりとそう言った。
胸のつかえが取れ、重力から解放されたかのように体がふわりと軽くなった気がした。
「……ならば、来週の金曜日も、君のリソース……いや、時間を俺に割いてほしい。三井さんの希望を最優先に検討したいんだ。次は、何が食べたい?」
これまで声をかけるタイミングを計っては見送り、脳内で幾度となくシミュレーションを繰り返してきたのが嘘のようだ。
重いブレーキが外れたかのように、間髪容れず次の提案が口を突いて出た。
「駅の近くに最近できた、創作料理のお店が話題になってて。宇佐美さんと行ってみたいです!」
「分かった。それなら来週の予約はその店に入れよう。……それと、ひとつ提案がある」
俺は少し真剣なトーンで彼女を見つめた。
「今後の支払いに関するコストについてだ。誘い出したのは俺であり、君の貴重な時間を共有してもらっている以上、その対価は俺が負担するのが合理的だと考えている」
三井さんに余計な負担……経済的な懸念を抱かせるのは、俺の本意ではない。
そう告げると、彼女は少し驚いたように目を丸くした。
俺はその反応をしっかりと受け止め、視線を逸らさずに言葉を継いだ。
「正直に言えば……。君とこうして食事をする時間は、過密な業務でノイズの溜まった俺の思考をフラットに戻せる、唯一の貴重な機会でもあるんだ」
独りよがりな言い草だとは分かっている。
もっとも、今の俺にとってこれ以上の「真実」はなかった。
「このメンタル管理にかかるコストを、君に負わせるわけにはいかない。……これは俺のプライドの問題だと思って、承諾してくれないだろうか?」
「……そんな風に言ってもらえるなんて」
少し戸惑うように目を伏せたが、俺の目にある真剣さを読み取ったのか、小さく、けれど深く頷いた。
「わかりました。ありがとうございます。……じゃあ、せめて。宇佐美さんがもっと元気にお仕事できるよう……えっと、楽しい時間を過ごしてもらえるよう……頑張ります!」
「ああ。それが俺にとっての最大のリターンだ」
喜ぶ三井さんの顔を見つめ、確信した。
自分の気持ちはもう誰にも止められないほど、彼女に「恋」をしているのだと。
***
店を出ると、夜の空気は驚くほど澄んでいた。
駅へと向かう道すがら、街灯に照らされた彼女の横顔を盗み見る。
先ほどまでの重苦しい緊張が嘘のように、今は隣を歩く彼女の歩幅に合わせて呼吸を整えることさえもが、ひどく幸福な儀式のように感じられた。
帰りのバスを待つ、今日最後の数分間。
先週と同じはずの待ち時間が、今日はなぜかひどく短く感じられた。
「今日、本当に楽しかったです。来週も楽しみにしてますね!」
先週よりも少しだけ、三井さんの声に熱がこもっている気がして胸が高鳴る。
車内から小さく手を振る彼女に、俺は迷いなく大きく手を振り返した。
遠ざかっていくバスのテールランプを眺めながら、夜空を仰ぐ。
不安で塗りつぶされていた心は今、温かな幸福感でひたひたと満たされている。
夜空に浮かぶ三日月が、澄み切った白光を静かに注いで祝福しているようだった。
42年かけて構築した鉄壁のロジックが彼女のたった一瞬の笑顔で、いとも容易く書き換えられてしまった。
(……致命的な計算違いだ)
深く深呼吸をする。
(それなのに、不思議と不快ではないな)
自らの内に芽生えた、消えることのない熱を噛み締めながら、俺は静かに歩き出した。
遠回しな表現では意味がない。
はっきりさせるべきだと自分に言い聞かせ、ビールをぐっと流し込むと意を決して尋ねた。
「……三井さんの、現在の。その……プライベートにおける、か、稼働状況……。つまり、端的に言えば。……特定の、交際相手は存在するのか?」
ストレートに、けれど声が震えないよう細心の注意を払って問いかける。
彼女はまばたきを1回すると、時間が止まったかのように静止した。
やがてその表情がゆっくりと崩れ、耐えきれないといった風に噴き出す。
「……えっ? いないですよ、そんな人」
三井さんはおかしそうに、けれどきっぱりと首を振った。
「もし私に大切な人がいたら、こうして宇佐美さんと二人でごはんを食べに来たりしません。そんなの、宇佐美さんにもその人にも、嘘をつくことになっちゃいますから」
「嘘、か」
彼女にとって、不誠実であることは「嘘」と同義なのだ。
その真っ直ぐな倫理観に俺は救われるような思いがした。
……いや、救われたなどという生易しいものではない。
脳内の全システムが、数年ぶりに『オールグリーン』の信号を点灯させ、狂喜乱舞のスタンディングオベーションを送っている。
あまりの安堵に、自制心がわずかに緩んだらしい。
自分でも驚くほど、滑らかに、そして余計なことまで言葉を紡ぎ始めていた。
「……いや、正直に言えばホッとした。最近はパートナーの有無が行動を制限しない……なんていうのが、トレンドというか、一つのスタンダードだという話も耳にするからな」
一度緩んだ弁は、俺の制御を超えてさらに開いていく。
「俺の感覚がアップデートできていないだけなのか、あるいは、君を誘うこと自体が誰かに対して不利益を生じさせている……つまり、俺が『略奪』という不名誉なカテゴリーに分類されているのではないかと、少し判断に迷っていたんだ」
カラカラになった喉をビールで潤す。
「おかげで、俺の懸念事項は完全に払拭された」
「不利益……? それって、私が『彼氏がいても他の人とデートするタイプ』かもしれないって心配してたんですか?」
三井さんは呆れたように、けれどどこか楽しそうに目を細めた。
「それ、どこ情報ですか? ネットの記事か何か? そんな極端な話を真に受けるなんて、宇佐美さんって案外ピュアなんですね」
「……不名誉な評価ではあるが、否定はできそうにないな。身近に、実体験を装った信憑性の低い情報を吹き込む者がいるんだ」
俺はしたり顔で「今のスタンダード」を語っていた川口の顔を思い浮かべ、小さく溜息をついた。
「それでもその真偽がどうあれ、俺の独りよがりな誘いで君を不快な状況に置くことだけは、どうしても避けたかったんだ」
「じゃあ、逆に聞きますけど。宇佐美さんは、彼女いるんですか?」
「俺か? 心外だな、いるわけがない。もし特定のパートナーが存在するなら、そもそも君を食事に誘うような……そんな、不誠実な真似は絶対にしない。それは俺のプライドが許さないし、何より、君に対して失礼だろう?」
「私も全く同じ考えです」
彼女は、はっきりとそう言った。
胸のつかえが取れ、重力から解放されたかのように体がふわりと軽くなった気がした。
「……ならば、来週の金曜日も、君のリソース……いや、時間を俺に割いてほしい。三井さんの希望を最優先に検討したいんだ。次は、何が食べたい?」
これまで声をかけるタイミングを計っては見送り、脳内で幾度となくシミュレーションを繰り返してきたのが嘘のようだ。
重いブレーキが外れたかのように、間髪容れず次の提案が口を突いて出た。
「駅の近くに最近できた、創作料理のお店が話題になってて。宇佐美さんと行ってみたいです!」
「分かった。それなら来週の予約はその店に入れよう。……それと、ひとつ提案がある」
俺は少し真剣なトーンで彼女を見つめた。
「今後の支払いに関するコストについてだ。誘い出したのは俺であり、君の貴重な時間を共有してもらっている以上、その対価は俺が負担するのが合理的だと考えている」
三井さんに余計な負担……経済的な懸念を抱かせるのは、俺の本意ではない。
そう告げると、彼女は少し驚いたように目を丸くした。
俺はその反応をしっかりと受け止め、視線を逸らさずに言葉を継いだ。
「正直に言えば……。君とこうして食事をする時間は、過密な業務でノイズの溜まった俺の思考をフラットに戻せる、唯一の貴重な機会でもあるんだ」
独りよがりな言い草だとは分かっている。
もっとも、今の俺にとってこれ以上の「真実」はなかった。
「このメンタル管理にかかるコストを、君に負わせるわけにはいかない。……これは俺のプライドの問題だと思って、承諾してくれないだろうか?」
「……そんな風に言ってもらえるなんて」
少し戸惑うように目を伏せたが、俺の目にある真剣さを読み取ったのか、小さく、けれど深く頷いた。
「わかりました。ありがとうございます。……じゃあ、せめて。宇佐美さんがもっと元気にお仕事できるよう……えっと、楽しい時間を過ごしてもらえるよう……頑張ります!」
「ああ。それが俺にとっての最大のリターンだ」
喜ぶ三井さんの顔を見つめ、確信した。
自分の気持ちはもう誰にも止められないほど、彼女に「恋」をしているのだと。
***
店を出ると、夜の空気は驚くほど澄んでいた。
駅へと向かう道すがら、街灯に照らされた彼女の横顔を盗み見る。
先ほどまでの重苦しい緊張が嘘のように、今は隣を歩く彼女の歩幅に合わせて呼吸を整えることさえもが、ひどく幸福な儀式のように感じられた。
帰りのバスを待つ、今日最後の数分間。
先週と同じはずの待ち時間が、今日はなぜかひどく短く感じられた。
「今日、本当に楽しかったです。来週も楽しみにしてますね!」
先週よりも少しだけ、三井さんの声に熱がこもっている気がして胸が高鳴る。
車内から小さく手を振る彼女に、俺は迷いなく大きく手を振り返した。
遠ざかっていくバスのテールランプを眺めながら、夜空を仰ぐ。
不安で塗りつぶされていた心は今、温かな幸福感でひたひたと満たされている。
夜空に浮かぶ三日月が、澄み切った白光を静かに注いで祝福しているようだった。
42年かけて構築した鉄壁のロジックが彼女のたった一瞬の笑顔で、いとも容易く書き換えられてしまった。
(……致命的な計算違いだ)
深く深呼吸をする。
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