切愛、あるいは独占 ~『不感症の神様』と呼ばれた42歳のエリート上司は、派遣の私にだけ42年分の「欲」と「愛」を溢れさせる~

結城ろか

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第3章【雨音に甘い熱】

42 虚実。軍師の正体。 | 軍師に踊り、愛を乞う【宇佐美】

金曜日。

カジュアルフレンチの店で、俺は赤ワイン、三井さんはペリエを飲んでいる。
いつものように会話が弾む……はずが、川口の言葉が頭から離れない。

「宇佐美さん、怖い顔をしてどうしたんですか?」

この貴重な時間に、俺はまた川口の……あの下俗な予言に振り回されていたなんて。

「……申し訳ない。少し仕事のことで考え事をしていた」

「お仕事はもう今日で終わりですよ? 明日からは十連休なんですから」

ペリエのグラスを傾けながら、いたずらっぽく笑う三井さん。
その無邪気な笑顔を見れば見るほど、俺の胸の奥で出口のない苛立ちが熱を帯びていく。

すべて聞いてしまいたい。
しかし、彼女のプライベートを侵食するような真似は――。
理性で抑えようとするが、もう自分を止めることは出来なかった。

「……三井さん。1つ、聞いてもいいだろうか。最近、川口とは……どうなんだ。奴が、君に失礼な振る舞いをしたりはしていないか?」

我ながら、あまりに不器用で醜悪な問いかけ。

「はい? 川口さんですか?」

困惑する彼女を逃がさず、俺の口は止まらない。

「昨日の昼休み、奴と何分話した? ……給湯室で奴が君の肩に触れたという報告……いや、視認したが、あれは何の真似だ? 奴は他に何を言った? 君をどこへ誘おうとした?」

詰め寄る言葉の一つひとつが、まるで無能な警察官の尋問のようだ。
脳内の冷静な自分が「やめろ、キモすぎる! 器が小さすぎるぞ」と激しい警告音を鳴らしている。

だが、俺は完全に敗北していた。
一秒の会話、数ミリの接触さえ、すべてを暴き出し除菌してしまいたい。
俺の知らないところで彼女に触れるすべての不純物を、一刻も早く排除してしまいたかった。

「……宇佐美さん?」

三井さんの戸惑う声に、熱を帯びていた思考が急速に冷却されるのを感じた。
しまった、と言い繕う余裕すらなかった。
自分の醜悪な独占欲をそのまま突きつけた恥辱に、俺はただ息を止めて彼女の反応を待つしかなかった。

「誘うなんて、とんでもないです! 昨日は、あの……」

少し言い淀んだ後、彼女は続ける。

「なんか突然、宇佐美さんのことを話してくれたんです」

「俺のことを!?」

「変な話じゃないですよ。川口さん、なんだか楽しそうに『宇佐美さんってストイックに見えるけど、実はものすごい執着、いや情熱家なんだよ』って」

そう言うと彼女は、優しい瞳で俺を見つめた。

「ふふ、そんなの私、もう知ってますって言いそうになっちゃいました。宇佐美さん、私みたいな派遣にまで熱心に仕事を教えてくれているんですもん」

(……仕事、だと?)

全力で叩きつけたはずの醜悪な執着が、彼女のあまりに無垢な言葉によって跡形もなく掻き消されていく。

「……ただ川口さん、最近ちょっと変なんですよね」

「変?」

彼女は記憶を辿るように視線を斜め上に向けた。

「すぐ近くにいるのに、わざわざ他の社員さんを経由して『これ、三井さんに渡して』って書類を回してくることが何度もあったんです」

脳裏にオフィスでの光景がフラッシュバックする。
川口が他の男たちに、わざとらしく三井さんへの用件を振っていたあの違和感。

「避けられてるのかなと思ったら、普通に話しかけてくれる時もあって。おかげで最近、他の部署の方からもよく話しかけられるようになりました」

彼女のその言葉が俺の中でバラバラに散らばっていたピースを猛烈な勢いで吸い寄せ、一つの「絵」へと繋ぎ合わせていく。

(……あいつ、わざと仕組んでいたのか)

三井さんが周囲の社員と親しげに話しているのを見て、俺は勝手に「奪われる」という恐怖に焼き尽くされていた。
その不協和音の源流はすべてあの男に辿り着く。
すべては、俺をこの断崖絶壁まで追い込むための策だったのだ。

彼女にとって、俺はどこまでも熱心な指導上司でしかない。
川口に恋心を白日の下に晒され、掌の上で無様に踊らされている俺の無様な熱量など、彼女には一ミリも届いていないのだ。

42年間、必死に築き上げてきた鉄壁の『上司』という仮面。
それをあいつは指先ひとつで剥ぎ取り、俺を笑っている。

「あいつ……万死に値するっ……」

口を突いて出たのは、煮えくり返るような毒づきだった。
――けれどその屈辱の泥水を飲み干してでも、俺はこの断崖絶壁から飛び降りなければならない。

川口が泥を被り、俺を極限まで追い詰めて作ったこの機を逃せば、俺は二度と彼女の『隣』という特権を取り戻せなくなる。
上司という安全圏に逃げ込んでいる場合ではないのだ。

「不感症の神様」と揶揄された俺が、今、自分でも制御不能なほどの傲慢な独占欲に塗り潰されている。


10日間。
240時間。
一秒たりとも、彼女を他の変数おとこに渡したくない。


デザートのプレートが運ばれてきた。
ゆっくりとテリーヌを味わう彼女を見つめ、俺はついにグラスを置いた。

「三井さん」

「はい?」

呼びかけた俺の視線は、もはやスマートな上司のそれではない。
彼女の細い首筋から小さく動く唇へと、無意識にそれでいて執拗に這い回る。

「……明日から十連休だ。もし、君に……予定がないのであれば」

喉が焼けつくように乾き、肺に送り込む空気がひどく薄い。

「……二軒目、付き合ってくれないか。頼む。もう少しだけ、君の時間を……俺に預けてほしいんだ」

自尊心も理性も、すべてを足元に投げ捨てたような無様な懇願だった。
今の俺には、スマートな誘い文句を探すリソースなど残っていない。
スプーンを口に運ぼうとしていた彼女の手が、空中で止まる。

数秒の静寂。

「いいですね、行きたいです! せっかくだから、ちょっとおしゃれなバーとか行っちゃいます?」

安堵という名の激流が、全身を駆け抜けた。

「……バーか。君は以前、禁酒中だと言っていたが大丈夫か?」

「大丈夫です! 今日だけは、そのポリシーを一時停止しますから。私も宇佐美さんと……もっとお話ししたいですし。それに、もし酔っ払ってしまっても……」

彼女は茶目っ気たっぷりに付け加えた。

「看板を壊す程度で済みますから!」

自分との時間のために、あんなに頑なだった彼女がそのルールを自ら踏み越えようとしている。
その健気な献身に、俺の中の男としての渇望がかつてないほど激しく火を噴く。
彼女のすべてをこの腕の中に閉じ込め、俺という存在で塗り潰してしまいたい。

「ならば、看板が地面に固定されている店を全力で探すとしよう」

自然と笑みがこぼれるが、俺の心拍数は一向に下がらない。
猛毒は、俺の血液を激しく沸騰させ続けている。

――このまま、彼女を帰したくない。

脳裏を掠めたあまりに幼く傲慢な本音に、俺自身が戦慄する。
この連休の入り口で、彼女の意識のすべてを俺で上書きしてしまいたいという衝動が、理性の防波堤を今にも決壊させようとしていた。

川口の首を絞めてやりたいほどの怒りと、その策略を好機として縋らねばならない自分への皮肉が胸を焼く。

俺は42年間守り続けてきた『あるべき自分』という名の矜持が、音を立てて砕け散る痛みを無理やり飲み込んだ。
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