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大家さんの期待

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俺はロジーと話した結果、随分と引き止められたが、屋敷を出る事になった。
最近はリーシュに全く会わないので何も言わずに去った。
ここの所、舞台で活躍する女優を支える裏方みたいな気分だった。別にそれで構わないが、リーシュが俺を必要としなくなったのなら屋敷にいるべきではない。



ボロアパートの前まで来ると随分と久しぶりな気がした。一年経っていないくらいだってのに、あの屋敷での時間は相当濃く残っているらしい。


どんどんバイトを入れる気にもなれなくて、休日に家でゴロゴロしていると、大家さんが尋ねてきた。
「シャズ君どうかしたのかい?戻ってきてから元気がないみたいだけど」
大家さんは部屋でお茶を飲みながら話し出した。

古びた湯呑みが似合う似合う。年齢は50代半ば。頭は豊かだが、何処かに悟ったような雰囲気があり、老人に見えてしまう。気は弱いけど、ホッとする。ホントに湯呑みみたいな人だ。
「・・・別に。何でもないですよ」
「相当楽しかったんだね。そんな放心状態になっちゃうなんて」
「大変だっただけですって」
大家さんはお茶の水面を見ながら続ける。
「そうだね。大変な事は忙しいものだ。学生時代にしろ、子育てにしろ、仕事にしろ。より濃いものが思い出として残る。精一杯頑張ったからこそ、その楽しさを忘れられなくて縋ったり、逆に忘れてしまったり、今のシャズ君みたいに腑抜けたりするんだろうね」
「俺、腑抜けてますか?」
「うん。そうだね」
「・・・・・・」

大家さんはお茶を一口飲んでから続けた。
「でも、僕はそんな時があってもいいと思うよ?シャズ君はいつも倒れそうになるまで働いていたから。心配もしてたんだ。・・・今回、僕は正直に言うと、戻って来ないと思っていたんだけどね」
笑いが溢れた。失笑って言う温かい笑いだ。
「・・・大家さん」
「ん?」
「癒されるってよく言われませんか?」
「ははっ。おじいちゃんとはよく呼ばれるね。このアパートに住んでる人達とか、近所の人とか。あ、行きつけの喫茶店のマスターとか」
「え?そこってベルディ?」
ここから歩いて5分のカラオケ喫茶だ。昔ながらの開けた店で、バイトしてた事もある馴染みの店だ。
「ああ、そうだよ。シャズ君僕が常連なの知ってるでしょう?」
「だって、あっこのマスターは大家さんよりずっと年上だろ」
「そういえばそうだね。一回りくらいかな?」
「あはは。・・・・・・大家さん」
「なに?」
「ありがとう・・・」
思わず下を向く。柔らかい優しさが心地よい。

「ああ。今はゆっくり休むといいよ。きっとまた楽しく、忙しくなるよ」
「どうですかね」
「あー、若いっていいねー。青春だねー!・・・若いうちの苦労は買ってでもしろって言うからね。特にシャズ君は苦労人だから、きっといい大人になる。楽しみだよ」

施設でよくしてくれた園長先生を思い出して涙腺が緩みかけたので、寝転がって大家さんに背を向けて悪態をついたけど、大家さんはニコニコ笑いながらお茶を飲んでいた。

いつのまにかそのまま眠り込んでしまったシャズに大家さんは毛布を掛けて優しく見つめ、お茶の片付けをしてそっと出て行った。
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