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第3章【雨音に甘い熱】
43 選ばれない私。通りすがりの客。 | 私、身の程知る予備部品【ゆこ】
お店を出た後、二軒目へと向かう道すがら。
喧騒で色めき立つ金曜日の街。
いつものバス停とは逆方向へ宇佐美さんと並んで歩いているのが、現実感のない夢のように思えた。
(宇佐美さん、どうしてあんなに……必死な顔をして誘ってくれたのかな)
普段の会社で見る冷静な宇佐美さんとは違う、どこか追い詰められたような、少し怖い声と表情を思い出す。
一瞬だけ、「もしかしたら」という甘い期待が心にかすめたけれど、私はすぐにその芽を摘み取った。
それは、私のような人間が抱いていい「驕り」ではないのだ。
***
私は昔から「選ばれない」人間だった。
男尊女卑の考えが骨の髄まで染み付いた両親にとって、私は「弟の役に立つ道具」でしかなかった。
弟に尽くしている時だけ私は家族の一員としてカウントされる。
それ以外の私は、最初から存在していないかのように扱われ、声も、願いも、すべて「なかったこと」として透明に消されていく。
「あっくんは跡取りだから」
母の口癖は、私を透明にするための呪文。
「色気づきやがって!」
ブランド物でもない、ただみんなと同じようなかわいい服が欲しいと伝えた私を、父は一言で切り捨てる。
私は両親の反対を押し切って、無理やり県外の短大に進学することを決めた。
自立して、私の人生を歩いていきたい。
そう決心した私に父親は冷ややかな一言を投げかけた。
「俺たちの老後と淳史のために尽くすのが親孝行ってもんだろ! それをお前は……」
短大を卒業して派遣社員として働き始めた今でも、この呪縛が消えることはない。
私は今でも、誰かの役に立っていないと自分がここにいていいのか分からなくなる。
***
働き出してしばらくした頃、初めてできた彼氏。
よく行く書店のスタッフで、日本文学をベースにしたバンドを教えてくれた人。
彼は数回のデートを重ねても、私の指先にすら触れようとはしなかった。
そしてある日。
さよならの一言さえもなく、彼は私の前から音もなく消えた。
(……私には別れの言葉をかける手間も、抱き寄せる価値さえもなかったんだ)
スマホの待ち受けにしていたバンドの壁紙だけが、あの恋が夢ではなかったと証明している。
「さよなら」すら告げられずに、フェードアウトされてもいい人間。
その残酷な傷跡は今も私の中心で疼いている。
宇佐美さんは、私とは正反対の場所にいる。
彼はすべてを持っている人だ。
誰もが認める圧倒的な実績も、みんなが心から頼りにする頭の良さも、一言で空気を変えてしまうような迷いのない言葉も。
自分の進む道を自分自身でちゃんと決めて、いつだって正解だけを選び取って歩き続けてきた、選ばれし人。
対して、私はどうだろう。
誇れる肩書きも、帰る場所としての実家も、自分を支えるための自信さえ持てない。
社会という大きな機構の中で、嵐が来れば真っ先に切り捨てられる名前もついていないただの派遣社員。
――私は、この会社にとっての予備部品。
替えなんていくらでもある、使い捨ての、消費されたらすぐに忘れられる存在でしかない。
非の打ち所がない宇佐美さんと、何ひとつ持っていない私とでは、住む世界が違いすぎる。
宇佐美さんはただ、誰にでも平等に聖職者のように親切なだけ。
派遣社員の私が困らないように、仕事の一環として優しさを分けてくれているに過ぎない。
私は彼の完璧な世界に、一瞬だけお邪魔している『通りすがりの客』
(身の程をわきまえている、つもり)
だから、せめて。
せめて今夜だけは、彼の完璧な世界の中で、少しでも「感じのいい部品」でありたい。
彼が二軒目に行きたいと言ってくれるなら、その時間を最高に楽しいもので埋め尽くして満足させたい。
(今夜だけは、宇佐美さんの視界の端っこに置いてほしい)
その決意が、私の一歩一歩をアスファルトに強く刻み込ませる。
私は自分の防衛策だった禁酒ポリシーを「今日だけ」という縛りで放り投げた。
本当は禁酒しているわけじゃない。
お酒で醜態を晒して、彼に失望されるのが怖くてついた嘘。
でも今夜だけは、宇佐美さんの隣で彼が見ている世界の色に染まってみたい。
「大丈夫か?」
隣を歩く宇佐美さんが、無言になった私を覗き込んだ。
その瞳にあるのは、私を案じる深い優しさだ。
私は瞬時に、いつもの仮面を被って笑う。
「あ、すみません! 楽しみだなーって色々想像してたとこです」
「そうか。それなら良かった」
ほっとしたように目尻を下げる彼を見て、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
さびしい、なんて思ってはいけない。
完璧な部品として、彼の優しさに報いること。
たとえ明日からまた「選ばれない日常」に戻るとしても、今夜、彼が求める時間を全力で埋め尽くそう。
2軒目のお店に到着すると、宇佐美さんは何も言わず深い色の扉へと手をかけた。
ゆっくりと開かれた扉の向こうから、はちみつのような濃い光と微かなジャズの音色が静かにこぼれ落ちる。
彼は先に中へ入るよう、視線だけで私を促した。
その目に宿る熱に、私は一瞬だけ足がすくみそうになる。
――それでも。
私はもう一度だけ自分に言い聞かせ、彼の完璧な世界へと一歩を踏み出した。
喧騒で色めき立つ金曜日の街。
いつものバス停とは逆方向へ宇佐美さんと並んで歩いているのが、現実感のない夢のように思えた。
(宇佐美さん、どうしてあんなに……必死な顔をして誘ってくれたのかな)
普段の会社で見る冷静な宇佐美さんとは違う、どこか追い詰められたような、少し怖い声と表情を思い出す。
一瞬だけ、「もしかしたら」という甘い期待が心にかすめたけれど、私はすぐにその芽を摘み取った。
それは、私のような人間が抱いていい「驕り」ではないのだ。
***
私は昔から「選ばれない」人間だった。
男尊女卑の考えが骨の髄まで染み付いた両親にとって、私は「弟の役に立つ道具」でしかなかった。
弟に尽くしている時だけ私は家族の一員としてカウントされる。
それ以外の私は、最初から存在していないかのように扱われ、声も、願いも、すべて「なかったこと」として透明に消されていく。
「あっくんは跡取りだから」
母の口癖は、私を透明にするための呪文。
「色気づきやがって!」
ブランド物でもない、ただみんなと同じようなかわいい服が欲しいと伝えた私を、父は一言で切り捨てる。
私は両親の反対を押し切って、無理やり県外の短大に進学することを決めた。
自立して、私の人生を歩いていきたい。
そう決心した私に父親は冷ややかな一言を投げかけた。
「俺たちの老後と淳史のために尽くすのが親孝行ってもんだろ! それをお前は……」
短大を卒業して派遣社員として働き始めた今でも、この呪縛が消えることはない。
私は今でも、誰かの役に立っていないと自分がここにいていいのか分からなくなる。
***
働き出してしばらくした頃、初めてできた彼氏。
よく行く書店のスタッフで、日本文学をベースにしたバンドを教えてくれた人。
彼は数回のデートを重ねても、私の指先にすら触れようとはしなかった。
そしてある日。
さよならの一言さえもなく、彼は私の前から音もなく消えた。
(……私には別れの言葉をかける手間も、抱き寄せる価値さえもなかったんだ)
スマホの待ち受けにしていたバンドの壁紙だけが、あの恋が夢ではなかったと証明している。
「さよなら」すら告げられずに、フェードアウトされてもいい人間。
その残酷な傷跡は今も私の中心で疼いている。
宇佐美さんは、私とは正反対の場所にいる。
彼はすべてを持っている人だ。
誰もが認める圧倒的な実績も、みんなが心から頼りにする頭の良さも、一言で空気を変えてしまうような迷いのない言葉も。
自分の進む道を自分自身でちゃんと決めて、いつだって正解だけを選び取って歩き続けてきた、選ばれし人。
対して、私はどうだろう。
誇れる肩書きも、帰る場所としての実家も、自分を支えるための自信さえ持てない。
社会という大きな機構の中で、嵐が来れば真っ先に切り捨てられる名前もついていないただの派遣社員。
――私は、この会社にとっての予備部品。
替えなんていくらでもある、使い捨ての、消費されたらすぐに忘れられる存在でしかない。
非の打ち所がない宇佐美さんと、何ひとつ持っていない私とでは、住む世界が違いすぎる。
宇佐美さんはただ、誰にでも平等に聖職者のように親切なだけ。
派遣社員の私が困らないように、仕事の一環として優しさを分けてくれているに過ぎない。
私は彼の完璧な世界に、一瞬だけお邪魔している『通りすがりの客』
(身の程をわきまえている、つもり)
だから、せめて。
せめて今夜だけは、彼の完璧な世界の中で、少しでも「感じのいい部品」でありたい。
彼が二軒目に行きたいと言ってくれるなら、その時間を最高に楽しいもので埋め尽くして満足させたい。
(今夜だけは、宇佐美さんの視界の端っこに置いてほしい)
その決意が、私の一歩一歩をアスファルトに強く刻み込ませる。
私は自分の防衛策だった禁酒ポリシーを「今日だけ」という縛りで放り投げた。
本当は禁酒しているわけじゃない。
お酒で醜態を晒して、彼に失望されるのが怖くてついた嘘。
でも今夜だけは、宇佐美さんの隣で彼が見ている世界の色に染まってみたい。
「大丈夫か?」
隣を歩く宇佐美さんが、無言になった私を覗き込んだ。
その瞳にあるのは、私を案じる深い優しさだ。
私は瞬時に、いつもの仮面を被って笑う。
「あ、すみません! 楽しみだなーって色々想像してたとこです」
「そうか。それなら良かった」
ほっとしたように目尻を下げる彼を見て、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
さびしい、なんて思ってはいけない。
完璧な部品として、彼の優しさに報いること。
たとえ明日からまた「選ばれない日常」に戻るとしても、今夜、彼が求める時間を全力で埋め尽くそう。
2軒目のお店に到着すると、宇佐美さんは何も言わず深い色の扉へと手をかけた。
ゆっくりと開かれた扉の向こうから、はちみつのような濃い光と微かなジャズの音色が静かにこぼれ落ちる。
彼は先に中へ入るよう、視線だけで私を促した。
その目に宿る熱に、私は一瞬だけ足がすくみそうになる。
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