切愛、あるいは独占 ~『不感症の神様』と呼ばれた42歳のエリート上司は、派遣の私にだけ42年分の「欲」と「愛」を溢れさせる~

結城ろか

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第3章【雨音に甘い熱】

37 精密機器。右腕の忠誠。 | 完璧な上司、派遣社員にバグる【川口】

深夜2時。

空調の止まった真っ暗なオフィスに規則正しく響くのは、キーボードを叩く音だけ。
一定のテンポで刻まれるその乾いた音には、迷いも疲れによる揺らぎも一切ない。
僕はそのリズムを、心の中で「寿命を削るカウントダウン」と呼んでいた。

「川口、このデータの相関関係が説明できていない。やり直しだ」

振り返らなくても、その声が冷徹な無表情から発せられているのが分かる。
隙がなく、冷たくてどこまでも合理的。
まるで鋼材から削り出された精密機器のようだ、と僕は入社以来ずっと思ってきた。

3日連続の徹夜で霞む僕の視界。

(……っざけんな。こっちの限界、とうに超えてんだよ!)

心の中で毒づきながら修正作業に戻ろうとした時、デスクにカタン、と白いカップが置かれた。
宇佐美さんが黙って淹れたコーヒーだ。

「飲め。脳内の糖分が枯渇している。その状態ではあと1時間はミスを繰り返す」

差し出されたのは、湯気の立つブラックコーヒー。
「糖分が枯渇している」なんて理屈を並べながら、砂糖一つ、ミルク一滴すら入れないこの苦い液体を寄越すのがこの人のやり方だ。

甘い言葉なんてこの人の辞書には一行も載っていないけど、喉を焼くほどに熱いその苦みは悔しいことに最高に美味かった。

ようやく完成したデータを客先に提出した数日後。
部長が満面の笑みで僕の肩を叩いた。

「お前の資料、最高だったぞ。宇佐美から聞いたよ、寝る間も惜しんで仕上げたってな」
「いや……あの、資料は宇佐美さんが……」

言いかけた僕をあの人の涼しい声が遮る。

「川口は連日徹夜して、このプロジェクトに心血を注いでいました。当然の結果です」

この資料が完成するまで何度もやり直しを命じられ、食事も帰宅もままならない地獄のような日々が続いた。
でも、それは僕だけじゃない。
この人も同じだった。

正直、当時はあの人のことを「血も涙もない精密機器」だと、本気で呪っていた。
喉元まで出かかった悪態を飲み込み、モニターに映る冷徹な横顔を睨みつけながら。

けれど、今ならわかる。

宇佐美さんは文句一つこぼさず、僕が投げ出したくなるような細かい数値の整合性までずっと隣で付き合ってくれていたことを。

プロジェクトが成功した後も、あの人はその手柄を「川口の執念だ」と周囲に言っていた。

(……この人には、一生敵わないな)

宇佐美さんの「理屈」は、相手を切り捨てるための刃なんかじゃない。
二度と同じつまずき方をしないように道を作る、不器用な「優しさ」なのだと気づいた時。

自分の中の「敗北感」は、静かに「尊敬」へと姿を変えた。

***

それから時が流れ、僕が現場一筋から総務部のチーフへと異動になった2年前。
当初は左遷にすら思えたが、のちに部長から明かされた真実は違った。

『宇佐美がな、お前を強く推したんだ。川口は現場の空気が読める。あいつなら、爆弾を抱えたクリエイターどもと経営層の板挟みになっても、論理的に交通整理ができるはずだ、ってな』

あの人は僕の気づかないところで僕のキャリアを、僕以上に真剣に考えてくれていた。
以来、僕は自他共に認めるこの「不感症の神様」の右腕だ。

この人の超高速回転する思考の歯車に噛み合える調整役は、僕以外には務まらない。
これまでは、そう確信していた。

***

ほとんど浮いた話のない宇佐美さんだが、一度だけ同期の女性社員と付き合っているという噂があった。
凛とした美しさと圧倒的な仕事ぶりで、宇佐美さんと並んで「社内の二大巨頭」と称されていた水瀬さんだ。

もっとも彼女は数年前に出向して今は社内にいないが、当時の周囲は「あの二人こそお似合いだ」とその完璧な絵面を疑わなかった。

実際、あの二人が放つ空気感は独特だった。
色気や甘さといったノイズが一切混ざらない、完成された均衡。
恋愛という理屈の通じない事象すら、あの二人の前では「隙のないビジネス提携」みたいな形に見えてしまう。
誰も入り込む余地のない、完成されたプロ同士の均衡。
周囲にそう確信させてしまうほど、あの二人が並んでいる姿はあまりに「正解」すぎた。

(誰も入り込めない、ドライで完璧な二人。……そう思っていたんだけどな)

そんな「不感症の神様」が最近、あろうことか派遣社員の三井さんを「一人の女性」として、バグるほど意識し始めている。

きっかけは、ほんの些細な挙動不審。
三井さんが挨拶をするたびに、宇佐美さんのマウスを握る手が数秒停止する。
彼女が去った後、不自然なほど深く息を吐き出す。
ついには彼女の何気ない「お疲れ様です」の一言で、この鉄仮面の耳の裏がうっすらと赤らむ。

(……嘘だろ。あの精密機器が、派遣社員の女の子一人にまともに呼吸もできないほど振り回されてるじゃないか)

水瀬さんと並んでいた時でさえ、あんなに淡々と機能的に振る舞っていた宇佐美さんがなぜか三井さんの前でだけ無様に自分を見失っている。

三井さんは特段仕事が出来るわけではないし、要領も悪い。
水瀬さんのような美貌も、高山さんのような華やかさも、正直ない。

けれど、彼女には切実なまでのひたむきさがあった。
以前、コピー機のトラブルで彼女が見せた『業務記録』の衝撃は今も忘れられない。
そこには、異常なほどに細かく書かれた社員からの指示やファイル名がびっしりと書き込まれていた。

周囲に迷惑をかけまいと肩をすぼめて一文字の入力にも全神経を注ぐ、その危うい姿。
それは、「精密機器」として完璧であることを自らに課し続ける宇佐美さんの、その中身とどこか似ていた。

(たぶん……あの人は、彼女の中に自分と似た匂いを見つけて、放っておけなくなったんだろうな)

冷静に分析するまでもない。
立場は変わってもあの人に救われた元部下として、これは千載一遇のチャンスだ。

放っておいたら、この人は一生『仕事のできる上司』のまま、冷たい鋼材の中で終わってしまう。
せっかく生まれたこの「揺らぎ」を、僕は全力で「愛」に変えてやりたい。
完璧な仮面を一度ぶち壊し、人間として再起動させる。

(そのためには、崖から突き落とすぐらいの刺激が必要っすね、これは)

僕は4月のカレンダーを眺め、緻密な「劇薬投与スケジュール」を組み立てる。

(……さて、まずは先行投資のジャブから行きますか)

宇佐美さんが必死に守っている『論理』なんて、一度火がついた本能の前では、ただの燃えやすい紙屑ゴミでしかないんだってことを、僕が教えてやりますよ。
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